北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 8.序論。明治史略記。『教育ニ關スル勅語』明治23年、『戌申詔書』明治41年
…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
北一輝『國體論及び純正社會主義』
復刻及ビ附註
北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。
註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。
教育勅
語仕儀
『教育ニ関スル勅語』
『教育ニ關スル勅語』原文全文ハ以下ノ如シ。
≪文部省訓令
今般敎育ニ關シ勅語ヲ下シタマヒタルニ付謄本及本大臣ノ訓示各一通ヲ交付ス能ク聖意ノ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ
明治二十三年十月三十一日 文部大臣芳川顕正
(別紙ニ)
勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
訓示
謹テ惟ニ我カ
天皇陛下深ク臣民ノ敎育ニ軫念シタマヒ茲ニ忝ク
勅語ヲ下シタマフ 顯正職ヲ文部ニ奉シ躬重任ヲ荷ヒ日夕省思シテ嚮フ所ヲ愆ランコトヲ恐ル 今
勅語ヲ奉承シテ感奮措ク能ワス 謹テ
勅語ノ謄本ヲ作リ 普ク之ヲ全國ノ學校ニ頒ツ 凡ソ敎育ノ職ニ在ル者須ク常ニ聖意ヲ奉體シテ 硏磨薰陶ノ務ヲ怠ラサルヘク 殊ニ學校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ會集シテ
勅語ヲ奉體シ 且意ヲ加エテ諄々誨告シ 生徒ヲシテ夙夜ニ佩スル所アラシム
明治二十三年十月三十一日 文部大臣 芳川顯正≫引用以上。
此レヲ註釈スルニ、
勅語
朕惟[※おも]フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇[※はじ]ムルコト宏遠ニ德ヲ樹[※た]ツルコト深厚ナリ[。]
[此ノ句即チ
我が想うに、我が皇祖皇宗の此の国をお始めになられ賜うたことは、ひとえにあまりにも広大にして遠謀なる御徳の樹立という大志を抱かれてのことに違い在るまい。]
我カ臣民克ク[※よく]忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一[※いつ]ニシテ世世[※よゝ]厥[※そ]ノ美ヲ濟[※な]セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス[。]
[此ノ句即チ
我が臣民のよく忠即ち尊皇忠義を護り且つよく孝即ち両親への孝行を護って億兆になんなんとする志をかさねかさねて時を普き生きて来たのは、是こそ我が國體の精髄にして華であり、教育の根本の意義とは実に此処に在るのだ。]
爾[※なんじ]臣民父母ニ孝ニ兄弟[※けいてい]ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉[※きょうけん]己レヲ持シ[語註。恭儉ハ慎ミ深ク謙虚ノ意ニシテ、恭儉己レヲ持スハ定型文也。]博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業[※しゅう]ヲ習ヒ以テ智能[※ちのう]ヲ啓發シ德器[※とっき。是徳在ル器量乃至有徳ノ人格云々ノ意也。]ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務[※せむ]ヲ開キ常ニ國憲[※こっけん。是国ノ根本法、国ノ根本義、国ノ本義ノ意也。]ヲ重シ國法ニ遵[※したが]ヒ一旦緩急アレハ義勇[※ぎゆう、]公ニ奉シ以テ天壤無窮[※てんじょうむきゅう]ノ皇運ヲ扶翼[※ふよく。助ケ護ルノ意。天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スハ定型句。]スヘシ[。]
[此ノ句即チ
汝等臣民は父母を孝行し兄弟に相親和し合い夫婦に相和合し合い友人に謙虚に親睦し合うのは、博愛の美徳が是衆生にまで品性を与え影響を及ぼし、学問を修め業を修行し以て人類知性を啓発し合って、人の徳ある品位を成就して自ら進んで公益を社会に広め、此の世に生きるものの務めを果して常に國の根本の憲法乃至教義を重んじ、國の法律に随い尊守して、一旦事が在れば義勇を持って公の利益と正義に奉公し、以て天壌無窮の皇運の煌きの為に身を捧げて惜しまず在らねばならぬ。]
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良[※ちゅうりょう。忠義在リテ且ツ善良。]ノ臣民タルノミナラス又以テ爾[なんじ]祖先ノ遺風[※いふう。伝統ノ大和流儀]ヲ顯彰スルニ足ラン
