きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□むはたまのやみのうゝつはさたかなる/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥三。題しらす。よみ人しらす
むはたまのやみのうゝつはさたかなる夢にいくらもまさらさりけり
或る風景
承前
「ひどいね。」
朝に、正彦は云った。食事に入ってきた正純の顏を見た瞬間に思わずに笑って。
「やられたの?」
正純はあえて答えもせずに、美禰子は沈黙した儘に正純の爲にトーストを燒いた。
「昨日?」
「昨日しかないじゃん。」ふいに正純も聲を立てゝ笑い、「お前、莫迦?」
邪氣もない。已に
「なに、たばこ?」
ちゝ親を咎める氣さえうせてゐた。
「お前なの?」おもいだして正純が云えば、何が、…と。正彦は、「俺、なに?」
「お前が密告したんじゃなくて?」
「まさか」悠貴は正彦のまなざしに嘘が無い叓をは認めた。
「じゃ、だれ。」
美禰子である筈もなかった。
息子たちが何かをしでかした時の忠雅の爲しようなどかの女が一番よくしっていた。そのかの女が暴力的な専制君主に自分の子供たちを売り飛ばす筈も无かった。
はこばれてきたトーストに添えられた美禰子のまなざしのほゝえみを正純はみつめ、そのまゝに鼻をトーストのすれすれに近づければ匂いを嗅ぐ。
「お母さん…」
と、正純の聲はおののきとと惑いの色をかくさずに、「…ね?」
なに、と、美禰子の眼差しが軈て不審におもいあぐねた色をさらすまえには、「やばい。」正純は「これ、うまそう。」云った。
笑った。
木の蔭に猫が鳴いた氣がした。
振り向いた。
そのときに腹部のふくらみが、自分の胎のふくらんであることをその日の何度めかにもき附かせた。
てのひらに悠貴は腹をなでてゐた。
兩手でなかばおしあてるようにも、と、鯉が足元に撥ねた。
体内の命は不思議と未だに足を打つことも無い。
ふつうならとっくに、とも。
思えば死児を育んでいる錯覺にさえとらわれるが音。
水のおもを搏つを鰭の、その、ふたゝびの。
ひゝく。
池の汀。
櫻の花さえさいていはいない二月に、夏の晝のそらの靑に染まるわけでも紅葉ゝにかざられることもなくて水のおもはたゝ波もない素顏だけを曝しているかにも、とはいえうつされた淡い色彩。上の。斜めの。横の。なにものかがいつものようにいつでもそれらの色彩におもをうつして水は色をしずませた。もう一度撥ねた尾のひろげたいくつかの波紋が広がって出會い、あめんぼがながれるようにすべる。足元のうつくしい水の輪。こまやかな波紋のかさなりもせずにおたがいをたゝ亂せして盡きればそれが戀という可きものである叓を正純は知っている。
眞砂雅雪という名の同い年の男を眼差しが捉えた時に、いつでも喉元が感じざるをえない茹立った刃物を味覺のいっぱいに散らしたようなどこかで陰湿な髙揚。温度さえもともなって。やむにやまれない情熱の、なぜかうしろぐらさ。壬生正純はあきらかに雅雪に戀してゐた。
うつくしい。血のはんぶんしかつながらないの弟と妹のこれみよがしの端麗をみなれてもなおも、乃至かれの眉と眉とのあいだにしかめられてもいないまゝにもあざやかにもさらされる、なにか冷たい殘酷な痛ましさの翳りがいっそうに正純を狂わせた。あるいは、通り一遍の女たちとも同じくに。
あと數か月で十八になろうとする卒業の年に雅雪が進路を決めている氣配はなくて、さらには決めあぐねてゐるふうもない。そのまゝなにかの職にでもついてその日ゝをやりすごそうとするのか。とはいえども、東京の大學に進學する爲の準備をそれなりにすゝめながらもいずれにしても正純は雅雪のゆくすゑを案じる譯ではなかった。正純にとって雅雪が例えば六十歳の年をむかえるなどとはとてもおもえなかった。例えば三十六歳でセーレン・キルケゴールかモーツァルトかのようにも、あるいは原口統三のような夭折、ひょっとしたら公然とおとなになる前に十九歳の年にでも、何か彼に相応しい陰慘な最期の時が來たるに違いない叓を、正純は受かるかどうかもわからない自分の進學よりもはるかに規定の定まった未來として信じるともなくにおもっていた。その死を、ましてや死の殘酷を願ってゐたわけではなくて。
