北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 9.序論。明治史略記。日露戦争。≪露国ニ対スル宣戦ノ詔勅≫及ビ≪ポーツマス條約≫
…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
北一輝『國體論及び純正社會主義』
復刻及ビ附註
北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。
註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。
日露戦争Русско-японская войнаハ1904年(明治37年、皇紀2564年)2月8日旅順口攻撃是《大日本帝國軍》奇襲作戦ニ始マリ、1905年(明治38年、皇紀2565年)9月5日『ポーツマス条約』締結ニ至ル。
是抑々ロシア南下政策及ビ朝鮮支配権問題ニ端ヲ発ス。
『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』是1904(明治37、皇紀2564年)年2月10日。
《天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露國ト交戰ノ事ニ從フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ其ノ權能ニ應シテ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ凡ソ國際條規ノ範圍ニ於テ一切ノ手段ヲ盡シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ文明ヲ平和ニ求メ列國ト友誼ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各國ノ權利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝國ノ安全ヲ將來ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕夙ニ以テ國交ノ要義ト爲シ旦暮敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕カ有司モ亦能ク朕カ意ヲ體シテ事ニ從ヒ列國トノ關係年ヲ逐フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露國ト釁端ヲ開クニ至ル豈朕カ志ナラムヤ
帝國ノ重ヲ韓國ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ兩國累世ノ關係ニ因ルノミナラス韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露國ハ其ノ淸國トノ明約及列國ニ對スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露國ニ提議シ半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露國ハ一モ交讓ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日彌久徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽ニ平和ヲ唱道シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス凡ソ露國カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ認ムルニ由ナシ露國ハ既ニ帝國ノ提議ヲ容レス韓國ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝國ノ國利ハ將ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝國カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル將來ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠實勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス》
