北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 2.序論。所謂≪八紘一宇≫省察





…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ


北一輝『國體論及び純正社會主義』

復刻及ビ附註


北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。

註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。



所謂八

紘一宇

省察

『八紘一宇』字義ニ随へバ『八紘』即チ普ク世界ハ『宇』ノ中即チ『家内』也トナリテ、八紘一宇ハ『八紘即チ全世界ヲ一ツ家トス』ノ意也。亦此ノ出典タル日本書紀ニ《上則答乾霊授国之徳下則弘皇孫養正之心然後兼六合以開都掩八紘而為宇不亦可乎》即チ《上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ふの心を弘め然る後、六合(りくごう。是天下ノ意也)を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて(覆いて)宇と為さん事、亦可(し)からずや。)》ト在リ。

諸神代記大筋ニ謂へバ瓊瓊杵尊即チににぎのみこと天照太神ノ命ヲ享ケ三種ノ神器ヲ御自ラノ手ヨリ賜リテ天降ル。神武天皇乃至神日本磐余彦天皇即チかむやまといわれびこのすめらみことハ其ノ子孫トシテ各神代記ニ顕ル。此ノ神乃至天皇所謂神武東征ニ有名ナル神皇也。神皇ハ神皇ニシテ実存乎否乎是未詳。此ノ神皇御即位賜ハル御時ニ宣フタノガ《掩八紘而為宇不亦可乎》ノ御勅也。八紘ノ語モ六合ノ語モ元々所謂《支那》古代諸体制下ノ概念ヲ流用ス。

又《掩八紘而為宇》カラ《八紘一宇》ノ語句ヲ編出セルハ田中智學即チたなかちがくヲ嚆矢トス説在リ。彼生年1861年(文久元年)11月13日是旧暦(12月14日)没年1939年(昭和14年、皇紀2599年)11月17日。日蓮宗宗教家也。彼1880年(明治13年、皇紀2540年)蓮華会設立。於横浜。是宗教改革ヲ目指ス団体也。1884年(明治17年、皇紀2544年)立正安國会ニ改名。本拠地東京ニ遷シ更ニ1914年(大正3年、皇紀2554年)國柱会設立。是《純正日蓮主義》ト所謂国粋主義ヲ奉ズ。国粋主義定義ハ拙稿読者ニ託ル。1923年(大正12年、皇紀2583年)11月3日立憲養正會設立。是政治団体ニシテ彼初代総裁ヲ勤ム。著書ニ『國體の權化』師子王文庫1913年(大正2年、皇紀2573年)、『尊王正議』天業民報社1923年(大正12年、皇紀2583年)等在リ。

後、1940年(昭和15年、皇紀2600年)7月26日第2次近衛内閣『基本國策要綱』閣議決定セリ。是ニ《皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ》ト在リ。全文以下ノ如シ。

≪基本国策要綱

昭和15年7月26日 閣議決定

世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ、皇国亦有史以来ノ大試錬ニ直面ス、コノ秋ニ当リ真ニ肇国[※ちょうこく。建国]ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセハ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根本的刷新ヲ加ヘ万難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトヲ以テ刻下喫緊[※きっきん。差シ迫ッタ課題]ノ要務トス、依ツテ基本国策ノ大綱ヲ策定スルコト左ノ如シ

基本国策要綱

一、根本方針

皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ

之カ為皇国自ラ速ニ[※そみやかに]新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢ヲ確立シ国家ノ総力ヲ挙ケテ右国是ノ具現ニ邁進ス

二、国防及外交

皇国内外ノ新情勢ニ鑑ミ国家総力発揮ノ国防国家体制ヲ基底トシ国是遂行ニ遺憾ナキ軍備ヲ充実ス

皇国現下ノ外交ハ大東亜ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ国際的大変局ヲ達観シ建設的ニシテ且ツ弾力性ニ富ム施策ヲ講シ以テ皇国国運ノ進展ヲ期ス

三、国内態勢ノ刷新

我国内政ノ急務ハ国体ノ本義ニ基キ諸政ヲ一新シ国防国家体制ノ基礎ヲ確立スルニ在リ之カ為左記諸件ノ実現ヲ期ス

1、国体ノ本義[※註]ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ自我功利ノ思想ヲ排シ国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス尚科学的精神ノ振興ヲ期ス

