雪舞散/亂聲……小説。11
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
雪舞散/亂聲
哥もの迦多利
亂聲
いろづいてなまめきだって薰るだにはかなくくるしき花など無くば
おもえば夏にも秋にも冬にさえ咲く花はある。あめのうち梅雨のまいにちのこまやかなあめのなかにさへ。
そのつゆもあがって夏のはじまりかけた七月のはじめに大氣はときにはいまだにおさまらない雨のきせつの名殘のひまつをときに街ろ樹の葉にちらせてはそれぞれになにかにふれてくだける。しろく淡いくもしかみえないものを不意にふりだしたとうとつなあめがあがって十八歳の壬ぶたか明は澁谷の映画館の二階のカフェをでた。道玄坂の樹木はすでに晴あがった空をくもの切れめからまざまざととぎれ見せつけなげかけたひかりは無ぼう備までにぬれた路面をきらめかせた。雨の殘した水のしゅう氣がくうかんをみたして鼻のさきに薰ればかならずしも雨のくさみのある匂いがきらいではなったのは入水した母の六月の比の印象がこころのどこかにのこっていたからなのか。靜まったうみのおもにうかぶぬれた女。きゝしった聲がみゝのすぐそばになった氣がした。ふりむいた壬生のまなざしはそこにただざつぜんとしていつもよりすくないひとのむれのじ分とはあきらかに無かんけいにたてられる聲のむれそしてすがたのむれをしかみとめない。そもそもがひとのみゝもとにちかよった氣配などかんじられてはいなかったのだからきのせいだったにちがいないと思ったみぶの耳もとで女はかれの名をよんだ。名前など知りようもない花のない街路樹の一本からすこしはなれたさきの翳りにたゝずんでひとり女は日差しからはだをまもろうとしたかにみえればまるで、と。
俺と待ち合わせしていたみたいに、と、あるいはそんなさっ覺をかんじさせたのはやさしくなんということもないありふれただけのほゝ笑みをおんなのまなざしがさらしていたからに違いない。かた山ゆふ夏が一か月ばかりすがたをくらましてだれにも連絡をたってだれのめにもふれずに隱れおおし行方ふめいになっていたことはしっていた。すこしやせたようにみえた。やつれたとはいえない。そんな苦しさをおんなのはだはなにをもにおわせずにいきづいてむしろをんなはわらって、聲——ね?
笑った、その、と、だっていまこのせかいのなかにはかなしみなどかけらさえもないのだからと。確信をもってかつはとわれもしないままにこと葉にするきさえもなくて。たゝまなざしのむこうの當然の叓としてだけさらした片山ゆうかの唇にあざやかなくち紅のくれないがいろどっていたのを壬生はどうして、と。
口紅のいろがやわらかいひかりに白濁する。
こんな雨上がりのひるまにさえお前は夜のまちの殘像をひきずるのだろう、と。あざやかにすぎた紅は女の根拠もない矜持ででもあったかにみえて女のたゝずまいにかすかな軽蔑をかんじた壬生のほほに風の葉をゆらしこすられせたまにまにこぼれおちるむ數のしずくのひとつがふれてひ沫、と。
あめあがりにさえ雫はこぼれる、と。どこかで鳥が、なにかの鳥、想うにからすのくろいつばさははためけば鳥はどこにとびたったのか。彼の背後あたまのうえになったただいちわの羽搏きのおとにさびしいの?——と。
なにもさびしくもないくせにまなざしにだけさびしげな色を浮かべる、と。おんなのみゝに坂道をゆっくり昇る車のいくつかの音響はそれぞれにふれてなんの印象ものこさずに、だからわすられることさえない。なぜなら、と。
きおくさえされなかったものはわすれられることさえも、と。雨。
もういちど雨は降るに違いない。おんなのまぶたがまばたきもしないのをみぶはみとめた。なぜなら大気はいまだにしっけたままだから。みぶはおんなの、そしてどんなにそらがはれあがりはじめていたにしたところで、と、ぬれた路面にものゝかげひかる路面に殘すそのいろさえなくも鳥の羽しぶく
ひまつのひとつひとつさえ沙ら双樹のほとけらのひかりにさしつらぬかれてくさった匂いのこゝろのうちにもこの女は号泣しているにちがいないと壬ぶは思った。足元の佛の黑いひしゃげた顏をふんだ。腐った血がとび服を血に染めて家にかえった壬ぶたか明を宮島の家の茶室のわきの通路にみとめた悠貴がすれちがいざまに我にかえって思わずにかけよればひざまづきじ分をいためつけてやろうとばかりにもはがいじめにするのを壬生はうざったくも確認する。悠きはむりやりに十さん歳の少年のほのかに男の気配をしりはじめた躰躯をはだかにむいてひっくりかえすようにしながらもその肉體のどこが傷をおっているのかと、軈てはあくまでもむ傷な肌に血がほとんどほこかの他人のながしたそれにすぎないことに氣付けば悠貴はようやくにして息をつき、どうしたの?
