髙橋氏文 原文及び現代語訳。5。古事記による日本武尊
古事記傳廿七に云。
天皇詔(二)小碓命(一)。
[※景行天皇]何ゾ[※何故]汝‐兄[イマシノイロセ]於(二)朝夕ノ之大御‐食[オホミケ]ニ(一)不(二)參‐出‐來[イデコ]ザルカ(一)。專[モハラ]汝泥(勞)‐疑‐教‐覺[子ギヲシヘサトセトノリタマヒキ]。[●泥疑二字以(レ)音。下效(レ)此。]
天皇は小碓命に云ふ。最近お前の兄大碓命は
朝夕の大御饌にも参加せずに何をして居るのか?…す可き叓はす可き叓として
ちゃんと敎え諭し、樣子を見て勞って、そして
連れて來い、と
如(レ)此詔以後。至リテモ(二)于五日ニ(一)。猶不(二)參出(一)。爾[カレ(※故)]天皇問(二)‐賜[トヒタマハク]小碓命ニ(一)。
[※景行天皇]何汝兄久不(二)參出(一)。若シ有(レ)未(レ)誨[イマダヲシヘズアリヤ]乎。
それでも大碓命は五日に及んで顏を見せ無い
——私が云ったようにちゃんと敎え諭したのか?
答白。
[※小碓命]旣ニ爲(二)泥‐疑(一)[ネキツ]也。
——ええ、ちゃんと
又詔。
[※景行天皇]如何ニ泥‐疑[ネキツルカ]之。
——何をちゃんとしたと云ふのだ?
答白。
[※小碓命]朝‐署[アサケ]ニ入(レ)廁之時。待‐捕[マチトラヘテ]搤‐批[ツカミヒシギテ]而。引(二)‐闕[ヒキカキテ]其ノ枝ヲ(一)。裹(レ)薦‐投‐棄[コモニツゝミナゲウチツ]ト。
——おっしゃった通に殺しましたよ。朝、厠に入る時に
待ち受けて捕え、羽交い絞めにして捻じり
ひん曲げてその四肢をへし折って
裏に投げ棄てゝやりました。…と
是は勞ぐ/ネグと捻じる/ネジルと云ふ語の聞き間違いに端を發する。小碓命は
父帝から聞いた通りに四肢を捻って血塗れにし、兄にその罪を敎へ諭したのだ
於(レ)是。天皇惶[カシコ]ミマシテ(二)其ノ御子ノ之建ク荒キ之情[ミコゝ]ヲ(一)而。詔[ノ]リタマハク之。
是に於て天皇は御躬の御子なる小碓命の猛々しく荒振る気性を怖れ——とは云へ
元々は彼が餘りにも從順で在るが故に過ぎ無いが…
是に詔をし賜ふて命じ給ふた
[※景行天皇]西ノ方[カタ]ニ有リ熊‐曾[クマソ]建[タケル]二‐人[フタリ](一)。是不(レ)伏[マツ]ロハズ无キ(レ)禮[井ヤ]人‐等[ヒト]ナリ。故レ取[ト]レ(二)其人等ヲ(一)ト。
——西方に熊曾建が二人居る。是服從せずに禮を——或は朝貢を?
しようとし無い奴等だ。此の二人の命を取って來い
…と
ノタマヒテ而遣[ツカ]ハシキ。當リテ(二)此之時ニ(一)。其ノ御‐髮[ミカミ]結[ユ]ハセリ(レ)額[ミヒタヒ]ニ也。
此の時、その髪の毛は未だ額に結っていた——つまり
未成年の夭さで在った、と
爾[コゝ]ニ小碓命給ハリ(二)其ノ姨[ミヲバ]倭‐比‐賣[ヤマトヒメ]ノ命ノ之御‐衣[ミソ]御‐裳[ミモ]ヲ(一)。以テ(レ)劔[タチ]ヲ納[イレ]テ(二)于御‐懷[ミフトコロ]ニ(一)而幸‐行[イデマシキ]。故レ到リテ(二)于熊曾建ガ之家ニ(一)見[ミ]タマヘバ者。於(二)其ノ家ノ邊[ホトリ]ニ軍[イクサ]圍[カク]ミ(二)三‐重[ミヘ]ニ(一)。作リテ(レ)室[ムロ]ヲ以テ居[ヲ]リケル。於(レ)是言(三)‐動[イヒトヨ]ミテ爲ムト(二)御‐室[ミムロ]ニ樂[ウタゲ](一)、設(二)‐備[マケソナ]ヘタリキ食‐物[ヲシモノ]ヲ(一)。故レ遊(二)‐行[アル]キテ其ノ傍[アタリ]ヲ(一)。待チタリキ(二)其ノ樂‐日[ウタゲスルヒ]ヲ。
ここに、その姨——御叔母なる倭比賣の命の御衣と御裳を賜はり
劔をしてその御懷に納めて出で坐したのだった。熊曾建の家に到って窺うに
