髙橋氏文 原文及び現代語訳。7。磐鹿六獦、奇き鳥を追う。髙橋氏分本朝月令分之一


一。掛畏卷向日代宮御宇。大足彥忍代別天皇。五十三年癸亥八月。詔(二)群卿(一)曰。朕頋(二)愛子(一)。何日止乎。欲(レ)巡(二)狩小碓王[●又名倭武王」所(レ)平之國(一)。

○掛けまくも、畏き、卷向[マキムク]の日代[ヒシロ]の宮に天[アメ]の下治[シロ]しめしゝ、大足[オホタラシ]彥[ヒコ]忍代別[オシロワケ]の天皇[スメラミコト]の、五十三年、癸亥[ツチノトヰ]の八月[ハヅキ]、群卿に、詔[ミコトノ]りして、宣[ノ]りたまひけらく、朕[アレ]、愛[カナ]しき子を顧[オモ]ふこと、何[イツ]れの日にか止[ヤ]まん。小碓[ヲウス]の王[ミコ](又の名は、倭武の王[※ヤマトタケルノミコ])の平[ム]け給ひし國々を、巡狩[メグリミ]んと欲[ホツ]すと、詔[ノ]り給ひき。

(註。拠信友。以下同)

[大足彥忍代別天皇]此天皇、御諡[※おんおくりな、おんし、おんしごう]、景行天皇と稱[マヲ]し奉る。[※御諡ハ淡海三船、御船王ニ倚ル(據釋日本紀)。是第50代桓武帝御代。]

[頋]頋は、顧字の、古體なり。類聚名義抄に、オモフと訓り。(下略)

[愛子]愛子。カナシキコ、とよむべし。(中略)小碓王、(中略)又名倭武王の御事なり。天皇、此皇子を殊に、異愛[イトホシ]みたりし趣、古事記・日本書紀に、見えたり。此の皇子、是年より十四年前[サキ]に、薨給ひたりき。

[所平之國]ムケタマヒシ、クニグニ、とよむべし。こは、天皇の御世、四十年十月、壬子朔癸丑(二日)、倭建て命、父天皇の詔を奉て、東[ヒムガシ]の諸國[クニグニ]を、征[ムケ]給はむとして發途[ミチタチ]し、まづ伊勢大神宮を拜み給ひ、それより、東の國々を巡行[メグ]りて、征平[コトム]け給ひ、功畢[コトヲへ]まして、伊勢の能褒野[ノボノ]まで、還りまして、薨給ひければ、其處に葬[カク]し奉けるに、白鳥に化[ナ]りて、飛行[トビイデマ]しぬ。(下略)


掛けまくも畏き

卷向の日代の宮に天の下治しめしゝ大足彥忍代別の天皇(——卽ち

景行天皇)の五十三年、癸亥の歳の八月葉月。御帝は

群卿に御事宣り爲され給うた

——わたしが

亡き愛しき子を懷しく想う叓、——可哀れみ

悲しみ

切なく想い出す叓を繰り返す叓…いったい

いつになれば已むというのだろうか。だから寧ろ

心の傷も癒え無い儘にあの

小碓の王——亡き大倭武の尊の平かにし給うた國々を

今、巡り見たいと想うのだ

…と


二。是月行(二)幸於伊勢(一)轉入(二)東國(一)。冬十月到(二)干上總國安房浮島宮(一)。

○この月、伊勢に行幸[イデマ]し、轉[ウツ]りて、東の國に、入りましき。冬十月、上[カミ]ッ總[フサ]の國、安房の、浮島の宮に、到りましき。

(註)

[東國]祕抄一本、東國を、東海と作[カケ]り。(下略)

[干上總國安房浮島宮]また、祕抄、干字、脱けたり。

[浮島宮]浮島宮は、平群郡勝山の海邊より、十町あまり西の海中[ワタナカ]に、浮島とて、南北の徑[ワタリ]、五六町ばかり、横は、其ほどよりは狹くて、東西の岬[サキ]は、漸に細き小島あり。さばかりの、平坦なる小島なれど、いかなる荒浪にも、沒[シヅ]む事なし。(中略)天皇、此島に、御船を泊[ハ]て給ひ、島中の行宮に、到坐ましゝなるべし。

