北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 10.序論。明治史略記。≪日韓併合条約≫韓國倂合仕儀





…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ


北一輝『國體論及び純正社會主義』

復刻及ビ附註


北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。

註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。



韓國倂

合仕儀

第二次日韓協約』ハ1905年(明治38年、皇紀2565年)11月17日締結。於京城。

以下ノ如シ。

≪日本國政府及韓國政府ハ兩帝國ヲ結合スル利害共通ノ主義ヲ鞏固[※強固]ナラシメムコトヲ欲シ韓國ノ富強ノ實ヲ認ムル時ニ至ル迄此目的ヲ以テ左ノ條款ヲ約定セリ

 第一條 日本國政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓國ノ外國ニ對スル關係及事務ヲ監理指揮スヘク日本國ノ外交代表者及領事ハ外國ニ於ケル韓國ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ

 第二條 日本國政府ハ韓國ト他國トノ間ニ現存スル條約ノ實行ヲ全フスルノ任ニ當リ韓國政府ハ今後日本國政府ノ仲介ニ由ラスシテ國際的性質ヲ有スル何等ノ條約若ハ約束ヲナササルコトヲ約ス

 第三條 日本國政府ハ其代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レジデント、ゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レジデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理[※しょうり。担当シ是ヲ執リ纏ム]スヘシ

 第四條 日本國ト韓國トノ間ニ現存スル條約及約束ハ本協約ノ條款ニ牴觸セサル限總テ其効力ヲ繼續スルモノトス

 第五條 日本國政府ハ韓國皇室ノ安寧ト尊嚴ヲ維持スルコトヲ保證ス

右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ

   明治三十八年十一月十七日

     特命全權公使 林權助(印)

   光武九年十一月十七日

     外部大臣 朴齊純(印)≫引用以上。

朴斉純即チぼくせいじゅんハ生年1858年12月7日没年1916年(大正5年、皇紀2576年)6月20日朝鮮半島ニ今乙巳五賊ト呼バル。1915年(大正4年、皇紀2575年)11月10日大礼記念章賜ル。

茲ニ朝鮮半島実質《大日本帝國》ニ併合サレリ。

1907年(明治40年、皇紀2567年)7月24日『第三次日韓協約』締結。此ノ契機ハ所謂《ハーグ密使事件》也。

《ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典》ハ以下ノ如ク記述ス。《隆煕1 (1907) 年6月,オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮 (大韓帝国) の高宗皇帝が密使を派遣し,光武9 (05) 年の第2次日韓協約 (保護条約) が日本の強圧によるもので無効であることを訴えた事件。日本代表小村寿太郎の妨害工作だけでなく,すでに桂=タフト密約,第2次日英同盟,日露講和条約などで,日本の朝鮮支配を欧米列強に了解させていたので,この密使の要請を欧米代表が取上げなかったため,失敗した。この計画は宮廷の御雇教師 H.ハルバートが立案したもので,この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議し,日本の外務大臣林薫と協議のすえ,皇太子の摂政を強く要求した。7月19日皇帝は詔書で皇太子の摂政を発表したが,日本側はこれを譲位と宣伝し,ついに摂政に譲位させた。民心は険悪になり,各所で官憲や日本人と衝突,李完用内閣閣僚は暗殺を恐れて日本側に保護を求めるなど騒擾状況のなかで同 27日日本の傀儡として純宗皇帝が即位し,日韓新協約が結ばれ,8月1日には軍隊が解散されて,日本は朝鮮の内政干渉権までを手にした。》

《世界大百科事典 第2版》ハ以下ノ如シ。《1907年6月,オランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれることを知った朝鮮国王(高宗)は,国際会議の場で朝鮮が日本の支配下におかれていることの窮状を訴え,日韓保護条約(1905)が無効であることを列国に承認させようと計画,アメリカ人H.B.ハルバートらの援助を得て,李相卨(りそうせつ),李儁(りしゆん),李瑋鍾(りいしよう)の3名を代表としてハーグへ派遣した。彼らは平和会議への朝鮮代表の参加を実現しようと試みたが,朝鮮は〈外交権〉を失っているという理由で受け入れられなかった。》

高宗即チこうそう退位ハ7月20日。彼生年1852年7月25日没年1919年(大正8年、皇紀2579年)1月21日李氏朝鮮第26代国王自1863年12月13日至1897年(明治 30年、皇紀 2557年)10月12日及ビ大韓帝国初代皇帝自1897年10月12日至1907年7月20日。

