小説。——櫻、三月の雪…散文。及び立原道造の詩の引用 /《‘In A Landscape’ ...John Cage,1948》Ⅱ 或る風景の中で。ジョン・ケージ、1948 ■6



以下、一部箇所に暴力的な描写が在ります。

ご了承の上お読み進めください。

又、歴史的記録として過去の政治スローガンの引用乃至模倣が使用されますが、

それらを特に顕彰しようとする意図は在りません。





櫻、三月の雪

…散文。及び立原道造の詩の引用


三部作

《‘In A Landscape’ ...John Cage,1948》Ⅱ

或る風景の中で。ジョン・ケージ、1948——Ⅱ

Zaraθuštra, Zartošt, Ζωροάστρης

ゾロアスター

 


熱帯の町、

神国ハ只

ホー・チ・ミン市、かつて

美シク滅ビル為ニノミ

サイゴンと

生マレタリ

呼ばれた都市、あまりにも雑然として、収拾の附かない廃墟のような、のさばった人間たちが好き放題にバイクを駆る轟音の風景を見回す。雑音だらけの喧騒の廃墟、…閑散とした、生き物の気配さえ失せた空虚な風景なのではなくて、生き生きと、自分勝手で本質的に独善的な、いたわりに満ちた生き物たちの無数のおびただしい集合が息遣い、騒音を立てる、そんな。なにか、自分が人間であることの屈辱にさえ塗れさせて、むごたらしくただ見つめさせる風景。私がこのベトナムの都市に辿り居たのは四年前だった。なにを求めたわけではない。飲食店舗のコンサル名義で、

