雪舞散/亂聲……小説。7
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
雪舞散/亂聲
哥もの迦多利
亂聲
「お金、かしてよ」云って、おもわずに鼻にだけ笑ってし舞った髙あきの震えたゆびさきのせいでは物はいつ動みやくを斬り捨てゝ仕舞うかもしれないあやうさは寧ろ正彦に一瞬だけこっけいに想われた。こんなにも、と。
かんたんにおまへはひとの最後のしゅん間をいまゆびさきのうへにふるわせてそのくせに邪きも無く、夢にもあかずくりかえしてみいだしたくもさせるほゝえみを。正彦が意図も無くうかべたくちものとのほゝえみにちかいゆがみを壬ぶたかあきはくらがりのなかにみいだしてはいたものゝ「あなたを、きずつける氣、ないから。」
「もう傷ついたよ」
「嘘だよ。まだなにも、」
「こゝろが」云ったとき、まさひこはじ分のたてたわらい聲のかわいたひゝきをみみにした。「もう、」と、「ずだずだ。」なんで?
問い返したみぶ高明の女じみた華奢な聲には應へもかへさずに「包丁、はずせよ」
——誤解しないで。俺ね
「おきあがれもしない…」
——べつに。憎んでないからね
「危なくってさ。」
——みんなのこと。
「どうしたの?」
——ふつうに。だから
「幾らほしい?」
——別に、
「でも」
——お母さんの叓?と振り向きざまに正彦がささやいたときまなざしが曝した我に返ったようなかすかな表情を正彦はふいに憐れんだ。見たことも無いほどに美しい獸じみた惡臭の少ねんはベッドの傍らの横なぐりの月の光にさゝれてその躬躰のはん分をだけしろくほのかにもうかびあがらせた。夜にてん在する光源のありとあらゆるもの。かれのはだにぶしつけなまでにふれていたもの。母をやにうりふたつのせう年はいずれにしても美しい。たとえ今おそい掛かってきてこのいきものがあるいは逆に俺がちまつりにあげたとしても俺は見蕩れて仕まうのだろうか。その冷たい忿怒の表情にも?
——お前、逃げるんでしょ。
「たすけてよ」
——どうしてわかるの?
「かね?」
——気にしなくていいよ
「ちょっとだけ」
——逃げはしない。
「なにするんだよ」
——お前が悪くないと謂はない。
「なにって?」
——考え方だけど。
「その」
——でもね
「おかねで?」
——逃げようもない。
「どうするの?」
——気にしても仕方ない。
「にげるの。」
——自由になりたいだけ。云った瞬間に壬生高明は思っても居なかった自分の回答のばかゝゝしさに聲をたてゝわらったあとですぐさまに息をひそめた。夜の空間は靜かだった。しずかでしかないものを亂れたわらい聲でかきみだす權利など自分にあるとは思えなかった。——ね。
うつむいてしまったまなざしを上め遣いにあげて少年は
——赦すってこと?「俺の事、」
——赦しはしない。お前の
「どうおもってるの?」
——やったことって…ね。
「あたまおかしい奴がしでかしたことだから」
——もう子供じゃない。判るでしょ
「だから」
——いい惡い以前に現實、
「しかりつけても仕方ないって?」
——傷ついた人間がいる。海に…
「叱られたいの?」ややあって、思いまどうでもなくほゝえんだままゝに壬生高明はつぶやく。「まさか。」
「まるでしかりつけてもらえない事が不満だみたいな」
「お爺さんは殴ったよ」
「折檻だよ。単なる。暴力。なんかもう…昭和の。いき殘の。あんなの、…」
「でも、従ってるじゃん。けなげに」まるで、と。なんか、ぜんぶ、冗談みたいだね。不意に壬ぶ高あきはそう独り語散た。——聞いていい?
みゝ打ちする距離にたった正ひこはみぶたか明よりも頭一つたかい。「いゝよ。」
——お前、お母さんの事、本気だったの?
くすりともわらわない少年を正彦は逆にいぶかって仕舞う。なぜなら
——本気って?
言い逃れもいいわけも逃げ出せもできないほどに切實な時自分たちにできる事は失笑でももらしてしまうことだけだと「本気で、すきだったの?」
——愛してた?
「おまえ、」
——なんで過去形?