その家の周邊は軍隊が三重にも亙って圍み、その中に居宅を作って居る。折しも
その御室に酒宴の樂しみを披こうと謂い慌ただしく動き回っている最中で
食物の準備をして居た。故に
その周圍に遊んで彼等の酒宴の日を待ったので在る
爾[コゝ]ニ臨[ナ]リテ(二)其ノ樂日(一)。如ク(二)童女ノ之髮ノ(一)梳(二)‐垂[ケヅリタ]レ其ノ結[ユ]ハセル御髮ヲ(一)。服[ケ]シテ(二)其ノ姨ノ之御衣御裳ヲ(一)。旣ニ成リテ(二)童女ノ之姿ニ(一)。交(二)‐立[マジリタ]チテ女‐人[ヲミナドモ]ノ之中ニ(一)。入(二)‐坐[イリマシキ]其ノ室‐內[ムロヌチ]ニ(一)。
酒宴の日に臨み、童女の様にその結った髪を梳き垂らして
叔母に賜ふた御衣御裳を纏い、女人等に混じって躬を引き立たせ
酒宴の中に入り込む。熊曾兄弟は二人揃って其處に居る
爾[コゝ]ニ熊曾建兄‐弟[アニオトフト]二人。見(二)‐感[メデ]ゝ其ノ孃‐子[ヲトメ]ヲ(一)。坐[マ]セテ(二)於己[オノ]ガ中ニ(一)而。盛‐樂[サカリニウタゲタリ]。故レ臨(二)其ノ酣‐時[タケナハナルトキ]ニ(一)。自リ(レ)懷[ミフトコロ]出[イ]ダシ(レ)劔ヲ。取リテ(二)熊曾ガ之衣‐衿[コロモノクビ]ヲ(一)。以テ(レ)劔ヲ自リ(二)其ノ胸(一)刺シ通シ玉フ之時。其ノ弟[オト]建見‐畏[ミカシコ]ミテ逃‐出[ニゲイ]デキ。乃[スナハ]チ追(二)‐至[オヒイタ]リテ其ノ室之椅[ハシ]ノ本[モト]ニ(一)。取[ト]ラヘ(二)其ノ背‐皮[セ]ヲ(一)。劔モテ自リ(レ)尻刺シ通シタマヒキ。
同じ名を持つ弟は遁れ延び、故に兄だけを弑するので在る。此の
兄弟も、或は
雙兒なのだろうか?そんな妄想を抱かせる
如何にも神話じみた語り口では在る
爾[コゝ]ニ其ノ熊曾建白[マヲ]シ言ク。
[※熊曾建]莫(レ)動カジタマヒソ(二)其ノ刀[ミタチ]ヲ(一)。僕[ワレ]有(二)白ス可キ言(一)。
——その刀を動かすな。俺に
云ふ可き叓が在る
爾[故レ]暫[シマシ]許シテ押シ伏セタマフ。於(レ)是白言。
[※熊曾建]汝[ナ]ガ命ハ者誰ニマスゾ。
——お前は誰だ?
爾詔。
[※小碓命]吾ハ者坐(二)纒向之日代宮(一)所(レ)知[シ]ロシメス(二)大八島ノ國(一)大帶日子淤斯呂和氣ノ天皇ノ之御子。名ハ倭男具那ノ王者‐也[ニマス]。意‐禮[オレ]熊曾建二人。不(レ)伏無(レ)禮聞‐看[キコシメシテ]而。取(二)‐殺[トリテコロセ]ト意‐禮[オレ]詔テ而遣ハシタマヒキ。
——我は纒向之日代宮に坐し坐し大八島の國を御宇す大帶日子淤斯呂和氣の天皇の御子。名は
倭男具那の王で在る。熊曾建、從はず禮を盡さぬ叓、御帝聞こし召して、是を弑せと欲され賜ひ
詔り給ふた。以て、我は遣されたので在る
爾[コゝ]ニ其ノ熊曾建白。
[※熊曾建]信‐然[マコトニシカマサム]也。於(二)西ノ方ニ(一)除[オ]キテ(二)吾二人ヲ(一)。無(二)建ク强[コハ]キ人(一)。然ルニ於(二)大倭ノ國ニ(一)。益[マ]シテ(二)吾二人ニ(一)而建キ男ハ者坐[イマ]シ祁‐理[ケリ]。是‐以[コゝヲモテ]吾レ獻[タテマツラム](二)御名ヲ(一)。自(レ)今以後。應[可]シ(レ)稱[タゝヘマヲ]ス(二)倭[ヤマト]建[タケル]ノ御‐子[ミコ]ト(一)。
——慥かにそうに違い在るまい。西方に
吾等二人を除いて猛々しく強靭なる者は外に居無い。然るに
大倭の國には我らを凌ぐ男が居たようだ…是を以て
俺は我が名をお前に捧げよう。今より以後
倭の建の御子と——卽ち
倭に於ける熊曾建兄弟の嫡子と…
