髙橋氏文 原文及び現代語訳。3。日本書紀による日本武尊熊襲征伐
秋八月熊襲亦反[ソム]キテ之。侵スコト(二)邊‐境[メグリ]ヲ(一)不(レ)止マ。
秋八月。熊襲の叛亂は相ひ續き邊境を侵犯する叓
些かも已めようとし無い
冬十月丁酉朔己酉。遣シテ(二)日本武尊ヲ(一)令ム擊タ熊襲ヲ(一)。時年十六。於(レ)是日本武尊曰ク。
冬十月丁酉朔己酉。小碓の命。…卽ち倭男具那の命を遣して熊襲を討たんと御帝は
謀られ賜うた。時に皇子は十六歳。卽ち
景行天皇の
御世二十七年に十六歳なら倭男具那の命の生年は
御世の十一年で在る。亦、皇后を
娶し給うたのが御世の二年ならば御子は娶して後
九年間生まれ無かった叓にる。亦
武内宿禰は彼等の弟分どころか、恐らくは兄貴分で在る。是に於いて
斯く倭男具那の命は父帝に申し上げた
[※日本武尊]吾得テ(二)善ク射[ユミイ]ム者ヲ(一)欲(二)與行[マカ]ラム(一)。其何處有ラム(二)善射者(一)焉。
——弓の上手を得て、それから行きましょう。何處かに居りませぬか?
弓巧みに射る者が?
或者啓シテ之曰ク。
羣臣の内の或る者が申し上げた
[※助言者]美濃ノ國ニ有(二)善射者(一)。曰ク(二)弟‐彥[オトヒコ]ノ公[ミコト]ト(一)。
——美濃の國に名手が居りまする。名は曰く弟彥の公と
於(レ)是日本武尊遣テ(二)葛城人宮‐戶‐彥[ミヤトヒコ]ヲ(一)。喚[メ]ス(二)弟彥公ヲ(一)。故弟彥公便ニ率井テ(二)石‐占[イシウラ]ノ横‐立[ヨコタテ]ヲ(一)。及尾張ノ田‐子[タコ]ノ之稻‐置[イナキ]。乳‐近[チヂカ]ノ之稻置ヲ(一)而來[マウキ]タレリ。
是に於いて倭男具那の命は葛城の人なる宮戶彥を遣はして弟彥公を召した。故に彼
弟彥公は石占の横立
竝びに尾張の田子の稻置
更に乳近之稻置を率いて謹んで參上する
則從テ(二)日本武尊ニ(一)而行之。
そして一統は倭男具那の命に從うて此の討伐に發ったので在る
十二月。到(二)於熊襲國(一)。因テ以伺フ(二)其消息及地形之嶮‐易[アリカタ]ヲ(一)。
十二月。熊襲の國に至り、仍て彼等の消息と地形とを窺った
時ニ熊襲ニ有(二)魁‐帥[※かいすい。頭目]者(一)。名ハ取‐石‐鹿‐文[トリイシカヤ]。亦曰(二)川上ノ梟‐帥[タケル]ト(一)。悉ニ集ヘテ(二)親族ヲ(一)而欲(レ)宴。
時に、熊襲に一族の首領が居た。此の者の名は
取石鹿文。亦は別に曰く、川上の梟帥——タケル、と。その頃、首領は望んでいた
親族の一同を集へて酒宴を催そうと
於(レ)是日本武尊解テ(レ)髮ヲ作リ(二)童女ノ姿ニ(一)。以テ密ニ伺(二)川上梟帥之宴ノ時ヲ(一)。仍テ劔ヲ佩[ハ]キ玉ヒテ(二)裀[ミソ]ノ裏ニ(一)。入(二)於川上ノ梟帥之宴ノ室ニ(一)。居[マジリマ]ス(二)女人ノ之中ニ(一)。川上梟帥感[メデ]ゝ(二)其ノ童女ノ之容姿ヲ(一)。則携[ト]リテ(レ)手ヲ同(レ)席。舉(レ)坏令(レ)飲而戲弄。
是に於いて倭男具那の命は御髪を解いてほどき、乙女の姿を装って秘かに
川上の梟帥の酒宴の時を待った。女装の故に劔をは衣の下に纏うて隠し
川上の梟帥の酒宴の室に忍び込んだので在る。舞う女等の中に混じって在る稚い少女を首領は
見初めた。その麗しい狀ちを愛でて手を取り席を同じくする。盃を
掲げて酒宴の時を愉しんだ
于時也更‐深[ヨフ]ケ人闌[ウスラ]ギヌ。川上ノ梟帥且被‐酒[ヱ]ヒヌ。於(レ)是。日本武尊抽[ヌ]キテ(二)裀ノ中ノ之劔ヲ(一)。刺(二)川上ノ梟帥ノ之胸(一)。
その時、夜は更けて暗く人は退いて疎らに成り川上の梟帥は最早深く酔う。是に及んで
倭男具那の命は懷に抱いた劔を抜き、是を川上の梟帥の胸に
貫き通す
未‐及‐之‐死[イマダシナズニ]川上梟帥叩(レ)頭曰ク。
未だに息絶えずに]川上の梟帥は躬らの(——倭男具那の命の?)頭を叩いて
云った
[※川上梟帥]且[シバシ]待‐之[マチタマヘ]。吾有(レ)所(レ)言[マヲ]ス。
——待たれよ。暫し。俺に言う可き叓が在る
時ニ日本武尊留メテ(レ)劔ヲ待之。川上梟帥啓テ之曰ク。
時に倭男具那の命は劔を留めて、その間近に見つめた男は云った
[※川上梟帥]汝[イマシ]尊[ミコト]ハ誰‐人[ダレゾ]也。
——お前、稀にして貴種なる尊よ。お前は
一体、誰だ?
