新古今和歌集。卷第二十釋敎歌。原文。(窪田空穗ニ依ル戦前ノ校本)
新古今和歌集
底本ハ窪田空穗挍訂。校註新古今和歌集。是昭和十二年一月二十日印刷。同年同月二十五日發行。東京武藏野書院發行。已上奧書。凡例ニ曰ク≪流布本を底本とし、隱岐本、及び烏丸本新古今集と校合≫セリト。
新古今和歌集卷第二十
釋敎哥
なほ賴めしめぢが原のさしもぐさわか世の中にあらむ限りは
何かおもふ何かはなげく世の中はただ朝顏の花のうへの露
この哥は、淸水觀音御歌となむ傳へたる
智緣上人、伯耆の大山にまゐりて、出でなむとしける曉、夢に見えける歌
山深く年經るわれもある物をいづちか月のいでて行くらむ
難波のみつの寺にて、葦の葉のそよぐを聞きて
行基菩薩
葦そよぐ鹽瀨の浪のいつまでかうき世の中にうかび渡らむ
比叡山中堂建立の時
傳敎大師
阿耨多羅[あのくたら]三藐[さんみやく]三菩提[さんぼだい]の佛たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ
入唐の時の歌
智證大師
法の舟さして行く身ぞもろもろの神も佛もわれをみそなへ
菩提寺の講堂の柱に、蟲の喰ひたりける歌
しるべある時にだに行け極樂の道にまどへる世の中の人
みたけの笙の岩屋に籠りてよめる
日藏上人
寂寞[じやくまく]の苔の岩戶のしづけきになみだの雨の降らぬ日ぞなき
臨終正念ならむことを思ひてよめる
法圓上人
南無阿彌陀佛の御手にかくる絲のをはり亂れぬ心ともがな
題しらず
僧都源信
われだにもまづ極樂にうまなれば知るも知らぬも皆迎へてむ
天王寺の龜井の水を御覧じて
上東門院
濁りなき龜井の水をむすびあげて心の塵をすすぎつるかな
法華經二十八品の歌、人々によませ侍りけるに、提婆品のこころを
法成寺入道前攝政太政大臣
わたつ海の底より來つる程もなくこの身ながらに身をぞ極むる
勸持品のこころを
大納言齊信
數ならぬ命は何か惜しからむ法とくほどをしのぶばかりぞ
五月ばかりに、雲林院の菩提講に詣でてよみ侍りける
肥後
紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり
涅槃經讀み侍りける時、夢に「散る花に池の氷も解けぬなり花吹き散らす春の夜の空」と書きて人の見せ侍りければ、夢の中に返すと覺えける歌
谷川のなかれし淸く澄ぬれば隈なき月の影もうかびぬ
述懷歌の中に
前大僧正慈圓
願はくばしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法の燈火
說くみ法きくの白露夜はおきてつとめて消えむ事をしそ思ふ
極樂へまだわが心ゆきつかずひつじの歩みしばしとどまれ
觀心如月輪若在輕霧中の心を
權僧正公胤
わが心なほ晴れやらぬ秋霧にほのかに見ゆる有明の月
家に百首歌よみ侍りける時、十界のこころをよみ侍りけるに、緣覺のこころを
攝政太政大臣
奧山にひとりうき世は悟りにき常なき色を風にながめて
心經のこころをよめる
小侍従
色にのみ染めし心の悔しきをむ空しと說ける法のうれしさ
攝政太政大臣家百首歌に、十樂のこころをよみ侍りけるに、聖衆來迎樂
寂蓮法師
むらさきのくもぢに誘ふ琴の音にうき世をはらふ峯の松風
蓮花初開樂
これやこのうき世の外の春ならん花のとほそのあけぼのの空
快樂不退樂
春秋にかぎらぬ花にを置く露はおくれさきだつ恨みやはある
引攝結緣樂
立かへり苦しき海に置く網も深きえにこそ心引くらめ
法華經二十八品の歌よみ侍りけるに、方便品、唯有一乘法のこころを
前大僧正慈圓
いづくにもわが法ならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ
化城喩品、化作大城郭
思ふなようき世の中を出で果てて宿る奧にも宿はありけり
分別功德品、或住不退地
鷲の山今日聞く法の道ならでかへらぬ宿に行く人ぞなき
普門品、心念不空過
おしなべてむなしき空とおもひしに藤咲きぬれば紫の雲
水渚常不滿といふこころを
崇德院御歌
