北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 12.緒言。
…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
北一輝『國體論及び純正社會主義』
復刻及ビ附註
北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。
註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。
復刻
底本題字ハ
北 輝次郎著
國體論及び純正社會主義
底本ニ『北輝次郎寄贈本』及ビ『明治三九・五・九寄贈』ノ印在リ]
復刻凡例。
[※ ]内訓及ビ語釈注釈。
底本ハ
明治三十九年五月六日印刷
明治三十九年五月九日発行
有斐閣、同文館、東京堂版ノ国会図書館デジタル版也。
緒言
現代に最も待望せられつゝあるものは精細なる分科的研究に非らず、材料の羅列事實の豊富に非らず、誠に渾て[※すべて]に渉る統一的頭腦なり。固より微小なる著者の斯る[※かゝる]ことの任務に堪えふるものに非らざるは論なしと雖も、僭越の努力は、凡ての社會的諸科學、即ち經濟學、倫理學、社會學、歴史學、法理學、政治學、及び生物學、哲學等の統一的知識の上に社會民主々義を樹立せんとしたるとなり。
著者は古代中世の偏局的社會主義と革命前後の偏局的個人主義との相對立し來れる思想なることを認むと雖も、其等の進化を承けて今日に到達したる社會民主々義が、國家主義の要求を無視するものに非らざると共に亦自由主義の理想と背馳すといふが如く考へらるべきものにあらずと信ず。故に、本書は首尾を一貫して國家の存在を否む今の社會黨諸氏の盲動を排すると共に、彼等の如く個人主義の學者及び學説を的に鋒を磨くが如き惑乱を為さゞりき。即ち本書の力を用ひたる所は所謂講壇社會主義といひ國家社會主義と稱せらるゝ鵺[※ぬえ。鵺乃至鵼乃至恠鳥乃至夜鳥乃至奴延鳥。日本伝承中ノ妖怪奇異。一説ニ顔ハ猿、胴体ハ狸、四肢ハ虎、尾ハ蛇。]的思想の驅逐なり。第一編『社會主義の經濟的正義』に於て個人主義の舊派經濟學に就きて語る所少なくして金井田嶋諸氏[※註1]の打撃に多くを盡くしたる如き、第二編『社會主義の倫理的理想』に於て個人主義の刑法學を輕々に駁して樋口氏[※註2]等の犯罪論を論破するに努めたる如き是れなり。社會の部分を成す個人がその權威を認識さるゝなくしては社會民主々義なるものなし。殊に歐米の如く個人主義の理論と革命とを經由せざる日本の如きは、必ず先づ社會民主々義の前提として個人主義の充分なる發展を要す。
[註1。
金井延即チかないのぶるハ生年1865年(元治2年、皇紀2525年)2月1日是旧暦(2月26日)没年1933年(昭和8年、皇紀2593年)8月13日]ノ法学博士也。
田嶋錦治即チたじまきんじハ生年1867年(慶応3年、皇紀2527年)9月7日是旧暦(10月4日)没年1934年(昭和9年。皇紀2594年)6月28日)ノ経済学者。後述]
[註2。
樋口勘次郎即チひぐちかんじろうハ生年1872年(明治4年、皇紀2532年)11月27日是旧暦(1月7日)没年1917年(大正6年、皇紀2577)12月13日)ノ教育学者也。]
第三編『生物進化論と社會哲學』は社會哲學を生物進化論の見地より考察したるものなり。即ち正確に名くる[※名附くる]ならば『生物進化論の一節としての社會進化論』と云ふべし。[※註1]而しながら今日の生物進化論はダー井ン[※此ノ『ン』小字。以下同。][※註2]以後其の局部的研究に於ては著しく發達したるに係らず、全体に渉りて尚混沌たり。即ち『組織』と『結論』となし。故に本書は其の主たるところが社會哲學の攻究[※儘]に在るに係らず、單に生物進化の事實の發見として繼承せられつゝあるものに整然たる組織を建てゝ凡ての社會的諸科學の基礎となし、更に目的論の哲學系統と結び附けて推論を人類の今後に及ぼし以て思辨的ながらも生物進化論の結論を綴りたるものゝ始めなる點に於て、著者は無限の歡喜を有することを隠蔽する能はず。固より人類今後の進化につきては今日の科學は充分なる推論の材料を與えず、且つ斯るものゝ當然として著者其人の傾向に支配さるゝ所の多かるべきは論なしと雖も、是れ愼重なる歐米思想家の未だ試むるに至らざる所、後進國學者の事業として最も大擔なる冒險なり。而して著者は社會民主々義の實現が則ち其の理想郷に進むべき第一歩たるべき宗教的信念として是れを社會民主々義の宗教と名け[※名附け]、社會主義と基督教との調和衝突を論爭しつゝある歐米社會主義者と全く異なれる別天地の戸を叩きたり。由來基督教の歐米に於て思想界の上に專權を振ふこと今尚羅馬[※ローマ]法王の如くなるは、恰も[※あたかも]日本に於て國体論[※儘]と云ふものゝ存するが如し。日本の社會主義者に取りては『社會主義は國体に抵觸するや否や』の問題にて已に[※既に(全ク以テ)]重荷なり。更に『社會主義はキリスト教と抵觸するや否や』という歐米の國体論を直譯によりて輸入しつゝある社會主義者の或者の如きは解すべからざるも甚だし。而しながら本論は固より宗教論にも非らず又生物進化論其者の説述が主題に非らざるは論なく、人類社會といふ一生物種屬の進化的説明なり。著者は、憐れむべきベンヂヤミン、キツド[註3]の『社會進化論』が人類社會を進化論によりて説明せるダー井ン以後の大著なりとして驚歎[※驚嘆]されたる如き今日、この編を成したるにつきて聊か[※いささか]の自負を有す。