と。おんなのあれた手つきのまにまにちまみれの着衣を亂れさせた壬生は肌のほとんどをしろくさらしながらもはじめて氣づく。どうしたの、といふそのおん聲のふれたみゝはおんなの聲をききとってた。それはおんながその數十秒のなかでくちにしたはじめてのことばだった。壬生は聲をたてゝわらってしまいそうだ。もっと多くの。とてつもなく多くのこと葉乃至こと葉いぜんの無形の音聲のあるいは息の、それらが耳を聾しまなざしをうめつくしてしまうばかりに無數につらなり女のくちびるはわめきちらされて自分の肌ほねのうちにまでおんなの舌がへばりつき齒がかみつき苛んでいるさっかくにとらわれていたから。くちびるにこぼれないじぶんのわらい聲をあたまの中みみもとの影にきいた。「…ね」ぜんぶ、おかあさんにおしえて、と。あしもとにひざまづいてみあげた悠貴のふるえるまなざしにはなみだの雫さえもにおわずに、嗚咽。
此の女はいまあられもなく鳴き乱れて居ると壬生はひさしぶりの片山ゆふ夏にほゝえんでやりいまだに雨にしめらされて降雨をせめても名殘らせる大氣を鼻にすいこめば「関係ないよ」
と、
「誰?」
きく。悠貴は
「なに?」
かの女の
「誰がこんなことしたの」
あいしこがれるうつくしい少年の聲にじぶんのこえがからまって軈ては空間にきえていくのを屎だから、と。あいつらが糞だから、——と。「悠きさんには関係ない。氣にしなくていいよ」
「ちがうから」
「なにが?」そのふたつとしうえのせう年たちの態度が気に入らなかったわけではない。すれちがいざま一番せのひくいをとこがたてたかすかな鼻にかかった笑い聲が壬ぶ髙明のこゝろのやわらかいどこかにすれちがいながらもふれて仕舞っただけだ。
ふりむきざまに男をなぐりつけたとき敎師たちさえそれなりには尊重していたふだつきの彼らはいまじ分の目の前でなにがおこっているのかを疑った。じぶんたちにいみもあかされない不當な折檻があたえられるなどしんじられなかったもの乃華奢に過ぎるうつくしい少年の加える暴力に容赦はなかった。獸じみたあく臭の少年の殘酷さにはだがじかにふれられるまえには彼らのこゝろはへしをられて傷めつけられ舌のうえに痛みだけが息吹いていた。少年のはかなげな拳が無樣な迄にするどくもだれかの鼻をつぶすたびに吐き飛ばされた血。鼻水のまじった、いつでも少年はむしろやさしげにもほゝえんでその肌があめにぬれた獸の柔毛のたてたを思わせた臭気をいよいよまきちらせば「約束して、」と
もはや悠貴の兩のてのひらはかれの肌をさらしたままの胸におしつけられてただ彼にいまも心臓のなみうっているこをかくにんしようとしたのか「もう、傷ついたりしないなんて、」
見た。「ね、」悠貴は彼を「やくそくして」…ね?と。
花。女の背後に咲いてゐた花。飾り棚にならべられた鉢植えの百合の花そして胡蝶蘭。それら花ゝのむれはわずかにはなれたそこにまではそのなまめいた芳香をはとどけない。そんなこと抔しっているはずなのに鼻孔をあの吐き気さえおぼえるほどにいろめきだって食欲をうせさせる馨がかきみだしていた氣がした。壬ぶはふいにおもいだす。ふつかまえの朝に學校の窓のサンのふちを蟻がはっていた。ちいさく黑くむれてうごめきときにはかすかにだけみだれながらもいちれつにちかい隊列を保つ蟻の群れいのちはかろしと知らしめしころされ滅びつぶされひきつる
指をあげて、ふと壬生は大量の慘殺のと殺戮の死骸のかけらも殘ってはいないやわらかな皮膚の匂いを嗅いだ。…ね、と。
ちまみれのほとけらのくさった顏の群れ。