※日本紀云。五十三年秋八月丁卯朔。天皇詔テ(二)群卿ニ(一)曰。朕顧[シノブ]ルヿ(二)愛子ヲ(一)。何日ニ止マム乎。冀ハ欲(レ)巡リ(二)‐狩[ミ]ムト小碓ノ王所‐平[コトム]ケシ之國ヲ(一)。是月乘輿幸テ(二)伊勢ニ(一)。轉テ入(二)東‐海[イヘツミチ]ニ(一)。冬十月至テ(二)上總國ニ(一)。從(二)海路(一)渡ル(二)淡‐水‐門[アハノミナト]ヲ(一)。是時ニ聞ユ(二)覺‐賀[カゝクカ/カクカゝ/ミサコ]鳥[トリ]之聲(一)。欲見テ(レ)其鳥ノ形ヲ(一)。尋テ而出マス(二)海中ニ(一)。仍テ得(二)白蛤[蛉]ウムキヲ(一)。於(レ)是膳[カシハテ]ノ臣遠祖。名ハ磐‐鹿[イハカ]六‐鴈[ムツカリ]。以テ(レ)蒲[カマ]ヲ爲テ(二)手繦[タスキ]ニ(一)。白蛤[蛉]ヲ爲リテ(レ)膾[ナマス]ニ而進ル之。故レ美メテ(二)六鴈ノ臣ノ之功ヲ(一)而賜(二)膳[カシハデ]ノ夫‐伴‐部[トモノベ]ヲ。十二月。從(二)東[アヅマ]國(一)還テ之居(二)伊勢ニ(一)也。是ヲ謂フ(二)綺ノ宮ト。


この月、御帝は一と度伊勢に行幸し給ふて

其處から轉って東の國に入られ賜ふた。軈て

冬十月。上總の國

安房の浮島の宮にご到着爲されられたので在る


三。爾時磐鹿六獦命從駕仕奉矣。

○その時、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命、從駕[ミトモ]に、仕へ奉[マツ]りき。

(註)

[磐鹿六獦命]名の唱は、姓氏綠に、伊波我六加利命と書るに據るべし。(下略)

[六獦]獦字、祕抄、みな雁と作[カケ]り。(下略)

[仕]また、仕字を、供と書けり。下文の例に依るに、誤寫なるべし。

[奉]また、奉字を、譽に誤れり。


その時に

磐鹿の六獦の命も御供に

仕へ奉って居た


四。天皇行幸於葛餝野。令御獦矣。

○天皇、葛餝[カツシカ]の野[ヌ]に行幸[イデマ]して御獦[ミカリ]せしめ給ひき。

(註)

[令]令は、セシメタマヒキ、とよむべし。

[葛餝野]いま浮島の北の方、海上十里餘に、葛餝浦(勝鹿とも書く)あり。


御帝は

葛餝の野に行幸爲され賜ふて

御獦りをさせ給ふた


五。大后八坂媛[渡]借宮[爾]御坐。磐鹿六獦命亦留侍。

○大后[オホキサキ]、八坂媛[ヤサカヒメ]は、借宮[カリミヤ]に坐[マ]しまし、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命も、亦、留[トゞマ]り、侍[ハベ]りき。

(註)

[大后八坂媛]古事記、この天皇[※景行天皇]段に、娶(二)八尺入日子[ヤサカイソヒコ]ノ命之女、八坂之入日賣命(一)云々と見えて、則ち成務天皇の御母に坐[マシ]ませり。[※皇后播磨稻日大郎姬から倭武尊。景行天皇52年崩御。後に皇后八坂入媛命。日本紀云。五十二年夏五月甲辰朔丁未。皇后播磨太郎[イツラツ]姬薨ス。秋七月癸卯朔己酉。立テ(二)八坂入媛命ヲ(一)爲(二)皇后ト(一)。]


大后八坂媛は借宮に坐し坐して

磐鹿の六獦の命も亦

其處に留り仕え奉って居たので在る


六。此時。大后詔(二)磐鹿六獦命(一)。此浦聞(二)異鳥之音(一)。其鳴(二)駕我久久(一)。欲(レ)鳴見(二)其形(一)。卽磐鹿六獦命。乘(レ)船到(二)干鳥許(一)。鳥驚飛(二)於他浦(一)。猶雖(二)追行(一)。遂不(二)得捕(一)。於是磐鹿六獦命詛曰。汝鳥戀(二)其音(一)欲(レ)見(レ)貌。飛(二)遷他浦(一)不(レ)見(二)其形(一)。自(レ)今以後不(レ)得(レ)登陸。若大地下居必死。以(二)海中(一)爲(二)住處(一)。