[※註。『國體の本義』是1937年(昭和12年、皇紀2597年)3月30日所謂《国体明徴運動》及ビ『国体明徴に関する政府声明』第一次1935年(昭和10年、皇紀2595年)8月3日及ビ第二次同年10月15日公布ニ伴フ政府公認ノ文部省発刊小冊子也。是《大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が國體の精華とするところである。この國體は、我が國永遠不變の大本であり、國史を貫いて炳として輝いてゐる。》云々。]

2、強力ナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ総合的統一ヲ図ル

イ、官民協力一致各々其ノ職域ニ応シ国家ニ奉公スルコトヲ基調トスル新国民組織ノ確立

ロ、新政治体制ニ即応シ得ヘキ議会制度ノ改革

ハ、行政ノ運用ニ根本的刷新ヲ加ヘ其ノ統一ト敏活トヲ目標トスル官場新態勢ノ確立

3、皇国ヲ中心トスル日満支三国経済ノ自主的建設ヲ基調トシ国防経済ノ根基ヲ確立ス

イ、日満支ヲ一環トシ大東亜ヲ包容スル皇国ノ自給自足経済政策ノ確立

ロ、官民協力ニヨル計画経済ノ遂行特ニ主要物資ノ生産、配給、消費ヲ貫ク一元的統制機構ノ整備

ハ、総合経済力ノ発展ヲ目標トスル財政計画ノ確立並ニ金融統制ノ強化

ニ、世界新情勢ニ対応スル貿易政策ノ刷新

ホ、国民生活必需物資特ニ主要食糧ノ自給方策ノ確立

ヘ、重要産業特ニ重化学工業及機械工業ノ画期的発展

ト、科学ノ画期的振興並ニ生産ノ合理化

チ、内外ノ新情勢ニ対応スル交通運輸施設ノ整備拡充

リ、日満支ヲ通スル総合国力ノ発展ヲ目標トスル国土開発計画ノ確立

4、国是遂行ノ原動力タル国民ノ資質、体力ノ向上並ニ人口増加ニ関スル恒久的方策特ニ農業及農家ノ安定発展ニ関スル根本方策ヲ樹立ス

5、国策ノ遂行ニ伴フ国民犠牲ノ不均衡ノ是正ヲ断行シ厚生的諸施策ノ徹底ヲ期スルト共ニ国民生活ヲ刷新シ真ニ忍苦十年時難克服ニ適応スル質実剛健ナル国民生活ノ水準ヲ確保ス≫引用以上。

近衞文麿即チこのえふみまろハ彼生年1891年(明治24年、皇紀2551年)10月12日、没年1945年(昭和20年、皇紀2605年)12月16日)是GHQ逮捕前ニ自宅ニ服毒自殺。

第1次近衛内閣ハ自1937年(昭和12年、皇紀2597年)6月4日 至1939年1月5日、1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件。此ノ1938年(昭和13年、皇紀2798年)1月16日ニ『昭和十三年一月十六日帝國政府聲明』在リ。是ニ《帝國政府は南京攻略後尙ほ支那國民政府の反省に最後の機會を與ふるため今日に及べり、然るに國民政府は帝國の眞意を解せず漫りに抗戰を策し內民人塗炭の苦みを察せず外東亞全局の和平を顧みる所なし仍て[※依ッテ]帝國政府は爾後國民政府を對手[※たいしゅ。相手]とせず帝國と眞に提携するに足る新興支那政權の成立發展を期待し是と兩國國交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝國が支那の領土及主權竝に在支列國の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし、今や東亞和平に對する帝國の責任愈々重し、政府は國民が此の重大なる任務遂行のため一層の發奮を冀望[※希望]して止まず。》引用以上。此ノ時駐華大使川越茂ニ帰国命令発令更ニ国民政府側駐日大使許世英本国ニ召還。是ニ依リ対話ノ可能性消滅スト後ニ評価サル。是所謂『第一次近衛声明』也。

加へテ『東亞新秩序建設の聲明』是同年11月3日ニ《今や、陛下の御稜威に依り帝國陸海軍は、克く廣東[※広東省]、武漢[※現湖北省武漢市。1926年(大正15年是12月25日迄、昭和元年12月25日自リ、皇紀2586年)10月、蒋介石ノ國民革命軍ハ漢口市政委員会設置。後、1937年11月中華民國臨時首都。1938年日本軍占領]三鎭[※武昌、漢口、漢陽3都市ヲ謂フ]を攻略して、支那の要城を戡定したり。國民政府は旣に地方の一政權に過ぎず。然れども、尙ほ同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝國は斷じて矛を收むることなし。

