北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 17.第壹編。社會主義の經濟的正義 。第一章ノ5。
北一輝『國體論及び純正社會主義』明治三十九年公刊五日後発禁。
以下復刻シ附註ス。
個人主
義の舊
派經濟
學
然るに解すべからざることは、嘗て貴族國の貴族政治と奴隷制度とを顛覆したる個人主義が、今や却て此の新形式の貴族政治と奴隷制度とを辨護して經濟的貴族國の維持に努力しつゝあることなり。是れ燦爛たる國家の被布に眩惑[※げんわく]して内容の醜怪なるを忘却せる、所謂舊派經濟学なるものなり。
社會主義は固より個人主義と根本の思想に於て相納れざるものなりと雖も、個人主義の理想が如何に文明史の潮流を指導して流れつゝありしかを考ふるならば個人主義の尊嚴なる意義につきて決して不注意なるべからず。人類の歴史が進化の斷崖に漲り落ちんとせる時、即ち過去の革命は常に個人主義の名に於てせられたりき。ルーテル[※註1。是ルター也。]が羅馬法王の權力に對して思想の自由を呼びて起ちしより、佛蘭西國民が天賦の平等を論じてマルセーユ城[※註2。]に突貫せしに至るまで個人主義は實に
個人主
義の發
展と歴
史の進
化
革命思想の源泉なりき。これ理由あることなり。個人主義は之を說明の理論としては誠に一の臆說[※儘]に過ぎずと雖も、理想として考ふるならば或る高貴なるものを有す。社會の組織は自由の活動を理想とすることに於て進化すべく人類の幸福は萬人の平等を理想として達せらるべし。今日の野蠻人は如何にすとも數百千年來の奇異殘忍なる舊慣を脱する能はずして、個人は唯その奇異なる習慣や殘忍なる迷信の犠牲として生るゝかの如し。老ひたる父母を殺して興宴[※饗宴]する習慣も幼児を捕へて猛獣に供ふる[※与ふる]迷信も、其の一たび古來よりの習慣とさるゝや個人は一の疑ふことをだに得ざるなり。故に彼等は幾萬年を経たるべき今日と雖も依然たる喰人族[※註3]の蠻風に止まりて進まず。吾人の歴史も亦始めは然らざるを得ざりき。當時に於ては只社會的本能によりて社會的動物として存在せる社會を維持し以て他の社會との生存競争にのみ忙はしく、爲に個人は全く犠牲たるの外なかりき。埃及[※エジプト]の驚歎すべき文明も單に王及び僧侶の無用なる土木に過ぎずして、而も個人は何か故に彼等の犠牲たらざるべからざるかにつきては一の考ふる所なかりしにあらずや。バビロンの榮華然り、アッシリアの富有亦然りき。希臘羅馬の末年に及びては聊か個人の權威の認めらるゝに至りしと雖も、而もソクラテースは無智の群衆に急の自由を蹂躙せられ自ら社會國家なる名の前に其の大なる人格を放棄して毒盃を仰ぎたりき。羅馬の大都は貴族と乞食の府となりしと雖も、個人は何か故に乞食たらざるべからざるかといふことの疑問はなかりき。以降一千年、いわゆる中世暗黒の時代となりてゲルマン蠻族が文化に浴するに至るまで羅馬法王なる名に於て社會の壓力は個人の総ての者を無視したりき。凡ての者、習慣も、坐作も、行為も、言語も、思想も、政治も法律も、天下のことを擧げて法王の一命の下に在るに至れり。僧侶の破戒も、僧職の賣買も、贖罪符も、些かの疑問なしに信ぜられたりき。是れ法王一人の専制にあらず、社會の權力が法王を通じて個人を蹂躙したる者なり。――歴史の進化は個人々格の覺醒に在り。人類は宗教革命に於て茲に個人の權威を知り、『信仰の自由』となりぬ。――個人々格の覺醒は歴史の進行に伴ひて更に其の覺醒を擴げ行く。人類は更に佛蘭西革命の名に於て貴族と帝冠を顛覆し茲に『政治の自由』を宣言したり。無用の貴族に土地を私有せしめて國民は奴隷たる可らず、國民の運命は誕生の僥倖に過ぎざる一個人たる國王輩の掌中に置かる可らずと。個人主義の經濟學は此の革命の風潮に乘じて唱道せられたる者なり。(第三編『生物進化論と社會哲学』に於て偏局的社會主義と偏局的個人主義を論じたる所を見よ)。
