雪舞散/亂聲……小説。13
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
雪舞散/亂聲
哥もの迦多利
亂聲
雨がふった。その五月に十さん歳の壬ぶは田村祐樹たちをちまつりあげた宮しまの山の端の木のつらなりのかげを雨はさすがにぬらさない。ふたつとしうえの田むら祐樹をはがいじめにしてかれにはもとから戰意などなにもなかった。名前のせいだろうかとみぶがとうとつにおもいついたとき壬ぶは自分の拳の殴打のくらさにおびえた。ゆうき、とそのなまえのひびきのせいでかれはいま鼻をおられてうつろなそのくせになげかわしげないろをだけ執拗にうるませた眼差しをさらし必死にもせめてよつんばいになろうとしてあらいいきを吐くのだろうかと、壬生のみおろした足元に傷んだ口蓋の血のまじるつばをはいたかれの意図も無い擧動がふたゝび壬生を激髙させた。頭の上山をめぐるさか道にすがたのみえない傘のしたゆう樹のつれていたゆうじんたちは壬生のあらくれた時間がすぎるのをまっているにちがいない。かれらにおそいかかった獸じみた惡臭のうつくしい少年が自分の牙のかみつく快感にうちふるえる時間がもうすぐ、と、聲をひそめながら?
かれらが發している筈のおびえてふるえる髙揚したさゝやきこゑさえ聞こえない儘に病んだくらい生き物がいま咬みついていると壬生は自分の本性が目の前に轉がっている気がした。それはまるで他人の顏の樣にしかみえないまゝに周囲の樹木にもへばりつき乃至木はだをつきやぶって突出する佛らかれら沙羅双樹のひかりのむれは腐ったにおいをまきちらしながらあめにうたれて流れ出すのは腐った血。ひかりのむれがふれるものすべてを赦していたののには氣づいていた。
壬生が祐樹の腹をなんどめかにけりあげたときせう年は句の字に身を曲げて空間につまさきだとうととでもしたかにみえた一瞬のていたいのあとにおほげさにたおれふせばぬれかけてしめった木のもとの土にはだをふれる。顏ごとなぎたおされて知ってるか?と。壬生は思う。お前はいま、とても美しい。
からだ中にとびちっているはずの痛みさえまるでたにんのことのようにもかんじながらただ無じ悲なまでに歎きをだけすなおにさらすそのくせ昂り切ったうるんだ家畜の眼差しは、と、あるいはそのみだれたむ殘な息遣いのきたならしさは、と。
壬ぶがすれ違いざまに不意に彼等によびかけたときふりむきざまの壬生が思いだしたにゝた笑みを浮かべていたのを日野智也は覺えていた。道ののぼりの傾斜の上にたちずさみ、行こうぜ、となぜかあわてた聲をかたわらに耳打ちした片山仁志を無視する。雨が傘を濡らした。その亂れたをとをきいた。「あいつ、もう終わってるよ」
さゝやきかけた片山ひと志の聲にはひの智也をなじる氣配さえもがあって智也は壬ぶとめがあったときにはかれがなにをしかけようとしているのかには氣づいていた。名の知れた少年だった。てのほどこしようもなく荒れた煽情的なまでに美しく女ならみさかいもなくだれをも魅了し男ならだれでもみさかいもなく好き勝手にくわえられる唐突な暴力を忌避せざるをえないあるいは遠目にうかがうしかない不穩な生き物がめのまえでじ分を見ていた。しょうねんは慥かに見蕩れずにをかないばかりも美しかった。雨をしる大氣にふれた惡しゅうが棘をもってにおった。もはや鮮明にすぎてかんじられていたはずの恐怖さえただ他人ごとのように赤裸々なに、それは遠く他人のかかえたみずしらずの感情に過ぎなかった。いちども少年とは話したことも無かった筈のゆうきがふいに鼻をすゝった時に獸の悪臭の存在はうつくしくほゝをえんだまゝにその日の獲物を選び取った。ふいにはぎとられた傘がゆう樹のよこづらにたゝきつけられてあがったひ沫はとも也の顏のおもにまでふれた。ゆうき、と、そのときにふいに彼の名をくちばしったのはかたやま仁志だった。立ち盡くした侭ひと志はさしたかさにはみだした肩をあめのうつにまかせてしたゝるのは水滴。
こいみどり色のかさのふちから。
獸じみてうつくしい男ははじめて自分がいまつかんだ顏面に膝打ちをくらわせた少年の名前を知ったにちがいなかった。引きずられるようにとさえもいえないす直さを祐樹はさらして壬生につれられるまゝにさか道をころげた。ただ數發のこぶしと膝うちは已にかれの齒茎と鼻から血をたれながさせ始めてすべての、と。
血などすべて流れ出して仕舞えばいい、と。このままに、もう。むしろ祐樹がそうねがいさえしたのは降りしきる雨がかれのからだ中をぬらしていたから。なにもかもがみじめでめにふれはだにふれるもののすべてがことごとくにきたならしくもはかなくあはれにうつくしい。嫌惡しかもはやない。冷氣があった。あめにぬれればまだ肌は骨ごと冷えるしかない五月にみあげれば空は白くこんなにも、と。空ってちいさかったけ?
