髙橋氏文 原文及び現代語訳。9。天皇、死せる磐鹿六獦に御言宣りし賜う。『政事要略』所引


■ 『政事要略』所引

第二章○伴信友云。此章は、政事要略[●一條天皇の御世の頃の人、明法博士惟宗朝臣允亮撰。]、第廿六卷、年中行事部、十一月中卯日、新嘗祭條に、髙橋氏文云とて載たるを採りて、書表すはせるなり。又、年中行事祕抄、十一月中辰日、豐明節會の條に、此章の文を、いたく折略[コトソ]ぎて記し、又、中原師光朝臣の年中行事にも、祕抄より引出たりと見えたる同文のあるをも、批挍て訂せり。


二十。六鴈命七十二年秋八月。受(レ)病同月薨也。

○六鴈の命、七十二年の秋八月、病を受けて、同じき月、薨[ミマカ]りき。

(註)

[七十二年]この七十二年は、景行天皇の御世の年數にはあらず。景行天皇は御世の六十年十月に崩坐[マ]せり。さて六鴈命の薨れる御世の年は知られねど、假に天皇の崩ませる前年に、七十二にて薨れりとして、推考るに、垂仁天皇の八十七年に生れ、景行天皇の五十二年、六十六の時、浮島の行宮にて、御膳の事に仕奉始め、同年五十九年八月に薨れるに當れり。


六鴈の命は御年七十二歳の秋八月に病を受けて

その同じ月に薨られた


二一。時天皇聞食而大悲給。准(二)親王式(一)而賜(レ)葬也。

○時に、天皇、聞こし食[メ]して、大[イタ]く悲しみ給ひ、親王[ミコ]の式[ノリ]に、准[ナゾラ]へて、葬[ハフリ]、賜ひき。

(註)

[天皇]天皇は、景行天皇の御事を申せるなり。

[親王]親王は當時の稱にはあらず。茲時の詔詞には、王子六獦命と書り。さて、親王と申す稱は、はるかに後の御世におよびて、制め給へる繼嗣令に、凡皇兄弟皇子皆爲(二)親王(一)。以外並[ソノホカハ]爲(二)諸王(一)。自(二)親王(一)五世雖(レ)得(二)王名(一)不(レ)在(二)皇親之限(一)。と見えて、こは、漢國の隋唐の制に據り給へるなるべし。こゝに、准(二)親王式(一)と書るは、皇子の式に准へ給へる由を、後の稱をもて記せるなり。親王は美古とよみてあるべし。

[賜葬也]賜葬は、皇子に准へて、葬物[ハフリモノ]を賜ひたる由なるべし。(中略)また、按ふに、賜(レ)葬とは、葬の事よろづを、皇子に准へて、公より賄ひ給ひたるにても有べし。


時に

天皇は聞こし召して大に痛み悲しみ給て

親王の葬祭に准へて

六鴈の命を葬り賜うた


二二。於是宣命使遣(二)藤河別命。武男心命等(一)宣(レ)命云。

○こゝに、宣命使[センミヤウシ]、藤河別[フジカハワケ]の命・武男心[タケシヲゴコロ]の命等を遣はして、命[ミコト]ヲ宣[ノ]りて云はく。

(註)

[宣命使]宣命とは、勅命を宣[ノ]るとしにて、宣[ノ]るとは、勅命を受傳へて、人に宣聞[ノリキカ]するをいふ目なり。その御使を奉りて、罷向ふ人を宣命使といふ。(中略)但し、宣命使といふは、後のことにて、此氏文、記せる當時の稱なり。上古は美古登乃里豆加比[ミコトノリツカヒ]などいひたりけむ。

[藤河別命]他書どもに、見あたらず、但し、別命と稱[イ]ふにつきて、此天皇の皇子たらむかと、おもはるゝ由あり。(下略)