[※註1。
マルティン・ルター即チMartin Lutherハ1483年11月10日 生、1546年2月18日没。ドイツ神学者。聖アウグスチノ修道会Ordo Sancti Augustini所属ノ所謂プロテスタント宗教革命先導者也。]
[※註2。
未詳。所謂フランス革命ニ蜂起スルマルセイユノ義勇兵ハ《ラ・マルセイエーズLa Marseillaise》ヲ隊歌トシテ歌ヒ是ハ後革命歌トシテ広マル。]
個人主
義經濟
學の革
命的任
務
實に此の個人主義の舊派經濟學は過去の貴族国經濟組織の革命のために起り革命の任務は充分に盡くしたる者なり。——歴史は經濟界のルーソー[註1。ルソー]に感謝せざるべからず。アダムスミスの富國論は實に貴族国經濟組織に對する革命の民約論[※註2。『社会契約論Du Contrat Social ou Principes du droit politique』ジャン=ジャック・ルソー]にあらずや。凡ての分科的諸科學は時の根本思想たる本流の分派なり。個人主義といふ大潮流は、ルーテルに於て信仰の自由となり、ルーソーに於て政治の自由となり、而して彼れアダムスミスにおいて實に『職業の自由』となるて發せるなり。スミスに於て當時の貴族國經濟組織を見る、蜘蛛の巢の如き法制定規、雜多なる習慣々例は全部破壊せざるべからざるものなりき。すなわち革命の外
スミス
當時の
貴族國
經濟組
織
なかりしなり。國内に刺激を與ふるに欠くべからざる外國人の營業を排斥せんがために居住法あり。その居住法によりて組合に屬せざれば何人も其の市府に於て營業を爲す能はず。これがためにヂエームス、ワツト[註3。ジェームズ・ワット]も其の發明せる蒸気機關を以て營業する事をグラスゴー市のために拒絶せられたりき。公平と名づけられたる伴事[※判事]ありて、資本家と勞働者との間に立ちて賃銀を公平に決定すとの名義を以てする權力階級の殘虐なる爪牙ありき。名は國家に於てするも實は經濟上の智識もなく誠實も公平もなき官吏の方寸にて物價を公定する専制ありき。組合の權力は絶頂に達し、徒丁の年期より種々の慣習より製作品の品質形状大小に至るまで恣に制限を設けて一歩もその外に出づる能はざりき。而して無用なる貴族國王等の寵幸によって特許せる無数の独占營業あ
經濟界
の民約
論
りき。經濟界の民約論は斯くて經濟的方面より貴族國に対する革命的任務を果すべく書かれたるなり。
[註1、及ビ2。
ジャン=ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseauハ生年1712年6月28日没年1778年7月2日、ジュネーヴ生マレ、フランス語ノ哲学者乃至政治哲学者。1755年『人間不平等起源論Discours sur l'orgine de l'inégalité parmi les hommes』、1762年『社会契約論』、1762年『エミールÉmile ou De l'éducation』、1782年以降『告白』(Les Confessions』。]
[註3。ジェームズ・ワット即チJames Wattハ生年1736年1月19日没年1819年8月25日、蒸気機関発明ス。]
個人主
義の叛
逆者
今の富國論を繼承する個人主義の經濟學者にして眞に個人主義の意義を解するならば、其れを以て今の經濟的貴族国を辨護するが如きは實に個人主義の反逆者なり。今の社會に個人の自由ありといふ者あらば、そは其等の音響を發するときの唇のみに在り。唇にもあらず、言論の自由思想の自由は遠き以前に去れり。ルーテルの信仰の自由によりて戰へる新教徒の子孫は、今や黄金大名の寄附金のために信仰の自由を賣却して侍僧となり全く當年の舊教の地位に代りぬ。ルーソーの政治の自由によりて得たる鮮血の憲法は今や黄金貴族の玉座を築かんがための礎石たるに過ぎずなれり。スミスの職業の自由、今将た[※また]何處に在りや。經濟的貴族等が其の縁故と寵幸者とを以て職業の統治權を独