その名を讚えて名乗るがいゝ
是事白シ訖[ヲ]ヘツレバ。卽チ如(二)熟‐苽[ウメルウリ]ノ(一)振‐折[フリサ]キテ而殺シタマヒキ也。故レ、自リゾ(二)其ノ時(一)。稱ヘテ(二)御名ヲ(一)。謂[マヲ]シケル(二)倭[ヤマト]建[タケル]ノ命[ミコト]ト(一)。然シテ而還リ上ル之時。山ノ神。河ノ神。及穴‐戶[アナド]ノ神。皆言‐向[コトムケ]和[ヤハ]シテ而參‐上[マ井ノボリマシキ]。
已上を以て語り畢れば
卽ち大倭建=小碓命は是を
熟れた苽の樣に眞っ雙つに斷って殺した。故に
此の時から小碓命は讚られて倭建命とその名を呼ばれたので在る。…と
そして此の後出雲行きの挿話が在って、再び天皇は歸朝した許りの倭建=小碓命に詔りする
爾[コゝ]ニ天皇亦タ頻[シキ]テ詔(二)倭建命ニ(一)。
[※景行天皇]言(二)‐向[コトム]ケ‐和‐平[ヤハ]セ東[ヒムカシ]ノ方十‐二‐道[トヲマリフタミチ]ノ之荒‐夫‐琉[アラブル]神及タ摩‐都‐樓‐波‐奴[マツロハヌ]人‐等[ヒトゞモ]ヲ(一)而ト。
副ヘテ(二)吉備ノ臣等ノ之祖名ハ御‐鉏[ミスキ]友‐耳[トモミゝ]建‐日‐子[タケヒコ]ヲ(一)而遣[ツカ]ハス之時ニ。給ヒキ(二)比‐比‐羅‐木[ヒゝラギ]ノ之八‐尋‐矛[ハヒロボコ]ヲ(一)。[●比比羅三字以(レ)音。]故レ受ケテ(レ)命[ミコト]ヲ罷‐行[マカリイデマ]ス之時ニ。參(二)‐入[マ井]リマシテ伊勢ノ大御神ノ宮ニ(一)。拜[ヲガ]ミタマヒテ(二)神ノ朝‐廷[ミカド]ヲ(一)。卽チ白[マヲ]シタマヘラクハ(二)其ノ姨倭比賣命ニ(一)者。
[※日本武尊]天皇ハ旣[ハヤ]ク所(三)‐以[メスラム]カ思[オボ]シ(二)吾レヲ死[シ]子ト(一)乎。何[イカナレカ]擊(二)‐遣[トリニツカハ]シテ西ノ方ノ之惡‐人‐等[マツロハヌヒトゞモ]ヲ(一)而。返[カヘ]リ參‐上‐來[マ井ノボリコ]シ之間[ホド]。未(レ)經(二)幾‐時[イクタ]モ(一)。不シテ(レ)賜ハ(二)軍‐衆[イクサビトゞモ]ヲ(一)。今‐更ニ平(二)‐遣[コトムケニツカ]ハスラム東ノ方十二道ノ之惡人等ヲ(一)。因テ(レ)此ニ思‐惟[オモ]フニ。猶所(レ)思(二)‐看[オボ]シメスナリケリ吾レ旣[ハヤ]ク死[シ]子ト焉。
——父帝は私に死ねとおっしゃられているのでしょうか?
どうして
西方の反逆者どもを討って後
漸く都に帰り着いて未だ幾許も無いというのに
まともな兵力さえお与え下されようとはせずに
今また再び東の十二道の反逆者どもを討てと。…もはや
父帝はは私に死ねとおっしゃっているとしか思えませぬ
患[ウレヒ]テ泣[ナ]キテ罷[マカ]リスル時ニ。倭比賣ノ命賜ヒ(二)草‐那‐藝[クサナギ]ノ劔[タチ][●那藝二字以(レ)音]亦タ賜ヒテ(二)御‐囊[ミフクロ]ヲ而詔。
[※倭比賣命]若シ有[ア]ラバ(二)急‐事[トミノコト](一)、解キ玉ヘ(二)茲[コ]ノ囊[フクロ]ノ口ヲ(一)。
故レ到テ(二)尾張ノ國ニ(一)、入リ(二)‐坐[マ]シキ尾張ノ國造ノ之祖美‐夜‐受‐比‐賣[ミヤズヒメ]ノ之家ニ(一)。乃チ雖(レ)思(レ)將(レ)婚[メサムトオモホシゝカドモ]。亦タ思[オモ]ホシテ(二)還リ上リタラム之時ニコソ將(一レ)婚[メサム]ト。期‐定[チギリサダメテ]而幸[イデマ]シテ(二)于東ノ國ニ(一)。悉[コトゴト]クニ言(二)‐向[コトム]ケ和(三)‐平[ヤハ]シタマヒキ山河ノ荒ブル神及[マ]タ不‐伏‐人‐等[マツロハムヒトゞモ]ヲ(一)。
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