独立

首都の運命はもうすぐ

海外出店する

Độc lập

終わろうとしている。

日本人経営者の店のを

自由

4月28日朝のサイゴンは

作りに行ったに過ぎない。年をかさねて、終には

tự do

6時で外出禁止令が解け、この町の

五十歳近くになって居るに違いないものの、

幸福

ひとつのアクセサリーである物ごいたちも

出会ったときとまるで異ならない

hạnh phúc

いつもの場所に

三十前にしか見えない際立った《美貌》を

《フランスは

おさまっていた。しかし、サイゴン市

誇った、《年齢不詳

卑怯にも、我々の

タイラップタン通りの

且つ日本語の流暢な日本在住の

祖国を

ペニンシュラ・ホテル6階にある

美貌の

日本に引き渡した。我が人民は

毎日新聞支局では、忍び足で

中国人女性》ユイ=雨が取ってきた

これまでフランスという海賊に

近づいた終末の気配を感じていた。

仕事だった。日本語にネイティブと変らない流麗さを持ち、

水牛のように仕え、今度は

昨夜、4発のロケット砲弾が市内に落下、

そして

日本という海賊の奴隷となった。ベトナムの

爆発音が、

一切の同情を故国には見せず、そればかりか

二千万の人民はこのようなことには

支局の窓ガラスをはげしくたたいた。

日本人の血を引くという事実を彼が告げれば、須らく

我慢できない。革命の闘士よ

取材に行った鈴木静夫記者と

ユイ=雨に魅了された。続けて

蜂起の旗を高く

加藤敬カメラマンが悲痛な顔をして

彼が

掲げよ。祖国の聖なる

帰ってきた。「サイゴン防衛線は

ありふれた微笑のうちに、ことも無げに

呼びかけが今

総くずれだ。もう

實年齢を告げて仕舞えば、其処には

響きわたる》ホー・チ・ミンHồ Chí Minh

おしまいだ」戦場に

例外なく彼女の信者の如きものが生まれた。曰く、

DRVの独立戦争に参加した

取材に行かなくとも、戦場の方がこちらにやってきたのだ。

謂わば古代支那(と、呼んで於こう。其処の

外国人——大多数は

ズオン・バン・ミン将軍の

数千年の歴史的な総てを総称すべき呼び名を、他に

日本人——は、一般に「新

大統領就任式が始まる午後5時ごろ、

私は知らないから。)の神秘的な

ベトナム人」(nguoi

カミナリをともなった

寶石、と。一人の経営者が

Viet Nam moi)と呼ばれていた。この

豪雨が見舞った。ベトナムは

出店し、その友人を紹介され、

呼称はDRV主席ホー・チ・ミンの

もうすぐ雨期に入る。

三店舗作った。図面はユイ=雨が引いたから、

発案によるといわれているが、我々は

バイクに乗って

私の

そのことを証明する公式

自動小銃をメクラ撃ちしながら走り回る兵士の姿が

仕事は

文書をまだ入手していない。軍人、軍属ともに

見えた。「あぶない。

現地法人のベトナム人たちが

陸軍に集中している。また

顔をだすな」「床に

歓待の名目で、当然のように

離隊軍人の数を階級別に見れば、

伏せろ」だれが叫んだかわからないが、

手馴れて

下士官が最も多く、次いで兵卒、士官の

「市街戦だ」「一斉

日本人街の

順となる。彼らの

蜂起ではないか」「空襲だ」

カラオケという風俗店に

墓はベトナム各地にあり、一部は

床をはいまわりながら

連れて行こうとするのを(恥さらしの

愛国戦士を顕彰する「烈士

議論が入り乱れた。この時点で

殖民地主義者にして現代における

墓地」に

みんなの頭の中にあったのは「この

アジア人差別の

葬られている。しかし

騒ぎはいったい

ネオナチをも凌ぐ最先鋭たる日本産の

いずれもベトナム名なので、本名を

何なのか」という

豚ども)断って、時に

知るすべはない。(東京財団研究報告書2005-14)

疑問だった。(12.05.1975.毎日新聞『サイゴン陥落』)

彼らの仕事に駄目出しをする以外に特にない。そして、日本人たちは基本的に日本以外では生きていけない。驚くべき劣化、と言うべきなのだろうか。恐ろしいほどに、彼らに順応性はない。いずれにしても、彼らに彼らの店をプレゼントしてやれば、後にやるべき仕事はなく、負うべき仕事もない。彼らの出店した店舗が、成功しようが成功しまいが、無理やりデカルト座標上の引き算を非ユークリッド空間上に於ける波動関数に依って処理するような計算方法をエクセルにぶち込んででも、一度軌道に乗せてやりさえすれば後は私の知ったことではなく、ましてや彼らの、はしたなくもアジア人たるものが総て日本人を尊敬し敬い憧れなければならないという、乃至アジア系犯罪者は日本人を常にその羨望の的にしていなければならないという純情な妄想の妥当性もどうでもいい。想い出す。初めてサイゴンの、国際空港のロビーを出た瞬間に、肌にふれる熱帯の大気の部厚い温度、見あげられた太陽の日差しの、容赦も無い日差しの鋭さ、肌は音もなく灼かれ、いずれにして眼の前に点在する様々な人種の群れは、さまざまに彼ら固有の民族性を意図もなく誇っていた。韓国人は韓国人以外のものではなく、中国人は中国人でしかない。私の眼差しには差異を感じられないものの、彼ら自身の眼差しにはネパール人とインド人の間には強烈で同化し難い裂け目が存在しているに違いないことはわかるる。そしてなにより、ふしだらなまでに自分勝手なフランス人とあまりにも清楚なベルギー人の差異は眼を覆うばかりだ。耳にフランス語がふれた瞬間に、そのどちらであるかの推測が附くほどに。そして、アメリカ人は中国人と同じ強度で、何処へ行っても、何処に居ても、所詮はアメリカ人に過ぎない。土星の輪の上に彼らを放置したとしても、彼等はアメリカ人だったに違いない。…どうですか?

と、そう、出会った二日目にハオ(Hàu...ドー・ティ・ハオĐỗ Thị Hàu)という名のベトナム人が(ビン・ディン生まれの、純白の肌を)云った。或る(好き放題に曝した)車用品メーカーの(長身の男。)二代目が、新しく(必ずしも容姿に長けては居ない。)立ち上げたという(…残念ながら。)海外向け飲食店会社の、現地法人の子飼いの社長。

痩せていて、今迄日差しになど当った事などないといわんばかりに白い肌は、必ずしも彼に誇示されるわけではない。律儀で、時に適当な嘘をついて悪びれず、日本に3年ほど留学していた。「ベトナムに、



1.樹木の翳にささやいて過ぎる光がふたりして


もう馴れましたか?」

その渡越はすでに三度目の渡越だったから、必ずしも馴れて居るわけでもなく、目に映るものを驚きと共に見い出すほどにうぶなわけでもない。…そう、ね。

「美しい国ですね、…」と、私は外国人として当たり前の優美さで、彼らの国を讃えてみせる。…知っていた。

「とても。…食べ物もおいしいし、」香草だけの、臭みを放つ不衛生な露店の飲食店の提供物の群れ。「野菜がたくさんだから、」ベトナム人たちの罵声が頭の上を野放図に飛び交い、「ヘルシーだし、」足の下には吐き出された骨と口拭き紙の屑が眼を覆うばかりに「日本でも人気が出るんじゃない?」散乱する。

「それに、…ね?」…眼。私が「ベトナム人はみんな、」外国人だとわかった瞬間に、訝って「とても親切ですね。」恐れるような、そんな、顕かに異質な「…やさしいです。」人間を排除しないまでも遠ざけようとする日本産中年女の「…とても。」それに似た貞淑な「彼等は、」眼差し。