[つまりは汝等は我が忠良なる臣民として在るのみならず、以て祖先から脈々と受け継がれて来た大日本の心を継承し顕彰するべきなのである。]
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ[※ともに]遵守スヘキ所[。]
[此ノ句即チ
此の國民の本道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民も普く遵守すべき所なのである。]
之ヲ古今ニ通シテ謬[※あやま]ラス之ヲ中外ニ施シテ悖[※もと]ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺[※ふくよう。深ク心ニ留メ置ク。
[此ノ句即チ
是を古今を通じて過つことなく、是を家内外、氏族内外、國内外に施して尚飽き足らず、我は汝等臣民と共に堅く心に留め置くものである。]
拳々ト両手デ捧ゲ持チ、服膺ト[※胸即チ膺ニ、附ケル即チ服ス。]シテ咸[みな]其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾[こいねが]フ
[此ノ句即チ
ゆえに汝等臣民よ。汝等が堅く決意を持って此の徳を胸に刻んで、徳を以て一致しひとつになって在ることをこそ、希うのである。]
所謂『教育勅語』ノ釈義以上。是ニ応答スル文部大臣芳川顯正ノ文附サレテ在リ。以下注釈ス。
謹テ惟ニ我カ
[此ノ段即チ
謹んで想うに我が]
天皇陛下深ク臣民ノ敎育ニ軫念[※しんねん。天子ノ御心ニオ考デ在ラセラレル思惟。]シタマヒ茲ニ忝ク[※かたじけなく乃至おそれおおく]
[此ノ段即チ
天皇陛下に在らせられましては、深く臣民の教育をご思惟戴いておられまして、此処にまことにかたじけなく、]
勅語ヲ下シタマフ顯正職[※けんしょう(の)しょく。特ニ仏典ノ道理道義ヲ顕カニ知ラシメル(是顕正)御勤め(是職)]ヲ文部ニ奉シ躬[※みずから]重任ヲ荷ヒ日夕省思[※せいし。内省シ反省ス]シテ嚮フ[※むかう。嚮導キ教導スル所。我等随ヒテ向ウ所ノ意也。]所ヲ愆[※あやま]ランコトヲ恐ル 今
[此ノ段即チ
勅語下されなされ賜うた御教示を知らしめる大職務を文部の省に当たらしめて賜はり、私自らその御重責を担わせて戴き、故に朝昼夕にと内省し反省し御教示戴いた道を進むべく想いますれども、自らの愚かに過って仕舞う不明のあるかも知れぬことをただ、恐れるものでございまする。]
勅語ヲ奉承[※ほうしょう。謹ンデ受ケ賜リ謹ンデ奉ル。]シテ感奮[※かんふん。感極マッテ感情窮マル。]措ク能ワス謹テ
[此ノ段即チ
勅語を謹んで奉り感激窮まりて堪えられず謹んで、]
勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全國ノ學校ニ頒ツ[※わかつ。]凡ソ敎育ノ職ニ在ル者須ク[※すべからく]常ニ聖意ヲ奉體シテ硏磨薰陶ノ務ヲ怠ラサルヘク殊ニ學校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ會集シテ
[此ノ段即チ
勅語の謄本をお造りさせて戴き、是を普く全國の学校に頒布し分け与え、凡そ教育職に在る者ならばすべからくに常に此の神聖なる御意図さるところを魂に刻んで奉り、自他研磨の営み及び御大志の薫陶の務めを怠ることなきように、殊に学校の各種式典及びその他の日常の各折り折りにも日時を定めて生徒を集合させ、]
勅語ヲ奉體シ 且意ヲ加エテ諄々[※じゅんじゅん。即チ、判リ易クノ意也。くどくどハ当テ読ミ。]誨告[※かいこく。教エ諭シ知ラシメル。]シ生徒ヲシテ夙夜[※しゅくや。夜ニ迄通シテ即チ一日中]ニ佩スル[※はいする。腰ニ帯ビル。剣ノ如クニ身ニ添ワス。]所アラシム
[此ノ段即チ
此の賜うた勅語を心に刻ましめて、平易に教え諭して詳らかにし、生徒等をして通日通年の訓戒とさしめて自らの剣として身に帯びさせる所のものでございまする。
釈義以上。]
是1946年(昭和21年) GHQ即チ連合国軍最高司令官総司令部ニ朗読義務及ビ神聖視等禁ズ。1948年(昭和23年)日本國政府『敎育勅語等排除に關する決議』議決。是1948年6月19日衆議院決議。決議文以下ノ如シ。《民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは敎育基本法に則り、敎育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている敎育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭[※是所謂『軍人勅諭』]その他の敎育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。》又同年同月同日参議院決議ハ『教育勅語等の失効確認に関する決議』是以下ノ如シ。《われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