帝國の冀求する所は、東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戰究極の目的亦此に存す。

[※附註。蒋介石ハ所謂《辛亥革命》自1911年(清朝宣統3年、明治44年、皇紀2571年)至1912年(《支那》民国元年)以後ノ袁世凱1859年(清朝咸豊9年)8月20日是旧暦(9月16日)生、1916年(大正5年、皇紀2576年)6月6日没打倒ノ所謂《第二革命》是1913年7月以降ノ頓挫ノ後日本ニ亡命セリ。孫文ト合流。於東京《中華革命党》結成。孫文ハ生年1866年(清朝同治5年)10月6日是旧暦(11月12日)没年1925年(《支那》民國十四年、大正14年、皇紀2585年)3月12日。1895年(明治28年、皇紀2555年)、日本へ亡命。複数ノ妻在リ。内一人ハ大月薰。是日本人。犬養毅生年1855年(安政2年)4月20日是旧暦(6月4日)没年1932年(昭和7年、皇紀2592年)5月15日ニ親シム。犬養ハ暗殺死。是所謂《515事件》也。]

この新秩序の建設は日滿支三國相携へ、政治、經濟、文化等各般に亘り互助連環の關係を樹立するを以て根幹とし、東亞に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、經濟結合の實現を期するにあり。是れ實に東亞を安定し、世界の進運に寄與する所以なり。

帝國が支那に望む所は、この東亞新秩序建設の任務を分擔せんことに在り。帝國は支那國民が能く我が眞意を理解し、以て帝國の協力に應へむことを期待す。固より國民政府と雖も從來の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の實を擧げ、新秩序の建設に來り參ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず。

帝國は列國も亦帝國の意圖を正確に認識し、東亞の新情勢に適應すべきを信じて疑はず。就中、盟朋諸國從來の厚誼に對しては深くこれを多とするものなり。

 惟ふに東亞に於ける新秩序の建設は、我が肇國の精神に淵源[※えんげん。根本的ナ根拠]し、これを完成するは、現代日本國民に課せられたる光榮ある責務なり。帝國は必要なる國內諸般の改新を斷行して、愈々國家總力の擴充を圖り、萬難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。

茲に政府は帝國不動の方針と決意とを聲明す。》引用以上。以上1938年(昭和13年)11月3日及ビ12月22日公布。

此ノ後ニ汪兆銘即チおうちょうめい生年1883年(清朝光緒8年、明治16年、皇紀2543年)5月4日没年1944年(中華民國33年、満州國康徳11年、昭和19年、皇紀2604年)11月10日於名古屋)ニ親シム一派ト所謂《重光堂会談》、及ビ『日華協議記録』ト呼称サル文書在リ。是講和条約案也。國民政府ハ是ヲ拒否ノ上汪ノ党籍ヲ削除。『日支國交調整方針に關する聲明』ハ以下ノ如シ。

《政府は本年再度の聲明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日國民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂[※どうゆう。憂ヒ同ジフス]具眼[※ぐがん。慧眼]の士[※即チ汪派諸氏也。]と相携へて東亞新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては更生の勢澎湃として起り、建設の氣運愈々高まれるを感得せしむるものがある。是に於て政府は、更生新支那との關係を調整すべき根本方針を中外に闡明[※せんめい。顕カニス]し、以て帝國の眞意徹底を期するものである。

日滿支三國は東亞新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、經濟提携の實を擧げんとするものである。之が爲には支那は先づ何よりも舊來の偏狹なる觀念を淸算して抗日の愚と滿洲國に對する拘泥の情とを一擲することが必要である。卽ち日本は支那が進んで滿洲國と完全なる國交を修めんことを率直に要望するものである。

 次に東亞の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日獨伊防共協定の精神に則り、日支防共協定の締結を以て日支國交調整上喫緊の要件とするものである。而して支那に現存する實情に鑑み、この防共の目的に對する十分なる保障を擧ぐる爲には、同協定繼續期間中、特定地點に日本軍の防共駐屯を認むること及び內蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。