「日本人よりもやさしいと想いますよ。」そう私が云った瞬間に慌てて、その、サイゴンのハイ・ランドという外人向けのカフェの中で、ハオは云った。…いいえ。

「日本人のほうがやさしい。とてもやさしいです。」

あなたは、

にほんずぃんのほが

まだ、なにも

やすぃいでっとってもや

此の国ことを

すぁすぃでっ

知らないんです、と、此の国ともども私をまで憐れんだ眼差しを浮べたその一方で、同時に、眼差しには私あるいは、とりあえず差し当っては私に代表させた、どこかに存在する日本人と言う大きな架空の存在に気を遣った、あられもないおののきのような表情を、眼差しはただ、あざやかに曝した。「そんなことないよ。」

私は云った。

「…いい国だよ。」…と。その頃はまだ、日本でベトナム人を見かけることなど殆どなかった。そして、当然ベトナムに日本で傷付いて帰ってくる人間は僅かしかいなかった。だから、彼等にとってそこは行ったこともない文字通りの黄金の国に他ならなかった。その後、両国間の様々な協定と、貧しい日本人地方企業の労働力買いによって、大量に日本にベトナム人は溢れかえり、と同時に現地で、さまざまな形で修正不能なまでに傷付いたベトナム人を生み出し、あるいは入管審査に撥ねられて、渡航できなかったベトナム人の不平不満までもが此の国の至る処に溢れかえって、もはやそこは遠い黄金の国でもなんでもない。やさしく、暴力的なSirたちが君臨する理不尽な王国に他ならない。ベトナム人はもはや、夢と希望とともには島国行きの海を渡らない。やさしく暴力的なSirたちの、英語も通じない理不尽な、咲き誇った三月の一週間の櫻だけが夢のように綺麗な帝国に、合法的な窃盗に行くのだ。Sirたちへとりあえずの忠誠を誓ってやり、けち臭いSirたちが出し惜しむ金をふんだくって、稼ぐだけ稼いげばさっさと、故国に帰る。日本人たちも彼等の永住など望んではいない。非=日本人とは公害分子に他ならず、金を落す観光客ならともかく、彼等には金さえ恵んでやってるではないか。遣えるだけ遣えば国外に追放して二度と戻ってきて欲しくない。出来るだけ安価に労働力を窃盗できればそれでよい。…と。そしてその文化的汚染分子たる非=日本人たち自身、必ずしも難解なだけで魅力の無い日本文化になど興味はなく、永住などする気にもならずに、彼等の家族たちが待つ故国、ふんだくった金だけ持って還っていく。二度とその国に戻る気など無い。そんな、合法的で、そもそもSirたち本人が望んで居る彼等の窃盗。お互いの利益に合致した、相互窃盗行為。日本の、やさしいおばあさんの眼差しは呟く。此の国で働け。そして、働くだけ働いたらさっさと帰ってくれ。此処はあなたがたのための国土ではない。あくまでも、我々日本人の、儚くも美しく、他人は憧れなければならないが共有などしてはならない固有の文化に本来支配されて在る可き、純正且つ真性日本人たちのだけ国土なのだ。…と。エレガントな植民地主義。ある意味において、誰も征服されず、屈辱を受けず、時に失敗はしても誰も、必ずしも傷付きはしない奴隷主義、そしてそれがお互いに煽りはじめる選民主義。お互いが利用しあうのだから、それはそれでどこかの正義漢づらさげた男が文句をつける所でもない。…どうしてですか?

不意に、ハオが云ったので、「なに?」

「どうして、結婚しないの?」

その、唐突な、不意の所謂タメ口に、

どすぃてけこんすぃなぃ?

私は声を立てて笑った。その笑い声に、ハオは不意に自分に対する嘲笑を感じ取ったに違いなかった。総てを

「…だって、でも、」

性急に打ち消そうとして、ともあれ

「すごくハンサム。…仕事もいい。」

結局は自分がそもそもなにを

「ですから、…性格。」

打ち消そうとしたのか、それさえ曖昧な儘に

「やさしいです。…どうして?」

ただ、唇に吐かれる自分の言葉にだけ焦燥し、いずれにしても

「わからないよ。…どうして、」

ハオは、私を覗き込むように見つめ返して

「結婚しないね?」

ハオが笑っていた。私の眼差しの中で。その(―男。)声を、私は(血まみれの男。)自由に耳にふれさせながら、サイゴン、(無様な、あまりにも奇形化した)中心部のヴィンコム・センターの(捻じ曲がった頭部を)カフェの店内。(肛門から)

英語と、中国語、(のた打ち回るように)フランス語、(引きずり出して)ポルトガル語。(その)ベトナム語と、あるいは、(巨大な膨張した眼球を)そして日本語を話して居るのは(脈動させる。それ)私たちと、遠い蓮向かいの、(…ハオ。ドー・ティ・ハオ。)スーツ姿の日本人二人しか居ない。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000