じぶんのちによごれて少年は白濁した空にくらいゝろがときに戸愚呂をまきさえするのは、黑ずみ。む殘によごれた雲の色彩。あれは雲の厚さのしろさのぶ厚さが濃さをましたそのをわりのすがたなのだろうか。だとしたならばたとえばはれた日のしら雲さえかさなればどす黑いゝろをみだしてしまふことになるとふるあめにぬれふる雨を見よあじさゐのはなの色と馨を愛てんとすればむしろあめをみあげよ
かならずしもなんの意味があったというわけでもないすきほうだいの暴力がかれのまわりにかさねられるたびに壬生たか明は惡評とゝどまりようもないあこがれの眼差しを周囲にまきたてゝいずれにしても女たちはかれにこがれるしかすべはない。はじめて謹慎を學校にめいじられたときみぶはむしろ詫びるまなざしの敎師を「すまんな」咎め立てさえせずに「守ってやれんかったわ」ただ「…すまん。」大丈夫?と
——心配しないでいいから。
云った悠貴のまなざしを「赦す」と。悠貴の眼差しはただ壬生をようしゃもなくゆるしていた。「たかあきくんは、なにも、…」と、心配するなにがあったのか、何を心配しなければならず、何を心配し無くてもよいのかおもいつきもしない壬ぶたか明ははゝ親をみつめたまゝしばらくはなにも言わずにいま、と。
あなたは傷ついてるんだね。
思う。——こころのふかくが、と、深く。
やがてはじゃきもなく微笑む少年のいつにかわらない歎かわしい程の美しさを悠貴ははかなくさえ想った。こんなにも美しい存在が外のくらい世界の殺伐のなかにいきのびていけるはずもないと、「ね。」
何食べたい?
さゝやくように云った悠貴の聲にだけわらってをんなのまなざしには泣きながらわらったような少年のほほえみの矛盾。おんなのこと葉の明白な矛盾を壬ぶたかあきはわらってしまいそうになりながらも雨。
「べつに。なにも」
「うそ」
午前の學校に呼び出され、「うそよ。」息子をつれてかえりながら悠貴は
「おなか、ぺこぺこじゃない?」
「そうでもない」
「うそ」
こと葉などなにもくちにしなかった。なぜなら
「なに、つくろっか」
「いいよ。べつに」
と
「ね、なに」
「無理しないで」
なぜだろう?——たとえば
「なにたべたいかな?」
「つかれたろ?」
「ね、」
降り惑う雨の霧じみた散亂。空間は
「悠貴さん…」
「なにがいい?」
「で、さ、」
ただなすゝべもなく飛沫とさへいえないちひさなひ沫のかきりもないまでのみつのこまかな
「なに?」
亂舞。自分はなにがあってもこの少年をまもりつづけようと想いながらも雨の飛沫。ふたゝびにきづくのはこのうつくしくも稀なる木の葉ごしの墜ちる露の。か弱いいきものしかしかついにはひ沫。あいせはしないのだろうと君ゆゑにぬるゝにはあらしおほかたの時雨の散れるみつの玉とぞ
みやこに動亂があった。中興の御門が江戸に入った。そんなことは知った事では無かった。おとこは大量のちをはいたおんなの熱にむせかえったほほに掌をふれた。をんなの肺にとりついた宿痾はをんなをころしてしまうにちがいなかった。軈てはをとこみずからもろともにほろぼすその目にもふれない極び細のいきものらのそれでも生き生きとしておんなの胸のなかをむさぼり繁殖にをとこは生き物のさがを思った。佛ら。ひかりにふれて胸のやまいにさえも手をさしのべながらも佛ら。腐った血。肉のくだけたにおい。嘉右衞門がそとでまちわびているのはしっていた。もう後がないからと、はんとしばかりもひとめだにめにふれさせずに幽閉し、いまやをとこのもちこんだ因果であるかにをとこを呪ってまわった叓などわすれた。せめてもさいごにひとめでもとをとこの長屋に躬づからあしをはこんだ嘉右衞門のまなざしの歎きにをとこはもはや軽蔑さえかんじなかった。をんながふたたびちをはきかけてこらえたのを吐き出せ、と。おとこはおもう。穢れ腐った血などことごとくはきだしていまおれもろともにほろびてしまえとあるいはあの佛らのごとくにも?をんなの骨をうかせた背をなぜたをとこは去年の夏のふたりの心中未遂にしくじったあしたのそらをおもいだす。をんなはいまだに呑んだ藥からめをさまさないままに穩かにもいきづかって色。紅蓮にも燒けおちかけた朝の空のその色のむごたらしさを男の肌がはだにふれそれはそれがあくまでもおとこのそれであることをただ壬生にしらせた。