對テ曰ク。
倭男具那の命は応えて謂った
[※日本武尊]吾ハ是大足彥天皇[※景光]ノ之子也。名ハ曰本童‐男[オグナ]也。
——私は大帶日子の天皇の皇子。名を倭男具那の命と云ふ
川上梟帥亦啓之曰ク。
川上梟帥は亦、言の葉を啓いて云った
[※川上梟帥]吾ハ是國ノ中ノ之强力者也。是以テ當‐時[トキ]ノ諸ノ人。不(レ)勝(二)我ノ之威力ニ(一)。而テ無(二)不(レ)從者(一)。吾多ク遇(二)武力ニ(一)矣。未(レ)有(一レ)若キ(二)皇子(一)者[ヒト](上)。
——俺は此の國中で最も强い者だ。事實、今以て今に到る迄此の國の諸々の者等はその
威稜に於いて俺に敵はず、從は無い者は無かった。私の武力は强大を究めたが、ただ
私には嫡子が未だに居無い
是以、賤シキ賊ノ陋シキ口ヲ以テ奉ラム(二)尊‐號[ミナ]ヲ(一)。若聽シタマハムヤ乎。
——是を以て、此の賊の賤しく穢れた賤しく穢い口から貴方に御名を捧げよう
宜しいか?
曰ク。
倭男具那の命はささやく
[※日本武尊]聽サム之。
——謂え
卽啓曰ク。
故に、死に掛けの男は云った
[※川上梟帥]自(レ)今以後號[ナ]ヅケタテマツリテ(二)皇子ヲ(一)。應サニ/シ(レ)稱ヘマツル(二)日本武[タケル]ノ皇子ト(一)。
——今此の時より以後、皇子を名附け申し上げる。…是を正に贊える可し。日本武尊…倭の
タケルの尊と。お前こそは
俺の嫡子だ
言‐訖[マウ]シテ乃通(レ)胸而殺之。
云い終わって、男は死んだ。日本武の尊に(——躬ら?)その胸を
ふたゝび貫き刺されて
/さしめて
/して
…と
言訖の主語が熊襲タケルである以上
そして文が乃
卽ち仍て後にと続く以上
通胸而殺之は
胸を躬ら貫かせて殺させた、つまりは
一種の自害だったとも讀める筈だ。卽ち
小碓命は呪われた、ので在る
故レ至ルマデ(二)于今ニ(一)稱(二)‐曰[ホメマウ]ス日本武尊ト(一)。是其緣也。
今に到る迄で倭男具那の命を贊て稱し、褒めて呼ぶ日本武の尊の御名の由緣は是で在る。——と
卽ち、小碓命は名に倚る呪詛を掛けられた、という叓になる
然後遣テ(二)弟彥等ヲ(一)。悉斬(二)其ノ黨類(一)。無(二)餘‐噍[ノコルモノ](一)。旣而從リ(二)海路(一)還テ(レ)倭。到テ(二)吉備ニ(一)以渡リ玉フ(二)穴[アナ]ノ海ヲ(一)。其處有(二)惡神(一)。則殺之。亦比[コロ]ニ(レ)至(二)難波(一)。殺(二)柏[カシハ]ノ濟[ワタリ]ノ之惡神(一)。[●濟此ヲ云(二)和‐多‐利[ワタリ]ト(一)。]
然る後に
弟彥等を遣してその一族を皆殺しにし是を誅した。海路の儘に
倭に帰還するその竟でに吉備に至って穴の海を渡る時に
其處に在った惡しき神を弑殺した。亦
立ち寄った難波に柏の和多利の神、…是も惡しき神だったが
是をも弑殺した——その後の景行天皇の四十年秋七月に
日本武の尊は東夷に發つ
是は父帝の御言宣りに從ったのである。條中盤を省略し
東夷征伐の件りを見る
日本紀卷七景行天皇ノ四十年夏六月ノ紀ニ云。
四十年夏六月。東夷多叛。邊境騷‐動[サワギドヨム]。
四十年夏六月。東夷に蠻族の叛亂は頻発した。邊境は
騷ぎ亂れてゐたのである
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