きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□むはたまのやみのうゝつはさたかなる/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥三。題しらす。よみ人しらす
むはたまのやみのうゝつはさたかなる夢にいくらもまさらさりけり
或る風景
散り舞うよりすべもない。山に見下ろせばつらなる向こうの山にも風がふいて、空のふもとの春のかすみは堕ちて、地のそこにだけにふれたにみもえて、花の馨さえも匂う氣がした。
それがおもいちがいにすぎない叓は壬生悠貴は自覺してゐる。
霧は千切れて下の町に點在して、花のいろなどいまだにほとんどもなくて、庭の櫻の蕾んだ儘の二月にかすかにも春の氣配などない。
十六歳の悠貴は鎌倉の家の庭のぐるりをしろい毛の猫をさがしてさ迷ったが猫は悠貴の氣など氣にとめるでもなくてどこかしらで膨大な暇な時間をもてあそんでいるに違いなかった。
その雌の猫には辛辣なまでの馴れ馴れしさがある。
まるで目にふれるものゝ凢てを躬つからにつくす以外に能のない存在と割り切った樣な。
無防備で目もあてられないほどの。
廣大な庭のおだやかにして勾配をさらす複雜な地表の隆起は廻るだけで、いつか悠貴の息を亂させた。
つがいの黒猫の雄は池のみぎわの草の葉かげに悠貴をみまもった。
独り語散てちいさく鳴く。
庭にいれば樹木にかこまれて茲が山の中腹にあることをさえ忘れさせたが山肌は山肌にすぎない。
下の平地にくらべれば顯らかにせりあがっては陥沒し木の亂立の匂いをこもらせる。
悠貴は自分のからだの内にあの南の貧しい島で宿した命の息吹がもはやとどめようもなく自分の腹をふくらませてゐる叓に何度目かにも氣づいた。
學校を休みはじめて二か月がたった。
一方的にやすませた壬生忠正に、なんどか事情の説明の要請に連絡をいれた担任の老敎師はその度に忠雅に一喝された。
自分よりすくなくともわずかばかりは年上だろうにしったことではない忠雅は無能の家禽と呼んだ。
胎に命はしらず顏にも生長した。
しだいしだいの躬の變化にもしらずに馴れたからだはいつかは宿す息吹にも馴れて、あるが儘にもその事實を空気のふれるかにも忘れさせながらもいつまでも、叓ある每には悠貴に思いださせる。
存在はつながったまゝに已に目覺めて他人の命を息吹かせて生きた。
かならずしも忠雅にも美禰子にも命の宿された叓を告げた譯では无かった。
それがそのまゝ公然のものとして認知されていたのはほかでもないフィリピンから歸ってきたときには家族のだれもがその島國で、悠貴にたゝならない事態がもたらされてゐた叓をしっていたそのまにまにも、ゆゑに、悠貴は云うまでもないことをあらためて云う勞を躬づから果たすなど想い附きもしなかった。たゝなさるゝがまゝに、と。
あるいは歸國のとき叓の意外に悠貴はめをうたがった。
わずかにとはいえ右の目のしたにいつになんの拍子にともしらないで生じた腫れの殘る顏を、羞じなくなくもなんと説明をすればいゝのかとこそ思いあぐねながらのぼる石段の笹の影をくぐって、戸を開いた悠貴を認めた美禰子はふりかえりざまに聲をあげた。
あ、と。
その、綺麗な音にわずかにだけ濁音をしのびこませたような。そんな、と、みあげれば美禰子は更衣のはやめの支度のついでにゝか夏のタオルケットを胸にいくつも抱いて玄関口の廊下に顏をふりかえらせてゐたのだった。
おもえば、慥かにもうそうであるべき八月のおわりだった。
離れた奧から正純の聞いてるに違いないラジオの英語敎育が文型とその應用を繰り返していた。
男と、女の。
紛い物じみて聞こえるほどに正確な英語の發音。
みゝはいまさらにき附いた。
蟬がないてゐたのだった。
おびたゝしくも、それら、已にみゝにふれきっていた音響がこゝろにながれこんでたゝひゝきの無能なまでの亂雜をだけあふれかえらす。
悠貴はいまにしてこの瞬間に、自分がうまれそだったふる鄕にかえりついた氣がした。たとえ、ほんの數年まえに移り住んだ家屋には過ぎなくとも。
忠雅の美意識のまにまに家屋と庭の工事はいくたびかめかにもふたゝびに手を附けられて、おわればおわったでふたゝびにといまだにその終わりをみせてはゐなかった。このまま、と。
ずっと、親父、手を入れ續けると思うよ。
正純は父親に禁止された筈の煙草をくわえながら池の汀に云った。
そのいつか、去年の秋のいつかの日にか。
紅葉ゝの色。
樣ゝにも。
色彩。
なきふしたくなるようにもひたすらにおだやかな光がてらし出す。
おち、うかぶ。
池の水のおもに、波立もせずに。
しずめば水のそこから、水の上にも世界のあることをむしろおどろかせながら。
錦か。
鯉にまとわせる爲のそれ。
あざやかにも、滅びゆくにちがいない蟲らは聲にないてを弔いせめてもあざやかにも埋葬するのか。
あるいはむしろだれの爲でもなくて、葉の群れ自身の自死の無數の大量の群れに捧げた木の躬の血の色か。それであってもなおもそれら吐き出された色彩の極彩色を、うるわしくはかなくけなげにも思ってやる可きなのか。
いずれにせよ、色に色をかさねてこれほどまでに、慈悲のわずかさえもなくて理不盡なまでのあざやかさを究めたものらの際限もなさに?