[武男心命]景光紀に、三年春二月庚寅朔。卜(下)幸(二)于紀伊國(一)將(上レ)祭(二)祀群神祇(一)。而不(レ)吉。乃車駕止之。遣(二)屋主忍男武雄心[ヤヌシオシヲタケシヲゴコロ]ノ命(一)[●一云(二)武猪心(一)。]令(レ)祭云々。仍住九年。と見えたり。(下略)

さて、此宣命使は、六鴈命の殯所[アガリドコロ]に罷向ひて、勅命を宣しめ給ひたるなるべし。


茲に

宣命使、藤河別の命竝び武男心の命等を遣はし賜うて御事宣りて

云はく


二三。天皇[加]大御言[良麻止]宣[波久]。王子六獦命。不思[保佐佐流]外[爾]卒上[太利止]聞食[迷之]。夜昼[爾]悲愁給[比川]大坐[須]。

○天皇[スメラ]が、大御言[オホミコト]らまと宣[ノ]り給はく、王子[ミコ]六獦の命、思ほさざる外[ホカ]に、卒[ミマカ]り上[アガ]りたりと聞[キコ]し食[メ]し、夜晝[ヨルヒル]に、悲愁[カナシ]み給ひつゝ。大坐[オホマシ]ます。

(註)

これより、いはゆる宣命にて、すなはち六獦命の魂に宣る詔詞なり。そも〱、上代の詔詞は、古事記・書紀にも、しるされたる事なく、續紀に、持統天皇の、十一年八月の詔詞ぞ、始て載られたる。それより、あなたなるは、いづれの書にも、さらに見えたることなきを、いま此氏文に見えたるは、景行天皇の詔詞にて、いまだ漢ざまなる事の、つゆまじこりなく、文字なき頃の御世のなれば、いとも〱、めでたくたふとし。すべて古言の聯ねたるものにては、歌は長きも短きも、また祝詞[ノリト]・古詞[コゴト]・語詞[カタリゴト]などは、神世なるを始にて、その上代の詞のまゝに、傳はれるもあれど、詔詞の傳はれるは、たゞおれひとつのみぞ在[ア]りける。さて、此詔詞の趣は、誄詞[シスビゴト]にあたりて、續紀に、寶龜二年二月己酉、左大臣藤原永手公、薨給ひし時、文室大市・石川豐成を遣して、弔葬[※左字貝ニ專]之曰、とて載られたる詔詞の狀、これに似たり。よみ合せ見て、此詔詞の殊に古ざまなる趣を、よくあぢはひ悟るべきものぞ。

[王子]王子は、美子[ミコ]とよむべし。(下略)

[卒上]卒上は、美麻加利安我利[ミマカリアガリ]とよむべし。魂神[タマ]は軀[カラ]を離遊[アクガ]れて、天に揚り、顯世[ウツシヨ]にも往來[カヨ]ふ由にて、言繼[イヒツギ]來れる、古語とぞきこえたる。


——今、貴方に申し傳える。天皇[スメラミコト]が大御言らまと宣り給はく

皇子なる六獦の命よ

想いもし無かった叓に、貴方が逝って仕舞ったと聞き賜い

朕は夜と晝とに悲しみ愁ひ給うて在らせられる


二四。天皇[乃]御世[乃]間[波]。平[爾之天]相見[曾奈波佐牟止] 思[保須]間[爾]別[由介利]。

○天皇[スメラ]の、御世[ミヨ]の間[アヒダ]は平[タヒラカ]にして、相見そなはさむと、思[オモ]ほす間[アヒダ]に、別[ワカ]れゆけり。

(註)

[天皇[乃]御世]式の祝詞、そのほか詔詞どもにも、天皇[我]朝廷、天皇[我]御命など、みな天皇[我]云々と見えたるに、此にも、下にも、天皇[乃]と詔へるは、希[メヅ]らし。(下略)

