北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 3.序論。明治史略記。王政復古ノ大号令、改元ノ詔、五箇条の御誓文
…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
北一輝『國體論及び純正社會主義』
復刻及ビ附註
北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。
註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。
北一輝
生年等
及ビ明
治時代
仕儀
北一輝生年ノ1883年(明治16年、皇紀2543年)ハ以下ノ如キ年也。
3月20日新潟県高田、頸城地方(現新潟県上越市)ニ高田事件起レリ。是所謂自由民権運動弾圧事件也。
4月2日ニ陸軍大学校創設サル。同年12月自リ1885年(明治18年、皇紀2545年)1月、大山巖陸軍卿(当時)欧州軍事状況視察。大山巖即チおおやまいわおハ1842年(天保13年、皇紀2502年)10月10日是旧暦(11月12日)ノ生年ニシテ1916年(大正5年、皇紀2576根年)12月10日ニ没ス。元薩摩藩士ノ家也。彼、戊辰戦争(是自1868年即チ慶応4年及ビ明治元年、皇紀2538年至1869年即チ明治2年、皇紀2539年)及ビ西南戦争乃至西南ノ役(是1877年即チ明治10年、皇紀2547年)、更ニ日清戦争(自1894年即チ明治27年、皇紀2564年)7月25日至1895年即チ明治28年、皇紀2565年)4月17日(此ノ日清講和条約所謂下関条約締結。此ノ戦役ニ第2軍司令官。当時陸軍大将。)、日露戦争(是自1904年即チ明治37年、皇紀2574年)2月8日至1905年即チ明治38年、皇紀2575年)9月5日(此ノ日日露講和条約所謂ポーツマス条約締結。此ノ戦役ニ満州軍総司令官。当時元帥陸軍大将。)歴戦乃至指揮。
ドイツ帝国陸軍大臣パウル・ブロンザルト・フォン・セレンドルフ中将Paul Bronsart von Schellendorffハ大山ノ陸軍大学協力要請ヲ享ケ、ドイツ帝国参謀本部クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐ヲ派遣。
彼、Klemens Wilhelm Jacob Meckelハ生年1842年(天保13年、皇紀2502年)3月28日ニシテ1906年(明治39年、皇紀2566年)7月5日ニ没ス。1885年(明治18年、皇紀2545年)3月来日、1888年(明治21年、皇紀2548年)3月帰國。多大ナル影響与フ。
7月7日、鹿鳴館落成。11月28日開館。是後1940年(昭和15年、皇紀2600年)取壊サル。所在地東京府麹町区内山下町薩摩藩邸跡地ニシテ現東京都千代田区内幸町1-1。是迎賓館也。
北一輝ノ生月日ハ4月3日也。
生年ヲ同ジフスルハ志賀直哉(2月20日)、ヤロスラフ・コチアン(Jaroslav Kocián 、2月22日、彼戦前最モ著名ナルヴァイオリニスト也)、カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers、2月26日)、北大路魯山人(3月23日)、フランツ・カフカ(Franz Kafka、František Kafka、7月3日)、クラウス・プリングスハイム(Klaus Pringsheim、7月24日、指揮者、音楽家。1931年即チ昭和6年、皇紀2591年来日、日本音楽界ニ与フル影響多大。)、アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella、7月25日、イタリア作曲家。ファシズム政権ニ共鳴共感ス。)、ベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、7月29日)、ココ・シャネル( Coco Chanel、8月19日)、マリー・ローランサン(Marie Laurencin、10月31日)、エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(Ernest Alexandre Ansermet、11月11日、指揮者ニシテ数学者)、エドガール・ヴィクトール・アシル・シャルル・ヴァレーズ(Edgar(d) Victor Achille Charles Varèse、12月22日、所謂現代音楽ノ嚆矢ノ一人。)、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo、12月26日)。
