きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□雪のうちに春はきにけり鶯の/上
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥上
二條のきさきの春のはしめの御うた
雪のうちに春はきにけり鶯のこほれるなみたいまやとくらん
或る風景
なぜならあなたは美しい、と。
雨のゝちの葉につゆの玉散るまぼろしを垣間見た一瞬の、美彌子はじぶんにゝない娘にそうこと葉もなくみゝうちすれば、ひらきゝらないくちびるはそのまゝにすておかれた。たゝ醒めきったまなざしのあるかないかの茫然のけしきのうちにもことさらにおもいなおすまでにも无くて、四月に十二歳になる悠貴はいまやだれの目にもかの女の恠いばかりのうつくしさをひたすらにも冱えさせる。美彌子はめもそらしがてな少女のひとりでいろめく厥れゆゑにこそか、匂ひこぼされるほのかな不穩をはだれにうちあけない。はるのご前の日は窓ごしによこなぐりで、はゝ親の茫然の刹那にもなきながらにかつてひとりでに過た幸せをおもい出したかの、どこか察しがてなかおにほゝえむ少女はありもしないかの女の孤独をさえおもわせて、とてもおとなにまで成長する筈もないとも。
とても生きてゐられる筈もない。
まさかにもと美禰子はふたゝびにこと葉をうしなうものを、はゝ親のまなざしにき附いて悠貴はふりむきざまにも笑む。
聲。
まばたく。
あめあがりのたい氣はうるおいを室内にまでもつたえて、わずかながらにもすがすがしい。
こぼされたわらい聲。
あるいは息吹。
厥れ。
みじかく、きゝとられないほどの刹那にも、その聲に、此の世にかなしみなどあるものかとさえ斷言したにもひとしい翳りのなさをすべらせれば、わらった息のみだれるくちびるは櫻のはなのいろに冬のつばきのくれなゐをひとしづくだけにごらせたかにもみえて、あるいはいまさらに美彌子が躬づからのからだにうんだむすめのゆくすゑのあわいうたゝ寢の夢の盡るかの早世、ないしは、稀なる女のそのゆゑの稀にも悲慘なまつ路の殘酷をこそ冷酷な確信のうちにも案じたていことに、娘は終に氣附かない。
いまだおさないながらにも已にかすかに女びて匂いたつばかりの、とはいえども生來の色くろの肌の褐色のあざやかの、どちらのおやにもにない肌はいよいよに少女のあやしくてうつなる生まれだちをあかすようにもおもへれば美禰子のこゝろは、におわれは不吉さえいつくしみすぎた親のたゝの杞憂にすぎなかったのかとも。
時にはひとりおもひにも、まどうともなく恠むのはゝたして抑ゝ自分のこどもだったのか。じぶんの濁世に穢れた胎だけを借りたどこかのだれかのどこかよりの宿され子だったではなかったのかとさえも、うり雙つの雙子のその兄のことをもおもいふくめてこどもの比に、自分をすてたはゝ親にもきいたむかしの觀音佛の現生轉生のはなしにもにておもう、ありえもしない美彌子のうたがいのあてどもなさにはかゝわらなくに、少女の躰はいつしかとう然のなりゆきのうちにじぶんのからだに女を知った。
春きさらぎのおわりの三月の暮はなすゝべもなくことごとくにこのめの息吹をしそめて、山の中腹の新邸をさえもあたゝかな大氣はつゝみ羞じない。土地は二年もまえに壬生忠雅がかい込んだ。無駄なほどにも時間をかけて屋敷はつくらながらもいまだに未完成のまゝに、鎌倉の町にやゝはなれたうみの邊の髙みの庭にも花は咲き散った。とおくに町をみおろして、そこに生きるひとの無數のけはいもとゝかなければそれこそは、おく山におくひとしらぬ櫻というものだったか。いつかのだれかの手であったものか、でたらめなほどに山の斜面に植ゑられた櫻の木ゝのらん雜は無ぞう作にも純のかすかなうすいもゝいろを匂わせて、白い花をは雪にもみせればみだらなばかりにも咲き滿たしあふれさせては散りこぼす。
新居の廣大な庭にまだほとんど手を加えてはゐなかった。
完成してまもなくの家屋は檜の匂ひをこれみよがしにもにおわせて、その日の朝學校へゆくまえの悠貴はめずらしくもおくれて顏をみせたものゝめにふれるものゝのすべてさえうとましげにもみえてテーブルに、先に朝食にありつゐた雙りの兄の目をはさけた。羞じのあざやかなけはいは悠貴にはきづかれないまゝにゆゑにかくされようもない。
赤裸ゝに、不穩な氣配をひとりでこぼれさせて、自分の背にふれたやわらかな少女の掌の無差別にだれかを非難するらしいためらいに振り向き見たときには美彌子はまなざしに、やゝあったのちのすぐさまに、娘の躬の事實を難なくに感じ取ってゐた。