[註1。
《今我か國は幸にして政教一致の千古の国粹を保守し得たるは社會進化の最惠の要件を保守し得たる者と謂ふべし。(…)純白なる道理の世は尚ほ遠き未来に属す。現世は尚ほ個人も社會も信向の力にして動く時代なり。故に社會啓発の要件に適合する我か千古固有の國民的信向を保持するは人生進化の天與の武器を愛惜する所由たる者なり。》是穂積八束『国民教育愛国心』東京有斐閣書房明治三十年六月七日初版発行依リ引用。進化論援用ノ言説必ズシモ北一輝ノ独自性ニ非ズ寧ロ当時ニ既ニ通俗的也。故ニ北ノ論説ノ手法ハ当時ノ通俗言説ニ共通ノ素材ヲ用ゐテ異ナル結論ヲ持チ来タラスニ在ルト想ユ。]
[註2。
チャールズ・ロバート・ダーウィン即チCharles Robert Darwinハ生年1809年2月12日没年1882年4月19日。
ビーグル号ハ1831年12月27日プリマス是イングランド、デヴォン州出航。ガラパゴス諸島チャタム島到着ハ1835年9月15日。
『種の起源(On the Origin of Species)』公刊ハ1859年11月24日。
日本ニハ1896年(明治29年、皇紀2556年)立花銑三郎訳『生物始源』
1905年(明治38年、皇紀2565年)東京開成館 訳『種之起原』
又加藤弘之即チかとうひろゆき在リ。彼生年1836年(天保7年)6月23日是旧暦(8月5日)没年1916年(大正5年、皇紀2576年)2月9日。旧出石藩士。正二位勲一等。男爵。学博士及ビ法学博士。進化論ニ基ク優生学唱フ。『加藤弘之講論集』 金港堂1891年(明治24年、皇紀2551年)及ビ敬業社1899年(明治32年皇紀2559年)刊行。]
[註3。
ベンジャミン・キッドハBenjamin Kidd、生年1858年、没年1916年(大正5年、皇紀2576年)。《英国の社会学者。
19世紀後半の社会ダーウィン主義の方法論的立場に立脚した社会論を唱える。スペンサーらが「個人」を重視し、「個人」の合理的知性に依拠するのに対し、「社会」の超合理的心性を重視する社会統合の視点に立っている。キッドによれば、社会の進化は、社会諸集団間の闘争と淘汰によって実現されるものであり、その過程において社会に統合をもたらす宗教の役割が強調される。その観点から、1894年「社会進化論」を、1902年「西洋文明の諸原理」などを著す。》以上『20世紀西洋人物辞典』引用。]
第四編『所謂國体論の復古的革命主義』は則ち日本の基督教につきて高等批評を加へたるものなり。即ち、社會主義は國体に抵觸するや否やの論爭にあらずして我が日本の國家其者の科學的攻究なり。歐米の國体論がダー井ン及び其の後繼者の生物進化論によりて長き努力の後に智識分子より掃蕩[※そうとう。敵ヲ平ラゲルノ意也。]せられたる如く、日本の基督教も亦冷靜なる科學的研究者の社會進化論によりて速か[※すみやか]に其の呼吸を斷たざるべからず。この編は著者の最も心血を傾注したる所なり。著者は今の凡ての君主々權論者と國家主權論者との法理學を悉く[※ことごとく]斥け[※しりぞけ]、現今の國体と政体とを國家學及び憲法の解釋によりて明らかにし更に歴史學の上より進化的に說明を與へたり。著者は潜かに[※ひそかに]信ず、若し本書にして史上一片の空名に終るなきを得るとせば、そは則ち古今凡べて[※儘]の歴史家の擧りて[※あげりて]不動不易の定論とせる所を全然逆倒し、書中自ら天動說に對する地動說といへる如く歴史解釋の上に於ける一個の革命たることに在りと。この編は獨立の憲法論として存在すると共に、更に始めて書かれたる歴史哲學の日本史として社會主義と係はりなく見られ得べし。
[※附註。
ヘーゲル(即チGeorg Wilhelm Friedrich Hegel生年1770年8月27日没年1831年11月14日)ハ三宅雪嶺即チみやけせつれい生年1860年(万延元年、皇紀2520年)5月19日是旧暦(7月7日)没年1945年(昭和20年、皇紀2605年)11月26日)ノ『近世哲學史』ニ紹介サレテ在リ。此ノ書1900年(明治33年)哲学館刊行。所謂ヘーゲル哲学ノ日本紹介史等詳細不肖不明ニシテ未詳。]