日支經濟關係に就いては、日本は何等支那に於て經濟的獨占を行はんとするものに非ず、又新しき東亞を理解しこれに卽應して行動せんとする善意の第三國の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず、唯飽く迄日支の提携と合作とをして實效あらしめんことを期するものである。卽ち日支平等の原則に立つて、支那は帝國臣民に支那內地に於ける居住營業の自由を容認して日支兩國民の經濟的利益を促進し、且つ日支間の歷史的經濟的關係に鑑み、特に北支及內蒙地域に於てはその資源の開發利用上、日本に對し積極的に便宜を與ふることを要求するものである。

日本の支那に求むるものが區々たる[※くくたる。其々ノ、マチマチノ、点在セル]領土に非ず、又戰費の賠償に非ざることは自ら明かである。日本は實に支那が新秩序建設の分擔者としての職能を實行するに必要なる最小限度の保障を要求せんとするものである。日本は支那の主權を尊重するは固より、進んで支那の獨立完成の爲に必要とする治外法權を撤廢し且つ租界の返還に對して積極的なる考慮を拂ふに吝ならざるものである。》引用以上。

上記近衛第二次及ビ第三次内閣在位ハ自1940年(昭和15年、皇紀2600年)7月22日 至1941年(昭和16年、皇紀2601年)10月18日。此ノ内閣連続ス。1940年(昭和15年)7月26日『基本國策要綱』閣議決定。9月27日『日獨伊三國閒條約』於ベルリン調印。是日独伊三国軍事同盟ノ締結也。大政翼贊會10月12日結成。是1945年(昭和20年)6月13日ニ解消。『大政翼賛会ノ歌』ナル唱歌在リ。歌詞ハ以下ノ如シ。

《両手を高くさしあげて

我等一億心から

叫ぶ皇国の大理想

今ぞ大政翼賛に

燃え立つ力協はせやう


新体制に盛り上る

国の骨組がつちりと

固く結んだ隣組

職場職場に奉公の

あふれる誠捧げやう


足並みそろへ日章旗

たてて臣道まつしぐら

御稜威の光さすところ

興る東亜の国々を

明日の栄に導かう》是1941年(昭和16年)3月発売。コロムビアレコード、ビクターレコード、キングレコード、テイチクレコード、ポリドールレコード、タイヘイレコード競合。此レ等音盤販売元≪ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』≫ニ基キ記ス。

大政翼贊會ハ1945年(昭和20年、皇紀2605年)3月23日《国民義勇隊》結成ニ伴ヒ解散。是『義勇兵役法』昭和20年6月22日法律第39号ニ基ク。是1945年(昭和20年)6月22日公布及ビ即日施行。所謂『一億総玉砕法』也。是全文以下ノ如シ。

≪朕ハ嚝古[※こうこ。前代未聞]ノ難局ニ際會シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ國威ヲ發揚セムトスルヲ嘉シ[※かし。良しとし]帝國議會ノ協賛ヲ經タル義勇兵役法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

御名御璽

昭和二十年六月二十二日≫

是ニ当然署名在リ。以下ノ如シ。

 内閣総理大臣 男爵鈴木貫太郎

[※鈴木貫太郎即チすずきかんたろうハ生年1868年(慶応3年、皇紀2528年)12月24日是旧暦(1月18日)没年1948年(昭和23年、皇紀廃止)4月17日ニシテ海軍大将。従一位勲一等功三級男爵。1936年(昭和11年、皇紀2596年)2月26日所謂《226事件》ニ襲撃サル。内閣総理大臣在位ハ自1945年(昭和20年、皇紀2605年)4月7日至同年8月17日。昭和天皇ニ『ポツダム宣言』受諾ヲ促スト謂フ説在リ。又、『ポツダム宣言』提案時ニ《共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ。政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する》ノ記者発言ノ事実モ在リ。是7月28日。

カイロ会談Cairo Conferenceハ別称ニセクスタント作戦Operation Sextant在リ是1943年(昭和18年、皇紀2603年)自11月22日至11月26日、於エジプト王国(自1922年即チ大正11年、皇紀2582年至1953年即チ昭和28年。英保護国ニシテ、ムハンマド・ナギーブMuhammad Naguib、1901年即チ明治34年、皇紀2561年2月20日生1984年即チ昭和59年8月29日没、後エジプト共和国初代大統領及ビガマール・アブドゥル=ナーセルGamal Abdel Nasser、1918年即チ大正7年、皇紀2578年1月15日生、1970年即チ昭和45年9月28日没、後エジプト共和国第2代大統領率タル《自由将校団Free Officers Movement》ノクーデター是1952年即チ昭和27年7月23日ヲ享ケ同月26日ファールーク1世が退位、亡命(イタリア)。1953年6月19日に革命政権ハ王政廃止及ビ共和制移行ヲ宣言、是所謂エジプト革命也。