階級に
阻害さ
れたる
自由競
爭
占するか為めに、餘りある経綸[※けいりん。国家統治ノ施策]の才を抱けるものも三四十錢の賃銀を得て終生を暗黒なる鑛坑[※鉱坑]の中に送らざるべからず。自由競争によりて彼れ取て代るべしと云ふか。是れ德川の封建制度に於て一剱天下を横行せし元龜天正の戰國を夢むる者、今の法制經濟を學ふ青年書生は凡て、是れなり。馬鹿大名の下に匍匐[※ほふく]する封建時代よりも由井正雪[※註1]等に取りては戰國の昔は遥かに鼓舞せられたるべし。若し一剱を以て德川の封建制度に反抗して諸侯に取て代りしものありしならば猿の如く口より手に生活しつゝある勞働者は一時間に坐ながら數百万圓づゝの利潤ある經濟的諸侯に取て代るを得べし。或は往年の山田長政[※註2]の如く北米に渡航し滿韓に赴きて經濟的諸侯たらんとするか、而も海外の闆圖[※版図]は巳に[※既に]更に大なるそれらに分割せられ終りたるに非ずや。今日三井岩崎を望む者あらば其の不可能なる日本皇帝たらんことを企だつるが如く、不敬漢とは呼ばれさるべきも發狂者と見らるべきは論なし。自由競争とは競争すべき機會の自由なる獲得を前提としての立言なり。重き一台の車に、老病の父母と、貧血の妻と、飢餓に泣く子女とを載せて、よろばひながら坂を昇り行く失望の子を、輕裘肥馬[※けいきゅうひば。富ムル者]の一鞭を振つて嘲笑し去る者ありとせば、そは地獄に存在すべき自由競争なり。繊弱なる婦女子と可憐なる童幼とを驅りて終生を機械囂々[※ごうごう。喧々囂々。喧シイ]の下に繋ぎ、嘗て拜顔する事をも得ざる工業主と自由に競争せよと云ふ、是れ封建諸侯と一土百姓とが自由競争に在りといふと等しき殘酷なる侮弄なり。自己の殺活の權下に在る奴隷の戰ふべき武器なきを知りて、而も教育財産の鎧に身を固め雲の如き家臣に護衛せられ、資本の槍を閃かして對等の勝負を求む、こは自由競争にあらずして捕虜の虐殺なり。スミスは自由競争のために自由競争を說きしに非ず、貴族國顛覆のために自由競争の對等に行はるべき平等の天地を理想せるのみ。然るに今や再び經濟的貴族國が美はしき自由平等の法律を被布として建てられ、社會は當時の如く上下の二大階級に越ゆべからざる空間を隔てゝ割裂したり。職業の自由とは空しく富国論の紙上に殘りて――見よ、吾人は囚徒の如く機械の周囲に繋がる。實に人類の勞働に代わるべく期待
機械と
云ふ封
建城廓
せられたる機械は、今や貴族階級の城廓となって徒年の平民を威壓したる如く全社會の上に轟々の響を爲して臨む。社會より貧困を驅逐せんがために歓迎せらるべき機械は、今や貧困者を絞磔し、絞磔を免れたる僥倖者をも失業の不安に脅かして運轉す。あゝ機械發明に逆比例する貧民階級の擴大と失業者發生の驚くべき速力。斯る石壁と溝墟と
自由競
爭の二
分類
を以て築ける城樓よりも遥かに金城鐡壁の器械を以て黄金貴族の護らるゝ時、何の自由競争あらんや。自由競争とは階級に伴ひて二つに分類さるべし、即ち黄金貴族間の殘虐なる經濟的混戰の放任、及び賃銀奴隷間の麺麭屑に対する餓鬼道的爭奪これなり。――尊き個人主義と我がスミスとは斯ることの為めに自由競争を說かんや。富國論が児戯に類するニユコメン[※ニューコメン。註3]の蒸気機關を只一ケ所に而も偶然に引用せるに過きざるは彼が一百年前の人なればなり。彼にして存するならば今日の經濟學は機械を本論とし他は凡て附録に組み替へよと云はん。今日一切社會の問題は機械より湧沸す、社會的現象の凡ては機械を中心とし
機械中
心問題
の社會
的諸科
學
て繞る[※廻る]。実に機械と云ふ封建城廓を貴族階級に占領せしむ可きや否やが一切社會的諸科學の根本問題なり。
[註1。