第五編『社會主義の啓蒙運動』は善惡の批判の全く進化的過程のものなることを論じ第二編『社會主義の倫理的理想』に於て說きたる階級的良心の說明と相待て[※相俟って]階級闘爭の心的說明をなしたり。而して更に國家競爭に論及し帝國主義が亦世界主義の前提なることを論じたり。權威なき個人の礎石を以て築かれたる社會は奴隷の集合にして社會民主々義に非ざる如く、社會主義の世界聯邦論は聯合すべき國家の倫理的獨立を單位としてのことなり。百川の海に注ぐが如く社會民主々義は凡ての進化を繼承して始めて可能なり。個人主義の進化を承けずして社會主義なく、帝國主義の進化を承けずして世界主義なく、私有財産制度の進化を承けずして共産社會なし。故に社會民主々義は今の世のそれらを敵とせずして凡てを包容し凡ての進化の到達點の上に建てらる。彼の[※かの]、社會主義の理想は可なりと雖も[※いへども]果して實行せられ得るやといふが如き疑惑は、今日の社會民主々義を以て人爲的考案のものと解して歴史的進行の必然なる到達と考えざるが故なり。本書が終始を通じて社會主義を歴史的進行に伴ひて說き、又多く日本歴史の上に其の理論と事實とを求めて論じ、殊にこの編に於て儒教の理想的國家論を解說したるが如きこの故なりとす。
凡ての社會的諸科學は社會的現象の限られたる方面の分料的[※儘。乃至分科]研究なるを以て、單に經濟學若しくは倫理學の如き局部の者を以て社會主義の論述に足れりとすべからず。殊に本書は煩熕なる[※煩瑣即チはんさデ煩ワシキ。未詳。]多くの章節項目の如き規矩[※きく。基準、規範等。]を設けず、議論の貫徹と說明の詳細を主として放縱に筆を奔らしたるが故に一の問題につきても全部を通讀したる後ならずしては完き[※まったき]判定を下し得ざるもの多し。固より一千頁に渉る大冊を捧げて斯る要求を敢て[※あえて]する著者の罪は深く謝する所なりと雖も、全世界の前に提出せられたる大問題の攻究として多少の勞力は避けざるべきなり。
著者は辨護を天職とする所謂學者等にあらず、又萬事を否認することを以て任務とする革命家と云ふものに非ず。只、學理の導きに從ひて維持すべきは維持すべきを說き、棄却すべきは棄却すべきを論ずるに止まる。學者の論議は法律の禁止以外に自由なり。故に、著者は本書の議論が政府の利益に用ひられて社會黨の迫害に口實を提供するに至るとも、若しくは又社會黨其れ自身の不利と惡感とを挑發するに至るとも少しも係はりなし。例へば、萬國社會黨大會の決議に反して日露戰爭を是認せる如き、全日本國民の與論に抗して國體論を否認せる如きその例なり。政府の權力と雖も一派の學說を强制する能わず。社會黨の大勢力と雖も多数決を挿で[※はさんで]思想の自由を輕視する能わず。一學究の著者に取りては政府の權力と云ひ社會黨の勢力と云ひ學理攻究の材料たる以外に用なし。
故に、著者の社會主義は固より『マークスの社會主義』と云ふものにあらず、又その民主々義は固より『ルーソーの民主々義』と稱するものにあらず。著者は當然に著者自身の社會民主主義を有す。著者は個人としては彼等より平凡なるは論なしと雖も、社會の進化として見るときに於ては彼らよりも五十歳百歳を長けたる白髯禿頭の祖父曾祖父なり。
新しき主張を建つるは當然の路として舊思想に對して排除的態度を執らざるべからず。破邪は顯正に先つ。故に本書は專ら打撃的折伏的口吻を以て今の所謂學者階級に對する征服を以て目的とす。
[附註。破邪顕正即チはじゃけんしょう乃至はじゃけんせいハ旧弊ヲ打破シ正義ヲ顕カシム。是仏教語。出典『三論玄義』。是生年隋末549年(太清3年)、没年唐初623年(武徳6)異説在リ吉蔵ノ著ス所謂『三論』即チ『中論』『百論』『十二門論』注釈書也。『三論宗』経典ニシテ上記『三論』ヲ典拠トシ空ノ思想ヲ主説トス。鳩摩羅什(くまらじゅう、生344年没413年)是ヲ六朝時代(是自222年至589年也)ノ《支那》長安ニ傳へ625年(推古天皇33年、皇紀1285年)、僧慧灌(えかん、吉蔵弟子)是ヲ日本ニ傳フ。]
著者は絶大なる强力の壓迫の下に苦闘しつゝある日本現時の社會黨に向かつて最も多くの同情を傾倒しつゝあるものなり。而しながら其の故を以て彼等の議論に敬意を有するや否やは自ら別問題なり。彼等の多くは單に感情と獨斷とによりて行動し、其の言ふ所も純然たる直譯の者にして特に根本思想は佛國革命時代の個人主義なり。即ち彼らは社會主義者と云はんよりも社會問題を喚起したる先鋒として充分に効果を認識せらるべし。著者は社會民主々義の忠僕たらんが爲めに同情と背馳するの議論を餘儀なくされたるを遺憾とす。
本書征服の目的なりと云ふ學者階級に至りては只以て可憐なりと云ふの外なし。率直の美德を極度に發揮して告白すれば、餘りに難を割くが如くにして徒らに議論の筆を汚辱するに過ぎざるの感ありと雖も、それぞれの學說の代表者として大學の講壇に據り智識階級に勢力を有すと云ふことのみの理由によりて指定したるもの多し。言責は固より負ふ。而しながら今の日本の大學教授輩より一言の辨解だも來るが如き餘地を殘し置くことあらば是れ著者が義務の怠慢にして辨解其事が本書の不面目なり。故に著者はある學者――例へば丘氏の如き――に對しは[※儘]固より充分なる尊敬を以てしたりと雖も、大體に於て――特に穗積氏の如きに對しては――甚しき[※はなはだしき]侮弄[※ぶろう。侮辱]を極めたる虐殺を敢行したり。斯くの如きは學術の戰場にヂユ子[※ネ]ーヴ條約[※註]なしと云ふが爲にあらずして、今の學者等が長き間勝ち誇れる驕傲[※きょうごう]と陰忍卑劣とが招きたる復讐とす。