むすめはあきらかに自分の血の穢なさに倦んでいた。
なにかの悲慘をまのあたりにしたかにゝた双渺の色はわずかの逡巡の軈てに美彌子をすがるようにもみあげた。美禰子はわらい聲をきく。
じぶんのくちびるのたてたそれ。少女は鈍い錆色のいたみの下腹部に巢喰われた叓をだけ、こと葉もなくに打ち明けてあざやかにすぎた。
まえぶれもなくてわらったはゝ親の不意のみだれ心をかくしようもなく悠貴の双渺はあからさまにも咎めた。——ね。
と。
耳にふれたはゝ親のさゝやきこゑの無防備なまでの嘲弄に邪氣は无くて、かの女のまなざしは自分にだけわらいかけながらに、そして自分をだけたゝみつめながらも、そのくせに悠貴自身をはいたづらに無視してさへゐれば、聲。
おもいあぐねてようやくにさゝやいた、そんな。
時には自分を意味も无くもかなしくもさせてしまったものだった、いたいたしいほどにもはかなげに叓のまにまにかげろうばかりのそんないつもの母の聲の色にあらためてとまどう。
はじめてきいた他人の聲にも錯覺されたのは何故なのか。
まあちゃん、と。
美彌子はふたりの兄のおなじ呼び名を呼んで、どちらともなくに「この子、」
と、
——ね?
おくれてなんの氣もなくに見返した壬生正純も、さらにおくれた正彦のまなざしの鈍重も、はゝ親の謂わんとするところを知るのはたゝ悠貴ひとりをおいてほかにはない。
「なに?」正純はようやくに聲を立てた。「…ね」美彌子は云った。
「この子って、」
と。
「ね?…なの」
それだけのこと葉を終には云いおわりもせずにあふれ出てたわらい聲に亂してうさせた美彌子を悠貴は傲慢にもおもえば、顏いっぱいにもなすりつけられた辛辣な侮辱として見い出して、あらためて骨のうち側にまでも屈辱と羞恥の血の發熱にむせる。いたゝまれずに庭に逃げ出しはや足のす足のまゝの足のしたに、ふれるそれら石のこまやかないたみの亂雜の散亂の、あるいはかろうじて悠貴は胸にいき遣い、正彦はめにあまった妹のめずらしい動揺をひとみにだけよるべもない後ろ姿として追った。
美彌子はこゝろをむしろたゝ幸福におどらせてゐた。
ことによれば娘がそのまゝにおとなになって、いつかやさしいだけが取り柄のあたりさわりもない謂わば、家禽じみた月並みの男をでも貰って、自分のかたわらに添うて、軈て何人かの孫をはべらしてあげ句そうしてすでに、老いをしったはゝ親の皴の肌をいたわりながらも躬に添はせふれ合ひより添ひ遂げて、肉の滅びをみ取りおゝせてしまうかもしれないと、そのかならずしもこゝろに願はれてゐたわけでもなかったまぼろしの、おもいえがかれた一瞬の鮮明にまばたきさへわすれ、もとよりなんの根拠のあるわけでもないのには氣づかないまゝにの美彌子は溢れたかへったしあわせをかの女のひとりのわらい聲にも散らしてゐた。
庭にでればひとりであることのけはいがしらずにも肌につたわる。
いまだに所ゝを荒らしたまゝの手つかずの池に鯉は撥ねた。
きづけども意識はしない悠貴はみゝにだけそのひゝきをきいて、廣大な庭はあからさまな未完成のおもむきをすき放題にさらして羞じずない。
あるいは忠雅はいまだに完成されることのないたゝずまいをこそ愛していたのかもしれない。
住めるようにはなった本邸の工事さえいまだに大工がいれかわりにつゝけた。
水のおもに、こぼれおちそうな巨體。
汀のむこうの片面を覆った二本のゆがんだ樹木は松だったのかなんだったのか。
波のないおもにのばされた枝をさえふれそうに、悠貴はしらない。
櫻ではない。
花がないから。
いずれにせよ春ははるとして冱えた冬の名殘りのひやゝかにもひと肌のあたゝかさをそっとしのばせてやゝ霞む。
土のうちに蟲もめ覺の音をたてゝゐたものかひとのみゝにはついにふれない。
ゆくあてのあるわけもなくて、いたゝまれないまゝに、とはいえはゝ親のあたへた恥辱をうらむこゝろは不思議にもかけらだにもなくて庭のゆるい、整地しかねた傾斜も盡きてのいきなりの断崖のちかくにまで歩けば自然に肌はかすかにあせばむのを知った。
はや足のせいにか已に覺めたはずの羞恥の名殘らせたせいにか。左手の向こうの山にふもとちかくに點在した櫻の群れは、とほくになんともなくて花をちらす。
ないしはちぎれた雲か霧の、そこに落ち込んでたたずむだけか。
そこにだけはたとえわずかにでも風があるにちがいなかった。しろい色彩は綾にも色をうごめかせ、それらに固有の時をきざんで見せてゐた。ふく風はにもかゝわらずに、わずかにへだたっただけの筈のこゝにはあやしくもその氣配をだにさせないものをと思うでもなくて——生理?
