北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 11.序論。所謂226事件
…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
北一輝『國體論及び純正社會主義』
復刻及ビ附註
北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。
註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。
二・二
六事件
及ビ北
一輝
北一輝没年ハ1937年(昭和12年、皇紀2597年)8月19日。是所謂226事件ニ伴フ特設軍法会議是8月14日ノ判決ニ従フ銃殺刑死也。西田税即チにしだ みつぎ1901年(明治34年、皇紀2561年)10月3日生、1937年(昭和12年、皇紀2587年)8月19日没。陸軍騎兵少尉、正八位)ト同時也。
226事件ハ是1936年(昭和11年、皇紀2596年)自2月26日至2月29日。
《大日本帝國》陸軍ハ1871年(明治3年、皇紀2531年)2月13日発足ス《御親兵》ヲ起源トス。是薩摩長州藩士主体ノ明治政府直属天皇護衛隊也。後1872年(明治5年、皇紀2532年)近衛、1891年(明治24年、皇紀2551年)近衛師団是陸軍ニ所属スニ改称。1871年1月3日徴兵規則制定。廃藩置県ハ同年8月29日。廃藩置県ノ詔書以下ノ如シ。《詔書
朕惟フニ更始[※こうし。更始ハ後漢劉玄即チ更始帝乃至淮陽王ノ漢王朝復興ノ元号也。]ノ時ニ際シ內以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬國ト對峙セント欲セハ宜ク名實相副ヒ[※あい添い]政令一ニ歸セシムヘシ[※。]朕囊ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聽納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ數百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其實擧ラサル者アリ[※。]何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬國ト對峙スルヲ得ンヤ[※。]朕深ク之ヲ慨ス[※。]仍テ[※従って]今更ニ藩ヲ廢シ縣ト爲ス是務テ冗[※じょう乃至無駄]ヲ去リ簡ニ就キ有名無實ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス[※。]汝群臣其レ朕カ意ヲ體セヨ》引用以上。
是ヲ以テ《大日本帝國》ハ中央集権國家ナル事改メテ表明サル。徴兵令種々ノ変更ノ後明治22年1月22日法律第1号布告。昭和2年4月1日法律第47号《兵役法》布告。
226事件ニ参加ス磯部浅一ノ所謂『獄中日記』一部引用ス。
《八月一日 何をヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、死ぬることは負けることだ、成仏することは譲歩することだ、死ぬものか、成仏するものか。
悪鬼となって所信を貫徹するのだ、ラセツとなって敵類賊カイを滅尽するのだ、余は祈りが日々に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ、悪鬼になれるように祈っているのだ、優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ、必ず志をつらぬいて見せる、余の所信は一分も一厘もまげないぞ、完全に無敵に貫徹するのだ、妥協も譲歩もしないぞ。
余の所信とは日本改造法案大網を一点一角も修正することなく完全にこれを実現することだ。
法案は絶対の真理だ、余は何人といえどもこれを評し、これを毀却することを許さぬ。
法案の真理は大乗仏教に真徹するものにあらざれば信ずることができぬ。
しかるに大乗仏教どころか小乗もジュ道も知らず、神仏の存在さえ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生らが、わけもわからずに批判せんとし毀たんするのだ。
余は日蓮にあらざれども法案をそしる輩を法謗のオン賊と言いてハバカラヌ。