なにからってわけじゃくて、ね。と。…なんか、ね。「わかる?」と、腐臭。にげるきはないけど。「なに…」にげたいかんじ。そんな、——ね?腐った顏が腐った「もう、どうしともない」って、血。いう…ね。匂い。にげるとかじゃなくて、と。女は「なんだろう?」にげたいものなんかとりたててなにもないのにもうどうしようもなくてねげだしたとくなるときってない?ひかりにふれた。「かなしい?」とか?腐った血…ちがくない?「行き場所なんてないだって」ひかる。むなしい…おだやかなすくいの「にげたいわけじゃないから」とか?ほとけらの、違うんだけどね。なんか、光。「啼いちゃいたい感じ、もう」きらいじゃない。血まみれの、なにも「たえられずにさ、」なんにも、腐った顏。じっさい腐った腕。「ふわって」腐った腹が、思うよ、と、さけて路面にはらわたを散らした。「ふうっ…て」腐った内臓を。めぐまれてるほうじゃない?ひかり、わたしとかって佛らの光。「いつのまにかに、ね。」…ま「なみだ」ね、と、匂い立つのは「あふれちゃうかんじ?」——ね、と。腐った佛らの腐った肉の腐臭、と、ややあって女が言葉を切った時壬生たか明はかたやま夕夏のわずかなみだれもゆるさずにまっすぐにたれおとされたその髪の毛に光沢がはうのをみた。まどごしの陽ざしにはいまだにぬれた氣配があって、雨など、と。
はすでにとっくにあがってたのにいわれるまゝにころがりこんで、片山夕夏の部屋の中のきょくたんなまでにせいりされきった空間の中に入ったのはその時がはじめてだった。「でも、逃げたんでしょ」
いろんなとこ、いきたいな
「失踪事件?」
で、ね。わたし
「どこいってたの?」
いろんなもの、見て
「なんか、いってた?——みんな」と、あるいは片山夕夏はふりむきざまに聲を立てて笑い「氣に成るの?」
「なにが?」
「わたしがどこにいたか?」借金でもあったの?まさか…ささやく片山ゆう夏のまなざしにふいにうれいが差したのを壬生をあやしくもおもいながら「結構、売れてんだよ、わたし」金に不自由抔していないことはみぶだってしっていた。壬生にみつぐ金の出所にしてからが女に貢ぐおとこたちのくれてよこしたあぶく錢の大量のむれ乃いわばよこながしにすぎないと片山夕夏が「ね。」
「なに?」
「お前、意味も無くないちゃったことあるでしょ。」耳元に壬生がもはや誘惑を隱さずにさゝやきかけた時かたやまゆふ夏はむしろその聲の色めいたつやをは氣にとめもしないで、なんで?と。
わたしの夢
——なんで、わかっちゃうんだろ。
せかいいっしゅう旅行
——お前、頭おかしいから。云って、「お前、あたまおかしい子だからそのくらいするかなって」と、踵をかえした女のくちびるがなにか言いかけた時には壬生はそれをふさぎかさねてすでにあわされていた唇にいつかおんなのだえきを知って目舞う哉きみしりそめし夜からは晝の空さえ紅蓮に燃ゆる
すき、と、おんなは燒け落ちよくだけこわれてほろべ空ただ夢のかよい路闇夜に墜ちん
こと葉もなくていきをはき、すい、いきづかってはくちびると舌にひたすらにむさぼるものゝきみにこそこがれ狂うて死にたえん花あじさいの雫ちらすころ——と。あるいは悠きは自分を抱いた男がやゝあってたちあがりその身をはなしたときに肌がふれあわないであることのどうしもうない醒めたさびしさをかんじたのをかわいらしくもかなしくも思う。なんどもこの男は自分をだきはだをかさねをんなのたいないのおんどにさえそのからだの先端にあじわいながらもついにはみちたりたこともなく、そればかりか自分とはとおくへだててある距りをだけもの憂いかんしょうのうちにひねりつぶしてしまうことしかできはしない、と。その男。