連合国Allies乃至United Nations側対大日本帝國対応方針会議ニシテアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトイギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石間ニ行ハル。『カイロ宣言Cairo Declaration』ニ以下ノ文言在リ。《「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。

各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼[※とうしょ。島ト小島]ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島[※ひうこうとう。在台湾海峡]ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ[※やがて]朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ》引用以上。

ポツダム宣言』ハ1945年(昭和20年、皇紀2605年)7月26日『米、英、支三國宣言』ト在リ。《千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ

一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及「グレート、ブリテン」國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ

二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スル「ドイツ」國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壞滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ

四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ

五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ

吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル條件存在セズ吾等ハ遲延ヲ認ムルヲ得ズ

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ權力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ玆ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル爲占領セラルベシ

八 「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙[※しょうげ。是本来仏教用語。障害]ヲ除去スベシ言論、宗敎及思想ノ自由竝ニ基本的人權ノ尊重ハ確立セラルベシ

十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本國ヲシテ戰爭ノ爲再軍備ヲ爲スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ

十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス

右以外ノ日本國ノ選擇ハ迅速且完全ナル壞滅アルノミトス》ポツダムPotsdamハ独逸ニシテ後所謂東ドイツニ属セリ。]

 海軍大臣 米内 光政

[※米内光政即チよないみつまさハ生年1880年(明治13年、皇紀2540年)3月2日、没年1948年(昭和23年、皇紀廃止)4月20日)ニシテ海軍大将。従二位。勲一等。功一級。第23代連合艦隊司令長官。海軍大臣。第37代内閣総理大臣在位自1940年(昭和15年、皇紀2600年)1月16日至同年7月22日。]

 陸軍大臣 阿南 惟幾

[※阿南 惟幾即チあなみこれちかハ生年1887年(明治20年、皇紀2547年)2月21日、没年1945年(昭和20年、皇紀2605年)8月15日)ニシテ陸軍大将。勲一等。功三級。本土決戦ハニシテ『ポツダム宣言』受諾ニ抗フ。8月15日割腹自決。

所謂天皇《聖断》トサル『玉音放送』ハ以下ノ如シ。《朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(※米英支蘇四國ノ支ハ中華民国、蘇ハソビエト社会主義共和国連邦Союз Советских Социалистических Республик也)

抑ゝ[※そもそも]帝國臣民ノ康寧[※こうねい。平穏安泰]ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニ[※共ニ]スルハ皇祖皇宗ノ遺範[※いはん。遺サレシ規範]ニシテ朕ノ拳々[※けんけん。恭シク]措カサル所

曩ニ[※先ニ]米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾[※しょき。心ヨリ願フ。幸田露伴『二日物語』ニ《縁に遇えば則ち庸愚(※ようぐ)も大道を庻幾し》ノ用例在リ]スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戰已ニ[※やむに]四歳ヲ閲シ[※けみし。数へ]朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス

世界ノ大勢亦我ニ利アラス

加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ[※しきりに]無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ

是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス

帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内[※ごない乃至ごだい。五臓]爲ニ[※その為に]裂ク

且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念[※しんねん。心ヲ痛ム。是天子ノ語法也]スル所ナリ

惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス

爾臣民ノ衷情[※ちゅうじょう。真意]モ朕善ク之ヲ知ル

然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠[※せきせい。嘘無キ真心]ニ信倚[※しんい。信頼]シ常ニ爾[※これ乃至なんじ]臣民ト共ニ在リ

若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ[※みだりに]事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠[※はいせい。互ヒニ陥レ合フ]互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 御名御璽

               昭和二十年八月十四日

               内閣総理大臣鈴木貫太郎≫引用以上。]

義勇兵役法』所謂『一億総玉砕法』ノ各條文以下ノ如シ。

 ≪第一條 大東亞戰爭ニ際シ帝國臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト稱ス

 本法ハ兵役法ノ適用ヲ妨グルコトナシ

第二條 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齡十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(敕令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齡十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス

 前項ニ規定スル服役ノ期閒ハ敕令ノ定ムル所ニ依リ必要ニ應ジ之ヲ變更スルコトヲ得

第三條 前條ニ揭グル者ヲ除クノ外義勇兵役ニ服スルコトヲ志願スル者ハ敕令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ義勇兵ニ採用スルコトヲ得

 前項ノ規定ニ係ル義勇兵ノ服役ニ關シテハ敕令ノ定ムル所ニ依ル

第四條 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ處セラレタル者ハ義勇兵役ニ服スルコトヲ得ズ但シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル者ニシテ敕令ヲ以テ定ムルモノハ此ノ限ニ在ラズ

第五條 義勇兵ハ必要ニ應ジ敕令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ國民義勇戰闘隊ニ編入ス

 本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト稱ス

第六條 義勇兵役ニ關シ必要ナル調査及屆出ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依ル

第七條 義勇召集ヲ免ルル爲逃亡シ若ハ潛匿シ又ハ身體ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作爲シ其ノ他詐僞ノ行爲ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ處ス

 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ處ス

第八條 前條ノ規定ハ何人ヲ問ハズ帝國外ニ於テ其ノ罪ヲ犯シタル者ニモ亦之ヲ適用ス

第九條 國家總動員法第四條但書中兵役法トアルハ義勇兵役法ヲ含ムモノトス

附則

本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス≫引用以上。

又、1941年(昭和16年、皇紀2601年)12月8日ニ、東條 英機彼生年1884年(明治17年、皇紀2544年)7月30日(乃至12月30日是戸籍)、没年1948年(昭和23年、皇紀廃止)12月23日是戦犯トシテ刑死、内閣総理大臣在位自1941年(同上)10月18日 至1944年7月22日(昭和19年、皇紀2604年)ハ所謂『大詔を拝し奉りて』ラジオ放送ニテ演説セリ。是総理大臣ニ依ル所謂太平洋戦争開戦演説也。是ニ《八紘を宇と為す皇謨[※こうぼ。天皇統治]の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るる[※恐るゝ]に足らないのであります。勝利は常に御稜威[※みいつ。天皇ノ勢力威力在ル栄光]の下にありと確信致すものであります。》ト在リ。是ニ謂フ《大詔》ハ天皇ノ『米國及英國ニ對シ宣戰』ノ詔書也。

以下上記二資料引用ス。

先ヅ『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』是所謂『開戰の詔勅』。是天皇ノ宣フ詔。

≪天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル[※是定句ニシテ天ノ保護ヲ保有シ萬世一系ノ皇統ノ皇位ニ就ヒタ]大日本帝國天皇ハ昭ニ[※正ニ]忠誠勇武ナル汝有眾[※汝有衆。オ前タチ國民]ニ示ス

朕玆ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司[※ひゃくりょうゆうし。数多ノ官吏官僚]ハ勵精[※れいせい。精進努力]職務ヲ奉行シ朕カ眾庶[※衆庶。字義ニ同ジ]ハ各〻[これぞれ乃至おのおの]其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算[※いさん。計算違ヒ]ナカラムコトヲ期セヨ