[註。
ジュネーヴ条約(仏Convention de Genève、英Geneva Convention)ハ1864年8月22日締結サル戦時国際法。戦時傷病者乃至捕虜ノ待遇改善ヲ期ス。別称ニ『戦地軍隊ニ於ケル傷病者ノ状態ノ改善ニ関スル条約』及ビ『赤十字条約』等。
大日本帝國ハ1886年(明治19年、皇紀2546年)6月5日是ニ加入。]
文章は平易の說明を旨としたり。而しながら寛恕を請はざるべからざるは、開放せられたる天地に論議しつゝある學者らの想像し得ざるべき筆端の抅束なり。爲に學学者階級との對抗に當て土俵の七八分までを讓與[※じょうよ。譲リ渡ス]し、時に力を極めて搏たん[※打たん]としたる腕も誠に後へより臂[※ひ。腕]を制せらるゝを常とす。加ふるに今の大學教授輩の或者の如きは口に大學の神聖を唱へながら、權力者の椅子に縋り哀泣して掩護[※えんご。庇護シ援助ス]を求むるに至つては如何ともすべからざるなり。權力者にしてこの醜態を叱斥せざる間は決して思想の獨立なし。
社會民主々義を讒誣[※ざんぶ。虚偽恣意ニ依ッテ誹謗中傷ス]し、國體論の妄想を傳播[※でんぱ。伝播]しつつある日本の代表的學者なりとして指名したるは左の諸氏なり。故に本書は社會民主々義の論究以外、一は日本現代の思潮評論として見らるべし。
金井延氏『社會經濟學』[註1]
田嶋錦治氏『最新經濟論』[註2]
樋口勘次郎氏『國家社會主義新教育學』及び『國家社會主義教育學本論』[註3]
丘淺次郎氏『進化論講話』[註4]
有賀長雄氏『國法學』[註5]
穗積八束氏『憲法大意』及び帝國大學講義筆記[註6]
井上密氏 京都法政學校憲法講義録[註7]
一木喜德郎氏 帝国大學講義筆記[註8]
美濃部達吉氏 早稲田大學講義筆記[註9]
井上哲次郎氏 諸著[註10]
山路愛山氏及び國家社會黨諸氏[註11]
阿邊磯雄氏及び社會黨諸氏[註12]
日露戰爭[註13]の翌年春 著者
[註1。
金井延即チかないのぶるハ生年1865年(元治2年、皇紀2525年)2月1日是旧暦(2月26日)没年1933年(昭和8年、皇紀2593年)8月13日]ノ法学博士也。専門ニ法学、経済学、社会政策学等。
東京帝国大学教授。
1903年(明治36年、皇紀2563年)6月所謂『七博士意見書』是日露戦開戦論主張ノ意見書也ヲ戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、寺尾亨以上東京帝国大学教授、中村進午是学習院教授ト共ニの内閣総理大臣桂太郎等ニ提出。]
[註2。
田嶋錦治即チたじまきんじハ生年1867年(慶応3年、皇紀2527年)9月7日是旧暦(10月4日)没年1934年(昭和9年。皇紀2594年)6月28日)ノ経済学者也。
京都帝国大学初代経済学部長。立命館大学第2代学監及ビ第3代学長等。帝国大学法科大学政治学科ニ金井延ヲ指導ヲ享ク。]
[註3。
樋口勘次郎即チひぐちかんじろうハ生年1872年(明治4年、皇紀2532年)11月27日是旧暦(1月7日)没年1917年(大正6年、皇紀2577)12月13日)ノ教育学者也。
東京高等師範学校附属小学校ノ訓導ヲ経テ早稲田大学講師、帝国教育会理事等。訓導即チくんどうハ旧制ニ於ケル役職名。大学教員ヲ教授、中学教員ヲ教諭、小学教員ヲ訓導ト称ス。]
[註4。
丘浅次郎即チおかあさじろうハ生年1868年(明治元年、皇紀2528年)11月18日是旧暦(12月31日)没年1944年(昭和19年)5月2日)ハ動物学者。
1895年山口高等学校教授、1897年高等師範学校教授。1929年定年退官後東京文理科大学非常勤講師。
『進化論講話』1904年(明治36年、皇紀2564年)1月開成館刊行ハ日本ニ初ノ一般向ケ進化論書籍ト謂ハル。]
[註5。
有賀長雄即チありが乃至あるがながおハ生年1860年(万延元年、皇紀2520年)10月1日是旧暦(11月13日)没年1921年(大正10年、皇紀2579年)5月17日ハ法学及ビ文学博士。
1909年ノーベル平和賞ノ候補ニ挙ル。是日本人初也。受賞セズ。
1912年(大正元年、皇紀2572年)『仏文日清戦役国際法論」『仏文日露陸戦国際法論』是公刊1896年(明治29年、皇紀2556年)ニ依リ恩賜賞賜ル。日清戦役ニ所謂《旅順虐殺事件》在リ。是1894年(明治27年、皇紀2554年)11月。是所謂欧米メディアニ扇情的ニ報道サル。真偽ニ諸説在リ。旅順陥落ノ後ニ虐殺サレタル犠牲者ノ数、有賀ハ500人ト報ジ、其ノ他200人ノ報告カラ2000人ノ報告ニ迄至ル。
1889年(明治22年、皇紀2549年)5月7日枢密院書記官、首相秘書官兼任。後、農商務省特許局長、及ビ日清日露戦争ニ法律顧問トシテ従軍、後陸軍大学校、海軍大学校、東京帝国大学、慶應義塾大学、早稲田大学等ニ於テ憲法及ビ国際法教授ス。