日韓協約』7月24日調印ハ於京城。以下ノ如シ。

≪日本國政府及韓國政府ハ速ニ韓國ノ冨強ヲ圖リ韓國民ノ幸福ヲ増進セムトスルノ目的ヲ以テ左ノ條款ヲ約定セリ

 第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト

 第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト

 第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト

 第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト

 第五條 韓國政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓國官吏ニ任命スルコト

 第六條 韓國政府ハ統監ノ同意ナクシテ外國人ヲ傭聘セサルコト

 第七條 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項ハ之ヲ廢止スルコト

右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ

   明治四十年七月二十四日

     統監 侯爵 伊藤博文(印)

   光武十一年七月二十四日

     内閣總理大臣勲二等 李完用(印)≫引用以上。

1909年(明治42年、皇紀2569年)10月26日ハルビン駅ニ安重根即チあんじゅこんニ依リ伊藤博文暗殺。射殺也。安重根生年1879年(明治12年、皇紀2539年)9月2日没年1910年(明治43年、皇紀2570年)3月26日。刑死。

伊藤博文即チいとうひろぶみハ生年1841年(天保12年)9月2日是旧暦(10月16日)没年1909年(明治42年、皇紀2569年)10月26日。翌日国葬。旧長州藩士。従一位大勲位公爵。没年6月ニ韓国統監辞任シテ在リ。

此ノ後『日韓併合条約』即チ『韓國倂合ニ關スル條約』締結ニ至ル。是調印1910年(明治43年、皇紀2570年)8月22日於京城。以下ノ如シ。

≪朕樞密顧問ノ諮詢ヲ經タル韓國倂合ニ關スル條約ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

   御名御璽

     明治四十三年八月二十九日

         內閣總理大臣 侯爵 桂太郞

         外務大臣 伯爵小村壽太郞

條約第四號

日本國皇帝陛下及韓國皇帝陛下ハ兩國間ノ特殊ニシテ親密ナル關係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ增進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ爲ニハ韓國ヲ日本帝國ニ倂合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ兩國間ニ倂合條約ヲ締結スルコトニ決シ之カ爲日本國皇帝陛下ハ統監子爵寺內正毅[※即チてらうちまさたけ生年1852年(嘉永5年)2月5日是旧暦(2月24日)没年1919年(大正8年、皇紀2579年)11月3日ハ旧長州藩士。元帥陸軍大将。位階は従一位。大勲位功一級伯爵。第3代韓国統監。初代朝鮮総督。第18代内閣総理大臣等。統監府ハ第二次日韓協約以後漢城是現ソウル在ニ設置。是1905年(明治38年、皇紀2565年)12月21日。『韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件』明治38年勅令第240号ニ基ク。1910年(明治43年)10月1日、韓国併合ニ伴ヒ朝鮮総督府ニ改組サル。]ヲ韓國皇帝陛下ハ內閣總理大臣李完用ヲ各其ノ全權委員ニ任命セリ因テ右全權委員ハ會同協議ノ上左ノ諸條ヲ協定セリ

 第一條

韓國皇帝陛下ハ韓國全部ニ關スル一切ノ統治權ヲ完全且永久ニ日本國皇帝陛下ニ讓與ス

 第二條

日本國皇帝陛下ハ前條ニ揭ケタル讓與ヲ受諾シ且全然韓國ヲ日本帝國ニ倂合スルコトヲ承諾ス

 第三條

日本國皇帝陛下ハ韓國皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下竝其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ應シ相當ナル尊稱、威嚴及名譽ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歲費ヲ供給スヘキコトヲ約ス

 第四條

日本國皇帝陛下ハ前條以外ノ韓國皇族及其ノ後裔ニ對シ各相當ノ名譽及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供與スルコトヲ約ス

 第五條

日本國皇帝陛下ハ勳功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ爲スヲ適當ナリト認メタル者ニ對シ榮爵ヲ授ケ且恩金ヲ與フヘシ

 第六條

日本國政府ハ前記倂合ノ結果トシテ全然韓國ノ施政ヲ擔任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身體及財產ニ對シ十分ナル保護ヲ與ヘ且其ノ福利ノ增進ヲ圖ルヘシ

