北一輝『國體論及び純正社會主義』復刻及ビ附註 1.序論。所謂≪皇紀≫紀元仕儀





…或は亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ


北一輝『國體論及び純正社會主義』

復刻及ビ附註


北一輝『國體論及び純正社會主義』是明治三十九年公刊。五日後発禁処分。底本明治三十九年五月六日印刷明治三十九年五月九日発行。以下是ヲ復刻シ附註ス。先ヅ序論附ス。

註記。各種附註在リ。[※ ]内復刻者附註。但シ是ニ意見解釈表明ノ意図ハ非ズ。原文読解ノ注釈及ビ資料附ス意図在ルノミ。亦註釈出典敢テインターネット上ニ溢ル情報ノミニ限レリ。是意図在ル処也。故ニ此ノ註釈信用性許ヨリ一切無シ。



附序論

北前半

生及ビ

明治時

代略記

北一輝即チきたいっきハ筆名ニシテ彼本名北輝次郎即チきたてるじろう生年1883年是明治16年所謂皇紀ニシテ2543年也。

皇紀ハ別称ニ神武天皇即位紀元乃至神武紀元或ハ即位紀元及ビ皇暦即チ大和読ミニすめらこよみ漢文読ミニこうれき亦其ノ他ニ神武暦更ニ日紀即チにっき等。是等Wikipedia等ノ註釈ニ基ク。ウェブ・サイト《くずし字で楽しむ江戸時代の暮らしと文化/古文書ネット》在リ。是ニ《神武天皇即位紀元とは 皇紀、前660年+西暦》記事中ニ《史料の略暦右側には大きく「神武天皇即位紀元」と記されています。これは一体何でしょうか?

明治五年、政府は旧暦から太陽暦への改暦を発表し、その六日後、明治五年十二月十五日に太政官布告第三百四十二号をもって、神武天皇即位紀元を制定しました。皇紀(こうき)とも言います。これにより、神武天皇などとこれまで聞いたこともない天子様の名が、このようにして初めて全国民の耳に入りました。

神武天皇(じんむてんのう)は、記紀にみえる伝説上の初代天皇です。近代天皇制国家では、天皇制の源流を神武天皇に求め、神武即位の日である二月十一日を紀元節(きげんせつ)と定め、これを祭日としました。この紀元節は戦後、昭和二十三年に廃止されましたが再び昭和四十一年に建国記念日として復活しました。

さて、神武天皇は前660年に即位したと言われています。史料は明治26年、すなわち西暦1893年の暦なので、660+1893=2,553、よって史料に記されているように神武天皇即位紀元は二千五百五十三年となります。また、神武天皇即位紀元の年数が四で割り切れる年が閏年になります。

令和元年(2019)を神武天皇即位紀元すなわち皇紀であらわすと、660+2019=2,679年です。》引用以上。

是明治維新後新政府樹立ノ時、太陰暦自リ太陽暦ヘノ変更及ビ『紀元』即チ所謂年号式ノミナラズ通年式ヲモ併用ス可シ旨議論セラレシ時考案及ビ思案検証サレ採用サル。是西欧『紀元』模倣也。所謂西欧『起源』ハキリスト教暦ナル事謂フ迄モ無シ。キリスト教ハ《大日本帝國》國教ナラズ。是所謂≪神國≫乃至≪皇國≫固有ノ独自性ヲ求メシ乎。以前自リ北畠親房ノ『神皇正統記』ヲ嚆矢ニ諸古書神代ノ部ニ書カレテ在ル事ノ時代検証様々ニ行ハレテ在リ。是詳細煩雑ニシテ逐一記述セズ。太陰暦(所謂旧暦)カラ太陽暦(是稀ニ新暦トモ謂フ)ヘノ以降1872年(明治5年)『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』即チ所謂『改暦ノ布告』乃至『改暦ノ詔書並太陽暦頒布』是明治五年十一月九日太政官布告第三百三十七号ニ依リ布告ニ端ヲ発ス。当該文書以下ノ如シ。

≪今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條[※仰(おおせ)せ出(い)だし候件について]此旨[※此の旨について]相達候事[※相達(あいたつ)候こと。即チ周知ノ事。]

(別紙ニ)

  詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望[※さくぼう。陰暦ノ1日(是朔)及ビ15日(是望)。即チ新月ト満月也。]ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度[※てんど。天体ノ運行]ニ合ス[※合わす]故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏[※ちじゅん。閏月ヲ置ク事ノ意也。]ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步[※すいほ。暦上ニ於ル天体ノ運行]ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽[※もうたんむけい。根拠無ク荒唐無稽也ノ意也。]ニ屬シ人知ノ開達[※かいたつ。開花発達]ヲ妨ル[※さまたぐる]モノ少シトセス[※少なしとせず]盖シ[※けだし。蓋シ]太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ[※いえども]季候早晚ノ變ナク四歲每[※ごと]ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ[※わずかに]一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ[※これを]太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ[※もとより論を待たざるなり。]依テ自今[※今より]舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行[※じゅんこう。敬シテ遵守スノ意也]セシメン百官有司[※総テノ官吏官僚等]其レ斯旨ヲ體セヨ[※此の旨遵守せよ。]