雅雪はいたゝまれないほどに美しかった。
母親の違う弟とは違う意味で雅雪は慥かに美しく正彦が女じみさえして匂うように美しければ雅雪は名をうらぎってあらあらしくも美しかった。ひとふでに描き切った樣なまよいのない美しさを、正純がむしろ弟のそれの上位にもおいたのは近親者に對する意識されないままの嫉妬を差し引いても、あきらかに彼の審美眼のなせる業では在った。
正純が雅雪の美貌にのまれたのがいつだったのか正確な記憶などありえようはずもない。雅雪はおさななじみだった。氣が附いたときには傍らにいて、十二歳の中學入学の時に、二年後の卒業を待つ弟たちに先んじて東京を離れ、鎌倉に越し來たときにも、少年の比に於いては海の向こうにへだたるかにも想われた別れの切實さの後にも連絡を絶やすことは无かった。おもえば忠雅に殺されるようにして早世した友の生みのはゝ親の叓をさえ雅雪はあえておもい出かたりに語り出しもしないものゝいわずもがなに記憶して、その春休みに雅雪が鎌倉に遊びに來るという日に麓の驛に彼を迎えた正純が山の中腹の邸宅に案内すれば雅雪は新しい妻を得た記念か古い妻への見せしめかの様にして建てられたかにそのいかにも閑靜を窮めた庭の風景を眺めた。
それがいつの時代のいつの樣式を模倣したのか。乃至典據するところもなにもなくての出たら目におもい附きのまにまにこしらえあげただけだったものか。それは雅雪にはわかりようもないまゝに、いずれにしても庭はさゝれるひかりのかたまりのかすむけはいのなかに慥かにうつくしい。或いは、雅雪は板倉重成という名の同級生の祖父の謂った、この國のひかりは、と。
——つゝしみっていうものがあるんだよ。
雄三というその六十をこした男は顏に皴をよらせていかにもに人やさしげに、そういった。南のミンダナオ島の生き殘りだと言った。あの南のさゝくれだった強引な苛烈さというのは、と。
この國のひかりには存在しない。
そんなものだろうか。
おもえばひかりはやさしくて、どこかしらにかなしませざるをえない脆弱さゝえもにおわすようにもかんじられながらも、この島國をはなれたことのない雅雪に比較するすべはない。
わらい、人なつかしげな雄三の、かつて三八式小銃に人を撃ってころして生き抜いたに違いない過去の存在は雅雪にはおぼつかない夢にも思われた。しんじがての、にもかかわらず事實にすぎないことがらの樣ゝをおもえば雅雪は、なにというでもなくてたゝ老人にやさしくもほゝえむしか術を知らない。
無駄のない庭のあかるさとその朧によりそう翳りの靑に、正純の母親の死は限りもなく自殺にこそ近かったと雅雪は、友には告げないまでにもそう確信していた。假に全身に転移した癌が快癒の困難な難病だったにしたところで、そのまゝに死に添う人のある一方に快癒者がいるのも事實だった。十二歳か一か。そのいまだに中學にもあがらない日曜日の午前にさきに病院に詰めていた正純を訪うて見舞った日の、慎重に隔離された無菌室の毛というものゝなにもなくて、醜いというよりはむしろ衰弱の事實を抽象化して見せたかにもさらされたやつれの、そのくぼんだ眼窩にあったひたすらにやさしいまなざしの色に雅雪は、この人はもう自分の消えゆくことを選択して仕舞ってゐると思った。血の中にまで癌化した細胞の群れの巢窟の、それら細胞の無數の他人ごとじみた息吹をさえもかんじて、生を諦めた譯でもないままに、死を、と。…ね。
と。「たすからないよ。」
雅雪は云った。
「…もう。」
癌、ないし白血病というものをよく理解して居なかった雅雪の
「たぶん。」