此ノ年ニ没セルハ、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、2月13日。(息子ジークフリート・ワーグナーSiegfried Helferich Richard Wagner、1869年6月6日生1930年8月4日没ノ妻ヴィニフレートWinifred、1897年6月23日生1980年3月5日没ニ所謂ナチス政権協力ノ説在リ。同性愛者ジークフリートトノ間ニ4子女得ル。順ニヴィーラントWieland生年1917年、フリーデリントFriedelind生年1918年、ヴォルフガングWolfgang生年1919年、ヴェレーナ生年1920年。) カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx、3月14日)、エドゥアール・マネ(Édouard Manet、4月30日)、岩倉 具視(即チいわくら ともみ、7月20日)、イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ロシア語: Ивáн Серге́евич Турге́нев, ラテン文字転写: Ivan Sergeevich Turgenev、8月22日)。
所謂『王政復古ノ大号令』ハ1868年(慶応3年)12月9日是旧暦(1月3日)。是正式名称ヲ『德川內府大政返上將軍辭職ノ請ヲ允シ[※ゆるし]攝關幕府ヲ廢シ假ニ總裁議定參與ノ三職ヲ置ク』ト称ス。全文ハ以下ノ如シ。
≪宮堂上[※みやどうじょう。朝廷]ヘ諭吿[※ゆこく。諭シ告グ]
德川內府[※即チ德川慶喜。此ノ人1913年(大正2年、皇紀2497年)11月22日迄生存。明治維新後従一位勲一等公爵賜リ貴族院議員。]從前御委任大政返上將軍職辭退之兩條今般斷然被聞食[※きこしをす。直接ニハ召シ上ル。承認為サイマス]候抑[※そも。そもそも]癸丑[※是1853年(嘉永6年)ノ所謂黒船来航也]以來未曾有之國難先帝[※孝明天皇。1831年(天保2年)6月14日是旧暦(7月22日)自リ1867年(慶応2年)12月25日是旧暦(1月30日)迄在ラセラル。]頻年[※ひんねん。近年]被惱宸襟[※しんきん。天子ノ心]候御次第衆庶[※しゅうしょ。庶民一般]之所知候依之[※これに依りて]被決叡慮[※えいりょ。叡智在ル思慮熟考]王政復古國威挽囘[※挽回]ノ御基[※もとゐ]被爲立[※爲立ハしたて]候間自今[※今より]攝關[※摂関]幕府等廢絕卽今先[※今ヨリ先]假ニ總裁議定參與之三職被置[※仮ニ、総裁、議定、参与ノ三職ヲ置カレニナラレ、]萬機[※ばんき。政務上ノ重要事項ノ悉ク]可被爲行諸事[※是ニ随ヒテ諸事ヲ行フ。]神武創業之始ニ原キ縉神武弁堂上地下之無別至當之公議ヲ竭シ[※尽クシ]天下ト休戚[※きゅうせき。幸不幸]ヲ同ク可被遊叡慮ニ付各勉勵[※べんきん。勤勉]舊來驕惰[※きょうだ。驕リ惰性ニ任ス]之汚習ヲ洗ヒ盡忠報國之誠ヲ以テ可致奉公候事
一 內覽 勅問御人數國事御用掛議奏[※ぎそう。公家ノ職種。天皇側近。議事ヲ臣下ニ奏上ス。]武家傳奏[※ぶけてんそう。武家申シ出ヲ天皇ニ傳ヒ奏請ス]守護職[※、]所司代[※しょしだい。京都ノ治安維持ニ当ル]總テ被廢候事
一 三職人躰[※にんたい]
總裁
有栖川帥宮[※有栖川宮熾仁親王即チありすがわのみやたるひとしんのうハ生年1835年(天保6年)2月19日是旧暦(3月17日)、日清戦争ニ参謀総長ヲ勤タ広島大本営ニ腸チフスヲ発症シ没年1895年(明治28年、皇紀2555年)1月15日薨ル。國葬ニ賦サル。《参謀總長兼神宮祭主陸軍大将大勲位功二級熾仁親王薨去ニ付特ニ國葬ヲ行フ》是『勅令第十一號』]