1903年(明治36年、皇紀2553年)帝室制度調査局御用掛。1907年(明治40年、皇紀2557年)『皇室典範増補』及ビ『公式令』公布ニ尽力。
『公式令』以下全文。
勅令第六號
公式令
第一條 皇室ノ大事ヲ宣誥シ及大權ノ施行ニ關スル勅旨ヲ宣誥スルハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外詔書ヲ以テス
詔書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ[※けんし。印ヲ押ス]其ノ皇室ノ大事ニ關スルモノニハ宮內大臣年月日ヲ記入シ內閣總理大臣ト俱ニ之ニ副署ス其ノ大權ノ施行ニ關スルモノニハ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ國務各大臣ト俱ニ之ニ副署ス
第二條 文書ニ由リ發スル勅旨ニシテ宣誥セサルモノハ別段ノ形式ニ依ルモノヲ除クノ外勅書ヲ以テス
勅書ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ其ノ皇室ノ事務ニ關スルモノニハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス其ノ國務大臣ノ職務ニ關スルモノニハ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス
第三條 帝國憲法ノ改正ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ樞密顧問ノ諮詢及帝國憲法第七十三條ニ依ル帝國議會ノ議決ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ他ノ國務各大臣ト俱ニ之ニ副署ス
第四條 皇室典範ノ改正ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ皇族會議及樞密顧問ノ諮詢ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ國務各大臣ト俱ニ之ニ副署ス
第五條 皇室典範ニ基ツク諸規則、宮內官制其ノ他皇室ノ事務ニ關シ勅定ヲ經タル規程ニシテ發表ヲ要スルモノハ皇室令トシ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス國務大臣ノ職務ニ關連スル皇室令ノ上諭ニハ內閣總理大臣又ハ內閣總理大臣及主任ノ國務大臣ト俱ニ之ニ副署ス
皇族會議及樞密顧問又ハ其ノ一方ノ諮詢ヲ經タル皇室令ノ上諭[※じょうゆハ《旧憲法下で、法律・勅令・条約・予算などを公布するとき、その冒頭に記され天皇の裁可を示す文章。》以上『デジタル大辞泉』引用。]ニハ其ノ旨ヲ記載ス
第六條 法律ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ帝國議會ノ協贊ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ國務各大臣若ハ主任ノ國務大臣ト俱ニ之ニ副署ス
樞密顧問ノ諮詢ヲ經タル法律ノ上諭ニハ其ノ旨ヲ記載ス
第七條 勅令ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署シ又ハ他ノ國務各大臣若ハ主任ノ國務大臣ト俱ニ之ニ副署ス
樞密顧問ノ諮詢ヲ經タル勅令及貴族院ノ諮詢又ハ議決ヲ經タル勅令ノ上諭ニハ其ノ旨ヲ記載シ帝國憲法第八條第一項又ハ第七十條第一項ニ依リ發スル勅令ノ上諭ニハ其ノ旨ヲ記載ス
帝國議會ニ於テ帝國憲法第八條第一項ノ勅令ヲ承諾セサル場合ニ於テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スル勅令ノ上諭ニハ同條第二項ニ依ル旨ヲ記載ス
第八條 國際條約ヲ發表スルトキハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ樞密顧問ノ諮詢ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ主任ノ國務大臣ト俱ニ之ニ副署ス
第九條 豫算及豫算外國庫ノ負擔トナルヘキ契約ヲ爲スノ件ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス
前項ノ上諭ニハ帝國議會ノ協贊ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ主任ノ國務大臣ト俱ニ之ニ副署ス
第十條 閣令ニハ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ署名ス
省令ニハ各省大臣年月日ヲ記入シ之ニ署名ス
宮內省令ニハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ署名ス