それでも微笑ましいゝたわりとして彼が病院に持ち込もうとした白百合の、いっぱいの白く派手に匂う花束は看護婦にいわれるまゝに病室の前の少女に預けられた。ほんの數分にもおよばない見舞いのあとに、無菌室に入った二人を待って、その
「無理だと思う。」
おさない少女は病室の前の待合椅子に座り込んでいた。
「おかあさん、…お前の。」
おおきな花の束はちいさな少女の上半身のほとんどをうめつくして、
「だって、もう…」
背の低い彼女の脚はようやくのすれすれに床にふれる。
「ごめん。」
ドアを閉めながら、何も言わない儘の正純に雅雪はさゝやいた。
「なんで?」
と、
「え?」
かなしまいで、って
「なんで、お前があやまるの?」
なんか、そんな
「なに?」
かなしげなかおって
「あやまったじゃん、」
にあわないとおもうよ
「ん、…」
おれ、おまえに
「いま、」
そんな
「だって、」と、雅雪は、ふいに正彦を正面にみると、おもわずにこと葉を失った數秒を素直に眼差しにさらして、そして、やゝって云った。「だって、さ。だってじゃん。」
唇に笑い聲を短くちらして正純のその見上げた眼差しに、むなしくおもうまでにも邪氣もなにもなかったときに、たゝのほゝえみ、と。
なすゝべもない。おまえも、もう。
雅雪は自分のこゝにゐる存在をすら羞じた。
赦している。
はゝ親の死んで行くわずか數日のゝちの未來を。
庭にひかれた石をまいた道の端に女がいかにも重そうに腹をかかえた後ろ姿を見せて居た。女の先にはなかば樹木に隠れた家屋の端が見えた。女は自分の部屋にでも戻ろうとするのか。不意に門を潜った生垣の綠の脇に立ち止まった雅雪を振り向き見て、気配に添うようにも立ち止まり、くねらせた彼の半身に午前のやわらかな日がさしてはんぶんを靑くかげらすのを雅雪はいまさらのように見い出した。「悠貴だよ。」
と、「…あれ。」
なにもいわずに背後の松のこかげに消えていく女を見返りもせずに、正彦は「妊娠してる。」
さゝやく。
聞く。
この葉のこすれあう山の鳴る音。
おもえば、と。山は巨大な発音装置だったのか。ひゝきわたるやまびこの聲をもあわせて、おどろくほどの音響の瑞ゝしさをたゝえたひとつらなりのそれらは、とも。そう思えば正彦は、死に掛けの彼の母を見舞った病室の外で、少女から百合の花束を奪うように取り上げると雅雪に手渡したのだった。あげる、と、惡びれるともなくそう言って、「似合うよ。」
云った。
「お前に」よく似合う、と。
少女。
花を奪い取られた、ついさっきまで自分が用心に用心をかさねて、わずかないたみさえ赦さずに守り続けていた白い花の束があっけもなくも元の持ち主に渡されてしまうのを、少女は咎めるともなく眺めて、雅雪はその眼差しのどこかに物足りなさの素直にきざされていたのを見逃さなかった。
少女が彼の認知された妹、やがては妻の座について仕舞うに違いない銀座の店の愛人に生ませた悠貴という名の女のこであることは雅雪は知っていて、思えばよくも自分が添うた男の自分への裏切りの生きた証明にほかならないゝきものに、年端もいかない儘にもつきそいの勞をかけさせて厭わずに、つきそわれる最期のときのいきばくを衰えた肉體にむさぼる消えかけの女の魂の、こゝろに盡きないかなしみの種を新たにも蒔く、そんな忠雅の心の無樣さに雅雪はいつか軽蔑まじりの憐憫を感じた。
少女はちゝ親に命じられたまゝに忠實に、血もつながらない女の最期に寄り添って疑問をすらかんじたふうもない。
雅雪のその掌に頭をなぜられるままに、少女は赦した。ありがとう、と。こと葉もなくて気配にさゝやく。
なにゝ對する謝意か。少女自身にもわかっているはずもない。
——え?
と。おくれて、そのいかにも驚いた聲を唇にたてた雅雪のすでに機をはずした調子はずれが、めにふれた驚愕の表情の見事さとあいまって正彦に、かすかにも不穩の気配を見取らせた。
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