 第七條

日本國政府ハ誠意忠實ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相當ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ韓國ニ於ケル帝國官吏ニ登用スヘシ

 第八條

本條約ハ日本國皇帝陛下及韓國皇帝陛下ノ裁可ヲ經タルモノニシテ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

右證據トシテ兩全權委員ハ本條約ニ記名調印スルモノナリ

   明治四十三年八月二十二日

     統監 子爵 寺內正毅

   隆熙四年八月二十二日

     內閣總理大臣 李完用≫引用以上。

李完用即チりかんよう生年1856年7月17日没年1926年(大正15年12月25日迄及ビ昭和元年改元以後、皇紀2586年)2月12日。朝鮮半島ニ《乙巳五賊》、《大日本帝國》1910年(明治43年、)10月7日伯爵。1920年(大正9年、皇紀2580年)侯爵。1926年(大正15年、皇紀2586年)大勲位菊花大綬章等。

ウェブ・サイト《出来事を考えてみよう~様々な出来事を紹介します~》ニ以下ノ記事在リ。《伊藤博文を暗殺して韓国の英雄となった安重根は、犯人ではなかった?》是《投稿日:2018年10月14日》。以下ノ如シ。

《伊藤は、明治維新以降、内閣制度の創設や大日本帝国憲法の制定などで活躍したほか、何よりも日本最初の総理大臣としても有名な人物です。

 しかし、この伊藤博文が、最後はハルピンで韓国人の安重根に暗殺されてしまったのは有名な話ですが、その暗殺事件については、黒幕がいたのではないかと言われています。

今回は、この伊藤博文暗殺事件について、御案内します。

安重根による伊藤博文暗殺計画

伊藤博文暗殺事件が起こったのは、明治四十二年 (1909年)のことでした。

日本は、日露戦争以降、韓国の外交・内政権を段階的に奪っていくことで、韓国の保護国化を進めていました。

この韓国保護国化の政策は、日本としては当時、日露戦争には一応勝利し、韓国がロシアに併合されるという脅威は一時的に回避できていたものの、それでも、もし韓国がどこかの列強国に植民地支配されるようなことがあれば、次に日本が狙われることが目に見えているため、何とか韓国を支配下におきたいと考えからきていました。

ちなみに、西郷隆盛の征韓論も、この考え方に基づくものでした。

そして、アメリカやイギリスに対しても、日本の韓国支配を認めさせて、明治三十八年(1905年)年には、その拠点となる統監府を韓国に設置したのでした。

その総監府の初代統監には、伊藤博文が任命されます。

日本は、初代総理大臣という実績を持つ伊藤博文を初代総監に任命することにより、今後、韓国支配をより強固にしようとする意図を内外に示したのでした。

これに対して、韓国民は反感を抱き、義兵闘争を行います。

いわゆる、抗日独立闘争を展開するのでした。

そして、この抗日独立闘争の指導者である安重根は、ハルピンに伊藤博文が訪れるということを聞きつけ、初代総監である伊藤博文の暗殺を計画し、実行するのでした。

テロリストとなって安重根が伊藤博文を狙撃する

そして安重根は、明治四十二 年(1909年)十月二十六日午前九時、清国領ロシア租借地ハルビンにて、伊藤を狙撃します。

具体的には、伊藤がハルピン駅で、ロシアの大蔵大臣・ココフツォフと歓談した後、ロシア側の用意した宴の列車に移動する際に、安重根は群衆を装って近づいていき発砲しました。

討たれた伊藤は、直ちに列車に運び込まれて、医者が応急措置を施します。

しかし、伊藤は、狙撃された傷が致命傷となり、約三十分後に息を引き取りました。

一方の安ですが、伊藤を狙撃後、その場で直ちに取り押さえられます。

そして、供述の中で、伊藤が韓国の主権を奪ったこと、韓国皇帝を廃したこと、更には義兵として立ち上がった韓国の良民を多数殺害したことなどから、これらに抗議するために、犯行に及んだと語ったのでした。

伊藤博文の考えは親韓国派

 しかしながら、実際には、伊藤は早急な韓国併合に反対していたと言われています。

 伊藤の考えは、韓国を併合することに反対し、韓国を保護し育てて、いずれは独立させても列強の植民地とならない国にしていきたいというビジョンを描いていたと言われていました。

 このため、伊藤は、日本本国の政府上層部から、韓国への対応が生ぬるいと指摘され、暗殺されたときには、すでに統監の職を辞していました。

 けれども、韓国の人々には、そのようなことは分かりません。

反対に、ついこの間まで統監の地位にあった伊藤は、祖国・韓国を苦しめる日本の象徴のようなものでした。

本当に安重根は伊藤博文暗殺の犯人か?