○この時、大后、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命に、詔[ノ]り給はく、この浦に、異[アヤシキ]鳥の音[コヱ]、聞ゆ。それ、駕我久久[ガクガク]、鳴けり。その形を、見まく欲[ホツ]す、と詔[ノ]りたまひき。卽ち、磐鹿六獦の命、船に乘りて、鳥の許[モト]に到れば、鳥、驚きて、他浦[コトウラ]に飛びき。猶[ナホ]、追ひ行けども、遂にえ捕[ト]らず。こゝに、磐鹿六獦の命、詛[トゴ]ひて、曰[マヲ]しらけく、汝鳥[ナレトリ]よ、その音[コヱ]を戀[シク]ひて、貌[カタチ]、見まく欲[ホツ]するに、他浦[コトウラ]に飛び遷りて、その形を見しめず。今より以後[ノチ]、陸[クスガ]に、え登[アガ]らざれ。もし大地[オホツチ]の下に居[ヲ]らば必ず死なむ。海中[ワタナカ]を以[モ]て住處[スミカ]と爲[セ]よ、と曰[マヲ]し給ひき。

(註)

[久久]久久を、類從本、久ヱと作[カケ]り。今、一本に正しく書[カケ]るに依る。

[卽磐鹿六獦命云々][若大地下居必死云々]祕抄、卽、磐鹿より自今迄、後五十五字を略けり。[類從本にはあり。]又、若より住處迄、十三字を略けり。


この時大后は磐鹿の六獦の命に詔[ノ]り給て曰く

——この浦に異妙[アヤ]しき鳥の聲が聞こえるのです。それは

駕我久久[ガクガク]と鳴いて居て、なんとか

一度その鳥の姿狀ちを見てみたいと想うのです。何故だか

…と

卽ち磐鹿の六獦の命は

船に乘って鳥を追いその許[モト]に迄到れば、鳥は

驚いて他の浦に飛び去って仕舞う。猶、その迹を追ひ行くけれども

遂に捕らえられ無かった。依って茲に磐鹿の六獦の命は鳥を呪詛[のろ]って

詞を投げたので在る。——お前

鳥よ。…その妙なる聲を戀うて、その妙なる貌狀[かたち]を

一目見たく求めたけれど、お前は

他の浦に飛び遷って終に

その形狀[かたち]を見せはし無かった。今より後

陸[クスガ]に登る叓勿れ。もしお前が大地の下に䕃を差したならば

必ずお前は

死に失せるだろう。海つみの中を以て

永遠にその住み處と爲すがいい

…と


七。還時頋(レ)舳魚多追來。卽磐鹿六獦命。以(二)角弭之弓(一)當(二)遊魚之中(一)卽着(レ)弭而出忽獲(二)數隻(一)。仍名曰(二)頑魚(一)。此今諺曰(二)堅魚(一)。[●今以(レ)角作(二)鈎柄(一)釣(二)堅魚(一)此之由也。]

○還ります時、舳[トモ]を頋[カヘリミ]すれば、魚多く、追ひ來[ク]。卽ち、磐鹿[イハガ]六獦[ムカリ]の命、角弭[ツヌハズ]の弓[ユミ]を以[モ]て、遊べる魚[ウヲ]の中に、當てしかば、卽ち弭[ハズ]に着[ツ]きて、出でゝ、忽ちに、數隻[アマタ]を獲[エ]つ。よりて、名づけて、頑魚[カタウヲ]と曰[イ]ふ。此[コ]を今[イマ]の俗[ヨ]の諺[コトバ]に、堅魚[カツヲ]と曰[イ]ふ。(今、角[ツヌ]を以[モチ]て鉤[ツリバリ]の柄[エ]を作[ツク]り、堅魚[カツヲ]を釣[ツ]るは、この由[ユヱ]なり。)

(註)

[頋]祕抄に、領と書る本あるは、訛なり。/頋は、名義抄に、カヘリミルとも訓り。

[舳]舳は、止毛[トモ]と、よむべし

[角弭之弓]ツヌハズの弓。弭[ハズ]に、角を入[ハメ]たる、弓なり。(古の弓は、梔[※くちなし]・槻[※けやき]・梓などの木弓なり。)

[名]祕抄に、名を號と作り。いづれにてもあるべし。

[頑]又、頑を禎と書ける本あるは、訛なり。但し、谷川本には、頑と作れり。

[仍名曰頑魚](前略)頑魚、カタウヲとよむべし。頑字、尋常にカタクナと訓來れるは、カタといふが本語にて、一向に偏[カタヨ]る意の言なり。

[今諺曰]今の諺とは、後の世にはと、いはむがごとし。

[今以角云々]此注文、祕抄に、釣(二)堅魚(一)の三字を脱し、作を爲と書り。また、今字を脱し、柄字を、槁・橋・橘など書る本あるは、悉、訛なり。また、之字、無き本もあり。此はいづれにてもあるべし。