[平[爾之天]]平[爾之天]はタヒラカニシテとよむべし。病などのこと、あらしめずして、の詔給[ノリタマ]へるにて、老人を勞[イトホシ]み給へる、懇切[ネモゴロ]なる御言なり。

[曾奈波佐牟止]一本、會の下に胡字あり。決[ウツナ]く衍字なり。(下略)


天皇の御世の在らせられる時は

ひたすらに平らかで在って、相まみえんと思うておられた間に意外にも

お前は別れて行って仕舞ったのだった


二五。然今思食[須]所[波]。 十一月[乃]新嘗[乃]祭[毛]膳職[乃]御膳[乃]事[毛]。 六鴈命[乃]勞始成[流]所[奈利]。 是以六鴈命[乃]御魂[乎]膳職[爾]伊波比奉[天]。 春秋[乃]永世[乃]神財[止]仕奉[志迷牟]。

○然[シカ]あれば、今、思ほしめす所は、十一月[シモツキ]の、新嘗[ニヒナヘ]の祭も、膳職[カシハデツカサ]の御膳[ミケ]の事も、六鴈の命の、勞[イタツ]き始め成せる所なり。是[ココ]を以[モ]て、六鴈の命の御魂[ミタマ]を、膳職[カシハデツカサ]に、いはひ奉[マツ]りて、春秋[ハルアキ]の、永き世の神財[カムダカラ]と、仕へ奉[マツ]らしめむ。

(註)

[新嘗[乃]祭]祕抄に、新嘗祭を、新嘗會と作るは、後の稱にて、當昔の言ざまにあらず。さかしらに、書改たるものなり。

[膳職]また、膳職を、こゝなるも[第一行]、下なる[第二行]も、ともに、大膳職と作[カケ]り。大膳・内膳と、二職を別置れたるは、是より後の御世の令制にて、當昔は、ただ、膳職とて在しなるべきを、大字を加へたるは、これもさかしらなり。(下略)

[伊波比奉[天]]奉の下の天字、政事要略脱たり。祕抄に依りて補ふ。

[春秋[乃]永世[乃]]この詞調、宜く唱むべし。無窮御世と云はむがごとき意の古語にて、いひしらず、優に、美き祝辭なり。


然あれば

今思い出せれ賜う叓は十一月の新嘗の祭も膳職の御饌の事も

六鴈の命の勞を以て始め成せる叓で在った記憶で在る。是を以て

六鴈の命の御魂を膳職に祝い祀りて、永久[トコシエ]に

繰り返す春の秋の永き世の神の財とに仕へ奉らしめようと想い賜う


二六。子孫等[乎波] 長世[乃]膳職[乃]長[止毛] 上總國[乃]長[止毛] 淡國[乃]長[止毛]定[天]。 餘氏[波]萬介太麻波[天] 乎佐女太麻[波牟]。 若[之]膳臣等[乃]不(二)繼在(一)。 朕[加]王子等[乎之天]。 他氏[乃]人等[乎] 相交[天波]亂[良之女之]。 

○子孫等[ウミノコラ]をば、長き世の、膳職[カシハデツカサ]の長[ヲサ]とも、上[カミ]ッ總[フサ]の國の長とも、淡[安房]の國の長とも定めて、餘[ホカ]の氏[ウヂ]は、任[マ]け賜はで、治め賜はむ。若し、膳[カシハデ]の臣[オミ]等[タチ]の、繼嗣[ツギ]、あらざらんには、朕[ア]が王子等[ミコタチ]をして、他[ホカ]の氏の人等[ヒトドモ]を、相交[アヒマジ]へては、亂らしめじ。

(註)

[長世[乃]膳職[乃]]政事要略に、長世遠世[乃]膳職[乃]とあり。

[淡國]一本に、淡を淡路と作るは、つきなし。後人、路字の脱たるならむとおもひて、さかしらに加へたるなるべき事、決ければとらず。

[定[天]]此ところの文の中、定字、要略一本に、從と作るは、決て訛なるべければとらず。/又、其定の下の天字、二本とも無きは、脱たるなり。(下略)