是《国立公文書館/アジア歴史資料センター》ウェブ・サイトニ『露国に対す宣戦の詔勅』ノページニ現代語訳在リ、以下ノ如シ。
《天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。
朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。
朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。
日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。
仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。
ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。
事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。》引用以上。此ノウェブ・サイト《アジ歴はインターネット上の資料館(デジタルアーカイブ)です。
国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所から、デジタル化されたアジア歴史資料(近現代における日本とアジア近隣諸国等との関係に関わる日本の歴史的な文書)の提供を受け、データベースを構築してインターネットを通じて公開しています。》ト称ス。
『日韓議定書』1904年(明治37年、皇紀2564年即チ開戦直後)2月23日大韓帝國ト《大日本帝國》是ヲ締結。於京城。大韓帝國ハ自1897年(明治30年、皇紀2557年)至1910年(明治43年、皇紀2570年即チ所謂日韓併合ノ年迄)ノ李氏朝鮮國号。当該『議定書』以下ノ如シ。
≪大日本帝國皇帝陛下ノ特命全權公使林權助及大韓帝國皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍參將李址鎔[※註]ハ各相當ノ委任ヲ受ケ左ノ條款ヲ協定ス
[※附註。
林権助即チはやしごんすけ生年1860年(安政7年)3月2日是旧暦(3月23日)没年1939年(昭和14年、皇紀2599年)6月27日。旧会津藩士。林又一郎。従一位勲一等。男爵。
李址鎔即チりしよう生年1870年12月15日没年1928年(昭和3年、皇紀2588年)6月28日。1910年(明治43年、皇紀2570年)10月16日勲一等伯爵(朝鮮貴族)。死去後正三位賜ル。韓国ニ乙巳五賊即チいっしごぞくトサル。釈スルニ是売国奴五人賊ノ意也。]
第一條 日韓兩帝國間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル爲メ大韓帝國政府ハ大日本帝國政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ關シ其忠告ヲ容ルゝ事
第二條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ皇室ヲ確實ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事
第三條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ獨立及領土保全ヲ確實ニ保證スル事
第四條 第三國ノ侵害ニ依リ若クハ内亂ノ爲メ大韓帝國ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危險アル場合ハ大日本帝國政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝國政府ハ右大日本帝國政府ノ行動ヲ容易ナラシムル爲メ十分便宜ヲ與フル事
大日本帝國政府ハ前項ノ目的ヲ達スル爲メ軍略上必要ノ地點ヲ臨機收用スルコトヲ得ル事
