髙橋氏文 原文及び現代語訳。8。天皇、磐鹿六獦に御言宣りし賜う。髙橋氏分本朝月令分之二
十。此時勅[久]。誰造進物問給。爾時大后奏。此者磐鹿六獦命所(レ)獻之物也。卽歡給[比]。譽賜[天]勅[久]。此者磐鹿六獦命獨[我](心)[●(耳)波]非矣。斯天坐神[乃]行賜[●倍留]物也。大倭國者以(二)行事(一)負(レ)名國[奈利]。磐鹿六獦命[波]。朕[我]王子等[爾]。阿禮子孫[乃]八十連屬[爾]。遠[久]長[久]天皇[我]天津御食[乎]齋忌取持[天]仕奉[止]負賜[天]。則若湯坐連始祖。物部意富賣布連[乃]佩大刀[乎]。令(二)脱置(一)[天]副賜[支]。
○この時、勅[ノ]り給ひけらく、誰[タレ]しが造りて、進物[タテマツルモノ]ぞと、問[ト]はせ給ふ。この時、大后[オホキサキ]、奏[マヲ]し給はく、此者[コハ]、磐鹿[イワカ※儘]六獦[ムツカリ]の命が、獻[タテマツ]れる所の物なり、と申し給ひければ、卽ち、歡び給ひ、譽[ホ]め賜ひて、勅[ノ]り給ひけらく、此者[コハ]、磐鹿六獦の命、獨[ヒトリ]が心にはあらず。斯[コ]は、天[アメ]に坐[マ]す神の、行ひ賜へる物なり。大倭[オホヤマト]の國は、行事[オコナフワザ]を以[モ]て、名を負[オモ]する國なり。磐鹿六獦の命は、朕[ア]が王子[ミコ]等[タチ]に、生[ア]れ子孫[ミコ]の、八十連屬[ヤソツヅキ]に、遠く、長く、天皇[スメラ]が、天津御食[アマツミケ]を、齋[イハ]ひ、忌[ユマハ]り、取り持[モ]ちて、仕へ奉れと、負[オホ]せ賜ひて、則ち、若湯坐[ワカユエ]の連等[ムラジラ]が、始祖[モトツヤオ]、物部の意富賣布[オホメフ]の連の、佩[ハ]きたる大刀[タチ]を、脱[ト]き置[オ]かせて、副[ソ]へ賜ひき。
(註)
[六獦命獨[我]]我字の下、字缺て、一二字ばかり、空[アケ]たり。本書蠧食など、在りしなるべし。(中略)心耳の二字の、脱たるなるべき事、著ければ、(中略)訂正せり。
[大倭國者以行事負名國[奈利]](前略)行ふとは、事を擬[マガ]ひ、掟[オキツ]るをいふ。皇大御國は、その行ふ職業をもて、名に負する國なりとなり。さて、その名といふ由は、鈴屋大人[※宣長]の說[記傳三十七之卷]に、上代に名といふは、≪もと、其人のある狀を贊稱[ホメタタへ]て、負[ツ]けたるものにて、名を呼[イフ]は尊みなり。さて、古は(中略)其職業[ワザ]すなはち、其家の名なる故に、卽ち、その職業[ワザ]を指[サシ]ても、名と云り。(下略)≫云々。
天皇、この時御事宣り給て曰く
——誰が造って進物したものか
…と
問れて大后は奏し給て曰く
——此の者、磐鹿の六獦の命が獻上した所の物で御座います
…と
卽ち、天皇は歡び給て譽め賜ひ、御事宣り給て曰く
——其處の者、磐鹿の六獦の命。是は獨りお前の心映えの御業にはあらず。是は
天に坐し坐す御神の行ひ賜うた物で在る。此の大倭の國は
躬の行う業を以て躬に名を負せる國で在る。磐鹿の六獦の命は
我が皇子等に、又は
生れます子孫等の未生の八十續きに到る迄も遠く
永く天皇[スメラミコト]等の天つ御饌を
齋ひ忌り浄め取り持って仕へ奉れ
斯く仰せ賜ひて、則ち若湯坐[ワカユエ]の連等の始祖なる
物部の意富賣布の連の佩きたる大刀を、脱ぎ置かせ賜うて六獦の命に與へ賜うた
十一。又此行事者。大伴立雙[天]應(二)仕奉(一)物[止]在[止]勅[天]。日竪日横。陰面背面[乃]諸國人[乎]割移[天]。大伴部[止]號[天]賜(二)磐鹿六獦命(一)。