議定
仁和寺宮[※小松宮彰仁親王即チこまつのみや あきひとしんのう乃至仁和寺宮嘉彰親王即チにんなじのみやよしあきしんのうハ生年1846年(弘化3年)1月16日是旧暦(2月11日)、1903年(明治36年、皇紀2563年)2月18日ニ薨去。國葬。皇族。陸軍軍人。元帥陸軍大将大勲位功二級。]
山階宮[※山階宮晃親王即チやましなのみやあきらしんのうハ生年1816年(文化13年)9月2日是旧暦(10月22日)、1898年(明治31年、皇紀2558年)2月17日薨去。]
中山前大納言[※中山忠能即チなかやまただやすハ生年1809年(文化6年)11月11日是旧暦(12月17日)、没年1888年(明治21年、皇紀2548年)6月12日]
正親町三條前大納言[※正親町三条実愛即チおおぎまちさんじょうさねなるハ生年1820年(文政3年)10月30日是旧暦(12月5日)、没年1909年(明治42年、皇紀2569年)10月20日)。又この人所謂『討幕ノ密勅』ヲ薩摩藩及ビ長州藩ニ傳フ。是1867年(慶応3年)10月14日是旧暦(11月9日)也。≫
以下全文引用ス。≪詔。源慶喜籍累世之威恃闔族之強妄賊害忠良数棄絶
王命遂矯
先帝之詔而不懼擠万民於溝壑而不顧罪悪所至
神州将傾覆焉 朕今為民之父母是賊而不討何以上謝
先帝之霊下報萬民之深讐哉此 朕之憂憤所在諒闇而不顧者萬不可已也汝宜体朕之心殄戮賊臣慶喜以速奏回天之偉勲而措生霊于山嶽之安此 朕之願無敢或懈。引用以上。
即チ、詔す。源慶喜、累世[※るいせい。世ヲ重ネタル]の威を籍[※か]り闔族[※こうぞく。]の強[※きゃう]を恃み[※たのみ]妄[※みだり]に忠良[※ちゅうりょう。忠義善良ノ臣民]を賊害し数[※しばしば]王命を棄絶[※きぜつ]し、遂には先帝の詔を矯めて[※ためて。偽リテ]懼れず[※恐れず]、万民を溝壑[※こうがく。溝]に擠し[※おとし。排除シ]顧みず、罪悪の至る所神州[※しんしゅう。是日本也。]将に[※正に]傾覆[※けいふく]せんとす。
朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐[※しんしゅう]に報いんや。これ朕の憂憤[※ゆうふん]の在る所、諒闇[※りゃうあん。喪中]を顧みざるは、萬[※よろず]已む[※やむ]べからざれば也。汝宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮[※てんりく]し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して生霊[※いきすだま乃至せいれい]を山嶽の安きに措く[※おく]べし。此れ朕の願なれば、敢へて或ひ[※惑ヒ]懈る[※怠る]こと勿れ。≫但シ是偽書トノ説在リ。]
中御門中納言[※中御門経之即チなかのみかどつねゆきハ生年1821年(文政3年)12月17日是旧暦(1月20日)、没年1891年(明治24年、皇紀2551年)8月27日]
尾張大納言[※徳川慶勝即チとくがわよしかつハ旧尾張藩14代藩主。生年1824年(文政7年)3月15日是旧暦(4月14日)、没年1883年(明治16年、皇紀2543年)8月1日]
越前宰相[※松平春嶽即チまつだいらしゅんがくハ生年1828年(文政11年)9月2日是旧暦(10月10日)、没年1890年(明治23年、皇紀2550年)6月2日。旧越前福井藩第16代藩主。]
安藝少將[※浅野長勲即チあさのながことハ安芸広島新田藩第6代藩主後広島藩第12代藩主。生年1842年(天保13年)7月23日是旧暦(8月28日)、没年1937年(昭和12年、皇紀2597年)2月1日]
土佐前少將[※山内容堂乃至豊信即チやまうちようどう乃至とよしげハ土佐藩15代藩主。1827年(文政10年)10月9日是旧暦(11月27日)、没年1872年(明治5年、皇紀2532年)6月21日是旧暦(7月26日)]
薩摩少將[※島津忠義即チしまづただよしハ薩摩藩の第12代藩主。従一位参議。勲一等。公爵。生年1840年(天保11年)4月21日是旧暦(5月22日)、没年1897年(明治30年、皇紀2557年)12月26日國葬。上皇明仁王等ニ血ヲ繫グ。]