由井乃至油井乃至遊井乃至湯井乃至由比乃至油比正雪即チゆいしょうせつ乃至まさゆきハ1605年(慶長10年)生、1651年(慶安4年)7月26日是旧暦(9月10日)没。1651年(慶安4年)所謂慶安ノ変或ハ由井正雪ノ乱起ス。是幕府顛覆ヲ計ル蜂起也。慶安ノ変頓挫シ自刃ニ依リ没ス。]
[註2。
山田長政即チやまだながまさハ1590年(天正18年)頃駿河国或ハ伊勢国乃至尾張国生、1612年朱印船ニタイ王国(シャム)ニ渡ル。パタニ王国是マレー王朝也ト交戦中ノ1630年(寛永7年)没ス。是シャム側内紛ニ依ル毒殺乎。未詳。]
[註3。
トマス・ニューコメンThomas Newcomenハワット以前ノ蒸気機関発明家。《[生]1663.2.28. デボン,ダートマス[没]1729.8.5. ロンドン
イギリスの技術者。 1705年 J.コーリーとともに高圧蒸気を使わない大気圧で動作する蒸気機関を発明。 12年,第1号機を完成。従来の T.セーベリの機関に比べて強力な実用性をそなえ,25年頃から鉱山の揚水用ポンプの動力源として,74年に J.ワットの蒸気機関が出現するまでよく使われた。》以上『ブリタニカ国際大百科事典』引用。]
個人主義の根據なき誤謬なることは後に說く。只その誤られるにせ
個人主
義は革
命に至
る
よ之を今日の經濟的貴族國の下において唱導せんとする者あらば、そは嘗てスミスが爲せる如く革命の先鋒たらざるべからず。經濟的貴族の闕下[※けっか。脚ノ下]に匍匐して、徒らに望みなき賃銀奴隷を欺瞞するを以て職業とな
個人主
義の論
理的歸
結
す如きは其者に取りては職業の自由たるべしと雖も、スミスは地下に慟哭すべし。否、個人主義の論理的歸結は國家を以て『止むを得ざる害物』と名くる[※名附くる]如く一の無政府主義に在り。彼の個人の絶對的自由に憧憬して無政府主義を唱ふる者の如きは論理的進行の當然にして、そのある者の爆烈弾に訴えうるが故に强力禁壓せらるといえども。現社會の『止むを得ざる害物』を個人主義に於て讚美しつゝある者は爆烈彈よりも大規模
官許無
政府黨
員
なる餓死に訴えてその主義を實現しつゝある官許無政府黨員なり。社會主義にせよ、個人主義にせよ、其の現社會の經濟的貴族國なるを認るならば悉く反對の側に立たざるべからず、今日日本に於て一括して社會主義と目せらるゝものゝ中に依然として舊式の獨斷的自由平等論
所謂社
會主義
者に混
ぜる個
人主義
者
を爲しつゝある者を見るが如き其の個人主義者にして現社會革命の餘儀なきを認める者の例なり。(故に彼らは廣き意味における社會革命家と云うべし、後に説く)。
[※附註。
日本明治ノアナキズムAnarchismヲ代表ス幸徳 秋水生年1871年(明治4年、皇紀2531年)9月23日是旧暦(11月5日)、刑死1911年(明治44年、皇紀2571年)1月24日ノクロポトキン(Пётр Алексе́евич Кропо́ткин、生年1842年12月9日 没年1921年2月8日)ヲ読ムハ1905年(明治38年、皇紀2565年)《新聞条例》違反ノ為獄中ニ在ル時也。
田中正造1841年(天保12年)11月3日是旧暦(12月15日)生、1913年(大正2年、皇紀2573年)9月4日没ノ所謂足尾銅山直訴ハ1901年(明治34年、皇紀2561年)12月10日。
幸徳秋水ノ秋水名附ケ親タル中江兆民ハ生年1847年(弘化4年)11月1日是旧暦(12月8日)、没年1901年(明治34年)12月13日。自由民権運動主導シ『民約訳解』仏学塾1882年(明治16年、皇紀2542年)公刊是ルソー『社会契約論』翻訳。
矢野龍渓即チやのりゅうけいハ生年1851年(嘉永3年)12月1日是旧暦(1月2日)没年1931年(昭和6年、皇紀2591年)6月18日ニシテ社会主義者ヲ標榜シ1902年(明治35年、皇紀2562年)『新社會』大日本圓書株式会社ヨリ公刊ス。]
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