むしもころさない顏をしてじじつむしさえもころせない、そんな男がじぶんにしでかしていることの叓の凄慘さをいまさらながらに想いかえしながらもそれさえもせつない戀にくるうせつなさと云って仕舞って終わらせてしまう可きなのだろうか。おもえば男はただせつじつにじ分にこがれているだけであったにすぎないと思えばゆう貴はいじらしくもなり、とはいえ女はおとこをいまさら愛してやるきにだけはなれなかった。ひとりだけ服をきるおとこの背後にはカーテンのしめられなかったまどのむこうにしのゝめ乃そら能暗い翳りをだけをかんじさせる深くすきとって濃い靑くろい色彩があって發覺ををそれるおとこはふかい夜のまにしのびこんだ悠貴のへやからいまやいそいでたち去らなければならない。山のはにはしずみかけの明けかたの月がとをくみえた。男はしりもしない、と。有明の。悠貴は思った。月。自分がみたそれ、最後と決めたときにしんやに忍び込んだ嚴島神社の境内を歩いて朱のあざやかな御柱のつらなりがあけそめたそらのひかりにその朱とだいだいとくらいあをとそれら色彩の混乱をひたすらのあからさまさでみせしめてすこしの亂れさえもそこに顯らわしはしない胸をしめつける冱えた風景の中にみあげればひくゝうかぶ月いまやうみのそこにゆく月のいくゆふへかなしかり空にとふ鳥さえなくば冴えるのはただひたすらの月
久しぶりに久まつ史子から電話があってそれまでかえりみもしなかったコールに壬生が應答したのになんのいみがあったのか。壬ぶ本人にさえわからないままに女はあきらかにでんわのむこうでをとこが聲をきかせた叓にと惑っていた。でなければなじり出ればとまどう女のこゝろを壬ぶは他人の恥をわらったに似て陰慘にかすかに笑んでいっしゅんのまよいのみじかい間のはてにも女はただ純粋なよろこびのなげた茫然自失をこゝろのうちにふれさせた。
壬生がとっくに店と縁をきってなんのことわりもないまゝに一方的にきられた絶緣にみせも客もかぶき町じたいもなんのなすゝべもなくてとりたてゝ躬をくらませたわけでもなくユイシュエンの澁谷の部屋の中で壬生はひとのめにはじぶんが世の中に遠ざかって仕舞っている事實にさえきづきもしないまゝだった。せめてもひとめでもみようと或はひとことみゝに聲を、生きてあるほのめかしでも肌にかんじようと切にも望んでいたには違いなくとわずにもそれとしれるすてをかれた女の思いのおもえばあたりまえのありようにおんなは躬つからはおもいあたりもしなくてうろうろとあてどもなくさまようばかりの女のとぎれがちのこと葉のちぎれがちとありあまる亂れたいき遣いのせきたてあせるノイズをさらすだけの沈黙の赤裸々にもいつか倦んだみぶはみづから逢う?
と、彼が云った時ふみ子はこと葉をつまらせた。
いままでにもなく長い沈黙があった。あわれむをとおりこしてとどめようもなく軽蔑をかんじればむしろこゝろからおんなをあわれとも思い壬ぶはひとりほゝえむしかなかった。部屋の中にひとりユイシェンさえ不在のいま壬生のほゝえみなどだれからもすておかれて逢いたいの?、と。
女がいったときその聲のさらした赤裸々な懊悩は壬生をふいにもかなしくさせた。かんじられたのは女のほうちされた時間にきたえられもした憂きばかりの暗い思いの鋼じみていつかとがりきった刃物のような触感と、或いはただ純粋ないたさ。痛い、と、そうかんじて在るしかなすゝべもなくて女の聲はかすかにだけ押さえこまれた震えをさらした。まちあわせた道玄坂の映画館の二階に女はこれみよがしに香水のにほひをまきちらして壬生より先にきてゐた窓際の女がのぞきこみ執拗に外をみているのはそこにあらわれるべき時間をいつもまもりはしなかった壬ぶのいつもの姿をさがしているに違いない。背後にたってかける聲もなくたゝたゝずんだをとこの氣配には氣づかない。若干だけふとって見えた肩におとろえを感じゆびさきがふれたとき女はおどろきもせずに振り向き見れば、その、すでにそこに壬生がたっていたことをすでによくしっていたかの時間を裏切った眼差しのうるんだいつくしみの色に男はただ耳元にのゝしられたような屈辱をだけかすかに感じた。さがしてた、と。
「ずっと、」
女が云ったのはとりとめもない女の(已下續)
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