參與
大原宰相[※大原重徳即チおおはらしげとみハ公卿。従二位。権中納言。贈正二位。1801年(享和元年)10月16日是旧暦(11月21日)、没年1879年(明治12年、皇紀2539年)4月1日]
萬里小路右大辨宰相[※万里小路博房即チまでのこうじひろふさハ生年公卿。正三位。1824年文政7年6月25日是旧暦(7月21日)、没年1884年(明治17年、皇紀2544年)2月22日]
長谷三位[※長谷信篤即チながたにのぶあつハ公卿。正三位、参議。子爵。生年1818年(文化15年)2月24日是旧暦(3月30日)、没年1902年(明治35年、皇紀2562年)12月26日]
岩倉前中將[※岩倉具視即チいわくらともみハ公卿。正一位大勲位。生年1825年(文政8年)9月15日是旧暦(10月26日)没年1883年(明治16年、皇紀2543年)7月20日。所謂維新ノ十傑ノ1人。十傑ハ西郷隆盛(薩摩藩。特ニ三傑。)、大久保利通(薩摩藩。特ニ三傑。)、小松帯刀(薩摩藩)、大村益次郎(長州藩)、木戸孝允(長州藩。特ニ三傑。)、前原一誠(長州藩)、広沢真臣(長州藩)、江藤新平(肥前藩)、横井小楠(肥後藩)、及ビ岩倉也。國葬。]
橋本少將[※橋本実梁即チはしもとさねやなハ公卿。伯爵。生年1834年(天保5年)4月5日是旧暦(5月13日)、没年1885年(明治18年、2545年)9月16日]
尾藩三人
越藩三人
藝藩三人
土藩三人
薩藩三人
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得居候事
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候得共先攝籙[※しょうろく。摂政関白]門流之儀被止候事
一 舊弊御一洗ニ付言語之道被洞開[※どう乃至うつろヲ開ク即チ開化ス]候間見込有之向ハ不拘[※係ラズ]貴賤無忌憚可致獻言[※けんごん、意見ヲ述ル]且人材登庸[※とうよう。登用]第一之御急務ニ候故心當之仁有之候者早々可有言上候事
一 近年物價格別騰貴[※とうき。著ク高騰ス]如何共不可爲[※如何ともし難く]勢[※いきおい]富者ハ益[※ますます]富ヲ累ネ[※重ね。累積シ]貧者ハ益窘急[※緊急、切迫シテ在ル]ニ至リ候趣畢竟[※ひっきょう]政令不正ヨリ所致[※致す所。]民ハ王者之大寶百事御一新之折柄[※おりがら。時節]旁[※附き、]被惱宸衷[※しんちゅう。天皇ノ心中]候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出[誰彼無く申し出るベく]候事
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共其後將軍薨去[※こうきょ。]且[※且つ] 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被爲許候處始終奸吏[※かんり。不正ニシテ邪ナル官吏]ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事
右之通御確定以一紙被 仰出候事≫引用以上。
明治改元ハ1868年10月23日(慶応4年9月8日)也。『改元ノ詔』ニ曰ク≪今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆[※しょうちょう。兆象。卜等ノ兆シ]ニ隨ヒ屢[※しばしば。屡]改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之[※是ニ依リ]改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事
詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行[※詔。太乙ヲ體シテ位ニ登リ、景命ヲ膺ケテ(※享けて)以テ元ヲ改ム。洵ニ[※誠に]聖代ノ典型ニ而テ、萬世ノ標準也。朕、否德[※有徳ならず]ト雖モ幸ニ[※さいわいに]祖宗ノ靈ニ賴リ、祇ミテ[※謹みて]鴻緒[※こうしょ。天皇ノ系統]ヲ承ケ、躬[※みずから]萬機ノ政ヲ親す。乃チ元ヲ改メテ、海內[※國内]ノ億兆ト與[※与。共に]ニ更始一新セント欲ス。其レ慶應四年ヲ改メテ明治元年ト爲ス。今ヨリ以後舊制[※旧制]ヲ革易シ、一世一元以テ永式ト爲ス[御世一代ニ一ツノ元号トス]。主者施行セヨ。]