明らかに言っておく、改造法案以外の道は日本を歿落せしむるものだ、如何となれば官僚、軍閥、幕僚の改造案は国体を破滅する恐るべき内容をもっているし、一方高天ケ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考えている。共産革命か復古革命かが改造法案以外の道であるからだ。
余は多弁を避けて結論だけを言っておく、日本改造法案は一点一角一字一句ことごとく真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の真表現だ、大乗仏教の政治的展開だ、余は法案のためには天子呼び来れども舟より下らずだ。》
《八月二日 シュウ雨雷鳴盛ソ、明日は相沢中佐の命日だ、今夜は逮夜だ、中佐は真個の日本男児であった。》
《八月三日 中佐の命日、読経す、中佐を殺したる日本は今苦しみにたえずして七テン八倒している、悪人が善人をはかり殺して良心の苛責にたえず、天地の間にのたうちもだえているのだ、中佐ほどの忠臣を殺した奴にそのムクイが来ないでたまるか、今にみろ、今にみろ。》
《八月四日 北一輝氏、先生は近代日本の生める唯一最大の偉人だ、余は歴史上の偉人と言われる人物に対して大した興味をもたぬ、いやいや興味をもたぬわけでないが、大してコレハと言う人物を見出し得ぬ、西郷は傑作だが元治以前の彼は余と容れざるところがある、大久保、木戸のごときは問題にならぬ、中世、上古等の人物についてはあまりにかけはなれているのでよくわからぬ、ただ余が日本歴史中の人物で最も尊敬するは楠公だ、しかして明治以釆の人物中においては北先生だ。》
《八月五日 佐幕流の暴政時代、南朝鮮総督、杉山教育総監、西尾次長、寺内大臣、宇佐美侍従武官、鈴木貫太郎、牧野、一木、湯浅、西国寺等々、指を屈するにいとまなし、今にみろッみろッみろッみろッみろッ必ずテソプクしてやるぞ。》
《八月六日
一、天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に今に大変なことになりますゾ、
ニ、明治陛下も皇大神宮様も何をしておられるのでありますか、天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか、
三、日本の神々はどれもこれも皆ねむっておられるのですか、この日本の大事をよそ忙しているほどのなまけものなら日本の神様ではない、磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追いはらってしまうのだ、よくよく菱海の言うことを胸にきぎんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ。》
《八月八日 同志の四七日、読経
一、吾人は別に霊の国家を有す、日本国その国権国法をもって吾人を銃殺し、なお飽き足らず骨肉を微塵にし、遠く国家の外に放擲すとも、ついに如何ともすべからざるは霊なり、吾人は別に霊の国家、神大日本を有す。
一、吾人は別に信念の天地を有す、日本国の朝野ことごとく吾人を国賊叛逆として容れずといえども、吾人は別に信念の天地、莫大日本を有す。
一、吾人に霊の国家あり、信念の天地あり、現状の日本吾にとりて何かあらん、この不義不信堕落の国家を吾人の真国家神日本は膺懲せざるべからず。
一、大義明らかならざるとき国家ありとも其日本にあらず、国体亡ぶとき国家ありとも神日本は亡ぶ。
一、捕縛投獄死刑、ああわが肉体は極度に従順なりき、しかれども魂は従わじ、水遠に抗し無窮に闘い、尺寸といえども退譲するものにあらず、国家の権力をもって圧し、軍の威武をもって迫るとも、ひとり不屈の魂魄を止めて大義を絶叫し、破邪討好せずんば止まず。
余は日本一のスネ者だ、世をあげて軍部ライサンの時代に「軍部をたおせ、軍部は維新の最後の強固な敵だ、青年将校は軍部の青年将校たるべからず、士官候補生は軍の士官候補生たるなかれ、革命将校たれ、革命武学生たれ、革命とは軍閥を討幕することなり、上官にそむけ、軍規を乱せ、たとい軍旗の前においてもひるむなかれ」と言いて戦いつづけたのだ、スネ者、乱暴者の言が的中して、今や同志は一網打尽にやられている、もう少し早くこのスネモノ菱海の言うことを信じていさえしたら、青年将校は二月蹶起においてもっともっと偉大な働きをしていたろうに。