軈て

還ります時、舳を振り顧みれば

其處には魚等が多く追うて來て居た。卽ち

磐鹿の六獦の命は角弭[ツヌハズ]の弓を以て海面に

踊り遊ぶ魚等の中に差し當てゝみれば、忽ちに弭[ハズ]に飛び附いて來て容易くも

數隻[アマタ]の魚を獲たのだった。是に仍て

是を名附けて頑魚——かたうを

…と謂うので在る。之を今の俗の言いぐさに堅魚——かつを

…と謂う。今、角[ツヌ]を用いて釣り針の柄を作り堅魚を釣るは

此れが抑々の由緣で在る


八。船遇(二)潮涸(一)[天]渚上[爾]居[奴]。掘出[止]爲[爾]得(二)八尺白蛤一具(一)。

○船[ミフ子]、潮[シホ]の涸[カ]るゝに遇ひて、渚[ス]の上に、居[ヰ]ぬ。掘り出[イ]ださむと爲[ス]るに、八尺[ヤサカ]の白蛤[シロウムギ]、一具[ヒトツ]を得つ。

(註)

[船遇潮涸[天]云々]頑魚を釣りて、磯近く、濱還り來る、時しも、潮涸るゝに遭て、船の渚[ヰ]に艐[ヰ]たるなり。

[掘出[止]爲[爾]云々]船の渚上に艐[ヰ]たるに、潮の來るを待たで、砂を掘て、潮水を引て、船を浮べ出さむと爲るなり。

[八尺白蛤一具]ヤサカシロウムギヒトツとよむべし。八尺[ヤサカ]は、蛤の大なるをいへるなり。


軈て船は

潮が引き涸れるのに遇って

渚の上に立ち往生した。砂を掘って

船を出そうとして見た所に

磐鹿六獦命は八尺[ヤサカ]の白蛤[ハマグリ]の一具[ヒトツ]を得た。——と

この一具と云ふのは一羣の意なのだろうか?

字義其の物を謂えば

一揃い、卽ち一式と云ふ意味になる筈だが

或いは

何らかの象徴的な意味合いが在ったのだろうか?


九。磐鹿六獦命。捧(二)件二種之物(一)獻(二)於太后(一)。卽太后譽給[比]悦給[弖]詔[久]。甚味淸造欲(レ)供御食(一)。爾時磐鹿六獦命申[久]。六獦令(二)料理(一)[天]將供奉[止]白[天]。遣(レ)喚(二)無邪志國造上祖大多毛比。知々夫國造上祖天上腹天下腹人等(一)。爲(レ)膾及煑燒雜造盛[天]。見(二)河曲山梔葉(一)[天]高次八枚[爾]刺作[利]。見(二)眞木葉(一)[天]枚次八枚[爾]刺作[天]。取(二)日影(一)[天(弖)]爲(レ)縵。以(二)蒲[※左字艹ニ補]葉(一)[天]美頭良[乎]卷。採(二)麻佐氣葛(一)[弖(天)]多須岐[仁]加氣爲(レ)帶。足纒[乎]結[天]。供(二)御雜物[乎](一)結餝[天]。乗輿從(二)御還入坐時[爾]爲(二)供奉(一)。

○磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命、その二種[フタクサ]の物を、捧[ササ]げて、太后に、獻りき。卽[カレ]、太后、譽[ホ]め給ひ、悦び給ひて、詔[ノ]り賜はく、いと、味[ウマ]く、淸く、造りて、御食[ミケ]に、供[ソナ]へまつらん、と詔[ノ]り給ひき。その時、磐鹿六獦の命、申さく、六獦[ムツカリ]、料理[ツク]らせて、供奉[タテマツ]らむ、と白[マヲ]して、 無邪志[ムサシ]の國造[クニノミヤツコ]が上祖[カムツオヤ]、大多毛比[オホタモヒ]、知々夫[チチブ]の國造[クニノミヤツコ]が上祖[カムツオヤ]、天上腹[アメノウハハラ]・天下腹人[アメノシタハラビト]等[ドモ]を、喚[ヨ]ば遣[シ]めて、膾[ナマス]に爲[ツク]り、及[マタ]、煑燒[ニヤキ]して、くさぐさ、造り盛[モ]りて、河曲山[カハヲヤマ]、梔[ハジ]の葉を見て、高次[タカスキ]、八枚[ヤツ]に、刺[サ]し作[ツク]り、眞木[マキ]の葉を見て、枚次[ヒラスキ]、八枚[ヤツ]に、刺しつくりて、日影[ヒカゲ]を取りて、縵[カツラ]とし、蒲[カマ]の葉を以[モ]て、美頭良[ミヅラ]を卷き、麻佐氣葛[マサゲヅラ]を採[ト]りて、多須岐[タスキ]にかけ、帶にし、足纒[アユヒ]を結[ユ]ひて、くさ〲の物[モノ]を供へ、結[ユ]ひ餝[カザ]りて、乘輿[スメラミコト]、御獦[ミカリ]より、還御入[カヘリイ]り坐[マ]す時に、供へ奉[マツ]らむとす。