[餘氏[波]萬介太麻波[天]]この餘氏[波]の下に、連續ける六字の假字、二本、互に誤寫あるを、其異同を選びて、且字を萬として、佐字を太とし、子字を波天と二字に、書るをとりて、餘氏[波]萬介太麻波[天]と訂して書るなり。/萬介太麻波[天]は、任[マケ]賜はずしてなり。萬介[マケ]は、京[ミヤコ]より、他國の官に、令(レ)罷[マカラスル]意にて、卽まからせを約めて、任[マケ]と云ふなり。


その子孫等をば

永き世の膳職の長と、上ッ總の國の長と、淡[安房]の國の長とも定めて

外の氏は、任じられ賜はないで治める叓を、お前は賜はる。若し

お前に、膳の臣等の繼嗣が無かった時には我が皇子等をして

叓に當たらしめ賜い、決して

他の氏の人等を相交へて亂れさし給う叓は爲されないであろう


二七。和加佐[乃]國[波]。 六鴈命[爾]。 永[久]子孫等[可]。 遠世[乃]國家[止]爲[止]定[天]授[介]賜[天支]。 此事[波]世世[爾之]過[利]違[傍志]。

此の志を知りたびて、よく膳職の内も外も護り守りたびて、家(みや)の患ひの事等もなく在らしめ給ひたべとなむ

○若狹の國は、六鴈の命に、永く、子孫等[ウミノコラ]が、遠き世の、國家[クニイヘ]と爲[セ]よと定めて、授け賜ひてき。此の事は、世々にし、過り違へじ。

(註)

[和加佐[乃]國[波]。]一本、和字、脱たり。/和加佐國は、若狹國なり。

[國家[止]爲[止]定[天]授[介]賜[天支]](前略)さて、六雁命の子孫の、相續て、若狹國を領きたりしと、聞えたる事の證は、書紀、履中卷[三年冬十一月丙寅朔辛未]に、天皇泛(二)兩‐枝[フタマタ]船于磐余市‐磯[イチシ]ノ池(一)。與(二)皇妃(一)各分乘而遊宴。膳臣余‐磯[アレシ]獻(レ)酒時。櫻花落(二)于御盞(一)。天皇異(レ)之。則召(二)物部長眞膽連(一)。詔之曰。是花也非‐時[トキジクニ]而來。其何處之花矣。汝自可(レ)求。於是長眞膽連。獨尋(レ)花。獲(二)于掖‐上‐室[ワキガミノムロ]山(一)而獻之。天皇歡(二)其‐希[ソレメヅラシ]ト有(一)。卽爲(二)宮名(一)。故謂(二)磐余稚櫻宮(一)。其此之緣也。是日改(二)長眞膽連本姓(一)曰(二)稚櫻部造(一)。又號(二)膳臣余‐磯[アレシ](一)。曰(二)稚櫻部臣(一)。(中略)と見えたり。この余磯[アレシ]といへるは、國造本紀に、若狹國造。遠飛鳥朝御代(允恭)。膳臣祖。佐白米命兒荒礪[アレシ]命。定(二)賜國造(一)。と見えたる、荒礪[アレシ]命これにて、六雁命の後なるべきこと決[ウツナ]く、允恭天皇[※第19代]の御世におよびて、更めて國造と稱ふに定賜ひたりしなり。