右決議する。》『青少年學徒ニ賜ハリタル勅語』1939年(昭和14年、皇紀2599年)5月22日。荒木貞夫即チあらきさだお陸軍大将、生年1877年(明治10年、皇紀2537年)5月26日没年1966年(昭和41年)11月2日是ヲ賜ル。彼皇道派ノ雄也。以下ノ如シ。《國本[※こくほん。國ノ根本]ニ培ヒ國カヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ[※。]而シテ其ノ任[※、]實ニ繋リテ汝等靑少年學徒ノ雙肩ニ在リ[※。]汝等其レ氣節ヲ尚ビ[※たっとび乃至とうとび。尊ビ]廉恥[※れんち。清冽ニシテ恥ヲ知ル]ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽ヘ[※かんがへ。頭ニ留メテ]中外ノ事勢ニ鑒ミ[※かんがみ。鑑ミ]其ノ思索ヲ精ニ[※せいに乃至つまびらかに。詳シク]シ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ[※むかふ。向フ]所正ヲ謬[※誤]ラズ各其ノ本分ヲ恪守[※かくしゅ。遵守]シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振勵[※しんれい]シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ》
現文部科学省ハ是ヲ解説シテ曰ク《明治二十年代の初めに確立されたわが国独自の近代国家体制は、政治の面では大日本帝国憲法によってその基礎が置かれた。他方、国民道徳の面からこの体制の支柱として位置づけられるのが「教育に関する勅語」(教育勅語)である。教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨[※是ニ端ヲ発ス元田、伊藤博文間ノ論争在リ。元田天皇親政派ニシテ伊藤立憲君主制派也。]の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋[※山県有朋即チやまがたありともハ1838年(天保9年)4月22日是旧暦閏(6月14日)没年1922年(大正11年、皇紀2582年)2月1日)旧長州藩士。元帥陸軍大将。従一位大勲位功一級公爵。]が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。教育勅語が発布されると、やがて国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。
明治二十年前後において、わが国の近代学校制度がしだいに整えられたのであるが、その際国民教育の根本精神が重要な問題として論議されたのである。すでに前章において述べたように、十二年に教学聖旨が示されたが、十五年以後になると、条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出した。すなわち、十五年に福沢諭吉は反儒教主義の徳育論として『徳育如何』を刊行して、新しい時代には新しい道徳が必要であることを説き、加藤弘之は『徳育方法論』(二十年刊)において宗教主義による徳育の方策を示し、また能勢栄は『徳育鎮定論』(二十三年刊)を発表して、倫理学を基本として徳育に方向を与えるべきことを主張した。一方これらに対して内藤耻叟[※即チないとうちそうハ生年1827年(文政10年)9月25日是旧暦(11月15日)没年1903年(明治36年、皇紀2563年)6月7日。本名正直。歴史家。]は『国体発揮』において教化の根本は皇室において定めるべきであるという思想を公にし、さらに元田永孚は『国教論』において祖訓によって教学を闡(せん)明すべきことを主張して、教学聖旨以来の思想を表明した[※附註。是伊藤博文ニ拒否サレル。]。また西村茂樹は修身書勅撰の問題を提出して、徳育の基礎は皇室において定めるべきであり、明倫院を宮内省に設け、聖旨を奉じて徳育の基礎を論定すべきであると建言している。また当時の文部大臣森有礼は儒教主義を排し、倫理学を基礎とした徳育を学校で行なうべきことを主張した。