抑〻[※そもそも]東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與[※寄与]スルハ丕顯[※ひけん。大ニ顕カ]ナル皇祖考[※今ハ亡キ皇祖]丕承[※ふしょう。大ニ承ッタ]ナル皇考[※今ハ亡キ先帝]ノ作述セル遠猷[※えんゆう。遠謀]ニシテ朕カ拳〻[※けんけん。謹ミテ]措カサル所而シテ列國トノ交誼[※こうぎ。交際]ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニ[※共ニ]スルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ[※。]今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端[※きんたん。不和]ヲ開クニ至ル洵ニ[※まことに]已ム[※やむ]ヲ得サルモノアリ[※。]豈[※あに。豈ニ]朕カ志ナラムヤ[※。]中華民國政府曩ニ[※先ニ]帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ[※みだりに]事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈[※かんか。争闘。干ハ楯、戈ハ矛]ヲ執ルニ至ラシメ玆ニ四年有餘ヲ經タリ[※。]幸ニ國民政府更新スルアリ[※。]帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜[※提携]スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權[※蔣介石即チしょうかいせき生年1887年(明治20年、皇紀2547年)10月31日、没年1975年(昭和50年、皇紀廃止)4月5日ノ中華民國中國國民黨政権]ハ米英ノ庇蔭[※ひいん。庇護]ヲ恃ミ[※たのみ]テ兄弟尙未タ牆ニ相鬩ク[※兄弟(けいてい)なお未だ牆(かき)に相(あい)鬩(ひさ)ぐ。即チ兄弟喧嘩、内輪揉メ。是『詩経』ニ典拠]ヲ悛メス[※改めず]米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂[※からん。字義ニ同ジ]ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス[※。]剩ヘ[※あまつさえ]與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增强シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ[※。]朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍[※いんにん。耐へ忍ブ]久シキニ彌リ[※至リ]タルモ彼ハ毫モ交讓[※こうじょう。譲リ合フ。妥協譲歩]ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延[※せんえん。字義ニ同ジ]セシメテ此ノ間却ツテ益〻[※ますます]經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事旣ニ此ニ至ル[※。]帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然[※けつぜん]起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有眾[※衆]ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘[※かいこう。押シ広メ拡大ス]シ速ニ[※すみやかに]禍根ヲ芟除[※さんじょ乃至せんじょ。取リ除ク。芟ハ刈ルノ意也。]シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス≫引用以上。

大詔を拝し奉りて』是東條。

≪只今宣戦の御詔勅が渙発[※かんぱつ。字義ハ水ガ四方ニ飛ビ散ル]せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。

過般来[※かはんらい。先頃カラ]政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合し支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽く迄平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。

事[※、]茲[※ここ]に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼[※きょうく。大ニ畏レ入ル]感激に堪えず、私不肖なりと雖も一身を捧げて決死報国、唯々宸襟[※しんきん。天子ノ御心中]を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦、己が身を顧みず、醜の御楯[※しこのみたて。天皇ノ楯ニナリテ敵ヲ防グ。是武人ノ定句。《今日よりは 顧みなくて大君の 醜の御楯と 出で立つ我は》是『萬葉集』巻二〇。]たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れ[※恐れ]たものでもありません。只管、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然起たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりませぬ。これと同時に絶大なる建設的努力を要すること言を要しませぬ。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是こそ、昭和の臣民我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことが出来るのであります。

この秋に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々敦く[※あつく]、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、欣快[※きんかい。非常ニ嬉シ。欣快ノ至リ。]とするものであります。帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威[※みいつ。天皇ノ威力、勢力盛ンナル権勢]の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。≫引用以上。

八紘一宇乃至八紘御宇ヲ橿原神宮ハ釈シテ曰ク≪天業恢弘(てんぎょうかいこう※原ルビ)

神武天皇がなされた偉大な事業は、天照大神が下された御言葉に従って、平和で豊かな国づくりをなされたことです。神武天皇は、天照大神が瓊瓊杵尊[※ににぎのみこと。天孫降臨ノ神也]の御降臨の際に下された御言葉のように、民のために正しい政治を行い、やがて「八紘(あめのした※原ルビ)を掩(おお※原ルビ)いて宇(いえ※原ルビ)と為せむ」(天下を一つの家のように※原註)との「天業恢弘」(高天原を地上に実現させ、広めること※原註)の理想を実現なさるため、地理的にも政治的にも重要な位置にある大和国原の橿原の地でこそ、日本を統一して国家体制を築き上げられると確信なさったのです。

世界平和

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

共存共栄

神武天皇は政治の理想について「そもそも世に聖人と尊敬せられる人が制度を制定する場合には、必ずその事柄が現代の時勢に適合するように努めるものである。いやしくも人民の利益となるならば、どうして聖業とたがうことがあろうか」と仰せになり、天照大神が皇孫にこの国を授けられた御徳に応えるためには、正義の精神をもって民が幸福な生活を営むように、徳をもって民を慈しむ政治をすることであると教えられていらっしゃいます。≫引用以上。是出典同神宮ホームページ。

又此ノ神宮ノ歴史ヲ自ラ語ラレルニ以下ノ如シ。≪創建以前

畑地になっていた橿原宮址

古来、畝傍山の山麓周辺には、上代の天皇陵など往昔の遺跡やそれらの伝承地が数多く残っていましたが、東南山麓の橿原の宮跡には、これまでにどのような施設も造られた形跡がなく、畑地となっていました。これは、上代の都が当代一代限りのもので、次々と遷都されていたためで、新帝が他に新宮を造営されると、旧宮は取り払われて耕地に還元されていたと考えられます。