この次に来る敵は今の同志の中にいるぞ、油断するな、もって非なる革命同志によって真人物がたおされるぞ。
革命を量る尺度は日本改造法案だ、法案を不可なりとする輩に対しては断じて油断するな、たとい協同戦線をなすともたえず警戒せよ、しかして協同戦闘の終了後、直ちに獅子身中の敵を処置することを忘るるな。》
《八月十四日 身は死せども霊は決して死せず候間「銃殺されたら、優秀なユウレイになって所信を貫くつもりに御座候えども、いささか心配なることは、小生近年スッカリ頭髪が抜けてキンキラキンの禿頭にあいなり候間ユウレイが滑稽過ぎて凄味がなく、ききめがないではあるまいかと思い、辛痛致しおり候。
貴家へは化けて出ぬつもりに候えども、ヒョット方向をまちがえて、貴家へ行ったら禿頭の奴は小生に候間、米の茶一杯下さるよう願上候」
「正義者必勝神仏照覧」
右は山田洋大尉への通信の一部、括弧内は削除されたるところだ。
神仏照覧まで削除されるのだから、当局の弾圧の程度が知れる、これではいよいよこの次が悲惨だ。
相沢中佐、対馬は天皇陛下万歳といいて銃殺された。
安藤はチチブの宮の万歳を祈って死んだ。
余は日夜、陛下に忠諌を申し上げている、八百万の神神を叱っているのゼ、この意気のままで死することにする。
天皇陛下 何という御失政でござりますか、なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召し下さりませぬか。
八百万の神々、何をボンヤリしてござるのだ、なぜおいたましい陛下をお守り下さらぬのだ。
これが余の最初から最後までの言葉だ。
日本国中の者どもが、一人のこらず陛下にいつわりの忠をするとも、余一人は真の忠道を守る、真の忠道とは正義直諌をすることだ。
明治元年十月十七日の正義直諌の詔に曰く、「およそ事の得失可否はよろしく正義直諌、朕が心を啓沃すべし」と。》
《八月十五日 村中、安藤、香田、栗原、田中、等々十五同志は一人残らず偉大だ、神だ、善人だ、しかし余だけは例外だ、余は悪人だ、だからどうも物事を善意に正直に解せられぬ、例の奉勅命令に対しても、余だけは初めからてんで問題にしなかった、インチキ奉勅命令なんかに誰が服従するかというのが真底の腹だった、刑務所においても、どうも刑務所の規そくなんか少しも守れない、後で笑われるぞ、刑務所の規そくを守っておとなしくしようなど、同志に忠告されたが、どうも同志の忠告がぴんと来ぬ、あとで笑われるも糞もあるか、刑務所キソクを目茶目茶にこわせばそれでいいのだ、人は善の神になれ、俺は一人、悪の神になって仇をウツのだ。》
《八月十七日 元老も重臣も国民も軍隊も警察も裁判所も監獄も、天皇機関説ならざるはない、昭和日本はようやく天皇機関説時代にまで進化した。
吾人は進化の聖戦を作戦指導する先覚者だったはず、されば元老と重臣と官憲と軍隊と裁判所と刑務所を討ちつくして、天皇機関説日本をさらに一段階高き進化の域に進ましむるを任とした、しかるに天皇機関説国家の機関説奉勅命令に抗することをもなし得ず終りたるは、省みてはずべき事である。
この時代、この国家において吾人のごとき者のみは、奉勅命令に抗するとも忠道をあやまりたるものでないことを確信する。余は、真忠大義大節の士は、奉勅命令に抗すべきであることを断じていう。
二月革命の日、断然奉勅命令に抗して決戦死闘せざりし吾人は、後世、大忠大義の士にわらわるることを覚悟せねばならぬ。》
《八月十八日 北先生のことを思う。
先生は老体でこの暑さは苦しいだろう。
つくづく日本という大馬鹿な国がいやになる、先生のような人をなぜいじめるのだ。
先生を牢獄に入れて、日本はどれだけいい事があるのだ。
先生と西田氏と菅波、大岸両氏などは、どんな事があつてもしばらく日本に生きていてもらいたい。
先生、からだに気をつけて下さい、そしてどうかして出所して下さい、私は先生と西田氏の一日も速やかに出所できるように祈ります、祈りでききめがないなら、天上でまた一いくさ致します。
余がこの頃胸にえがく国家は、穢土日本を征め亡ぼそうとしている。
このくさり果てた日本が何だ、一日も早く亡ばねば駄目だ、神様のようにえらい同志を迫害する日本ヨ、おまえは悪魔に堕落してしまっているぞ。》
《八月二十四日