このように二十年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。このような論争の中で、地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかを論議し、地方長官に対して、その基本方針について明確な結論を要求するものもある状態であった。そのため二十三年二月末の地方長官会議においては、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。芳川文相が後に述べているところによれば、明治天皇は榎本文相に対し、徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(さん)を命ぜられたとのことである。同年五月榎本文相に代わって芳川顕正が文部大臣に就任したが、その親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられたのである。その後徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。
教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直[※即チなかむらまさなお生年1832年(天保3年)5月26日是旧暦(6月24日)没年1891年(明治24年、皇紀2551年)6月7日ハ文学博士。教育者。英学塾同人社創立。東京女子師範学校摂理[※せつり。是当時ノ教員役職名。教諭。]。東京大学文学部教授。女子高等師範学校長。]に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。勅語の起草に参与した元田永孚は勅語発布後に、山県総理大臣にあてた書簡において当時の有様と勅語発布の意義を次のように述べている。
「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以[※以て]扶植[ふしょく。植エ附ケル]匡正[※矯正]今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬[誤リ在ラズシテ]之ヲ中外二施して不悖[※もとらず。悖ラズ、]実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者[※時世ニ依リテハ]修正を加へサルヲ不得[※得ズ]も此ノ 大旨二於テ[※及ビテ]は亘於万世而不可復易一字矣[※萬世ニ及ビ亘リテ一字ト雖モ復(また)変フルべカラズ。]」
明治二十三年十月三十日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。》又、《教育勅語が発布されると、芳川文相は翌十月三十一日勅語奉承に関する訓示を発し、勅語の謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式を行なった。なお二十四年六月に制定した「小学校祝日大祭日儀式規程」によれば、紀元節・天長節などの祝日・大祭日には儀式を行ない、その際には「教育二関スル勅語」を奉読し、また勅語に基づいて訓示をなすべきことを定めている。このように教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛なふんい気のもとで取り扱われることとなったのである。
教育勅語が発布されると、直ちに「勅語衍(えん)義」すなわち解説書の編纂を企画し、井上哲次郎が選ばれて執筆にあたった。その草案ができると、これを多くの学者・有識者に回覧して意見を求め、二十四年九月に刊行した。その後勅語衍義は師範学校・中学校等の修身教科書として使用された。このほか民間でも多数の解説書を出版している。
教育勅語は、小学校および師範学校の教育に特に大きな影響を与えたが、なかでも修身教育において顕著であった。二十四年十一月の小学校教則大綱は二十三年の小学校令に準拠して定めたものであるが、同時に教育勅語の趣旨に基づくものであった。特に「修身」について、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と定め、授けるべき徳目として、孝悌(てい)、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげ、特に「尊王愛国ノ志気」の涵(かん)養を求めている。歴史(日本歴史)についても、「本邦国体ノ大要」を授けて「国民タルノ志操」を養うことを要旨とし、また修身との関連を重視している。このように教則大綱を通じて教育勅語の趣旨の徹底を図った。教科の教授時数についても、修身はそれまで毎週一時間半であったものが、尋常小学校では三時間、高等小学校では二時間に増加し、この点からも修身教育を特に重視していることが知られる。