第十一條 皇室令、勅令、閣令及省令ハ別段ノ施行時期アル場合ノ外公布ノ日ヨリ起算シ滿二十日ヲ經テ之ヲ施行ス
第十二條 前數條ノ公文ヲ公布スルハ官報ヲ以テス
第十三條 國書其ノ他外交上ノ親書、條約批准書、全權委任狀、外國派遣官吏委任狀、名譽領事委任狀及外國領事認可狀ニハ親署ノ後國璽ヲ鈐シ主任ノ國務大臣之ニ副署ス外務大臣ニ授クル全權委任狀ニハ內閣總理大臣之ニ副署ス
第十四條 親任式ヲ以テ任スル官ノ官記ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス宮內官ニ付テハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス
內閣總理大臣ヲ任スルノ官記ニハ他ノ國務大臣、宮內大臣ヲ任スルノ官記ニハ侍從長年月日ヲ記入シ之ニ副署ス
一級官ノ官記及一級ニ叙スルノ級記ニハ御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス一等宮内官ノ官記及一等ニ叙スルノ等記ニ付テハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
二級官ノ官記及二級ニ叙スルノ級記ニハ內閣ノ印ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ヲ宣ス二等官宮内官ノ官記及二等ニ叙スルノ等記ニ付テハ宮內省ノ印ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
第十五條 親任式ヲ以テ任シタル官ヲ免スルノ辭令書ニハ御璽ヲ鈐シ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス宮內官ニ付テハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
內閣總理大臣ヲ免スルノ辭令書ニハ他ノ國務大臣、宮內大臣ヲ免スルノ辭令書ニハ侍從長年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
一級官ヲ免スルノ辭令書ニハ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス一等宮内官ニ付テハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
二級官ヲ免スルノ辭令書ニハ內閣總理大臣年月日ヲ記入シ之ヲ宣ス二等宮内官ニ付テハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ宣ス
第十六條 爵記ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス
第十七條 一位ノ位記ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署[※ふくしょ。連署。名ヲ連ネテ署名ス]ス
二位以下四位以上ノ位記ニハ御璽ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス五位以下ノ位記ニハ宮內省ノ印ヲ鈐シ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ宣ス
第十八條 爵位ノ返上ヲ命シ又ハ允許スルノ辭令書ニハ宮內大臣年月日ヲ記入シ之ヲ奉ス
第十九條 勳一等功一級以上ノ勳記ニハ親署ノ後國璽ヲ鈐シ勳二等功三級以下ノ勳記ニハ國璽ヲ鈐シ內閣總理大臣旨ヲ奉シ賞勳局總裁ヲシテ年月日ヲ記入シ之ニ署名セシム
勳記ニハ勳章ノ種別ニ從ヒ號數ヲ附シ簿册ニ記入スル旨ヲ附記シ賞勳局ノ印ヲ鈐シ賞勳局総裁ノ指定スル賞勳局事務官之ニ署名ス
第二十條 記章ノ證狀竝外國勳章及記章ノ佩用免許ノ證狀ニハ內閣總理大臣旨ヲ奉シ賞勳局總裁ヲシテ年月日ヲ記入シ賞勳局ノ印ヲ鈐シ之ニ署名セシム
證狀ニハ其ノ種別ニ從ヒ號數ヲ附シ簿册ニ記入スル旨ヲ附記シ賞勳局ノ印ヲ鈐シ賞勳局総裁ノ指定スル賞勳局事務官之ニ署名ス
第二十一條 勳章及記章竝外國勳章及記章ノ佩用免許ノ證狀ヲ褫奪スルノ辭令書ニハ內閣總理大臣旨ヲ奉シ賞勳局總裁ヲシテ年月日ヲ記入シ之ニ署名セシム
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
公文式ハ之ヲ廢ス
引用以上。
同年軍部『軍令』公布ス。
以下全文引用ス。
軍令第一號
第一條 陸海軍ノ統帥ニ關シ勅定ヲ經タル規程ハ之ヲ軍令トス
第二條 軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ署ス
第三條 軍令ノ公示ハ官報ヲ以テス
第四條 軍令ハ別段ノ施行時期ヲ定ムルモノノ外直ニ之ヲ施行ス
引用以上。
1912年(大正元年、皇紀2572年)恩賜賞。翌年中華民国大総統袁世凱ノ法律顧問就任是大隈重信推薦。]
