小説。——櫻、三月の雪…散文。及び立原道造の詩の引用 /《‘In A Landscape’ ...John Cage,1948》Ⅱ 或る風景の中で。ジョン・ケージ、1948 ■19
以下、一部箇所に暴力的な描写が在ります。
ご了承の上お読み進めください。
又、歴史的記録として過去の政治スローガンの引用乃至模倣が使用されますが、
特にそれらを特に顕彰しようとする意図も在ません。
櫻、三月の雪
…散文。及び立原道造の詩の引用
三部作
《‘In A Landscape’ ...John Cage,1948》Ⅱ
或る風景の中で。ジョン・ケージ、1948——Ⅱ
Zaraθuštra, Zartošt, Ζωροάστρης
ゾロアスター
…ベトナム。
本国の、英語もしゃべれず、人材不足の工場を廻して生計を立てているしかない、明日アメリカか中国で大規模な不況でも起れば、頸を吊るしかすべのないSirたちの要求は、単に、自分たちが不愉快ではない家畜に仕立て上げてくれることだけに過ぎない。業務上の創造性など必要ない。ねじを廻す腕だけがあればいい。創造性など、Sirたちに固有の高貴な特権にすぎない。そして、ベトナムではそれはもはやひとつの巨大な産業だった。いくつも…ベトナム。
南部は熱帯に属し
現地ベトナム人たちが立ち上げた
気候は雨期と乾期に因る
送り出し会社が
北部は温帯に属し、所謂四季らしきものが
設立され、ベトナム人たちによって、
無いとは云えない。尤も
ベトナム人たちの収益の為に
沖縄より更なる南方の其処のそれは
運営される。彼等は、だから、彼らが
沖縄のそれを更に
かつて留学なり工場労働なりした、もともとは
熱湯で薄めたような
旧日本軍の極端な他者への
それに過ぎない。とは言え
残虐行為と、及び極端な
サパと言う高山の町には
自己乃至身内に対する
雪が降るらしい
残虐行為、喩えば南方戦線に於けるさまざまな虐殺更には玉砕と集団自決と神風と序でにはサムライのハラキリで、アメリカの手によって有名になったにすぎない東洋のいびつな文化を持った奇矯な国のことを、必死になって夢の国に仕立て上げなければ成らない。
いわば、労働システムに於ける完全な殖民地システムの宗主国の国土のうちで、買い叩かれた奴隷たちはやさしいSirたちのもとで、宗主国の民族のものたちが、いまや誰もやりたがらなくなって放棄して仕舞ったいわば穢れ仕事に従事する。とはいえ、在日本外国人労働者たちのことを移民とは呼べない。なぜなら、単純にかれらは日本への永住など希望して居ないからだ。基本的には、貨幣価値の格差が生む利益を獲得し獲るだけ獲得したら、自国に還って自分の会社でも開きたい、乃至、外国経験を売り物にして有利な就職をするための、単純な手段としての一時移住であって、そもそも日本という国への羨望も憧れも尊敬も一切必要ない。その意味では、逆に日本、乃至韓国なりなんなりの東アジア先進国ののほうがけ経済的殖民地にされているのだともいえる。仮に、日本滞在時に彼らのだれかが日本への永住を望み始めたとしても、それはその彼固有の偶発的な意思であって、本質的な問題ではない。宗主国は殖民地の現地人たちを利用し、引き取られた現地人たちは宗主国民たちを利用する。お互いに利用しあって居るので、この、あまりにもエレガントな植民地主義に、それぞれの感情的な要因以外で破綻すべき必然も無い。その意味で、日本は決して移民国家とは言えない。移民国家の道をたどって居るともいえない。他人の侵入とともにたやすく破綻するあまりにも脆弱な自国文化、と、彼ら、百年前の自国語さえ満足に読めないいわば文化的文盲集団がそう呼ぶ彼らの生活流儀の崩壊におびえる、相互植民地主義の宗主国である、に、過ぎない。いずれにしても、ハオHàu、という名の(——Trần Thị Hàu、眼鏡を懸けた)三十歳の《エンジニア》の(チャン、ティ、ハオ。)結婚式に行った。ホイアンと(繊細で、とても)ミーソン遺跡で有名な、と、(彼が外国で生きていけるとは想えない。)ベトナム人たちが想いこんで居る地方都市。
チャンパという名の、いまや《ベトナム》とは看做されない何処かの他人が其処で栄えさせていたヒンドゥー教文化が放棄した、レンガ造りの崩れかけの遺跡群が散乱する場所の近く、ハオの実家の庭先で彼らの結婚式が
…サン
開かれた。
Bủi Văn Sang と言う名の
バイクの後ろに着飾った
機械工学の専門家にして
ユエンを乗せて、雑然とした
サムスンの工場で働いて居たと云う彼が
街路を通り抜け、横目に
いつかの
山際の墓地に草を食む放し飼いの牛の、疎らな
飲み会の時に云った―ベトナム人は
群れを見遣りながら、…光。
みんな優しくて親切です
亜熱帯、結局は、雨期と
日本人もそうですか?