○又、この行事[オコナフワザ]は、大伴[オホトモ]、立雙[タチナラ]びて、仕へ奉[マツ]るべき物と在[ア]れ、と勅りたまひて、日の竪[タツ]、日の横し、陰面[カゲトモ]・背面[ソトモ]の、諸國人[クニクニヒト]を、割[ワカ]ち移して、大伴部[ベ]と、號[ナ]づけて、磐鹿[イハガ]六獦[ムカリ]の命に、賜ひき。
(註)
[此行事](前略)すなはち、膳夫の行ふ、職業なり。
[大伴立雙[天]云々](前略)膳夫の、多くの伴を率て、仕奉るべき者と爲りて在れ、と勅へるなり。(下略)
[日竪日横陰面背面](前略)日竪・日横・陰面・背面は、東西南北の、四面の名を、おほらかに、稱[ノ]べる古語なり。(中略)さて、また、此詔詞に、日竪日横陰面背面[乃]諸國人[乎]と詔へるは、天下の諸國の人をと詔へる義にて、いとめでたき古文なり。
[割移[天]大伴部[止]號[天]賜(二)磐鹿六獦命(一)](前略)その諸國の人を選び、割徙[ワカチウツ]して、膳夫[カシワデ]とし、其部を大伴部と號[ナヅケ]て、六獦命に賜ひて、その宰[ミコトモチ]と爲給へるなり。
(前略)髙橋氏を賜ひし事、此氏文にくはしく記したりけむを、今全文傳はらざるはくちをし。なほ考ふべし。
又、帝は続けて仰せ賜う
——この業は諸々の者等を率い束ねて仕へ奉る可きもので在る
…と
斯く御事宣り賜て、日の竪、日の横し、陰面、背面、——卽ち
全國諸々の國人を撰び出さしめ賜ひ大伴部と號附け賜て磐鹿の六獦の命に賜うた
十二。又諸氏人。東方諸國造十二氏[乃]枕子。各一人令進[天]。平次比例給[天]依賜[支]。
○又、諸[モロモロ]の氏人[ウヂヒト]、東の方[カタ]の、諸國[クニグニ]の造[ミヤツコ]、十二氏[トヲアマリフタツウヂ]の枕子[マクラコ]、各[オノオノ]、一人づゝ進[タテマツ]らせて、平次[ヒラスキ]比例[ヒレ]、給ひて、依[ヨ]さし賜ひき。
(註)
[東方諸國造十二氏]此十二氏を、群書類從本には、十七氏とあり。誤字なり。今一本に依れり。(下略)
[枕子](前略)生れて、床上に、枕がせ置[オク]ほどの、赤子なるべし。(下略)
[平次比例給[天]](前略。奉った御饌の)あるが中に、平次[ヒラスキ]をしも、賜へるは、かの白蛤膾をば、平次[ヒラスキ]に盛たるべきを、其を、殊に賞給ひてなるべし。比例[ヒレ]は、和名抄に、楊氏漢語抄云。領巾。婦人頂上飾也。日本紀私記云。比禮。とみえたる、これなり。
又、諸々の氏人、東の方、及び諸國の造、十二氏の幼子を
各々それぞれに一人づゝ奉らせて、併せて平次、比禮を賜うて任せ賜うた
十三。山野海河者。多爾久久[乃]佐和多流[岐美]。加幣良[乃]加用布[岐波美]。波多[乃]廣物。波多[乃]狭物。毛[乃]荒物。毛[乃]和物。供御雜物等兼攝取持[天]。仕奉[止]依賜。
○山野[ヤマヌ]・海河[ウミカハ]なるものは多爾久久[タニグク]の、佐和多流[サワタル]きはみ、加幣良[カヘラ]の加用布[カヨフ]きはみ、波多[ハタ]の廣物[ヒロモノ]・波多[ハタ]の狹物[サモノ]、毛の荒物[アラモノ]・毛の和物[ニゴモノ]、雜[クサグサ]の物等[ドモ]を、供御[ソナ]へ、兼攝[フサ]ね、取り持ちて、仕へ奉[マ]つると、依[ヨ]さし賜[タマ]ふ。
(註)