第五條 兩國政府ハ相互ノ承認ヲ經スシテ後來本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三國トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事
第六條 本協約ニ關聯スル未悉ノ細條ハ大日本帝國代表者ト大韓帝國外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事
明治三十七年二月二十三日
特命全權公使 林權助(印)
光武八年二月二十三日
外部大臣臨時署理
陸軍參將 李址鎔(印)≫引用以上。
『第一次日韓協約』即チ『日韓協約』ハ同年8月22日締結。於京城。以下ノ如シ。
≪一 韓國政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓國政府ニ傭聘シ財務ニ關スル事項ハ總テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
一 韓國政府ハ日本政府ノ推薦スル外國人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘[※ようへい。外部ヨリ招キ雇用ス]シ外交ニ關スル要務ハ總テ其意見ヲ詢ヒ[※伺ヒ]施行スヘシ
一 韓國政府ハ外國トノ條約締結其他重要ナル外交案件即外國人ニ對スル特權、讓與[※譲与]若ハ契約等ノ處理ニ關シテハ豫メ日本政府ト協議スヘシ
明治三十七年八月二十二日
特命全権公使 林権助(印)
光武八年八月二十二日
外部大臣署理 尹致昊(印)≫引用以上。
所謂『ポーツマス条約』ハ即チ『日露講和条約及追加約款』及ビ『日露講和條約及追加約款』也。
以下ノ如シ。
≪日本國皇帝陛下及全露西亞國皇帝陛下ハ兩國及其ノ人民ニ平和ノ幸福ヲ囘復セムコトヲ欲シ講和條約ヲ締結スルコトニ決定シ之カ爲ニ日本國皇帝陛下ハ外務大臣從三位勳一等男爵小村壽太郎[※即チこむらじゅたろう生年1855年(安政2年)9月16日是旧暦(10月26日)没年1911年(明治44年、皇紀2571年)11月26日)]閣下及亞米利加合衆國駐箚特命全權公使從三位勳一等高平小五郎[※即チたかひらこごろう生年1854年(嘉永7年)1月1日是旧暦(1月29日)没年1926年(大正15年、皇紀2586年)11月28日)は、明治時代の日本の外交官。男爵。]閣下ヲ全露西亞國皇帝陛下ハ「プレシデント、オヴ、ゼ、コムミッチー、オヴ、ミニスタース、オヴ、ゼ、エムパイア、オヴ、ロシア[※President of the Council of Ministers of the Empire of the Russia]」「セクレタリー、オヴ、ステート[※Secretary of state]」「セルジ、ウヰッテ[※セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテСергей Юльевич Витте生年1849年6月29日没年1915年(大正4年、皇紀2575年)3月13日。当時帝政ロシア首相也。]」閣下及亞米利加合衆國駐箚特命全權大使「マスター、オヴ、ゼ、イムピリアル、コールト、オヴ、ロシアMaster of the Empirial of the Russia」男爵「ローマン、ローゼン[※ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼンРоман Романович Розен生年1847年2月24日 没年1921年(大正6年、皇紀2581年)12月31日。当時駐日ロシア公使]」閣下ヲ各其ノ全權委員ニ任命セリ因テ各全權委員ハ互ニ其ノ委任狀ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ
第一條
日本國皇帝陛下ト全露西亞國皇帝陛下トノ間及兩國竝兩國臣民ノ間ニ將來平和及親睦アルヘシ
第二條
露西亞帝國政府ハ日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶[たくぜつ。比類無キ]ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝國政府カ韓國ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙[※阻害]シ又ハ之ニ干涉セサルコトヲ約ス