一、山田洋の病状瀕よからざるをきく、為に祈る、彼の病床煩々の病苦はおそらく余の銃殺さるることより大ならん、天は何がために彼のごとき剛直至誠の真人物を苦しめるのか。
二、日本という大馬鹿が、自分で自分の手足を切って苦痛にもだえている。
三、日本がわれわれのごとき大正義者を国賊奴徒として迫害する間は、絶対に神の怒りはとけぬ、なぜならば、われわれの言動はことごとく天命を奉じたるところの神のそれであるからだ。
四、全日本国民は神威を知れ。
五、俺は死なぬ、死ぬものか、日本をこのままにして死ねるものか、俺が死んだら日本は悪人輩の思うままにされる、俺は百千万歳、無窮に生きているぞ。》
《八月二十五日 天皇陛下は何を考えてござられますか、なぜ側近の悪人輩をおシカリあそばさぬのでござります、陛下の側近に対してする全国民の轟々たる声をおきき下さい。》
《八月二十六日 軍部をたおせ、軍閥をたおせ、軍閥幕僚を皆殺しにせよ、しからずんば日本はとてもよくならん。
軍部の提灯もちをする国民と、愛国団体といっさいのものを軍閥とともにたおせ、軍閥をたおさずして維新はない。》
《八月二十七日 処刑さるるまでに寺内、次官、局長、石本、藤井らの奴輩だけなりとも、いのり殺してやる。》
《八月二十八日 竜袖にかくれて皎々不義を重ねてやまぬ重臣、元老、軍閥等のために、いかに多くの国民が泣いているか。
天皇陛下 この惨タンたる国家の現状を御覧下さい、陛下が、私どもの義挙を国賊叛徒の業とお考えあそばされていられるらしいウワサを刑務所の中で耳にして、私どもは血涙をしぼりました、真に血涙をしぼったのです。
陛下が私どもの挙をおききあそばして、
「日本もロシヤのようになりましたね」と言うことを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間気が狂いました。
「日本もロシヤのようになりましたね」とははたして如何なる御聖旨かにわかにわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであるという意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
だが私も他の同志も、いつまでもメソメソと泣いてばかりはいませんぞ、泣いて泣き寝入りは致しません、怒って憤然と立ちます。
今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、精神が高まりました、だから毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。
天皇陛下 何というご失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりなされませ。》
《八月三十日
一、余は極楽にゆかぬ、断然地ゴクにゆく、地ゴクに行って牧野、西園寺、寺内、南、鈴木貫太郎、石本等々、後から来る悪人ばらを地ゴクでヤッツケるのだ、ユカイ、ユカイ、余はたしかに鬼になれる自信がある、地ゴクの鬼にはなれる、今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ。
二、自分に都合が悪いと、正義の士を国賊にしてムリヤリに殺してしまう、そしてその血のかわかぬ内に、今度は自分の都合のために贈位をする、石碑を立て表忠頌徳をはじめる、何だバカバカしい、くだらぬことはやめてくれ、俺は表忠塔となって観光客の前にさらされることを最もきらう、いわんや俺らに贈位することによって、自分の悪業のインペイと自分の位チを守り地位を高める奴らの道具にされることは真平だ。
俺の思想信念行動は、銅像を立て石碑を立て贈位されることによって正義になるのではない、はじめから正義だ、幾千年たっても正義だ。
国賊だ、教徒だ、順逆をあやまったなど下らぬことを言うな、また忠臣だ、石碑だ贈位だなど下ることも言うな。
「革命とは順逆不二の法門なり」と、コレナル哉コレナル哉、国賊でも忠臣でもないのだ。》
《八月三十一日 刑務所看守の中にもバク府の犬がいる。馬鹿野郎、今にみろ、目明し文吉だ。
トテモワルイ看守がいる、中にはとても国士もいる、大臣にでもしたいような人物もいる。》引用以上。
磯部浅一即チいそべあさいちハ生年1905年(明治38年、皇紀2565年)4月1日、1937年(昭和12年、皇紀2597年)8月19日刑死。是銃殺刑也。辞世句ニ曰ク《国民よ国をおもひて狂となり痴となるほどに国を愛せよ》。北辞世句ハ《若殿に兜とられて負け戦》。