[註6。
穂積八束即チほづみやつかハ生年1860年(安政7年、皇紀2520年)2月28日是旧暦(3月20日)没年1912年(明治45年是7月30日迄大正元年、皇紀2572年)10月5日ハ東京帝国大学法科大学長、貴族院議員等。法学者。
美濃部達吉等ノ天皇機関説及ビ天皇主権説論争ニ後者ヲ主張ス。是主流派也。
教エ子ニ北一輝在リト傳ハル。真偽未詳。]
[註7。
井上密即チいのうえひそかハ生年1867年(慶応3年、皇紀2527年)10月2日是旧暦(10月28日)没年1916年(大正5年、皇紀2576年)9月13日)ハ憲法学者。京都帝国大学法科大学教授、同法科大学長、京都法政学校教頭。第4代京都市長。]
[註8。
一木喜德郞即チいっき乃至いつき或ハいちききとくろうハ生年1867年(慶応3年、皇紀2527年)4月4日是旧暦(5月7日)没年1944年(昭和19年、皇紀2604年)12月17日。
法学者。帝国大学法科大学教授、貴族院議員、第10代法制局長官、第26代文部大臣、第33代内務大臣、帝国学士院会員、第9代宮内大臣、第16代枢密院議長等。]
[註9。
美濃部達吉即チみのべ たつきちハ生年1873年(明治6年、皇紀2533年)5月7日没年1948年(昭和23年)5月23日ノ法学及ビ憲法学者。東京帝国大学名誉教授。
所謂『天皇機関説』主張。国体明徴運動ノ中1935年(昭和10年、皇紀2595年)8月3日『国体明徴に関する政府声明』ヲ岡田啓介内閣表明。是所謂『第1次国体明徴声明』。
以下全文。
≪恭しく惟みるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ』と宣ひ、憲法第一條には『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近時憲法學説を繞り國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。≫
10月15日再度『国体明徴に関する政府声明』是所謂『第2次国体明徴声明』
以下全文。
≪曩に[※此処に]政府は國體の本義に關し所信を披瀝し、以て國民の嚮ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察す。然るに漫りに外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、其の本義を愆る[※誤る]の甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明し、以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。≫
1937年(昭和12年、皇紀2527年)3月30日『國體の本義』是文部省編纂也。
岡田啓介即チおかだ けいすけハ生年1868年(慶応4年、皇紀2528年)1月21日是旧暦(2月14日)没年1952年(昭和27年、皇紀2612年)10月17日ハ第31代 内閣総理大臣(自1934年7月8日至1936年3月9日)。海軍大将。勲一等功三級。
1936年(昭和11年、皇紀2596年)2月26日カラ2月29日ニ至ル所謂226事件ニ標的トサレル。未遂。内閣ハ解散。
第1次国体明徴声明政府表明時ニ以下発禁処分。『憲法撮要』1923年有斐閣、『逐条憲法精義』1927年有斐閣、『日本憲法の基本主義』1935年日本評論社。及ビ以下改訂命令。『現代憲政評論』1930年日本評論社、『議会政治の検討』1934年日本評論社。]
[註10。
井上哲次郎即チいのうえてつじろうハ生年1856年(安政2年、皇紀2516年)12月25日是旧暦(2月1日)没年1944年(昭和19年、皇紀2604年)12月7日。
専門ハ哲学。文学博士。東京帝国大学名誉教授。]
[註11。
山路愛山即チやまじあいざんハ生年1865年(元治元年、皇紀2525年)12月26日是旧暦(1月23日)没年1917年(大正6年、皇紀2577年)3月15日)。愛山筆名。本名ハ彌吉也。
キリスト教徒及ビ社会主義者。
徳富蘇峰設立民友社入社。是1887年(明治20年、皇紀2547年)設立、1933年(昭和8年、皇紀2593年)解散也。
1893年(明治26年、皇紀2553年)『國民の友』ニ北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」論争。
1905年(明治38年、皇紀2565年)国会社会党設立。此ノ団体ホゞ活動実績無シ。日本社会党即チ日本社會黨ト協力。是戦後ノ日本社会党トハ別団体也。
日本社會黨ハ堺利彦即チさかいとしひこ生年1871年(明治3年、皇紀2531年)11月25日是旧暦(1月15日)没年1933年(昭和8年、皇紀2593年)1月23日等ニ依リ1906年(明治39年、皇紀2566年)2月24日結党。翌1907年2月治安警察法適用ニ依リ解散。治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)ハ1900年(明治33年、皇紀2560年)2月23日制定。1945年(昭和20年、皇紀2605年)11月21日廃止。是『治安警察法廃止等ノ件』(昭和20年勅令第638号)。]