[多爾久久](前略)多爾久久[タニグク]は蟾蜍[ヒキガへル]の古語なり。(下略)
[佐和多流[岐美]](前略)さて、佐和多流の佐は、助辭にて、この物、野山の果まで、靈異[アヤシ]く、行渡るものなれば、古語は例言[ツネコト]に、しか云熟[ナシ]たるものとぞ、きこえたる。(下略)
[加幣良[乃]加用布[岐波美]。]加幣良[カヘラ]は、加伊閇良[カイへラ]にて、船の櫂[カイ]なるを、上古には、閇良[へラ]といふ言を、加へても云ひ、又、加伊[カイ]の伊を略きて、加幣良[カヘラ]とも、云ひしなるべし。(中略)さて、その閇良[へラ]は、平[ヒラ]の義なるべし。
[波多[乃]廣物波多[乃]狭物毛[乃]荒物毛[乃]和物][※波多[ハタ]ハ鰭[ヒレ]]鰭[ハタ]廣物・鰭狹物は、諸魚の大きなる、小さきを云ひ、毛荒物・毛和物は、諸獸をいへる古文にて、書紀、神代卷にも見え、道饗祭祝詞に、山野[爾]住物者。毛[能]和物。毛[能]荒物。青海原[爾]住物者。鰭[乃]廣物。鰭[乃]狭物。奧津海菜。邊津海菜[爾]。至萬[弖爾]云々。(中略)なども見えたり。
又
——山野、及び海河のものは多爾久久[蟾蜍]の
飛び渡る果て迄の極みを、加伊閇良[カイへラ]の漕ぎ營む限りの極みを
波多の廣物、波多の狹物、毛の荒物、毛の和物、くさぐさの物どもを
供犠[ソナ]へ御饌供物に附して取り持ちて、仕へ奉つれ
…と、御言寄さし賜うた
十四。如是依賜事[波]。朕[我]獨心[耳]非矣。是天坐神[乃]命[叙]。朕[我]王子磐鹿六獦命。諸友諸人等[乎]催率[天]。慎勤仕奉[止]。仰賜誓賜[天]依賜[岐]。
○かく依[ヨ]さし賜[タマ]ふ事は、朕[ア]が獨[ヒト]りの心に非ず。是[コ]は、天に坐[マ]す、神の命[ミコト]ぞ。朕が王子[ミコ]、磐鹿六獦の命、諸伴諸人[モロトモモロビト]等を、催し率ゐて、愼[ツツ]しまり、勤[イソ]しみ〔愼[ツツ]しみ、勤[イソ]しみて(イ)〕、仕へ奉[マツ]れと、仰せ賜ひ、誓[ウケ]ひ賜ひて、依[ヨ]さし賜ひき。
(註)
[朕[我]王子磐鹿六獦命]此の主、孝元天皇の皇子、大毘古命の孫なれば、後の世に、いはゆる、三世王に當れり。故、親愛みて、朕王子[アガミコ]としも、詔へるなり。[※孝元天皇ハ第8代。]
[諸友諸人等[乎]催率[天]]諸友・諸人は、膳夫の、諸の伴部等を詔へるにて、古言の文[アヤ]なるべし。
[仰賜誓賜[天]依賜[岐]](前略)誓は、ウケヒとよむべし。神代紀に、誓約之中。此云(二)宇氣譬能美難箇[ウケヒノミナカ](一)。この宇氣譬といふは、何にまれ、事ある時、しか〲と、眞心に決めて其を違へじと堅むるを云ふ言にて、人と互[カタミ]に爲るうへにも、此方ばかり爲るにも云ひ、其ほか、事のさまによりては、又異なるがごとき、こゆるもあれど、いひもてゆけば、同意に歸[オツ]るなり。此なるは、天皇、六獦命に、上のくだりの事どもを命せ給ひ、大御自誓ひて、任し給へるなり。
又、
——お前に斯くの如く言依さし賜ふ事は我が
獨りの心の爲す業には非ず。是は
天に坐し坐す御神の命の言寄さしめたもので在る。我が王子
磐鹿の六獦の命よ。諸伴諸人等を、指揮し率いて愼しまり
勤しみて仕へ奉れ
…と
天皇は仰せ賜うて誓約ひ賜うて、御言宣りし賜うたので在る
