髙橋氏文 原文及び現代語訳。6。日本武尊、白鳥に成る。及髙橋氏分本朝月令分之一


日本武尊の東夷征伐の後日談として

日本書紀はその最期を斯く描く。つまり

彼は此処でも山の神に呪われて終に倒れ

軈て白鳥に成って舞うので在る


日本書紀云。

日本武尊更還マシテ(二)於尾張(一)。卽娶リテ(二)尾張氏之女宮‐簀‐媛[ミヤスヒメ]ヲ(一)。而淹[ヒサシ]ク留テ踰ヱヌ(レ)月ヲ。於(レ)是聞キテ(三)近江ノ膽吹[イブキ]ノ山ニ有ト(二)荒[アラ]フル神(一)。卽解[ヌ]キテ(レ)劔[ツルギ]ヲ置テ(二)於宮簀媛ノ家ニ(一)。而徒‐行[カチヨリイデマフ]之。至ルニ(二)膽‐吹[イブキ]山ニ(一)。山ノ神化テ(二)大虵[※蛇]ニ當リ(レ)道ニ。爰ニ日本武尊不テ(レ)知ラ(二)主‐神[カミサ子]ノ化[ナ]レルヲ(一レ)虵ト之謂[ノ]玉フ。

[※日本武尊]是ノ大虵ハ必荒[アラ]フル神之使也。旣得テハ(レ)殺スヿヲ(二)主‐神[カミサ子]ヲ(一)。其使者豈足ラム(レ)求ムルニ乎。

因テマタ跨[コ]エテ虵ヲ猶行[イ]デマス。時山神之。興シ(レ)雲ヲ零[フ]ラシム(レ)水[アメ][氷(イ)]ヲ。峯霧谷曀[クラ]クテ。無(二)復タ可(レ)行ク之路[トコロ](一)。乃捷‐遑[シゝマヒテ]不(レ)知ラ(三)其所ヲ(二)跋‐渉[フマム]。然ドモ凌ギテ(レ)霧ヲ强行。方ニ僅ニ得タリ(レ)出ルコトヲ。猶失‐意[オロケ/コゝロマドヒテ]如シ(レ)醉ヘル。因テ居テ(二)山下[モト]ノ之泉ノ側ニ(一)。乃飮[オ]シテ(二)其水ヲ(一)而醒[サ]メマシス之。故號テ(二)其泉ヲ(一)。曰(二)居‐醒[井サメ]ノ泉ト(一)也。日本武尊於是始テ有(二)痛‐身[ナヤミ玉フヿ](一)。然稍クニ起テ之還リ(二)於尾張ニ(一)。爰不テ(レ)入ラ(二)宮簀媛之家ニ(一)。便チ移リテ(二)伊勢ニ(一)而到ル(二)尾津ニ(一)。

昔[サキ]ニ日本武尊向[イ]デマセシ(レ)東ニ之歲。停テ(二)尾津ノ濱ニ(一)而進‐食[ミヲシス]。是時、解[ヌ]キテ(二)一ノ劔ヲ(一)置(二)於松ノ下ニ(一)。遂ニ忘レテ而去[イ]マシキ。今至(二)於此ニ(一)。[是]劔猶存[ウ]セズ。故歌テ曰。

[※歌]

烏波利珥[ヲハ(尾張)リニハ]。

多陀珥霧伽幣流[タダ(直)ニムカ(向)ヘル]。

比苔菟麻菟[ヒトツマツ(一松)]。

阿波例[アハレ(可怜)]比等菟麻菟[ヒトツマツ]。

比苔珥阿利勢磨[ヒト(人)ニア(有)リセバ]。

岐農岐勢摩之塢[キヌ(衣)キ(着)セマシヲ]。

多知波開摩之塢[タチ(太刀)ハ(佩)ケマシヲ]。

逮リテ(二)于能‐褒‐野[ノボノ]ニ(一)。而痛ミ玉フ甚シ之。則以テ(二)所[トコロ]ニ俘セル蝦夷等ヲ(一)獻ツル(二)於神宮ニ(一)。因テ遣テ(二)吉備武彥ヲ(一)。奏テ(二)之於天皇[※景行]ニ(一)曰。