   明治五年壬申十一月九日

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候[※あいなる候]ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定[※定められ]候事

但新曆鏤板[※ろうばん。是本来版木ニ文字書ク事也。書類文書]出來次第頒布候事

一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事

一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處[※ところ]今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱[※称し]候事

一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事

但[※ただし]是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事[※称すべき事]

一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事[※施行いたすべき事]≫

引用以上。

更ニ太陰暦自リ太陽暦ノ日変換及ビ時刻変換ノ表併セ添付サレテ在リ。是煩雑ニシテ割愛ス。

是ニ伴ヒ『太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典』明治5年太政官布告第342号ニ依リテ『皇紀』ハ布告サル。此ノ布告ハ以下ノ如シ。

≪今般太陽暦御頒行[※はんこう。領布シ施行ス] 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付[※つき、]其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事

但當日服者[※ぶくしゃ。是喪ニ服シテ在ル者ノ意也。]参朝可憚事[※憚るべき事。]≫

引用以上。

尚、『神武天皇御即位祝日例年御祭典』明治5年太政官布告第344号ニ《第一月廿九日 神武天皇御即位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事》ト定メラル。是現在ノ建国記念日起源也。此ノ日附ケ根拠ハ『日本書紀』ニシテ《辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年》即チ《辛酉[かのととり]の年の春、正月[むつき]の庚辰[かのえたつ]の朔[ついたち]。天皇[すめらみこと]は橿原宮[かしはらのみや]に於かれて帝位に就かれた。この年を以て天皇元年[すめらみことはじめのとし]と爲す》ト書カレテ在ルヲ其ノ根拠トス。

又1940年(昭和15年、皇紀2600年)11月10日ニ紀元二千六百年式典執リ行ハル。其ノ他記念行事各種在リ。以下例示ス。

現宮崎県宮崎市平和台公園ノ『八紘之基柱』即チあめつちのもとはしら所謂『八紘一宇ノ塔』(是現在名称『平和の塔』)建設。

並ビ『紀元二千六百年特別觀艦式』。是帝國海軍ニ依リ観艦式指揮官ハ連合艦隊司令長官山本五十六海軍中将也。

又『皇紀二千六百年奉祝全國基督教信徒大會』在リ。是同年同月17日於青山学院。宮城遥拝即チきゅうじょうようはい乃至皇居遥拝即チこうきょようはいヲ以テ行ハル。宮城遥拝及ビ皇居遥拝ハ皇居即宮城ニ向ヒテ敬礼スル事ヲ謂フ。是基督教信徒大會ニシテ以下ノ讃美歌歌ハレル。

先ヅ賛美歌54番『喜ビノ日ヨ』及ビ賛美歌412番『主ヲ求メヨ』並ビ賛美歌350番『主ノ恵ヲ語ルハ愉シ』(此ノ歌詞《主の恵み語るは楽し/主は真実の共なれば/主はわが全てを変えたり/そは誰もなしあたわじ/主に比ぶる愛なく/真実の友もなし/主の他には救いはなし/奇すしき愛よ/われ心に罪を持ちて/苦しみ悩みおる時/主は強き愛の手を伸べ/救いに導き給う/主に比ぶる愛なく/真実の友もなし/主の他には救いはなし/奇すしき愛よ/主は日々確信を与え/御言葉悟らしむれど/わが救われし理由は/ただ御国に入りて知るをえん/主に比ぶる愛なく/真実の友もなし/主の他には救いはなし/奇すしき愛よ》)及ビ頌栄即しょうえい566番『我ハ天地ノ造物主』是三位一体ノ礼賛ノ賛美歌。

是等、國歌ニ併セ歌ハレリ。

小崎道雄即チこざきみちお生年1888年(明治21年、皇紀2548年)11月16日没年1973年(昭和48年、皇紀廃止)6月18日彼日本基督教団牧師ノ式辞在リ。以下ノ如シ。