「あいつのこと」
——愛してる?
「なんか」
——お母さんはね。
「くるしい」
——お前は?
「むねが。」
——あの人が俺をこゝろのそこから愛してるっていう事實だけはしってた。いまはどうかしらない。と、その聲をききながら壬生正彦はこと葉をきゝとるよりはむしろ少年のかすかにふるえる唇の端にみとれた。女の寢室に忍び込んでやったときそれは三月の盡きようとする比つまりは櫻のさかってあふれて亂れてさきこぼれる比だった。鎌くらの別邸のうちどうしてをんなの部屋にしのびこんだのかは彼じ身にもわからない。女を自分のものにしてしまうには今日しかないとおもいついたのはねむりかけの淺いまどろみのなかだった。忠まさも不在で美彌子も友人たちに誘われたいまさらの奈良旅行に出かけていた。おもひ附いてしまえばそれはすでに決定事項のごときものとして彼の脳裏にきざまれた。いつかさえ切ったまざしは時のころあいの來るのをまった。なにをまつとも何の兆しも徽しもあるというわけでもなくて何時だったのか。妄想じみたいくつもの斷片がかさなりあって充滿しきったほう和の手まへに身をおこした彼は壁の時計をかひま見た。春のはださむいあはいくらがりの中にそれは三時まえをさしていたようにもおもった。をとをしのばせてはいりこんだ部屋の中に甘いにをいが腐りかけたようにみちあふれかへってゐる事にいまさらに氣つく。それは悠貴の肌のはなったはずかしげもない芳香だった。すれちがいざまの彼の女のいつもたてゝゐたそれがいまや無造作にたゝほう置されてなかば醗酵して鼻をつく。文字どおりかほり立つまでにうつくしいその存在は目の前でひとり寢いきをたてゝいた。ちかよればかすかに女の体温が肌にそのままふれたきがして彼は勇氣をうしないそうになる。かれはいまだにおんなのからだなどなにもしらなかった。愛した生きも乃は目の前に乃至かたわらにいてそしてふれることさえあきらかなこと葉もなくも禁じられていた。こんなにも近くに居たのに、と彼のさしだした指さきがその腐敗したかにおもえるほどにやわらかな唇の触感をかんじたときに、沙ら双樹のひかりにまばたいて眼を開いた悠貴のいまだい識もさだかにはかたちをなさないまどろみの眼差しはいまみえているものの意味をさぐろうとしかけたときにはふさがれた唇にかすかな震えがあったのに気づく。腐ったさらさう樹の黑い顏がふたゝびちをはいたのは知っていた。かれのひたいに目をひらいてその女は男の氣持ちはすでに知っていた。もはやあらがいもし無かったのはおんながあの異國の海でふれたのとは同じ理由とはいへない。ただ、ことをあらだてゝしまえばかの女のかぎりなくもいつくしんだ彼をきずつけてしまうにちがいないことを恐れたというよりは或いはひたすらに彼を我身ごとにかなしんで、かなしみにすぎないたんなるかなしみはいびつなまでのいろの綾を曝し、塊りにさえなって、いまにもこらえられるずになきだしてしまいそうなのを彼はじぶんが赦されたと思った。
くらやみになれゝば眼さしはあざやかな色彩をみいだしはじめて彼の見い出したくらさのなかでより一層いろをこくした褐色の肌の馨をかぐもの乃ひかり。おぼろなるほのかなる佛らのひかり。
女のかすかにだけ亂れをしる気遣いに耳を澄ましたのなぜだったのか。
くさったちをながしてしゃらそうじゅのひかりの。
温度。それは、たゝふれたはだのそれ。
匂う。
肌のうちの感じた情熱とでもいうべきもの。
くさったほとけらのち。
あふれだす。
一瞬だけの失神に近い茫然の瞬間に彼がさらされたときに女が立てた短い押しつぶした一度だけの悲鳴はせつなくもさながらにふみつけられた蛙のたてたごとくのまちがってもうつくしいともいえないもので、あるいはそんなぶ樣な聲をもらした美しい唇はかの女のなかにつきたおさないをとこにせめてもの滑稽さを戯れとしてえんじてでもみせたのか。躬つからのせつなさのきわまったあげくのかたみにも。いずれにしてもみじめなちいさな絶叫をかれはおんながさいごにたてたよろこびのおんせいだとおもおうとしてさくら闇ちる花かけはゝかなくてこひのやみのみちらし殘すも