明治元年九月八日≫引用以上。是正式名称ヲ『今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書』ト謂ヒ別称ニ『一世一元の詔』即チいっせいいちげんのみことのり是『明治元年9月8日(1868年10月23日)行政官布告』也。行政官ハ当時中央官庁ノ官吏官僚ニシテ行政官布告ハ官報ノ如キ也。
1868年(明治元年)3月14日是旧暦(4月6日)ニ所謂『五箇条の御誓文』乃至『五ヶ條ノ御誓文』宣言サル。是明治政府ノ基本方針指針也。是以下ノ如シ。
御誓文
一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸[※けいりん。秩序ヲ保チ統治ス]ヲ行フヘシ
一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起[※しんき。奮イ立タス]スヘシ
我國未曾有ノ變革ヲ爲ン[※なさん]トシ 朕躬[※みずから]ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
年號月日 御 諱
勅意宏遠[※こうえん。広遠。広大ニシテ遙カ。稀有壮大]誠ニ以テ感銘ニ不堪[※堪えず]今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ヘカラス臣等謹テ 叡旨[※えいし。字義ニ同ジ]ヲ奉戴シ死ヲ誓ヒ黽勉[※びんべん。勉学ニ勤ム]從事[※以上即チ命ヲ懸ケテ職務邁進スル。]冀クハ[※こいねがはくは]以テ[※願ハクハ以テ、] 宸襟[※しんきん。天子ノ御心中]ヲ安シ奉ラン[※即チ御心休ンジ賜へ。]
慶應四年戊辰三月
總裁 名印
公卿 各名印
諸侯≫引用以上。
是、『五大聖訓物語』昭和8年2月日本名著刊行会出版ニ詳細記サレテ在リ。茲デ五大聖訓トハ『五箇条ノ御誓文』『教育勅語』『戌申詔書』『国民精神作興詔書』『朝見ノ御義ニ於テ賜リタル勅語』以上。此ノ書著者トシテ國民思想善導会ト在リ。此ノ詳細未詳。
大阪府立豊中中学校ノ『九大詔勅謹解』是非売品ト在リ蓋シ学校配布用ナル乎是ニ第一『天壌無窮ノ神勅』、第二『神武天皇ノ大詔』、第三『五箇条ノ御誓文』、第四『軍人ニ賜ハリタル勅諭』、第五『憲法発布勅語』、第六『教育ニ関スル勅語』、第七『戌申詔書』、第八『今上天皇即位勅語』、第九『国民精神作興ノ詔書』以上。
『天壌無窮ノ神勅』ハ神代瓊瓊杵尊即チににぎのみことガ皇祖天照太神即チあまてらすおおみかみニ賜レリ。以下『日本書紀』。
≪葦原千五百秋之瑞穂國是吾子孫可王之地也宜爾皇孫就而治焉行矣寶祚之降當與天壤無窮者矣
即チ葦原千五百秋之瑞穂國[※とよあしはらのちいほあきのみずほのくに]ハ是レ吾[※あ]ガ子孫[※しそん乃至うみのこ]ノ王[※おう乃至きみ]タル可キ地[※ち乃至くに]也。宜シク爾皇孫[※いましすめみま。汝皇孫ヨ]、就[※ゆ]キテ治[※しら]セ。行矣[※さきくませ]。寶祚[※ほうそ乃至あまつひつぎ(天津日嗣)。天寶ナル皇位]ノ隆[※さか]ヘマサム事、當ニ[※まさに]天壤(あめつち)ト與ニ[※共に]窮[※きわまり]無カル可シ。≫
『神武天皇ノ大詔』ハ所謂八紘一宇ノ詔也。ウェブ・サイト『はじかみ神父のぶろぐ』ニ以下ノ記事是2012年2月10日。表題『神武天皇即位建都の大詔(おおみことのり)』。《明日は我が国の建国を祝う「紀元節(きげんせつ)」であります。
明治のはじめ、第一代・神武天皇御即位の日を現在の暦に換算し、2月11日を日本の建国をお祝いする日に制定し、「紀元節」といたしました。
その後、昭和23年にGHQの圧力よって祝祭日の変更がなされた時、紀元節は世論の多数(81%)に反していったん廃止されました。
日本が、昭和27年に主権を回復して以来、紀元節の復活を求める国民運動が盛り上がり、昭和41年12月の国会で「建国記念の日」として復活したのでした。
国民ひとしく、国旗を高く掲げ、我が日の本の建国を謹んでお祝いいたしましょう!。