この伊藤博文暗殺事件の公式見解としては、「伊藤を撃ったのは安重根である」というものでした。

ところが、これには、直ぐに反論が出されます。

その反論の内容というのは、安は単に狙撃犯の一人であり、別の犯人、若しくは黒幕的な存在がいるのではないかというものでした。

実際、この暗殺事件には、これを裏付けるような証拠と証言があるのでした。

銃弾の跡が異なる

最も不可解な点と言われるのが、伊藤の身体に撃ち込まれた銃弾の跡です。

初めの銃弾は、伊藤の石の肺の上から体内へ向けて下方へ五センチほど通過し、第七肋骨(あばら骨)あたりでとどまっていました。

第二弾は右肘の関節から内側に向けて第九肋骨に入っており、第三弾はへその上のあたりから撃ち込まれ、左腹筋にとどまっていたのでした。

これら3発のすべての銃痕は、弾を斜め上から発射されたことを示しています。

ところが、伊藤に随行していた貴族院議員,室田義文の証言では、安と思しき犯人は小柄な体格を利用して、群衆を装って低い位置から伊藤を狙って撃ってきたというのです。

仮に、そのように狙撃すれば、発した弾丸は身体の下方部から上方部へという弾道になるはずです。

しかし、伊藤の身体に残された銃弾の跡とは反対であり、つじつまが合わず、状況的に安重根が撃ったものとは思えませんでした。

銃の種類も一致しない

また、銃の種類に関しても、実は異なっているのです。

安は、七連発のブローニング銃を所持していました。

ところが、随行者・室田の証言によると、伊藤の身体から取り出された弾丸は、ブローニング銃ではなく、フランスの騎馬銃の弾丸でした。

また、安は、仲間三人と暗殺を行いますが、その仲間が所持していた銃の種類もフランスの騎馬銃の弾丸ではありませんでした。

このため、随行者・室田は、事件現場となった駅プラットホーム横の建物の2階から、フランスの騎馬銃で誰かが撃ったものだと主張したのでした。

伊藤博文暗殺事件の黒幕はロシア政府か?

こうして、随行者・室田は、伊藤博文暗殺事件の真犯人の存在を声高に訴えようとしました。

そもそも、随行者・室田には、今回の事件に違和感を持っていました。

この事件は、ハルピン駅のプラットホームで、ロシア兵の閲兵を受けた際に起こったものですが、これは当初には予定されていませんでした。

更に、伊藤は、自分は平服であるため、閲兵を断りました。しかし、ロシアの大蔵大臣・ココフツォフが強く依頼したので、やむを得なく受けた際での出来事でした。

ところが、随行者・室田は、政府上層部の人間に、「真犯人は別にいる。」と訴え出ることは「外交問題に支障を来す。」と言いくるめられ、思いとどまらざるを得なかったというのです。

この「外交問題」とは、当然、ロシアとの関係でした。

この事件は、日露戦争の終戦後からわずか四年で生じており、敗戦国・ロシアの対日感情は決して良くありません。

そして、今回、伊藤がハルビンまで出向いたのも、韓国問題でロシアを刺激しないように話し合うためのものでした。

その後は、日韓併合が早まる 

しかし、一方で日本政府は、日本の偉大な政治家が韓国人に暗殺されたと、国内外に大きくアピールをしました。

そして、この事件を口実に、韓国内の治安維持を確保するために、早急に韓国を日本に併合する必要があるという政策論を掲げ、急速なペースで日韓併合を進めていきました。

このような経緯で、伊藤博文暗殺事件の真相は、闇に葬られてしまった感があります。

しかしそこには、ロシア及び韓国の思惑と、一方で日本の思惑とが、それぞれに入り交って次の一手を見据えた駆け引きが行われていたようです。

一方、韓国では、安重根は抗日独立闘争の英雄ということで、「安重根記念館」が建てられています。》




※上記インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧




Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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