[※日本武尊傳詞]臣受[ウ]ケテ(二)命ヲ天‐朝[ミカド]ニ(一)。遠ク征ツ(二)東夷ヲ(一)。則被リ(二)神ノ恩ヲ(一)。頼リテ(二)皇ノ威ニ(一)。而叛者伏シ(レ)罪ニ。荒神自ニ調[シタガ]ヒヌ。是以。卷キ甲ヲ戢メテ(レ)戈ヲ。愷‐悌[イクサトケテ]還レリ之。冀[子ガヒシガ](二)曷[イヅレ]ノ日曷ノ時ニ。復(二)‐命[カヘリコトマヲサム]ト天朝ニ(一)。然天命忽ニ至テ。隙駟難シ(レ)停メ。是以獨臥テ曠‐野[アラノヲ]ニ(一)。無シ(二)誰[タレ]ニモ語[カタ]ルコト(一)之。豈惜マムヤ(二)身ノ亡ムヿヲ(一)。唯愁[※憂(イ)]フ(レ)不ルヲ(レ)面セ。

旣而崩ヌ(二)于能褒野ニ(一)。時ニ年三十[※按三十二]。

天皇聞テ之。寢[ミ子]マスモ不(レ)安カラ(レ)席ニ。食不(レ)甘カラ(レ)味ニ。晝夜喉咽。泣悲摽擗。因以テ大ニ歎テ之曰。

[※景行天皇]我子小碓王。昔熊襲叛キシ之日。未ダ及[ア]ラヌニ(二)總角[※あげまき。幼年男子ノ髪形]ニモ(一)。久ク煩フ(二)征伐ニ(一)。旣ニシテ而恒ニ在テ(二)左右ニ(一)。補フ(二)ガ不ヲ(一レ)及ハ。然東夷騷ギ動[ドヨメ]キ。勿シ(二)使ムル(レ)討タ者(一)。忍ビ(レ)愛ヲ以テ入ラシム(二)賊ノ境ニ(一)。一日モ之無シ(レ)不ル(レ)顧[シノ]バ。是ヲ以テ朝夕進‐退[サマヨ]ヒテ。佇[ツマダ]チ(二)待ツ還ラム日ヲ(一)。何ノ禍[ワザハヒ]ソモ兮。何罪ソモ兮。不‐意‐之‐間[ユクリモナク]。倐ニ亡フヿ(二)我子ヲ(一)。自今以後。與ニ(二)誰人ト(一)之經(二)綸メム鴻業[※大ナル事業]ヲ(一)耶。」卽詔シ(二)羣卿ニ(一)。命シテ(二)百寮ニ(一)。仍テ葬(二)於伊勢國ノ能褒野陵[ミサゝギ]ニ(一)。

時ニ日本武尊化[ナ]リ玉ヒテ(二)白鳥ニ(一)。從(レ)陵出デ之。指シテ(二)倭國ヲ(一)而飛フ之。群臣䓁[※等]因テ以テ開テ(二)其棺‐櫬[ヒツギ]ヲ(一)而視レバ(レ)之・明‐衣[ミソ]空留テ而屍‐骨[ミカハ子]ハ無之。於是テ遺(二)使者ヲ(一)追ヒ(二)‐尋ヌレバ白鳥ヲ(一)。則停レリ(二)於倭ノ琴彈ノ原ニ(一)。仍テ於(二)其處ニ(一)造(レ)陵ヲ焉。白鳥更タ飛ンテ至テ(二)河內ニ(一)。留ル(二)舊‐市[フルイチ]邑ニ(一)。亦其處ニ作(レ)陵ヲ(一)。故時人號ケテ(二)是三陵ヲ(一)曰フ(二)白鳥ニ陵ト(一)。然遂ニ高ク翔テ上キ(レ)天(ニ)。徒ニ葬(二)衣‐冠[ミソツモノ]ヲ(一)。因テ欲テ(レ)錄[ツタ]ヘムト(二)功‐名[ミナ]ヲ(一)。卽定(二)武‐部[タケルベ]也(一)。是歲天皇踐祚四十三年焉。