とも。
悠貴は思う。その日曜日の朝に。
永遠に作り続ける氣じゃない?
軽蔑を隱さずに正純は云ったものだった。
正純は自分の受胎を非難するでもなく、擁護するでもなく、き附いたそぶりさえみせようとしなかった。
ふれゝばこわれる繊細の兄のこゝろづかいにもおもえた。背後になる工事の音を聞いた。
山肌をそこだけ自生のまゝに殘された樹木の群れの奥を入った、日の翳る離れに二つ目の茶室をつくって居た。
前とは違う大工の手で、と、あるのとき正純がおそれも無く足元に煙草を捨てるのを悠貴は危ぶんだのだった。
おもいだす。中學生の時何の意図があったのかリビングで家族が顏をあわせた夜に正純がポケットの煙草を取って火をつけたライターの音に、それがいかにも自然で當り前の叓じみてなんの気取りもなかったために、とっさには悠貴も美禰子も自分のまなんざしが何を見てるという自覺もなかった。
あっけにとられるともなくて、正純の華奢な唇はけむりをはいて、けむりのその他人の口のまわりに白く、銀に、きらめいてうせていくうつくしさと陰湿な惡臭の共存の矛盾をおもいながらも、へだてられた鼻のちかくにまで匂う臭氣の強烈に悠貴はふいにと惑った。
はかなくも見えるけむりによくも、と、——それとも薄羽蜉蝣のしんでゆく悪臭?
おもわずにもほゝえみかけて独り言散かけたときには立ち上がった正彦は煙草を奪い取っていた。
せめて秘密に吸ってくれない?
壬生正彦は兄へのいら立ちの顯らかな眼差しを隱さずに、そして窓を開いて抛り投げた。
「こんなとこで吸うなよ。」
風が吹き込む。
それは冬だった。
だから當然にストーブと温風ヒーターが兩方たかれた部屋のあたたかさに冷氣がまじるともなく層をなす。
悠貴のまなざしはむしろ正彦を咎めた。
ね、と。
美禰子は云った。
「知ってる?」
向かいに正座をくずして座ったカーペットの上の悠貴に。
「煙草って、体に惡いんだって。」
呆氣にとらえられるともなくたゝいきり立った弟を見ていた正純は、その瞬間に聲を立てゝ笑ったが、そのゝちに忠雅に告げ口をしたのは誰だったのか。
明けた朝の食卓に正純は右の頬をかすかに張らせて顏を出した。
忠雅は朝早くに山の頂に昇った。
在宅の日課だった。
舗装されない儘の土の山道を走ってのぼり、山の頂近くの神社に下りればそこに空手の型に獨りで汗を流して居たに違いなかった。
家のうらには忠雅の割った瓦の殘骸がたまっては業者が引き取って行った。
いつか、と。
ここに置いた、…「ん。」こいつが、…「あ。」割れんかな、…「ん。」って、——思ってな。
と。
そう云った忠雅は十二歳の悠貴の目には強靭な肉體と心とを持った鋼のごとき、あるいは男としての男の理想の男にもみえた。
かれの背後の横ざまの丸太の上に不安定にジョニー・ウォーカーの空瓶が立てゝあった。
——斧で、…「ん。」叩きゝるみたいに。
風のひと吹きどころか山鳥のひと聲にもたおれそうなそれを悠貴の眼差しはあやぶんだ。
不可能性がくらい塊になって喉のなかに入っておおきくひろがってかの女の内側自体を壓迫したまぼろしを見た。
煙草の日深夜近くに歸宅した忠雅はやゝあって正純を呼び出すと叓の次第の言い譯を言わせるまでもなく木刀に殴ったのだった。
悠貴はき附かなかった。
その日のその叓の次第の起っていた叓も、遲い父の歸宅にさえも。
同級生の長谷川由梨子に手紙を書いて居た。
次の日の朝に學校で渡す筈だった。なにが書いて在るでも無い。
長谷川由梨子のうちあけた戀の相談に乗っただけにすぎない。
他人の感情にすぎない。
抑ゝいまだにだれに戀したという譯でもなかった悠貴にとって、文字通りそれはあくまでも自分の關りのある人のふれたらしい關り相ようのないすぐちかくの出來ごとに過ぎなかった。
由梨子のほのめかした、あなたにだけは、あなたを裏切る譯じゃなくて、それでも名前をつげられない、手もとゝかない素敵なひと、と、それがだれなのかはいわずもがなに察せられた。
みんなみたいに、顏がいいからって、それだけじゃない。いつでも、わらっていても、泣いてるみたいに見える目が、たぶん、ほんとうにやさしくて、とてもやさしくて、やさしくなりきれないくれないやさしくて、自分のこころかなしいほどにやさしいひとだと思うから。
そのひとの肌の匂いを悠貴はふいにも思いだす。
もはや、嫌惡はかならずしもかんじない。
「ひどいね。」
朝に、正彦は云った。食事に入ってきた正純の顏を見た瞬間に思わずに笑って。
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