乾期の熱帯でもなく、四季の
微笑んで、私は
温帯でもないどっちつかずの
にほじんもそでつか
ただ
——そうだといいですね。と
単に
つぶやく
暑い灼熱の光線が、私たちの肌を男なく灼居ていたに違いない。
ユエンの後れがちで間違いだらけの指示に従って、さんざん迷った挙句に辿りついた其処では、既に祝宴は始まっていた。正午、十二時を少しだけ廻った時間帯。結婚式といえばカラオケの、気に障るだけの雑音が耳を聾して、バイクの
在留資格所得に一度失敗していたサンは
エンジン音をさえ掻き消して仕舞う。
もう一年も許可通知を待っていて
十一時からだと案内状には
顕かに眼差しに翳りが濃くなる
書いてあった。此処では、結婚式は
まるで
いつでも
自分が犯罪者として誰かに認定され続けて居る
一時間近く遅れなければ始まらない。だから、
その事実が彼等から、未来と過去のかすかな明るさをさえ
式は、
叩き潰して仕舞ったように
始まったばかりだったに違いない。
…海があるだろ
粗末なアルミの丸テーブルを無数に入る限り
真っ直ぐ行けば日本だから
必ずしもひろくはない庭先に、路面に
泳いで行けよ
はみ出して設置して、そして、
死ななければ行ける
いかにも中華風のテーブルクロスを
敢えて笑いながら云った私に、ひたすらに
敷く。結婚式と葬式には、全面道路が
やさしげな眼差しの儘に微笑んで
封鎖されても誰も
…本当です
文句は云わない。だから、
…わたしも、本当に
テントが前面道路を総て封鎖して、
…泳いで行こうと想いました
式場の殆どは結局は公道に他ならない。
最大ヴォリュームの下手糞なカラオケが空間をひび割らせながら鳴り響き、歌っている60代らしい男は親族のお偉方であるに違いない。珍しく、三割近くの人間たちが歌を聴いてやって居るらしい素振りを曝していたから。
顔を知った十数人の生徒たちの集団たちは、すぐに目に付いた。送り出し会社の寮で共同生活を送る彼等。
ベトナムに居住し始めてから五年近く経った私は既に、日焼けを極端に嫌うベトナム人たちよりむしろ、日に灼けていた。多くの、現地在住の外国人たちの大半と同じように。ユエンの好みに添うた、いかにもアジア的な、整えた前髪だけ色男じみて斜めに流した短髪に刈りこんで居たので、すれ違うパーティ装束のベトナム人たちは、みんな、色気づいた端整なベトナム人だと、そう想ったに違いない。妻をはべらせた私に、それでも数人の女があからさまな色眼を使った。とくに、三十過ぎの夫持ちの女たちこそが、ぶしつけに。…元気ですか?