[世世[爾之]]後の御世御世に至りてもなり。之[シ]は助辭にて、世世[爾][ヨヨ]といふに、深く意を入たる、あぢはひありてきこゆ。

[過[利]違[傍志]]この詞、連らねよみて、意得べし。大自[オホミヅカラ]、誓[ウケ]ひ給へる如き意の御詞なり。


——若狹の國は

六鴈の命に永くその子孫等が遠き世々に到る迄

躬らの國家と爲せよと定め賜うて授け賜うたもので在る。此の事は

世々をかさねて時經ても違うことは無い


二八。此志[乎]知[太比天]。 吉[久]膳職[乃]内[毛]外[毛]護守[利太比天]。 家患[乃]事等[毛]无[久] 在[志女]給[太戶度奈毛] 思食[止]宣[太麻不]。 天皇[乃]大御命[良麻乎] 虛[川]御魂[毛]聞[太戶止]申[止]宣[太麻不]。

○此の志[ココロザシ]を知り賜[タ]びて、よく膳職[カシハデツカサ]の、内[ウチ]も外[ソト]も、護守[マモ]り賜[タ]びて、家[ミヤ]の患[ウレヒ]の事どももなく、あらしめ給ヘ賜[タ]べとなも、思[オボ]し食[メ]すと宣[ノ]り給ふ、天皇の、大御命[ミコト]らまを、虛[ソラ]つ御魂も聞き賜[タ]べと、申すと、宣り給ふ。

(註)

[膳職[乃]内[毛]外[毛]護守[利太比天]]膳職の、内外[ウチト]を守護りたまへ、となり。

[護守[利太比天]]護の下、一本、利字あり。又、一本、比を天と作り。共に誤なり。

[家患[乃]事等[毛]无[久]]家患、字、よみがたし。誤字あるべし。强て考るに、家は、官の訛ならむか。又、宮も、すなはち御家[ミヤ]なれば、家と書て、美也とよみもすれば、しばらく、美也とよみてあるべし。

[家患[乃]]一本、家忠と作たれど、忠は誤寫なるべき事著ければ、論[イ]ふまでもあらず。

[在[志女]給[太戶度奈毛]]給は、彼方に係たる崇辭[アガメ]。太戶[タベ]は、賜[タ]べにて、此方に受て、賜はらむと云へる、言づかひなり。

[虛[川]]川字、一本、脱たり。

[聞[太戶止]]聞[太戶止]の太戶を、一本、奈の一字に作なせるは誤なり。


——此の志を知り賜て、よく膳職の内も外も護守り賜て

宮の患ひの事どもも無く在らしめられ賜へと願い、お思いに爲られ賜うので在る

…と

今茲に御言宣り給う天皇の大御言靈を虛つ天空の淸らなる御魂も聞き賜へ

…と

斯く天皇は申すので在る

…と

御帝は斯く御言宣り給うた



第三章

○伴信友云。

此の章も、本朝月令、六月十一日、神今食祭事の下に、髙橋氏文云とて載たり。此は第二章に論へるごとく、延曆十一年に、素より在來れる氏文に畫副たるものなり。


二九。太政官符(二)神祇官(一)。 定(下)高橋安曇二氏。 供(二)奉神事御膳(一)行立先後(上)事。

(註)

祕抄、六月、神今食事の下に、此氏文を引て、太政官符云、定(下)髙橋・安曇二氏供奉神事御膳行立先後(上)事と、この題目十八字を載たり。


三〇。右被(二)右大臣宣(一)偁。 奉(レ)勅。 如(レ)聞先代所(レ)行神事之日。 高橋朝臣等立(レ)前供奉。 安曇宿禰等更無(レ)所(レ)爭。 但至飯髙天皇御世(一)。 靈龜二年十二月神今食之日。 奉膳從五位下安曇宿禰刀。 語(二)典膳從七位上高橋朝臣乎具須比(一)曰。 刀者官長年老。 請(二)立(レ)前供奉(一)。

(註)

飯髙天皇は、御諡、元正天皇。[※第44代。神巧含ズ。]


三一。此時乎具須比答云。 神事之日。 供(二)奉御膳(一)者。 膳臣等之職。 非(二)他氏之事(一)。 而刀猶强論。 乎具須比不(レ)肯。 如(レ)此相論聞(二)於内裏(一)。 有(二)勅判(一)。 累世神事不(レ)可(二)更改(一)。 宜(二)依(レ)例行(一レ)之。 自(レ)爾以來无(レ)有(二)爭論(一)。