韓國ニ於ケル露西亞國臣民ハ他ノ外國ノ臣民又ハ人民ト全然同樣ニ待遇セラルヘク之ヲ換言スレハ最惠國ノ臣民又ハ人民ト同一ノ地位ニ置カルヘキモノト知ルヘシ
兩締約國ハ一切誤解ノ原因ヲ避ケムカ爲露韓間ノ國境ニ於テ露西亞國又ハ韓國ノ領土ノ安全ヲ侵迫スルコトアルヘキ何等ノ軍事上措置ヲ執ラサルコトニ同意ス
第三條
日本國及露西亞國ハ互ニ左ノ事ヲ約ス
一 本條約ニ附屬スル追加約款第一ノ規定ニ從ヒ遼東半島[※現中国遼寧省南部。《遼東半島(りょうとうはんとう)/Liaodong Peninsula/現在の中国遼寧省南部にある半島です。 遼河河口と鴨緑江河口を結ぶ線から南を指し、東は黄海、西は遼東湾に望みます。 日清戦争後、日本に割譲されましたが、三国干渉による中国への返還後まもなくロシアが租借しました。 日露戦争後には日本が統治し、関東州と名付けました。》上記《国立公文書館アジア歴史資料センター用語一覧ニ斯記載サル。]租借權カ其ノ效力ヲ及ホス地域以外ノ滿洲ヨリ全然且同時ニ撤兵スルコト
二 前記地域ヲ除クノ外現ニ日本國又ハ露西亞國ノ軍隊ニ於テ占領シ又ハ其ノ監理ノ下ニ在ル滿洲全部ヲ擧ケテ全然淸國專屬ノ行政ニ還附スルコト
露西亞帝國政府ハ淸國ノ主權ヲ侵害シ又ハ機會均等主義ト相容レサル何等ノ領土上利益又ハ優先的若ハ專屬的讓與[※譲与]ヲ滿洲[※是現遼寧省、吉林省、黒竜江省及ビ内モンゴル自治区東部]ニ於テ有セサルコトヲ聲明ス
第四條
日本國及露西亞國ハ淸國カ滿洲ノ商工業ヲ發達セシメムカ爲列國ニ共通スル一般ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙セサルコトヲ互ニ約ス
第五條
露西亞帝國政府ハ淸國政府ノ承諾ヲ以テ旅順[※《旅順(りょじゅん)/Lushun, Port Arthur/現在の中国遼寧省、遼東半島最南端、大連市街の西にある深水の湾です。 日清戦争後の三国干渉を経てロシアが租借、堅固な要塞を築城し、日露戦争最大の激戦地となりました(旅順要塞攻略戦)。》是引用出典同上記。]口、大連[※《大連(だいれん)/Dalian/現在の中国遼寧省、遼東半島南端の港湾都市です。哈大線(ハルビン―大連間、旧東清鉄道支線)の終点で、1898年にロシアが不凍港を求めて租借、商港建設を始めました。 日露戦争では、旅順と大連をめぐって熾烈な戦いが繰り広げられました。戦後には日本が統治し、南満州鉄道株式会社(満鉄)の本社が置かれました。》]竝其ノ附近ノ領土及領水ノ租借權及該租借權ニ關聯シ又ハ其ノ一部ヲ組成スル一切ノ權利、特權及讓與ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス露西亞帝國政府ハ又前記租借權カ其ノ效力ヲ及ホス地域ニ於ケル一切ノ公共營造物及財産ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス
兩締約國ハ前記規定ニ係ル淸國政府ノ承諾ヲ得ヘキコトヲ互ニ約ス
日本帝國政府ニ於テハ前記地域ニ於ケル露西亞國臣民ノ財産權カ完全ニ尊重セラルヘキコトヲ約ス
第六條
露西亞帝國政府ハ長春(寛城子)[※即チちょうしゅん現吉林省省都。]旅順口間ノ鐵道及其ノ一切ノ支線竝同地方ニ於テ之ニ附屬スル一切ノ權利、特權及財産及同地方ニ於テ該鐵道ニ屬シ又ハ其ノ利益ノ爲ニ經營セラルル一切ノ炭坑ヲ補償ヲ受クルコトナク且淸國政府ノ承諾ヲ以テ日本帝國政府ニ移轉讓渡スヘキコトヲ約ス
兩締約國ハ前記規定ニ係ル淸國政府ノ承諾ヲ得ヘキコトヲ互ニ約ス
第七條
日本國及露西亞國ハ滿洲ニ於ケル各自ノ鐵道ヲ全ク商工業ノ目的ニ限リ經營シ決シテ軍略ノ目的ヲ以テ之ヲ經營セサルコトヲ約ス
該制限ハ遼東半島租借權力其ノ效力ヲ及ホス地域ニ於ケル鐵道ニ適用セサルモノト知ルヘシ
第八條
日本帝國政府及露西亞帝國政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ滿洲ニ於ケル其ノ接續鐵道業務ヲ規定セムカ爲成ルヘク速ニ別約ヲ締結スヘシ
第九條