と言った私に生徒たちは素直な歓声をくれて、含みのない国民性。嘘をつくときもいつでもでたらめな素直に嘘をついて、裏切るときもいつでも素直に容赦の無い裏切りをくれる、そんな彼らの流儀。
フンPhươngという名の、クラス担任の女の教師が、あからさまに異国人風の異なる気配を撒き散らしながら、日本風し従って丁寧に頭を下げて見せた。いずれにしても、それは異国に送り込む生徒たちを護ってやるために、敢えて日本風を叩き込んでやらなければならない送り出し会社に於ける教師の、ひとつの職務でもあった。私の眼差しは、彼女の仕草に、そんな、必ずしも意図されない彼女の責任を感じた。そして彼女は、肥満している、と、そう言ったほうがいいほどに、ひたすらに豊満さを持て余した身体を、誰がどんな意図を持ってデザインしたのかわからないステージ衣装のような黄色いパーティドレスに包む。飽くまでも、ベトナム的感性が自然に命じたが儘に。
「…先生、」と。
すぇんしぃぇ
「お元気ですか?」
おげんきでっくぁ
交わされる握手。雰囲気で、周囲の人間たちはいま、自分の眼差しの中に居る灼けた美しい男が外国産、ほぼ間違いない日本人に違いことを認識する。花婿は日本へ行くのだから、まさかサウジアラビア語を学んだりはしない。…私ハ、と。
結婚シマウ。そう、ハオが恥らった笑みを、「遠かったでしょう?」浮かべながら私に案内状を手渡そうとしたときに
どんなに
武士トハ
「…道、」
どんなに遠く
死ヌ事トコソ
私はただ、
離れていても
見附ケタリ
優しく
心はそばにいるよ
微笑んだ。…すぐに、
「わかりました?」と云ったフンに、迷いましたよ。答えた私の声さえ、40女のいやにつややかな歌声の轟音が掻き消す。
「うちのナビ、性能悪いからね。」ハオは、本来建築系電気工事の人間だった。「ときどき、壊れるの」云って笑い声を誘った私の言葉を、理解できないままにユエンは、自分が冗談のネタにされて居ることだけは悟る。
ハオの一度決まった就職先は何かのアルミ・パーツの製造業で、入管が在留資格を出さなかった。専門と就職先の職種が、あまりにも違いすぎて居るからだ。「…先生、」
と。
しぇんせぃ
次の申請まで半歳の時間を浪費し、そして
きよわ
「今日は、」
二週間ばかり前に、京都の入管からの許可を
「ハンサムですね。」
獲得した。いずれにしても
はんさんでっね
彼はもはやなにがなんでも渡日しなければならない。文字通り、泳いで海を渡っても。なぜなら、書類申請や就職斡旋などを担当する送り出し会社への礼金を支払うための借金を、銀行を通してして仕舞ったから。「…それは違います。」
私の傍らで、必死に媚を売りながら戯れかかっていたヒエンHiềnという名の二十代の男に、「いつも、です。」
一度在留資格所得に失敗していたヒエンは
私は笑いながら
授業中、事務担当者が終に
当たり障りの無い答えをやった。
一年近く待たされた発給が叶ったことを告げに来ると
四方で、誰かが
不意に
嬌声を立て続け、
茫然として
作り置きの料理が、スープ以外
そして
温めなおされもせずに
茫然とした眼差しにいきなり大粒の涙を流した
大皿で提供される。矢継ぎ早に、
顔を真っ赤にして
そして、新郎と新婦は
私の眼の前で
各テーブルを廻って、酌をして乾杯するのだが、なによりも重要なのはやとわれのカメラマンによる写真撮影だ。必ずしもアルバムに纏められるわけでもない、事あるごとに執り続けられる写真の群れを、一体何処の誰がいつ見るのか判らない。あるいは、誰の為でもない映像であるとしか言えないそれらを撮影するたびに立てられたフラッシュが私の眼差しのすみを何度も灼いて、ユエンは親族たちから排除されていた。すくなくとも母親方の親族からは完全に。
母親の事件の影響だったに違いない。あるいは、それ以後の遺産相続のせいでもあるには違いない。観光都市として旧整備され始めたダナン市は、流入する外国資本の影響で一気に土地価を高騰させていた。広い土地を所有するユエンの家族は、売れば確かに大富豪に他ならなかった。或は、行政がそれなりの金額で買い取ってしまうかも知れない。
いずれにしても、その土地の所有者の悉く総てが死んで仕舞えば、自然にユエンと、コアの姉弟の所有権に帰するしかなく、親族たちがそれを許容出来るはずもない。
自分の法的な(——冷酷な気配。)相続権の有無は(家の周辺に散在するユエンの)兎も角も、いずれにしても(親族たちと町で)それは(それとなく)自分の家族の所有なのだから、(すれ違うたびに、)考えて見れば、考えるまでもなく(意図的に)自分の所有であってならない訳では(かさなり合わされないすれ違った儘の)無い、(——冷たく冷静にお互いを拒絶しあった気配。)と。
長い間の法廷調整を経て、そして、私と結婚した以後にさえ、その火種は時に、想い出した様に再燃した。ときどき、役所の人間がユエンを訪れ、そして、雑なサイン入りの書類を手渡す。
露骨な顔をするユエンに、配達の男は、…俺じゃないよ。
俺はただ、これ、とどけるのが仕事だからさ。
あなたは起訴されています、という何枚目かの通知に、ユエンは眼差しを落として、サイゴンに居住するコアは、そんな仕事に立ち回る事など出来ない。
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