十五。是時上總國安房大神[乎]。御食都神[止]坐奉[天]。爲(二)若湯坐連等始祖意富賣布連子豐日連[乎](一)。令(二)火鑽(一)[天]。此[乎]忌火[止]爲[天]。伊波比由麻麻閇[天]供(二)御食(一)。並大八洲[爾]像[天]。八[乎]止古八[乎]止咩定[天]。神嘗大嘗等[仁]仕奉始[支]。[●但云(二)安房大神(一)爲(二)御食津神(一)者。今大膳職祭神也。今令(レ)鑽(二)忌火(一)大伴造者。物部豐日連之後也。]
○この時、上總[カミツフサ]の國の、安房の大神を、御食都神[ミケツカミ]と、坐[マ]せ奉りて、若湯坐[ワカユエ]の連等が始祖[モトツオヤ]、意富賣布[オホメフ]の連の子[ミコ]、豐日[トヨヒ]の連をして、火を鑽[キ]らしめて、此[コ]を忌火[イミヒ]と爲[シ]て、伊波比[イハヒ]、由麻々閇[ユママヘ]て、御食[ミケ]に供へ、並[マタ]、大八洲に像[カタド]りて、八乎止古[ヤヲトコ]・八乎止咩[ヤヲトメ]を定めて、神嘗[カムニヘ]、大嘗[オホニヘ]等[ドモ]に、仕へ奉り始めき。(但し、安房の大神を、御食津神と爲すと云ふは、今、大膳職の祭神なり。今、忌火を鑽[キ]らしむる大伴の造[ミヤツコ]は、物部の豐日[トヨヒ]の連の後なり。)
(註)
[坐奉[天]]坐字、月令に脱たり。祕抄に據りて、補ひつ。但し、坐字、祕抄一本に、定と作り。かくても通えたり。
[若湯坐連等]若湯坐の下の連字、月令に、脱たり。これも祕抄によりて補ひつ。
[忌火[止]]祕抄一本、谷川本、忌火の下に、手字あるは、訛なり。
[忌火[止]爲[天]]天字、月令に脱たり。祕抄によりて、補ひつ。/忌火はイミビとよむべし。忌淸[イミキヨ]めたる火の由なり。凡て、火を得るに、撃つと、碾[キ]るとの別ありて、上代より殊に、忌[イミ]て淸くする火はみな櫕[キリ]出すことにて、今に至るまでも、伊勢大神宮の御饌炊くに、櫕[キリ]火を用ふる例なりとぞ。(下略)
[※鑽火ハきりび。≪古代から行われた発火法の一つ。火鑽杵(ひきりぎね)とよばれる棒状の木材を、火鑽臼(うす)というくぼみのつけられた木材に押し付けて回転させ、摩擦することにより発火させるもの。とくに神聖な火、神事に使用する火を得る方法として、今日も神社などで行われる。火鑽臼にはヒノキ材、火鑽杵にはヤマビワ材を使用するのがよいとされる。火鑽杵を回転させる方法としては、手のひらにより錐揉(きりも)みするもの、横木につけた縄を火鑽杵に巻き付け、横木を上下に動かしながら杵を回転させるものなどがある。伊勢(いせ)神宮では、忌火屋(いびや)殿において、外宮(げくう)では毎日、内宮(ないくう)では祭りのたびごとに忌み火をきり出し、神前に供える御食(みけ)を炊(かし)ぐ。また出雲(いずも)大社では、国造(くにのみやつこ)の職を継承するにあたり、新国造が神火をきり出して厳重な儀式が行われ、神火相続とよばれる。なお、火打石と火打鉄(かね)を打ち合わせ、火花を打ちかけて清め祓(はら)いとする切り火も簡略な方法として広く行われる。[佐野和史]≫以上≪日本大百科全書(ニッポニカ)≫引用ス。]
[伊波比由麻麻閇]月令、麻字一つ脱たり。祕抄[類從本、麻一字なり]に依りて、補ひつ。/(前略)伊波比[イハヒ]は、伊牟[イム]と同言なるを、如此[カク]も活かしていへり。(中略)由麻々閇[ユママへ]は祈年祭祝詞に、忌部[能]弱肩[爾]太多須支[フトダスキ]取掛[弖]持[モチ]由麻波[里][ユマハリ]。仕奉[禮留]幣帛[乎]。神嘗祭祝詞に、太繦取懸[天]。持齋[ユマ][波利]。とみえ、また、此下文に、伊波[比]由麻波[理]。といえる由麻波里[ユマハリ]と同言にて、由[ユ]は、忌むの伊[イ]を通音に轉したるにて、由庭・湯貴・湯鍬・齋種などの由に同じ。(下略)