(註)

[悦給[弖]詔[久]]祕抄に悦より造までの字、九脱けたり。

[欲]又、欲を、鮎・鱠・鯰などの字に、訛れる本あり。

[將供奉[止]白[天]]さて、白の下の辭の天より盛天まで、三十七字を略けり。

[邪]邪の下に、志字、脱けたり。今、こゝに引く、國造本紀を證として、決めて補ひつ。[※先代舊事本紀卷十云。无邪志國造志賀高穴穗朝[※第13代成務天皇]世。出雲臣祖。名二井[フタヰ]ノ之宇迦[ウカ]ノ諸忍[モロオシ]ノ之神狹命十世孫。兄多毛比[エタモヒ]ノ命定(二)‐賜國造(一)。]

[河曲山]河曲を、月令に阿西、祕抄に河西、一本に阿曲など作きて、參互に誤れるを、谷川本に河曲とあれば、かたがた考訂せるなり。

[梔]この梔を、月令の類從本、又祕抄に、栬[※もみじ]と書き、又祕抄の他本に枹[※なら]、また杓と書けるがあり。ともに誤なり。こは月令一本に依る。

[枚]祕抄に、枚を、杯或は次と作る本あり。誤なり。

[枚字下ノ[爾]]爾字、二ともに、諸本どもに脱けたるを、谷川本に依て補ふ。

[利]利字、月令に脱けたり。祕抄に依て補ふ。但し、その利を、爪に作る本あり。訛なり。

[刺]刺字、月令・祕抄に㓨と作り、古體なり。(下略)

[弖]弖字、祕抄に依りて補ふ。

[(天)]天字、祕抄に乎と作り、然てもきこえはすれど、文體かけあはず、其は訛とすべし。

[多須岐[仁]加氣]また加氣の下、祕抄一本に、弖字あり。(中略)又、谷川本に、加氣を多須岐弖として書るは、めづらしき言づかひときこゆれど、月令・祕抄の諸本にもいたく異なれば、たやすく依りがたし。なほよく考ふべし。

[乘輿](前略)乘輿は、漢國にて、王を崇めて云ふ稱なり。(下略)


磐鹿の六獦の命は

その二種[フタクサ]の物を捧[ササ]げて

太后に獻上した。したらば太后は譽め給ひ

悦び給て、御事宣り賜うて曰く

——それでは稀なる程に巧みに、淸らに、御食を御造り賜うて

是非に

御饌に供へ奉りましょう

…と

その時に磐鹿の六獦の命は申仕上げた

——此の六獦こそ御饌の品々造らせて

御門に奉りましょう

…と

無邪志[ムサシ]の國造[クニノミヤツコ]の上祖[カムツオヤ]

大多毛比[オホタモヒ]

知々夫[チチブ]の國造[クニノミヤツコ]が上祖[カムツオヤ]

天上腹[アメノウハハラ]

及び

天下腹人[アメノシタハラビト]

彼等を呼び召させて膾[ナマス]に造り

亦、煑[煮]燒きしてくさぐさ造り盛って

河曲山、梔[ハジ]の葉を見て、高次[タカスキ]、八枚[ヤツ]に刺し造り

眞木[マキ]の葉を見て枚次[ヒラスキ]、八枚[ヤツ]に刺し造り

日影[ヒカゲ]を取って縵[カツラ]とし、蒲[カマ]の葉を以て美頭良[ミヅラ]を卷き

麻佐氣葛[マサゲヅラ]を採って多須岐[タスキ]にかけ

帶にし

足纒[アユヒ]を結ってくさ〲の物[モノ]を供へ

結ひ餝[カザ]って、乘輿[スメラミコト]——卽ち

天皇が御獦りより御還り坐した時に供へ奉ろうとした。








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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