小学校の修身教科書は教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。そこでその後の修身教科書はきわめて忠実に教育勅語に基づいて内容が編集されている。当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年(または毎巻)勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられている。これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である。三十年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。このほか勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているものも多く、高等小学校では一巻または一部を勅語の解説にあてているものも多い。
師範学校について見ると、二十五年に尋常師範学校の学科課程が改正されたが、その際従前の「倫理」を「修身」と改め、毎週教授時数も一時間から二時間に増加している。そして修身の教授要旨を「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キテ人倫道徳ノ要領ヲ授ク」と定めている。倫理を修身に改めたことについては、従来の「倫理」は倫理学を授ける学科目であると誤解している傾向のあることを批判して、修身は「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ徒二理論二馳セス専ラ躬行実践ヲ目的」とするものであると説明している。師範学校は国民一般の教育にたずさわる小学校教員を養成する所であり、そのため政府は特に師範学校に対して教育勅語を徹底させる方策をとったものと見ることができる。》是《学制百年史編集委員会》ノ起草記事ト書カレテ在リ。以上引用同庁《学制百年史》ノページニ依ル。
『戌申詔書』即チぼしんしょうしょハ1908年(明治41年、皇紀2568年)10月14日発布。是官報第7592号(明治41年10月14日)ニシテ『上下一心忠實勤儉自彊タルヘキノ件』ト題サレテ在リ。以下ノ如シ。
≪朕惟フニ方今[※ほうこん。此ノ頃]人文日ニ就リ[※因リ]月ニ將ミ[※まさみ。未詳。率ゐ、伴ひ、等]東西相倚リ[※相寄リ]彼此[※ひし。あれこれ、かれこれ]相濟シ[あいすまし乃至相為し。相済ますハ相すみません語源。]以テ其ノ福利ヲ共ニス[※。]朕ハ爰ニ[※ここに]益〻國交ヲ修メ友義ヲ惇シ[じゅんし。篤クシ]列國ト與ニ永ク其ノ慶[※けい乃至よろこび]ニ賴ラムコトヲ期ス[※。]顧ミルニ日進[※にっしん。日毎ノ進歩]ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤[※けいたく。恵ミ]ヲ共ニセムトスル[※。]固ヨリ內國運ノ發展ニ須ツ[※待つ。待ツ乃至求ム]戰後日尚[※なお]淺ク庶政益〻更張[※こうちょう。気ノ緩ミヲ引締ム]ヲ要ス[※。]宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉產ヲ治メ惟レ[※是レヲ]信[※信ジ]惟レ義[※是レニ義シ]醇厚[※じゅんこう。人柄良ク情ニ厚イ]俗ヲ成シ華ヲ去リ[※華美虚栄ヲ追ハズ]實ニ就キ荒怠[※こうたい。荒レ荒ミ投遣リデ怠慢。中島敦ニ《荒怠暴恣の心状》ノ用例在リ。]相誡メ自彊息マサルヘシ[※みずからつとめてやまざるべし。自分カラ励ミ怠クべカラズ。是出典『易経』]
抑〻我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト我カ光輝アル國史ノ成跡トハ炳トシテ[※へいとして。輝キテ乃至顕カニシテ]日星ノ如シ[※。]寔ニ[※まことに乃至これに]克ク恪守[※かくしゅ。遵守]シ淬礪[※さくれい。鍛錬修養]ノ誠ヲ輸サハ[※尽さば]國運發展ノ本[※、]近ク斯ニ在リ[※。]朕ハ方今ノ世局ニ處シ我カ忠良ナル臣民ノ協翼[※きょうよく。協力扶助。協力翼賛]ニ倚藉[※いしゃ。頼ル]シテ維新ノ皇猷[※こうゆう。皇帝ノ計画。皇謨。帝猷。]ヲ恢弘[※かいこう。普ク押シ開ク]シ祖宗ノ威德ヲ對揚[※たいよう。称揚]セムコトヲ庶幾フ[※こいねがう。希フ]爾臣民其レ克ク朕カ旨ヲ體セヨ
御名御璽
明治四十一年十月十三日
內閣總理大臣 侯爵桂太郞≫
引用以上。是日露戦争後ノ徳義訓也。
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