押しなべてうき身はさこそなるみ潟滿ち干る汐の變るのみかは
先照髙山
朝日さす峯のつづきはめぐめどもまだ霜深し谷のかげ草
家に百首歌よみ侍りける時、五智のこころを、妙觀察智
入道前關白太政大臣
底淸くこころの水を澄まさずばいかがさとりの蓮[※はちす]をも見む
觀持品
正三位經家
さらずとて幾世もあらじいざやさは法にかへつる命と思はむ
法師品、加刀杖瓦石、念佛故應忍のこころを
寂蓮法師
深き夜の窓うつ雨に音せぬはうき世をのきのしのぶなりけり
五百弟子品、内秘菩薩行のこころを
前大僧正慈圓
いにしへの鹿鳴く野邊のいほりにも心の月は曇らざりけり
人々勸めて法文百首歌よみ侍りけるに、二乘但空智、如螢火
寂然法師
道のべの螢ばかりをしるべにてひとりぞ出づる夕闇の空
菩薩淸凉月、遊於畢竟空
雲晴れてむなしき空に澄みながらうき世の中をめぐる月影
梅檀香風、悦可衆心
吹く風に花たちばなや匂ふらむ昔おぼゆる今日の庭かな
作是敎已、復至他國
闇深き木のもとごとに契り置きて朝立つ霧のあとの露けさ
此日已過、命卽衰滅
今日過ぎぬ命もしかとおどろかす入相の鐘の聲ぞかなしき
悲鳴呦咽、痛戀本群
素覺法師
草深き狩場の小野を立ち出でいて友まどはせる鹿ぞ鳴くなる
棄恩入無爲
寂然法師
背かずば何れの世にか廻り逢ひて思ひけりとも人に知られむ
合会有別離
源季廣
あひ見ても嶺にわかるる白雲のかかるこの世の厭はしきかな
聞名欲往生
寂然法師
音に聞く君がりいつかいきの松待つらむものを心づくしに
心懷戀慕、渇仰於佛
別れにしその面影のこひしき夢にも見えよ山の端の月
十戒の歌よみ侍りけるに、不殺生戒
わたつ海の深きに沈む漁りせで保つかひあるのりを求めよ
不偸盗戒
うき草のひと葉なりとも磯がくれおもひなかけそ沖つ白波
不邪婬戒
さらぬだに重きが上に小夜衣わが妻ならぬ妻な重ねそ
不酤酒戒
花のもと露のなさけはほどもあらじ醉ひな勸めそ春の山風
入道前關白家に、十如是歌よませ侍けるに、如是報
二條院讚岐
うきを猶むかしの故と思はずばいかにこの世を恨みはてまし
待賢門院中納言、人人にすすめて二十八品歌よませ侍りけるに、序品、廣度諸衆生、其數無有量のこころを
皇太后宮大夫俊成
わたすべき數もかぎらぬ橋柱いかにたてける誓なるらむ
美福門院に、極樂六時讚の繪に書かるべき歌奉るべきよし侍りけるに、よみ侍りける時に、大衆法を聞きて彌歡喜瞻仰せむ
今ぞこれ入日を見ても思ひこし彌陀のみくにの夕暮の空
曉に到りて浪の聲、金の岸に寄する程
いにしへの尾の上の鐘に似たるかな岸うつ浪のあかつきの聲
百首の歌の中に、毎日晨朝入諸定のこころを
式子内親王
しづかなる曉ごとに見わたせばまだ深き夜の夢ぞ悲しき
發心和歌集の歌、普門品、種種諸惡趣
選子内親王
逢ふ事をいづくにとてか契るべき憂き身の行かむ方を知らねば
五百弟子品の心を
僧都源信
玉かけし衣の裏をかへしてぞおろかなりけるこころをば知る
維摩經十喩中に、此身如夢といへるこころを
赤染衞門
夢や夢現や夢とわかぬかないかなる世にか覺めむとすらむ
二月十五日の暮方に、伊勢大輔がもとに遣はしける
相模
常よりも今日の煙のたよりにや西をはるかに思ひやるらむ
返し
伊勢大輔
今日はいとど淚にくれぬ西の山おもひ入日の影をながめて
西行法師を呼び侍りけるに、罷るべき由は申しながら參うで來で、月の明かりけるに門の前を通ると聞きて、よみて遣はしける
待賢門院堀河
西へ行くしるべとおもふ月影の空だのめこそかひなかりけれ
返し
西行法師
立ち入らで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけむ
人の身まかりにける後、結緣經供養しけるに、卽往安樂世界のこころをよめる
瞻西上人
昔見し月のひかりをしるべにて今宵や君が西へ行くらむ
觀心をよみ侍りける
西行法師
闇晴れて心のそらにすむ月は西の山邊や近くなるらむ
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