《本日全国にあるキリスト信徒相会し、茲に皇紀ある二千六百年を慶祝するの機会を得たことを感謝する。我国が肇国の古より八紘一宇の精神に則り、親展に親展を重ね今日の隆盛を来たしましたことは、是れ偏えに天佑を保有し給う万世一系の天皇の御稜威[※漢字読ミニりょうい、大和読ミニいつ。意ハ天子ノ勢力在ル威光也。]と、尊厳無比の国体に基づくものであり、この聖代に生を受けたことは感激に堪えない。日本のキリスト教が宣教わずか70年にして今日の進歩を見るに至ったのは、信教の自由を保障したまいし明治天皇の恩による。東亜における指導者として責任を大きさを痛感し、この大使命を全うする為に人力の限りを尽くすのみならず、神に対する信仰を盛んならしめねばならぬと信じる。》引用以上。

此ノ人エキュメニズムEcumenism即チ世界教会主義者也ト傳フ。万国基督教宣教師大会即チエディンバラ宣教会議The 1910 World Missionary Conference,the Edinburgh Missionary Conference是1910年(明治43年、皇紀2570年)6月14日自リ23日迄開催ニ端ヲ発ス各種キリスト教宗派統一セントス一派ノ事也。

小崎道雄ハ1948年発足ノ日本基督教協議会(NCC)初代議長。同年上記世界教会協議会(WCC)発足ニ伴ヒ是ニ日本代表トシテ出席ス。

続キ額賀鹿之助ハ『皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会宣言』是ヲ朗読ス。全文以下ノ如シ。

《神武天皇国を肇め給いしより茲に二千六百年、 皇統連綿として禰々光輝を宇内[※うだい。天下。後附註]に放つ此栄ある歴史を懐うて吾等転た[※うたゝ。愈々]感激に堪へざるものあり 、本日全国にある基督信徒相会し虔んで天皇陛下の万歳を寿ぎ[※ことほぎ。祝福シ]奉る。

惟ふ[※想ふに]に現下の世界情勢は極めて波欄多く一刻の偸安[※とうあん。直接ニハ目先ノ安楽。蓋シ一瞬ノ安楽ヲサヘ]を許さざるものあり、西に欧洲の戦禍あり東に支那事変ありて末た其終結を見ず。

此渦中にありて我国は能く其針路[※しんろ。字義ニ同ジ]を謬る[※誤る]ことなく国運国力の進展を見つつあり 、是れ寔に[※誠に乃至正に]天佑の然らしむる処にして、一君万民尊厳無比なる我国体に基くものと信じて疑わず。

今や此世界の変局に処し国家は体制を新たにし、大東亜新秩序の建設に邁進しつつあり、吾等基督信徒も又之に即応し教会教派の別を棄て、合同一致以って国民精神指導の大業に参加し、進んで大政を翼賛し奉り尽忠報国の誠を致さんとす。

拠って茲[※ここ]に吾等は此記念すべき日に方り左の宣言を為す

一、吾等は基督の福音を伝え救霊の使命を完うせんことを期す

一、吾等は全キリスト教会合同を期す

一、吾等は精神の作興道義の向上生活の刷新を期す

右宣言す 昭和15年10月17日》引用以上。

此ノ額賀鹿之助詳細未詳。但シ東京ニ番町教会ト謂ヘル教会在リ。其ノ『東京千代田区のプロテスタントのキリスト教会/日本キリスト教団/番町教会』ト謂フウェブ・サイトニ『2015年11月礼拝説教「わたしはあなたを祝福し」牧師横野朝彦』ノ記事在リ。是ニ以下ノ如ク在リ額賀鹿之助ノ面影ヲ傳フ。

《番町教会は1886年11月13日に教会設立式が持たれました。番町教会は今年で創立129年です。来年130年を迎えます。教会によっては130年という節目に、大きな行事や、教会史の編纂などをされますけれど、番町教会では現在のところそういった計画はありません。教会建築ということがなによりも大きな130周年記念事業になるのだろうと思います。

さて、129年前、教会設立式の当日は土曜日、天候は晴れ、集まった人たちは230-240名。立錐の余地がない状態でした。司会は神戸教会の松山高吉牧師、聖書朗読は北甘楽教会の窪田栄牧師、祈祷を前橋教会の不破唯次郎牧師、説教を湯島講義所、現弓町本郷教会の海老名弾正牧師、祝辞をドイツ普及福音派のスピンネル宣教師、教会への勧めを原市教会の新原俊秀牧師、祝文朗読を教会員となった森為国、そして初代牧師である小崎弘道が大人7名、子ども6名の洗礼式をおこなっています。このほか東京第一教会、現霊南坂教会から転入会したもの11名、外国などで受洗したもの12名と、設立のこの日にこれだけの豊かな式を持つことができたというのは驚くほかありません。

そしてこれらの名前、また神戸教会、北甘楽教会、前橋教会など、遠くの教会から人々が集まっていることを思うと、この教会が実に多くの人たち、多くの教会の祈りの中に生まれたと思わされます。なお、北甘楽教会というのが現在はありませんが、現在の甘楽教会につながるものと思われます。神さまはまことに豊かな祝福を、この教会の出発のときに与えてくださったのです。