三二。至(二)干寶龜六年六月神今食之日(一)。 安曇宿禰廣吉强進前立。 與(二)高橋波麻呂(一)相爭。 挽(二)却廣吉(一)。 事畢之後所司科(レ)祓。 干時波麻呂固辭。 無(レ)罪何共爲(レ)祓。 是言上聞更有(二)勅判(一)。 上中之祓科(二)廣吉(一)訖。


三三。其後廣吉等妄想以(二)偽辭(一)加(二)附氏記(一)。 以(レ)此申聞。 自得(レ)爲(レ)先。 因(レ)茲髙橋朝臣等雖(レ)不(二)敢被(一レ)訴。 而憂憤之狀稍有(二)顯出(一)。


三四。去延曆八年爲(レ)有(二)私事(一)各進(二)記文(一)。 卽喚(二)二氏(一)勘(二)問事由(一)。 兼捜(二)撿日本紀及二氏私記(一)。 及〔乃〕知(二)髙橋氏之可(一レ)先。 而事經(二)先朝(一)。 不(レ)忍(二)卒改(一)。 思欲(レ)令(下)一先一後彼此無(上レ)憂。 雖(レ)未(レ)勅(二)所司(一)。 而每(レ)臨(二)祭事(一)。 宜知(二)二氏(一)遞令(二)先後(一)。

(註)

[先朝]先朝は、光仁天皇の御世。[※第43代。神巧含ズ。]


三五。而今内膳司奉膳正六位上安曇宿禰繼成。 去年六月。 十一月。 十二月三度神事。 頻爭在(レ)前。 猶不(レ)肯進。 仍勅(下)應(レ)遞(二)先後(一)之狀(上)。 此來頻已告訖。 宜(下)此度佐(レ)次令(中)髙橋先(上)。 而繼成不(レ)奉(二)宜勅(一)。 直出而退。 竟不(二)仕〔供〕奉(一)。 爲(レ)臣之理豈如(レ)此乎。 宜(下)稽(二)故事(一)以定(二)其次(一)。 兼論(二)所犯(一)。 准法科斷(上)者。


三六。謹案(二)日本紀(一)。 巻向日代宮御宇大足彥忍代別天皇五十三年。 巡(二)狩東國(一)。 渡(二)淡門(一)是時聞(二)覺駕鳥之聲(一)。 欲(レ)見(二)其形(一)。 尋(レ)之出(二)海中(一)。 仍得(二)白蛤(一)。 於(レ)是膳臣遠祖。 名磐鹿六鴈[●髙橋祖也]以(レ)蒲爲(二)手襁(一)。 白蛤爲(レ)膾而進(レ)之。 故美(二)六鴈臣(一)。而賜(二)膳大伴部(一)。 撿(二)其家記(一)略同。 於(レ)此是髙橋氏預(二)奉御膳(一)之由也。


三七。及(二)輕島明宮御宇譽田天皇三年(一)。 處々海人岨(二)呃之(一)不(レ)從(レ)命。 乃遣(二)安曇連祖大濱宿禰(一)平之日爲(二)海人之宰(一)。 是安曇氏預(二)奉御膳(一)之由也。

(註)

[譽田天皇]譽田天皇は、御諡、應神天皇。[※第15代。攝政女帝神巧含バ第16代]

[處々海人岨(二)呃之(一)不(レ)從(レ)命云々]書紀、應神卷[三年冬十一月]に、處々海人訕(二)呃之(一)不(レ)從(レ)命。[●訕呃。此云(二)佐‐麼‐賣‐玖[サバメク](一)。]則遣(二)阿曇連祖大濱宿禰(一)。平(二)其訕呃(一)。因爲(二)海人之宰(一)。と見えたるのみにて、御膳の事に與るべき、由緒[コトノモト]は見えず。古書どもにも、見えたることなし。此氏は海神の子孫[ノチ]なるから、固より海人の事に與れるによりて、其岨呃を平げしめ給ひ、さらには宰[ミコトモチ]と爲給ひたりしなるべし。海人は、魚を捕りて御饌の料に奉るものなれば、其を掌れる由緣によりてなるべし。(下略)