露西亞帝國政府ハ薩哈嗹島[※是樺太島即チさがれんとう。是樺太島からふととうСахалин庫頁島北部。樺太即チ南樺太ニ区別スル呼称也。]南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼竝該地方ニ於ケル一切ノ公共營造物及財産ヲ完全ナル主權ト共ニ永遠日本帝國政府ニ讓與ス其ノ讓與地域ノ北方境界ハ北緯五十度ト定ム該地域ノ正確ナル境界線ハ本條約ニ附屬スル追加約款第二ノ規定ニ從ヒ之ヲ決定スヘシ
日本國及露西亞國ハ薩哈嗹島又ハ其ノ附近ノ島嶼ニ於ケル各自ノ領地内ニ堡壘[※ほうるい。語義ハ城壁]其ノ他之ニ類スル軍事上工作物ヲ築造セサルコトニ互ニ同意ス又兩國ハ各宗谷海峽[※即チそうやかいきょうハ北海道宗谷岬及ビ樺太別称チサハリン島西能登呂岬即チにしのとろみさき別称チクリリオン岬間ノ海峡。《樺太(からふと)/Sakhalin/日本の北海道の北に位置する、南北に伸びる大きな島です。「樺太」は日本の呼び方で、ロシアでは「サハリン」と言います。 日露戦争の末期には、日本軍はこの島の南部からの上陸作戦を実行し、これに成功して占領・統治を行いました。 また、戦後には北緯50度以南が日本に割譲されました。》引用出典上記。]及韃靼海峽[※是間宮海峡即チまみやかいきょう別称ダッタン海峡乃至タタール海峡]ノ自由航海ヲ妨礙スルコトアルヘキ何等ノ軍事上措置ヲ執ラサルコトヲ約ス
第十條
日本國ニ讓與セラレタル地域ノ住民タル露西亞國臣民ニ付テハ其ノ不動產ヲ賣却シテ本國ニ退去スルノ自由ヲ留保ス但シ該露西亞國臣民ニ於テ讓與地域ニ在留セムト欲スルトキハ日本國ノ法律及管轄權ニ服從スルコトヲ條件トシテ完全ニ其ノ職業ニ從事シ且財產權ヲ行使スルニ於テ支持保護セラルヘシ日本國ハ政事上又ハ行政上ノ權能ヲ失ヒタル住民ニ對シ前記地域ニ於ケル居住權ヲ撤囘シ又ハ之ヲ該地域ヨリ放逐スヘキ充分ノ自由ヲ有ス但シ日本國ハ前記住民ノ財產權カ完全ニ尊重セラルヘキコトヲ約ス
第十一條
露西亞國ハ日本海、「オコーツク」海[※オホーツク海Охотское море]及「ベーリング」海ニ瀕スル露西亞國領地ノ沿岸ニ於ケル漁業權ヲ日本國臣民ニ許與セムカ爲日本國ト協定ヲナスヘキコトヲ約ス
前項ノ約束ハ前記方面ニ於テ既ニ露西亞國又ハ外國ノ臣民ニ屬スル所ノ權利ニ影響ヲ及ササルコトニ双方同意ス
第十二條
日露通商航海條約ハ戰爭ノ爲廢止セラレタルヲ以テ日本帝國政府及露西亞帝國政府ハ現下ノ戰爭以前ニ效力ヲ有シタル條約ヲ基礎トシテ新ニ通商航海條約ヲ締結スルニ至ルマテノ間兩國通商關係ノ基礎トシテ相互ニ最惠國ノ地位ニ於ケル待遇ヲ與フルノ方法ヲ採用スヘキコトヲ約ス而シテ輸入税及輸出税、税關手續、通過税及噸税[※外国貿易船入港税]竝一方ノ代辨者、臣民及船舶ニ對スル他ノ一方ノ領土ニ於ケル入國ノ許可及待遇ハ何レモ前記ノ方法ニ依ル[※『日露通商航海條約』ハ《朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ日本國及露西亞國間ニ締結シタル日露通商航海條約及同條約附属別約ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム睦仁内閣総理大臣侯爵西園寺公望 外務大臣子爵林董 條約第四号日露通商航海條約日本國皇帝陛下及全露西亞國皇帝陛下ハ両国通商上ノ関係ヲ進捗セシメムコトヲ希望シ「ポーツマス」ニ於テ調印セラレタル講和條約第十二條ノ規定ニ基キ公正ノ主義ト相互ノ利益ヲ基礎トシテ一ノ通商航海條約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本國皇帝陛下ハ露西亞國駐箚特命全権公使法学博士本野一郎ヲ全露西亞國皇帝陛下ハ外務大臣「メートル、ド、ラ、クール」、「アレキサンドル、イズヴォルスキー」商工務大臣「マンブル、ヂュ、コンセイユ》以上引用《国立公文書館》ウェブ・サイト。是ニ《件名標題 御署名原本・明治四十年・条約第四号・日露通商航海条約》ト在リ又《資料作成年月日 明治40年09月11日(1907/09/11)》此ノ条約1907年明治40年7月23日調印。]
第十三條
本條約實施ノ後成ルヘク速ニ一切ノ俘虜ハ互ニ之ヲ還附スヘシ日本帝國政府及露西亞帝國政府ハ各俘虜ヲ引受クヘキ一名ノ特別委員ヲ任命スヘシ一方ノ政府ノ收容ニ係ル一切ノ俘虜ハ他ノ一方ノ政府ノ特別委員又ハ正當ニ其ノ委任ヲ受ケタル代表者ニ引渡シ同委員又ハ其ノ代表者ニ於テ之ヲ受領スヘク而シテ其ノ引渡及受領ハ引渡國ヨリ豫メ受領國ノ特別委員ニ通知スヘキ便宜ノ人員及引渡國ニ於ケル便宜ノ出入地ニ於テ之ヲ行フヘシ