 明治10年代(1877年)~明治22年(1889年)

御宮址顕彰の気運高まる

神武天皇の御陵が、神宮に隣接する現在地に定められたのは幕末の文久3年。その後、修補されたこともあり、明治10年代になると橿原宮址を調査し、これを顕彰しようという動きが高まり、民間から宮址碑の建立や橿原神社の建築の出願が相次ぎました。

 明治23年(1890年)

神武天皇即位の地に創建

明治22年、明治政府は神社創建を認可し、社殿として京都御所の賢所と神嘉殿の2棟が下されました。明治23年1月に移築が完了。同年3月、社号を橿原神宮とし、官幣大社に列せられることになりました。ここに橿原神宮は、神武天皇が即位された「畝傍山東南」橿原宮の旧址に創建されたのです。

 明治44年(1911年)〜

営々と拡張された宮域

橿原神宮は創建以来、宮域の拡張整備と社殿の修築・造営が継続して行われてきました。神威の尊厳を保ち、宮域の神聖を保持するために、明治44年から開始された第1回事業は、創建当初の2万159坪から約1.8倍の3万6,600坪に拡張整備をして、大正15年に一応の完結をみました。この間にも鉄道の開発・発展が進み、俗化されるおそれがあるため、第2回の拡張が引き続いて計画され、途中、関東大震災のために計画の遅れはあったものの、宮域に隣接して約4万坪の畝傍公園が完成。いわば神宮外苑として、宮域の神聖と風致の保存に役立つことになりました。

 ~昭和15年(1940年)

のべ121万人余りが参加した建国奉仕隊

御鎮座50年にあたる昭和15年は、ちょうど神武天皇即位2600年にあたるため、国を挙げての奉祝記念事業として、社殿の修築、境域と神武天皇陵の拡張整備、駅舎や線路の移設などが計画されました。このうち、境域の拡張と外苑の建設は、明治神宮の外苑建設にならって、勤労奉仕で行われることになり、建国奉仕隊が組織されました。解散までの作業日数はのべ500余日、7,200団体、のべ121万4,000余人が建設に参加しています。

全国から寄せられた献木

宮域の造成に約7万6,000本余の樹木が造成されましたが、うち2万2,000余本は、全国から寄せられた献木でした。植栽にあたっては、神社境内の樹林は郷土の木をもって構成することとし、樹種については、橿原の地名から昔は樫の木が生い茂っていたことが推測されることから、カシ類を主として、昔の姿に還元することを目標に決められました。

 昭和15年(1940年)

華々しく紀元2600年奉祝紀元節大祭を開催

記念すべき昭和15年を迎え、正月三が日の参拝者は125万人を数えました。2月11日の紀元節には、紀元2600年奉祝紀元節記念大祭が挙行され、約70万人が参拝。空前の盛り上がりをみせました。6月11日には、昭和天皇が御親拝されています。その後も、外苑運動場での東亜競技大会や各種団体の全国大会、奉祝行事が続き、橿原の地は紀元2600年でわきたちました。

 昭和20年(1945年)〜現在

創建から120年余り、より親しまれる神宮へ

昭和20年の第二次世界大戦の終結後、橿原神宮も一宗教法人の神宮として、維持経営上多くの困難に直面しました。しかし、宮域は戦前のまま護持しており、創建以来百年を超える歳月は、ひときわ神気みなぎる厳かな環境を作りだしています。紀元2600年記念で植栽された約8万本の樹木が約16万坪の宮域に生い茂り、その豊かな緑が多くの人々に親しまれ、称賛されるほどになりました。国民の休日「建国記念の日」の制定にともなう全国運動の盛り上がりなどを経て、参拝者も増えています。万難を克服して日本建国の偉業を成就された神武天皇の御聖徳にあやかろうと、人生の新しい門出や開運を祈る参拝者の姿が多く見られる今日、橿原神宮は日本人の心の糧として、そして日本建国の聖地として、これからの時代にも新しい使命を見いだしています。≫引用以上。

皇紀ハ1948年(昭和23年、皇紀2608年)ヲ以テ廃止。是GHQノ判定ニ随ヘル也。

※上記引用インターネット情報ハ是Jun.01.2019閲覧






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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