[像[天]]谷川本にのみ、像を象と作[カケ]り。
[嘗]嘗字、月令、また普通本の祕抄ともに、齋と作り。決めて誤寫なり。いま、祕抄の一挍本に據りて、訂して採れり。
[八乎止古八乎止咩](前略)八乎止古・八乎止咩の乎止古・乎止咩は、男女の弱きほどをいふ、稱なり。弱き男女を、八人づゝ定て、八乎止古・八乎止咩と呼て、神嘗・大嘗等に、仕奉始たりし由なり。
[但云]云字、祕抄[類從本、云]に、之に誤れり。
[御食津神]津、月令類從本、また普通祕抄にも脱たるを、元々集に、月令を引て、いさゝか此の文を載られたると、祕抄の一本によりて補ふ。
[今令鑽]今字、祕抄に脱たり。同異本、令鑽の二字を、衍せり。又、祕抄に、者を育と作り。[類從本、者]みな訛なり。/(前略)名義抄に、鑽、また儧を、ヒキリと訓り。
※亦信友云。
(前略)此時、六獦命に詔て、供奉始させ給へる神嘗は、當時、大宮内の畏所にて、天照太神に、新稻の御饌を饗し、祭奉り始たまひたりしなるべし。書紀・古語拾遺・大神宮儀式帳を、照考ふるに、大御神の御靈鏡は、崇神天皇[※第10代]の御世に、大御許を離奉り給ひて、倭の笠縫邑に祭たまひ、其御靈鏡を模鑄さしめて、大宮内の畏所に、齋祀らせ給ひ、御靈鏡は、垂仁天皇[※第11代]の御世におよびて、倭より、伊勢に遷幸して、鎭坐しませるなり。
この時上總の國の安房に鎭座坐し坐す大神[※神格未詳。]を
御食都神と坐せ奉りて
若湯坐の連等の始祖、意富賣布の連の御子なる豐日の連をして
火を鑽らしめ、是を忌み火と爲して
伊波比由麻々閇て奉り御饌に供へ、又併せて大八洲の狀ちに型像り
八人の乎止古等、八人の乎止咩等を撰び定めて
神嘗、大嘗等に仕へ奉り始めたのだった。(以下
但し書く。安房の大神を御食津神と爲すと云うのは、是
今の大膳職の祭神の御事で在る。亦
今忌み火を鑽らしむる大伴の造等は物部の豐日の連の後裔で在る。)
十六。以(二)同年十二月(一)。乘輿從(レ)東還(二)伊勢國綺宮(一)。五十四年甲子九月。自(二)伊勢(一)還(二)幸於倭纒向宮(一)。
○同じき年、十二月を以[モ]て、乘輿[スメラミコト]、東より、伊勢國、綺宮[カムハタノミヤ]に還り坐[マ]し、五十四年、甲子九月、伊勢より、倭の纒向[マキムク]の宮に、還幸[カヘリ]ましき。
(註)
[倭纒向宮]神名式に、大和國、城上郡、卷向坐若御魂神社とある、其地なり。(下略)
同じ年の十二月を以て
天皇は行幸爲され給うた東の國より伊勢國、綺宮に還り坐し
明けて御世の五十四年
甲子の年の九月長月
伊勢より倭の纒向の宮に還幸まし賜うた
十七。五十七年丁卯十一月。武藏國知々夫大伴部祖。三宅連意由。以(二)木綿(一)代(二)蒲葉(一)[天]美頭良[乎]卷[寸]。從(レ)此以來。用(二)木綿(一)日影等葛(一)[天]
○五十七年、丁卯十一月、武藏の國の、知々夫[チチブ]の、大伴部の上祖[カムツオヤ]、三宅[ミヤケ]の連[ムラジ]意由[おゆ]、木綿[ユフ]を以[モ]て、蒲[カマ]の葉に代へて、美頭良[ミヅラ]を卷きき。これより以來[コノカタ]、木綿[ユフ]を用ゐて、日影[ヒカゲ]等[ドモ]の葛[カヅラ]を副[ソ]へて、用ゐることゝ爲[シ]たりき。