《国防研究図書館》ナルウェブ・サイト在リ是ニ《北一輝ト其ノ思想》ページ在リ。以下ノ如ク評ス。《よく右翼思想家の代名詞のように聞かれることがある北一輝だが、その思想の変遷は特異な面を見せている。
ここではその思想面に的を絞り簡単に紹介していきます。
1.社会主義者 北輝次郎
北輝次郎(本名)は明治16年4月3日に佐渡の湊町の旧家の長男として生まれた。
18歳の時、県立佐渡中学を中退した。すでにこの頃から「明星」や「佐渡新聞」等に論文を投稿し佐渡では若手論客としてその名をしらしめていた。この時代に書いた論文の中の
『鉄幹と晶子』
『日本国の将来と日露の開戦』
『咄、非開戦を云う者』
『社会主義の啓蒙運動』
『革命の歌』
は北を知る上で重要な論文である。
「革命の歌」は佐渡の中学生に向けて作られたものだったが、その一節はこんな詩である。
友よ、革命の名に戦慄(おのの)くか
そは女童のことなり
良心の上に何者をも頂かず
資本家も地主も
ツァールもカイゼルも
而して・・・・
霊下一閃、胸より胸に
罪悪の世は覆へる
地震のごと
大丈夫斯くてこの世に生きる
これは日露戦争後の作であるのに注目したい。
また、「咄、非開戦を云う者」で重大な主張をしている。
「吾人は社会主義を主張するが為に帝国主義を捨つる能わず」
と断言しており、これこそ北の生涯を貫く思想の基本であった。
2.「国体論」の発禁処分
さて、明治38年に上京した彼は独学で『国体論および純正社会主義』という本を書き上げて翌年5月に自費出版する。
が、この本は発売5日にして発禁処分となる。
1,000ページにもわたる大著であるこの「国体論」であるが、なぜ発禁となったのであろうか。
それは、明治憲法で確立された天皇制国家の持つ矛盾性と危険を鋭く指摘し批判したが故である。その批判があまりにも正当なものだったために発禁となり、以後(特高)警察に要注意人物とされたのだ。
北の指摘した矛盾とはこういうことである。
「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に暗いするものと定めた明治憲法の二元性」。
「国体論」の出版→発禁により北の存在が社会主義者に知られるようになった。
幸徳秋水や堺利彦らとの交友がこうして始まり、革命評論社同人となる。
またその頃日本には中国革命を決行せんとする革命党員が多数亡命してきていて、これらの人は中国革命同盟会という革命党を結成していた。北はこれに入党し特に、宋教仁と親睦を深めた。
同時に内田良平を中心とする大陸浪人とも結び、黒龍会の「時事月函」の編集員となる。
もちろん、当局から社会主義者として刑事の尾行・監視下におかれていたのは言うまでもない。
1910年(明治43)の大逆事件では辛くも釈放されたが、これは明治天皇の特赦による逮捕者削減の処置によりなんとか助かったらしい。
3.中国革命と北一輝
1911年10月に中国は武昌で革命が起こる。世に言う辛亥革命である。
北は宋教仁からの招請電報を受けて黒龍会特派員として上海に渡った。この間、武昌-南京の間を往復し、弾丸の下革命軍と行動を共にした。この時の経験は後の『日本改造法案大綱』(最初は「国家改造案原理大綱」)に生かされる。
1913年、革命軍の宋教仁が暗殺され、北自身も上海駐在日本総領事から三年間中国国外退去をこの4月に命じられ帰国することとなった。
帰国後、1915~16年にかけて辛亥革命の体験をもとに『支那革命外史』を執筆し、これをキッカケとして大川周名・満川亀太郎が北を知ることとなる。ついでに名前を輝次郎から「一輝」と称するようになったのはこの頃からである。
1917年6月には再び上海に渡り、1919年8月、五四運動に在りながら断食(約)40日間を経て『日本改造法案大綱』を完成させる。
また、この大著の執筆中に大川周名が上海に現れ
「中国の革命より日本の革命が先だ」
と帰国を促し、北は作品を書き上げた後同年12月31日に帰国、翌年1月4日に猶存社に入った。
この日から二二六事件で逮捕→刑死するまでずっと浪人生活となる。
この浪人生活の間に北が関与した主な事件は
1925年 安田共済保険ストライキ事件
〃 朴烈・文子怪写真事件