[註12。
阿邊磯雄乃至安部磯雄即チあべいそおハ生年1865年(元治2年、皇紀2537年)2月4日是旧暦(3月1日)没年1949年(昭和24年、皇紀2609年)2月10日。キリスト教徒及ビ社会主義者。
1901年(明治34年、皇紀2573年)5月18日片山潜、木下尚江、幸徳秋水、河上清、西川光二郎ト社会民主党結党。同年同月20日、上記治安警察法ニ依リ解散]
[註13。
日露戦争ハ自1904年(明治37年、皇紀2576年)2月8日至1905年(明治38年、皇紀2577年)9月5日。
『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』是同年2月10日詔勅ハ以下ノ如シ。
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露國ト交戰ノ事ニ從フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ其ノ權能ニ應シテ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ凡ソ國際條規ノ範圍ニ於テ一切ノ手段ヲ盡シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ文明ヲ平和ニ求メ列國ト友誼ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各國ノ權利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝國ノ安全ヲ將來ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕夙ニ以テ國交ノ要義ト爲シ旦暮敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕カ有司モ亦能ク朕カ意ヲ體シテ事ニ從ヒ列國トノ關係年ヲ逐フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露國ト釁端ヲ開クニ至ル豈朕カ志ナラムヤ
帝國ノ重ヲ韓國ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ兩國累世ノ關係ニ因ルノミナラス韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露國ハ其ノ淸國トノ明約及列國ニ對スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露國ニ提議シ半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露國ハ一モ交讓ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日彌久徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽ニ平和ヲ唱道シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス凡ソ露國カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ認ムルニ由ナシ露國ハ既ニ帝國ノ提議ヲ容レス韓國ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝國ノ國利ハ將ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝國カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル將來ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠實勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御名御璽
明治三十七年二月十日
內閣總理大臣兼內務大臣 伯爵 桂太 郞
海軍大臣 男爵 山本權兵衞
農商務大臣 男爵 淸浦奎吾
大藏大臣 男爵 曾禰荒助
外務大臣 男爵 小村壽太郎
陸軍大臣 寺內正毅
司法大臣 波田野敬直
遞信大臣 大浦兼武
文部大臣 久保田讓
引用以上]
※上記インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧
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