赤裸ゝなまでに。山田秀房と名乗ったその名が僞名にすぎないことを壬ぶたか明は氣付いていた。おとこの顏立ちにはあきらかに島國の人間にはない氣配があった。たとえかれが抑ひのもとの國にうまれおちいわば血統上の故國のこと葉さえはなせない所謂日本人にはすぎなくともその島國の人間にはない兆しはその骨格に隱なかった。をとこの出自が半島だったのか大陸だったのか壬生は終にしることなかったがあるいは彼は壬ぶが心をゆるしたほとんど例外的なおとこだったには違いない。日本語しかはなせないやま田ひで房は上手にネイティブの日本語を駆使し海の向こうのにんげんにしかみえない彼の日本語の上手に讚嘆の思いをふとかんじるたびに壬生は吹き出してしまって、失笑の理由はつげられない山田ひでふさは笑いながらもとまどうしかない。同じ店のホストだった。父をやとの反目が彼をいえ出させたらしかったがその二十歳をすぎた大人の男のふがいもなさを十七歳の壬生はかすかに軽蔑した。かならずしも軽蔑と愛情の純粋さが反目しあいはしないことを壬生はいぶかった。まともに女の氣も引けないやまだ秀房はみぶにとって図體だけでかいはなもない老木のみじめなまつ路いじょうのなにものをも意みしなかった。二十歳をすぎれば人は単に晩年をいきるにすぎないと壬生は、あるいは温度。
かれの体温を感じた。はだのしつかん、きんにくの息吹の向こうにせんめいな男の骨格のはだざわりは、そして壬生はただかれをいつくしんでいる想いのうちにひたりこんでしまうしかない。おとこの舌先があおむけた壬生のそのかたちをまさぐろうとして近づいた彼のくちびるの吐く息がふれて思い出す。みぶはいま自分が覺めながらに見ていた夢の中にたしかに四方をうめつくす海を見ていたのを、あるいは。をと。
波の。
音。又は海。それが海だということは気付いている。ならばなぜそんな叓が可能だったのか。壬生がふいにいぶかったのは見い出された海のその眼の前にひろげてゐる風景が一度も見たこと無いものだったからに違いない。いずれにしても湘南であってもせ瀬戸内海であっても壬生がすごした多くの時間のうちに海は見られるづけてはいたものゝそこに見られる海がそれらのどれともひとしくはなくてましてや同じものではありえずにいずれにせよ海、と。抽象的なわけでもなくあくまで匂いさえもともなえば壬生がみているのは海だった。くらい空間の中にどこからかさした姿をは顕しもしないない月のあかりのせいだったのかさゝ波だつみづのおもはひたすらにするどくもちいさなきらめきの白濁を無ぞう作に散らしもはや際限もなく。
四方をうめ盡しているい上海はかれの周いのことごとくをうめつくして俺は、と。いまはてもない海の眞ん中に立ちつくしているに違いないと思った。明らかにそれはじ分とは緣もゆかりもないふう景でまるでた人の見たゆめのうちに不いにおちいってしまった氣さへしてほんしつ的に、と。
これはこれのみるべき風景ではなかった。壬ぶはいつかはそう独り言散た。音をさえたてずに波のたつむれなすざわめきはあずかりしらないだれかのみたき憶のなかのゆめだったからなのか。しばらくはみ蕩れながらもね、と、…ね?
俺は、と。
本質的に錯誤している。彼は、——もはや存在自体が間違いだ、と。ことごとくの。想ったそのこゝろのかんじだしたいたゝまれなさはむしろやわらかく、かぎりもなくやさしく或いはゝだにおちてふれた羽毛のひとかけででもあるかのようにも拡がるのは波。広がる波紋の樣にはついにみずからのかたちの固有性をはもちきることさえもなくそれぞれに撃たれそれぞれに撃ち立ちそれぞれがくだけようとしてそれぞれに馴染んでまたたくまにも消え失せたかにほろびもしないでつきもしないいうなれば永遠のなみ立ちを雪。
壬生たか明はすでに氣づいていた。海にあは雪はまっすぐにおちつゝけみはたすよものことごとくのゆらぐおもはおちたゆきにふれてはとかして仕舞うもの乃雪は白。しろく、うたがわしいまでにもしろくてたしかにも白いそれは、雪。それら、おちゆきとけゆきひたすらにもくらい海のひかりたつきらめく無數の息吹のむれのうちへとゆきはきゆよものうみにそ時は果つこのうへさらになにをか見へき
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