(註)
[五十七年]月令に五十年とあり。干支に據りて、考るに、七字を脱せるなり。(下略)
[十一月]十一月は新嘗の時をいへり。(下略)
[武藏國知々夫大伴部祖三宅連意由](前略)知々夫は和名抄、武藏の郡名に、秩父、知々夫と見ゆ。但し、國造本紀を考るに、當時、知々夫も一國にて在りしときこゆれば、武藏に収[イレ]られたるは、後の事なるべきを、かく書るは、後の例をもて、古にめぐらしいへるなり。大伴部は上に、諸國人[乎]割移[天]。大伴部[止]號[天]云々。と見えたる中の、知々夫の大伴部の上祖なり。(中略)三宅連意由。他書どもに、見當らず。(下略)
[※日影ハひかげかずら。≪ヒカゲノカズラ(日陰鬘、日陰蔓、学名:Lycopodium clavatum)は、ヒカゲノカズラ植物門に属する代表的な植物である。蘿(かげ)という別称もある。広義のシダ植物ではあるが、その姿はむしろ巨大なコケを思わせる。≫以上≪フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』≫引用ス。]
五十七年
丁卯の年の十一月
武藏の國知々夫の大伴部の上祖なる三宅の連の意由が
木綿を以て從來の蒲の葉に代へ、美頭良[蘰]を卷いた。これより以來
木綿を用て、亦日影などの葛を副へて用ゐることゝ成ったので在る
十八。自(二)纒向朝廷歳次癸亥(一)。始奉(二)貴詔勅(一)。所(二)賜膳臣姓(一)。天都御食[乎]伊波比由麻波理[天]。供奉來。
○纒向[マキムク]の、朝廷[ミカド]の歳次、癸亥より、始めて、貴き詔勅[ミコトノリ]を奉[ウケタマハ]り、膳部臣[カシハデノオミ]の姓[ウヂ]を賜りて、天[アマ]つ御食[ミケ]を、齋[イハ]ひ、忌[ユマハ]りて、供[ツカ]へ奉[マツ]り來[キ]ぬ。
(註)
[天]天字、月令に、一字缺て、空たり。上の詔詞によりて補ひつ。
[癸亥]癸亥は、すなはち御世の五十三年にて、上に見えたる詔に、(中略)といへる時よりなり。
[所賜膳臣姓]此事は、上にみえて、其處に論へるごとく、當時は、後の御世のごとく氏骨[ウヂカバネ]を定めて賜へる事のきはやかにはあらざりけるを、此處に如此[カク]いへるは、後世のさまに合[カナ]へて書る文なり。(下略)
纒向の朝廷の歳次
癸亥の年卽ち御世の53年に初めて貴き詔勅を奉って
膳部臣の姓を賜り、天つ御饌を齋ひ忌[ユマハ]りて以來
仕へ奉って來た叓
十九。迄(二)干今朝廷歳次壬戌(一)並三十九代。積年六百六十九歳。[●延曆十一年]
○今の朝廷[ミカド]の歳次、壬戌まで、並[アハ]せて、三十九代、年を積むこと、六百六十九歳なり。(延曆十一年)
(註)
[今朝廷]今、朝廷の壬戌といへるは、桓武天皇の御世の始、延曆元年なり。
[延曆十一年]此分書[コガキ]の延曆の年次、月令に、十九年と作たれど、上件の本文に合はず。何の由もなきを、十一年とするときは、勅判の年に當りて事實に合ひ、また六百六十九歳といへる年數にも合へば、十九年と作るは、十一年の訛寫なる事疑なし。故、いま訂して書り。
[※延曆元年ハ壬戌。延曆11年ハ壬申。]
今の朝廷の御世の元年
壬戌の年に到るまで合わせて三十九代
年を積むこと六百六十九の年を數へたので在る
——延曆十一年記
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