番町教会の設立時の会員の名前を正確に把握することができないのですが、11月第一主日の永眠者記念礼拝で礼拝堂前に並べた写真のなかにも、設立当時の人たちが何人かいます。その人たちは今も歴史に名を残す人たちがたくさんおられます。その名前とそのそうそうたる肩書きに圧倒されるほどです。そのなかでひとりだけ名前を挙げるならば、三好退蔵という人がいました。初代の検事総長、つまりは検察庁の長官、そしてその後大審院の院長、つまりは最高裁判所の長官となっています。

わたしは、こんな偉い人がいたのだと、それこそその肩書きだけしかしらなかったのですが、あるとき知ったことは、足尾銅山鉱毒事件において、三好退蔵は甚大な被害を受けた農民の側に立ったということでした。さらにこの人は死刑廃止論者であったとも知りました。そのことを訴えること自体が周りからの強い非難を受けることになったのでありますが、当時の法曹界の最高の位置にありながら、こういった姿勢があったということに、大きな関心を持たされました。なおこの人は、YMCAの設立にも深くかかわっています。

長い歴史のなかで、著名な人が多くおられました。今では名前さえわからない人たちが、たくさんいて、教会を支えてこられたのだと思います。そしてまたたくさんのことがありました。今ではどこにも記録が残っていなくても、大切なことがたくさんあったのだと思います。

わたしは今年の4月から、本郷2丁目にある弓町本郷教会にかかわりを持たせていただいています。今年3月に牧師が辞任され、次の牧師が決まらないために代務者としての責任を負っています。ただ代務者と言っても、法律上の責任者ということで、日常のことにはほとんど関わっていません。それでも弓町本郷の教会員のかたがたからは、過分なまでに感謝をされて恐縮をしているほどです。

番町教会は1945年、昭和20年、東京大空襲によって会堂が焼け、弓町本郷教会の多大な協力のもと、合同礼拝をおこなうこととなります。わたしは代務者になったときに、まずそのことを話して、番町教会は弓町本郷教会に大きな助けを得てきたと言いました。

ところが弓町本郷教会の役員さんからは思いもかけない言葉が返ってきました。それは、「番町教会にはお世話になってきた」というのです。なんの世話をしたのか、まったく見当がつかず、どういうことかと思ったのでありますが、そのかたの言うには、弓町本郷教会は、その昔、まだ本郷教会という名前であった頃ですが、額賀鹿之助牧師を番町教会からいわば送ってもらったというのです。わたしは本当に驚きました。驚いたというより戸惑いました。

額賀牧師が番町教会にいたときに関東大震災がおこりました。大変な労苦をされています。そしてわたしはそのことや、またその後に額賀牧師が番町教会を辞めて本郷教会の牧師となったことも知っていましたが、こんなところで、「お世話になった」と言われるとは夢にも思いませんでした。

今、ここにおられるかたがたのなかで、額賀牧師の名前をご存知のかたはどの程度おられるでしょうか。おそらく一桁。二桁に届くかどうかではないでしょうか。それが他の教会のかたから、80年も前のことで礼を言われるとは、驚きでしかありませんでした。

でも、わたしたちが意識していなくても、わたしたちが知らなくても、そういうことがどこかで覚えられている、そういうことがどこかで大事にされている。それはまさしく歴史の重みということでしょう。そしてその歴史のひとこまにわたしたちも加えていただいているのです。

わたしたちにとって記憶の範囲である20年とか30年とか、50年くらいならまだしも、130年というとあまり現実味が無くなってしまいます。けれども、わたしたちがよく知らなくとも、わたしたちが忘れていたとしても、実際には、他教会のかたから感謝されるほどに、実は今もその歴史は息づいており、その歴史の息吹のなかにわたしたちも生かされているのだと思います。

番町教会の歴史を振り返ると、決してそれが順調に来たとは言うことができず、関東大震災での会堂崩壊、東京大空襲での会堂罹災など、目に見える形での大きな被害を受けています。そしてそのようなことよりも、教会の内部において、人間的な対立、意見の相違などによって、混乱をした時期が何度かあります。一時期は、隆盛を誇り、「我が国第一の教会」とまで呼ばれるようになります。けれども、そのような人間的な誇りというのは打ち砕かれるべきものです。わたしはその歴史を思うときに、もちろんそこには多くの人たちの祈りがあり、労苦があったのでありますが、それら人の力を思うよりは、やはり神さまがこの教会を建て、今日まで導いてくださった、そのことを思うべきだと考えさせられます。》以下、旧約ニ基ク説教続ク。是煩雑ニシテ割愛。

※上記引用ノインターネット情報ハJun.01.2019是を閲覧ス





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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