今や、我々は是等の夫々に矛盾を抱えた事蹟を了解した後で

所謂髙橋氏文を讀み始めよう。それは、白鳥に成って神去り給ふた或る

魂を追悼する物語の樣にさえ見えて、美しい


第一章○伴信友云。此章は、本朝月令[●此書全篇、世に在ることを聞かず。塙保己一が、群書類從に収めたる、四月より六月までの部の缺本と、其卷のまた缺たる一本を、見たるのみなり。云々。]六月朔日、内膳司、供(二)忌火[イミヒ]御飯(一)事の下に、髙橋氏文云とて、此文を載たり。年中行事祕抄[●作者詳ならず。奧書に、本云、永仁之頃、被(二)書始(一)之處、自然被(レ)閣(レ)之畢、嘉曆令(レ)終(二)寫功(一)者也。次に建武元年云々。]の、同條の下に、此文中を略て載たるをも、挍へ合せて採れり。又、谷川士淸の、日本書紀通證に、此氏文を引き載たるは、此祕抄なる文を摘出たるものなるに、己が見たる本どもと、異なる所のあるは、これも一本として、挍へ採れり。谷川本と云ふは是なり。但し、其中に、誤字の著[シル]きはとらず。


一。掛畏卷向日代宮御宇。大足彥忍代別天皇。五十三年癸亥八月。詔(二)群卿(一)曰。朕頋(二)愛子(一)。何日止乎。欲(レ)巡(二)狩小碓王[●又名倭武王」所(レ)平之國(一)。

○掛けまくも、畏き、卷向[マキムク]の日代[ヒシロ]の宮に天[アメ]の下治[シロ]しめしゝ、大足[オホタラシ]彥[ヒコ]忍代別[オシロワケ]の天皇[スメラミコト]の、五十三年、癸亥[ツチノトヰ]の八月[ハヅキ]、群卿に、詔[ミコトノ]りして、宣[ノ]りたまひけらく、朕[アレ]、愛[カナ]しき子を顧[オモ]ふこと、何[イツ]れの日にか止[ヤ]まん。小碓[ヲウス]の王[ミコ](又の名は、倭武の王[※ヤマトタケルノミコ])の平[ム]け給ひし國々を、巡狩[メグリミ]んと欲[ホツ]すと、詔[ノ]り給ひき。

(註。拠信友。以下同)

[大足彥忍代別天皇]此天皇、御諡[※おんおくりな、おんし、おんしごう]、景行天皇と稱[マヲ]し奉る。[※御諡ハ淡海三船、御船王ニ倚ル(據釋日本紀)。是第50代桓武帝御代。]

[頋]頋は、顧字の、古體なり。類聚名義抄に、オモフと訓り。(下略)

[愛子]愛子。カナシキコ、とよむべし。(中略)小碓王、(中略)又名倭武王の御事なり。天皇、此皇子を殊に、異愛[イトホシ]みたりし趣、古事記・日本書紀に、見えたり。此の皇子、是年より十四年前[サキ]に、薨給ひたりき。

[所平之國]ムケタマヒシ、クニグニ、とよむべし。こは、天皇の御世、四十年十月、壬子朔癸丑(二日)、倭建て命、父天皇の詔を奉て、東[ヒムガシ]の諸國[クニグニ]を、征[ムケ]給はむとして發途[ミチタチ]し、まづ伊勢大神宮を拜み給ひ、それより、東の國々を巡行[メグ]りて、征平[コトム]け給ひ、功畢[コトヲへ]まして、伊勢の能褒野[ノボノ]まで、還りまして、薨給ひければ、其處に葬[カク]し奉けるに、白鳥に化[ナ]りて、飛行[トビイデマ]しぬ。(下略)


掛けまくも畏き

卷向の日代の宮に天の下治しめしゝ大足彥忍代別の天皇(——卽ち

景行天皇)の五十三年、癸亥の歳の八月葉月。御帝は

群卿に御事宣り爲され給うた

——わたしが

亡き愛しき子を懷しく想う叓、——可哀れみ

悲しみ

切なく想い出す叓を繰り返す叓…いったい

いつになれば已むというのだろうか。だから寧ろ

心の傷も癒え無い儘にあの

小碓の王——亡き大倭武の尊の平かにし給うた國々を

今、巡り見たいと想うのだ

…と







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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