ふいに、やゝあってさゝやかれた背後のこゑに、悠貴はあえてふりむかない。
聲が正彦の厥れだということは耳がすでに見知っていた。まなざしは足の下にひろがる鎌倉のまちの黑と茶の風景をみやり、それら。
無殘に見えた。
家屋。
おもえばひとのすむ家屋に華やぐ色などおろかしいほどにもなにもなくて、綠に靑に白にむらさき紅にだいだい。さまざまな色あいをそれぞれのすき放題に、樣ゝにも見せて樣ゝにもおう樹木の葉の、花の、草の、むれのむらだちの色彩の靜かな奔流の停滞のなかで、人の棲み處は慘めなまでに剝き出しの汚點にすぎなかった。
いまさらながらにひとを哀にだにもおもひながらもふりむけば、しら壁に瓦をいただいた忠雅このみの和風の邸宅も、髙光る空の靑のおもいさえとどかない切實の色の下にみればおなじくに、たゝ赤裸ゝにもむごたらしくて「知らない。」
ふりむいたそこに悠貴のまなざしにふれてゐた正彦のすがたをは、かの女はあくまでき附かなかったふりをした。
すねた氣配さへもなくて、それだけ答えた悠貴を彼はあやしんだ。
見つめた。
かたわらに日にさゝれて白濁する肌。
褐色のいろをさへわすれさせて、そして手の込んだおうとつにそっていきづく翳りはやゝ靑くいつか褐色のあざやかをことさらにもなじませてくらい。
いき遣う。
こゝろにふいにも妹をからかってやる氣がかんじられた。
「…女になったってやつ?」
じゃない?
と。
同い年の兄はいまだに女の肌などしらない。だがもちろんのこと女のはだのうち側になにがめ覺めて軈ておとろえていくのかくらいは知っている。
「違う?」
しらない。
と、もう一度くり返した妹に正彦は自分が已に戀していることは氣づいている。物こゝろつきたころにからに自分のこゝろに添うてはなれなかった焦がれるおもいは顯らかすぎて、自分にうりふたつの妹を鏡のなかのうつくしい男のようには見飽きないのはなぜなのか。自分に巢喰うおもい自體のそのものがもはやしんじられないほどにもかけがえなくおもえた。似すぎた互ひのにもかゝわらずのにかよいようも无い躰に、宿らざるをえない正彦の知るすべも无かった女の躰のさがに對する單にありふれた年比の發情なのか。それともこゝろのせつなさにあふれたせつなさをかさねた純なおもいのせつなさというものなのか。あるいは年のふるうちにもふるびて軈ては風化もしてしまおう心のひとゝきのまよいにすぎなかったものか。
いずれにしてもこわれそうにも華奢なくせに豐かに息吹いたやわらかのいき遣いを見せはじめる少女の後ろ姿をあやうくもおもい正彦は目をそらせば空。
そこに。
色彩、その日の朝の眞あたらしげな靑の淸冽に雲は横にながれたかたちごとに停滞してうごく。
音もなく。
あるがまゝにもみえてたゝ大きく。
風。
みあげた彼の手のとゝかせようもないそこにはすさまじい氣流が生起しているに違いなかった。
おそらくはひとなどふきとばしてき附きもしない。
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