にしのそらにかげろひのたつのをみた。かれはおほいまうちきみのもとからつれさったおんなを木かげにやすませて宮こにはさくらのはなの舞うあさをむかへたにちがいないことをおもった。しの乃め能もりのうちにはただむれなす木のはだのはなったすえた匂いだけがたった。をんなが軈てつれさられてさきの御門の御このものになるにちがいないことはすでに夢にみてゐた。おれのこを宿したままで、と彼はおもえばおんなはつかれはてたいきをくちびるにこぼしをとこをうらみもせずにいまだならに都のあったころ斑鳩にかの御このおほ寺をたゝしめるまえの比このひとごろしのうでに、と。わきもこおまへをけがしてしまったとおもえば彼はせつなくも思ふもの乃たとへおほいまうちきみのめいじたままとはいへどもあの日御みかどをあやめた手がまさにいまめのまへにあるとおもへばつくづくもをとこはのろわれたちぎりとこそなげきやまにしらぬまにをとつれてゐたとり。聲。その鳴うくひすのひとこゑにすべてのおもひを斷ちきらされて壬生は目を覺す。あめがふるのをみていた。壬ぶ髙明はその日いつかあめがうちつけはじめるにちがいないことを豫きしながらも傘をもってこなかったことにじ分なりのなにかの必然でもあったものかとおもいさぐりおもひあはせやうとするむいみなたわむれに時間を浪ひしてすごした。學校の門のちかくの櫻のきのしたに雨をさけた。あめのうちのさくらの樹木は儚さを知るどころか巨大なずぶといぶきをさらけだしてきつりつしては葉をしげらせばぬれたあめのしずくがときには風にふかれておちる。背後にさゝやかれたに近いこえをきいたとき檜山はなゑが邪きも無くわらってそこにいた。どうしたの?とこと葉もないまゝにかの女のまなざしはといかけてそのわらいこゑもなく笑いかけた眼さしをみぶはうとましくさえ思う。六月の雨には執拗なあるかないかの温度といつもながらの雨の水の臭気が充滿していると壬生は「かさ、ないの?」
檜やま花ゑがそういった聲にさっきたしかに背後に聞いた聲もそういったのだったことをおもひ出した。「いれたげようか?」
ほゝえむ。不いにふれあうすれすれのよりそう距離に檜山はなえがちかよったのはしゅういのどこともさだめられないどこかに散って撥ねるあめのひ沫をさけようとしたせいばかりではなかった。唇の端に切り傷があることにきづいた壬ぶはいきなりなに?と、そういったじ分をそのことばがおわらないうちには「それ、…」はじていた。
——ん?
慥かにはな繪は壬ぶを見あげてくびをでもかしげるい外になしえる叓はなにもなく「お父さん?」
すれすれの耳のちかくにさゝやかれたせう年のかぎりいもなくやさしさを裝ったおん聲をきいた。めをそらすこともなく壬ぶをみつめるまな差しは憧れをつゐにはさらすこともなく檜やま花えは自ぶんのおもひをかみころそうとだけして厥れは、なぜなら自分は彼をすきになどなってはいけないたくひのにんげんだから、と。
「やられた?」
確信される以前にとうぜんのことゝして認識されていたじ分の手もふれまじき穢らしさを花ゑはこゝろのおくに執拗にはじていたそのせいかまぶたが數度ふくざつにかすかにだけふるえるのをおとこは意味をさぐりながら見た。雨のひまつにはつめたいともいえないつめたさのおんどがめ覺めていた。ふれてきえるばかりでかならずしもはだをぬらしもしない。やゝあって檜山花繪はちいさな聲をみじかくだけたてゝわらった。ひやまはな繪のまなざしにはあらあらしいあわれさもかなしさもはかなさもしらない巨大な樹木をせにした美しい少年のそのむこうの塀にそって紫陽花の花のあめにうたれていることをは知っていたがうん、と。きれいだ。少女はあたまのなかにだけ独り言散てあえてうつくしい少年のすがたをだけまなざしにいれようとしたものゝむらさきのにをふはなは舞ひあそふてふの羽のいろをさえ知らすもまとう紫のいろ
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