日本國政府及露西亞國政府ハ俘虜引渡完了ノ後成ルヘク速ニ俘虜ノ捕獲又ハ投降ノ日ヨリ死亡又ハ引渡ノ時ニ至ルマテ之カ保護給養ノ爲ニ各負擔シタル直接費用ノ計算書ヲ互ニ提出スヘシ同計算書交換ノ後露西亞國ハ成ルヘク速ニ日本國カ前記ノ用途ニ支出シタル實際ノ金額ト露西亞國カ同樣ニ支出シタル實際ノ金額トノ差額ヲ日本國ニ拂戻スヘキコトヲ約ス
第十四條
本條約ハ日本國皇帝陛下及全露西亞國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘシ該批准[※ひじゅん。条約拘束実効手続キ]ハ成ルヘク速ニ且如何ナル場合ニ於テモ本條約調印ノ日ヨリ五十日以内ニ東京駐箚[※ちゅうさつ。特命]佛蘭西國公使及聖彼得堡[※即チサンクトペテルブルクСанкт-Петербург此処当時首都也。]駐箚亞米利加合衆國大使ヲ經テ日本帝國政府及露西亞帝國政府ニ各之ヲ通告スヘシ而シテ其ノ終ノ通告ノ日ヨリ本條約ハ全部ヲ通シテ完全ノ效力ヲ生スヘシ正式ノ批准交換ハ成ルヘク速ニ華盛頓[※即チワシントンD.C.Washington, D.C.]ニ於テ之ヲ行フヘシ
第十五條
本條約ハ英吉利文及佛蘭西文ヲ以テ各二通ヲ作リ之ニ調印スヘシ其ノ各本文ハ全然符合スト雖モ其ノ解釋ニ差異アル場合ニハ佛蘭西文ニ據ルヘシ
右證據トシテ兩國全權委員ハ茲ニ本講和條約ニ記名調印スルモノナリ
明治三十八年九月五日卽一千九百五年八月二十三日(九月五日)「ポーツマス[※《ポーツマス/Portsmouth/アメリカ合衆国の東海岸ニューハンプシャー州にある港町です。 1905年、アメリカ大統領ルーズヴェルトの手引きによって、日本とロシアそれぞれの代表団がこの町に集い、日露戦争の講和会議を行いました。》引用出典上記。]」(「ニュー、ハムプシャ」州)ニ於テ之ヲ作ル
小村壽太郎(記名) 印
高平小五郎(記名) 印
セルジ、ウヰッテ(記名) 印
ローゼン(記名) 印
追加約款
本日附日本國及露西亞國間講和條約第三條及第九條ノ規定ニ從ヒ下名ノ全權委員ハ左ノ追加約款ヲ締結セリ
第一 第三條ニ付
日本帝國政府及露西亞帝國政府ハ同時ニ且講和條約ノ實施後直ニ滿洲ノ地域ヨリ各其ノ軍隊ノ撤退ヲ開始スヘキコトヲ互ニ約ス而シテ講和條約實施ノ日ヨリ十八箇月ノ期間内ニ兩國ノ軍隊ハ遼東半島租借地以外ノ滿洲ヨリ全然撤退スヘシ
前面陣地ヲ占領スル兩國軍隊ハ最先ニ撤退スヘシ
兩締約國ハ滿洲ニ於ケル各自ノ鐵道線路ヲ保護セムカ爲守備兵ヲ置クノ權利ヲ留保ス該守備兵ノ數ハ一「キロメートル」毎ニ十五名ヲ超過スルコトヲ得ス而シテ日本國及露西亜國軍司令官ハ前記最大數以内ニ於テ實際ノ必要ニ顧ミ之ヲ使用セラルヘキ守備兵ノ數ヲ双方ノ合意ヲ以テ成ルヘク小數ニ限定スヘシ
滿洲ニ於ケル日本國及露西亞國軍司令官ハ前記ノ原則ニ從ヒ撤兵ノ細目ヲ協定シ成ルヘク速ニ且如何ナル場合ニ於テモ十八箇月ヲ超ヘサル期間内ニ撤兵ヲ實行セムカ爲双方ノ合意ヲ以テ必要ナル措置ヲ執ルヘシ
第二 第九條ニ付
兩締約國ニ於テ各任命スヘキ同數ノ人員ヨリ成ル境界劃定委員ハ本條約實施後成ルヘク速ニ薩哈嗹島ニ於ケル日本國及露西亞國領地間ノ正確ナル境界ヲ永久ノ方法ヲ以テ實地ニ就キ劃定スヘシ該委員ハ地形ノ許ス限リ北緯五十度ヲ以テ境界線トナスコトヲ要ス若シ何レカノ地點ニ於テ同緯度ヨリ偏倚スルノ必要ヲ認ムルトキハ他ノ地點ニ於ケル對當ノ偏倚ニ依リテ之ヲ填補[※補填]スヘシ該委員ハ讓與中ニ包含セラルル附近島嶼ノ表及明細書ヲ調製スルノ任ニ當リ且讓與地域ノ境界ヲ示ス地圖ヲ調製シ之ニ署名スヘシ該委員ノ事業ハ兩締約國ノ承認ヲ經ルコトヲ要ス
前記追加約款ハ其ノ附屬スル講和條約ノ批准ト共ニ批准セラレタルモノト看做サルヘシ[※みなさるべし]
明治三十八年九月五日即一千九百五年八月二十三日(九月五日)「ポーツマス」ニ於テ
小村壽太郎(記名)
高平小五郎(記名)
セルジ、ウヰッテ(記名)
ローゼン(記名)≫引用以上。
※上記インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧
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