三八。又安曇宿禰等欵云。 御間城入彥五十瓊殖天皇御世。 己等僕祖。 大栲成吹。 始奉(二)御膳(一)者。 仍撿(二)其私記文(一)。 追注行下筆迹殊拙。 不(レ)庶(レ)字姧詐之端於(レ)是見矣。

(註)

[御間城入彥五十瓊殖天皇]御諡は、崇神天皇。[※第10代。]


三九。然則考(二)之國史(一)求(二)之家記(一)。 磐鹿六鴈委(二)質於前(一)。 大濱宿禰策(二)名於後(一)。 時經(二)五代(一)。 「歳」逾(二)二百(一)。 相去懸遠。 更无(レ)可(レ)疑(二)先後之次(一)。 事已灼然。 理須(下)以(二)髙橋(一)爲(レ)先。 安曇在(上レ)後。

(註)

[考之國史]考(二)之國史(一)は、上に、謹案(二)日本紀(一)云々。

[求之家記]書記とは(中略)この氏文の事にて、その名目を換たるは文飾なり。

[時經五代「歳」逾二百]時經(二)五代(一)。とは、景行天皇より、應神天皇までの、五代を經といへるなり。歳逾(二)二百(一)。とは、五代の御世、二百三十九歳なるを、大數をもて作る文なり。

[五代]五代の下、二本とも、一字空たり。かならず、歳字、在るべきところなり。はやくより、蠧食などせる限を餘せるものなるべし。今さらに補ふ。又、二百を一本に、三百と作るは訛なり。


四十。又繼成固執偽(レ)記。 臨(レ)事爭(レ)先恣(レ)意遁去。 遂不(二)供奉(一)。 不(レ)承(二)詔命(一)。 無(二)人臣禮(一)。 此而不(レ)正何以懲(レ)後。 仍案(二)職制律(一)云。 對(二)悍詔使(一)而無(二)人臣之禮(一)者絞。 名例律云。 對(二)悍詔使(一)而无(二)人臣之禮(一)者爲(二)大不敬(一)。 又云。 犯(二)八虐(一)獄成者除名者。 今繼成所(レ)犯准(レ)犯。 依(レ)津處(二)絞刑(一)令(二)除名(一)。 謹具(レ)狀奏聞者。 奉(レ)勅。 宜(下)宥(二)其死(一)以處(中)遠流(上)。 自餘依(レ)奏者。 官宜(下)承知以爲(中)永例(上)。 符到奉行。 延曆十一年三月十八日

(註)

[延曆十一年三月十八日]第一章加書の尾に、延曆十一年と記せるは、此勅判の年にて、其時、此官符を、寫副たるものなるべき事、彼處に云へるがごとし。さて、此時の事は、類聚國史に、延曆十一年。三月壬申。流(二)内膳奉膳正六位上安曇宿禰繼成於佐渡國(一)。初安曇髙橋二氏。常爭(下)供(二)奉神事(一)行立前後(上)。是以去年十一月新嘗之日。有(レ)勅以(二)髙橋氏(一)爲(レ)前。而繼成不(レ)遵(二)詔旨(一)。背(レ)職出去。憲司請(レ)誅(レ)之。特有(二)恩旨(一)。以滅(レ)死。と見えたり。(中略)但し、いま、要略の本どもに、三月十九日と作たれど、類聚國史に、三月壬申とあるを、通曆をもて、推考るに、壬申は十八日なり。然れば、九は八の訛なる事著るければ、いま訂して書り。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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