そこで、以下に、神武天皇即位建都の大詔(おおみことのり)をご紹介します。
三月(やよい)辛酉(かのとのとり)朔丁卯(ついたちひのとうのひ)〔BC662.03.07〕、令(みことのり)を下して曰(のたま)はく。
「我(われ)、東(ひむがしのかた)を征(う)ちしより、茲(ここ)に六年(むとせ)たり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)之威(いきおい)を以て、凶徒(あた)就戮(ころ)す。邊(ほとり)の土(くに)未(いま)だ清(しず)まらず、餘(のこり)の妖(わざわい)、尚(なお)梗(あれたり)と雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(ま)た風塵(さわぎ)無し。
誠に宜(ろよ)しく皇都(みやこ)を恢(ひら)き廓(ひろ)めて、大壯(おおとの)を規(はか)り慕(つく)るべし。而(しか)るに今、運(よ)、屯蒙(わかくくらし)に屬(あ)ひて、民(おおみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住み、習俗(しわざ)、惟常(かんながらのつね)たり。
夫(そ)れ大人(ひじり)、制(のり)を立て、義(ことわり)、必ず時に隨(したが)ふ。苟(いやし)くも、民(たみ)に利有(かが)らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)はむ。且(かつ)當(まさ)に山林を披(ひら)き拂(はら)ひ、宮室(おおみや)を經營(おさめつく)りて、恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨(のぞ)み、以て元元(おおみたから)を鎭むべし。
上(かみ)は則(すなわ)ち乾靈(あまつかみ)の國(くに)を授(さづく)之德(みうつくしび)に答へ、下(しも)は則ち、皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養(やしなう)之心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。然(しか)る後、六合(くにのうち)を兼ねて以て都(みやこ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(な)す、亦(また)た可(よろし)からず乎(や)。
觀(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地は、蓋(けだ)し國(くに)之墺區(もなかのくらし)乎(か)、之(これ)を治(おさむる)る可(べ)し」と曰(のたまう)。
是の月に 即(すなわ)ち有司(つかさ)に命(みことのり)し、帝宅(みやこ)を經(つく)り始(は)じむ。
これは『日本書紀』巻第三・神武天皇の条の記述によるものですが、ここにおいて…
「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(な)す、亦(また)た可(よろし)からずや。」
というふうに、天の下に暮らす全ての国民が家族のような共同体であるべきと仰られているのです。
今こそ、戦後の自虐史観からの脱却をはかり、「八紘一宇」の精神を以って、御皇室の弥栄と、日本国の隆昌、世界の恒久平和をお祈り申し上げる次第であります。
「皇居遙拝」
[※茲ニ原記事皇居画像添付]
「橿原神宮遙拝」(画像はクリックすると拡大)
[※茲ニ原記事橿原神宮画像添付]
「聖寿の万歳」を、皆さんと共に、声高らかに御唱和致したいと存じます。
「天皇陛下 万歳」
「万歳」
「万歳」
神武天皇即位紀元(皇紀)貮阡陸陌柒拾貮(2672)年
薑(はじかみ)神主 拝》以上諸引用出典元ニ心自リ謝ス。
『五箇条ノ御誓文』ハ上記。
※上記引用インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧
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