1926年 十五銀行恐喝事件
1930年 ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題
ほかにもロシア革命政府が派遣したヨッフェの入国を弾劾する怪文書を作成したり、昭和7年に外交国策の建白書を草したり陰に陽に活動をしていた。
4.北一輝の革命構想
中国革命に参加して近代化されない国家の革命戦争を体験した北は、自らの日本の革命方式に先に国体論で指摘した天皇制の矛盾を逆手に取る発送を見いだした。
それが法案巻一の
「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令を布く」にある。
つまり、天皇の二元性のうち神としての天皇を憲法を越えた存在として同時に戒厳令施行により政治権力を一定期間凍結・停止する根拠を与え、この政治権力の空白期を狙って革命を行うというまさに日本独自の革命方式を北は考えたのである。
また法案の基本原則として「国家の権利」と題し
一国内の階級闘争を是認するならば、地球上の階級闘争も認めよ
という開戦の権利の主張をしているのも要チェックである。
そして革命を遂行する主体は、唯一の武器の所有者である軍隊である。
「支那革命外史」、「日本改造法案大綱」でも述べているように、軍隊の上層部は必ず時の政治権力に密着して腐敗しているから下級士官が下士官・兵、いわゆる兵卒を握って主体とならなければならないと主張した。
もうお気づきのことと思うが、この思想が実現したのが二二六事件なのである。
下級士官たる青年将校が兵卒を連れだし、錦旗革命を行おうとしたのである。このときの青年将校の後ろ盾は何も皇道派だけではない。実際に北一輝、西田税と電話で最善策を協議したり、教えを請いだりしている。NHKのドキュメンタリーだかのビデオに肉声が収録されているので間違いはなかろう。
日本の軍隊は建軍の本義として神としての天皇の命令を基礎に置いている、故に純粋に天皇を神と信じる下級士官以下の兵こそ世界に類のない革命軍に転化するであろうと北は期待したのだった。
上層部の軍人や陸軍省・参謀本部に勤務する軍官僚は我が国の内閣制度では、元首としての天皇に奉仕する政治的軍人にならざるを得ないという北の主張はよく的を射ている。
だからこそ政治権力者(軍上層部含む)にとっては北の存在と思想は、他の社会主義者や右翼に見られないある種の不気味さを感じさせ、畏怖させるに十分であった。
これは二二六事件で北一輝は利敵行為ということでせいぜい懲役ぐらいの罪しかおかしてないのに死刑にされた原因の一つであると言えなくもないだろう。
しかし北がいかに斬新な革命論をひねり出しても現実の日本は、この北の思想を実現するにはほど遠かった。北自身もこれをよく熟知し、日々「法華経」を読誦するうちに世間との直接の交流を絶ち、退役少尉西田税を陸軍の下級士官とのパイプとし、影響力を残しつつ「地涌の菩薩」出現の日をひたすら待ち続けた。「地涌の菩薩」出現の日というのはいわゆる「革命決行の日」のことである。
二二六の尋問で北は
「ただ、私は日本か結局改造法案の根本原則を実現するに至るものであることを確信していかなる失望落胆の時も、この確信を持って今日まで生きて来たり居りました」
と答えている。
右翼の間で「魔王」と恐れられ、革命大帝国実現を主張した北の思想は、一国内の権力者、富豪を倒して貧しき者が平等を求める革命と、後進国が先進資本主義国と戦争を冒しても領土と資源の平等分配を求める権利の主張は同じだという、社会主義者にして帝国主義者という一風変わった思想家であった。
彼自身言うように、北一輝は一貫不惑のナショナリスト、革命家であった。
(注)「国体論」などの引用部分はすべて現代かな使いに修正いたしました。[※是原註]》引用以上。
北主著以下ノ如シ。
1906年(明治39年、皇紀2566年)5月『國體論及び純正社會主義』
1916年(大正5年、皇紀2576年)『支那革命外史』
1923年(大正12年、皇紀2583年)5月『國家改造案原理大綱』後『日本改造法案大綱』ニ改題。
※上記インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧
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