小説。——地上で初めて愛を無言のうちに見い出したある獣が永遠に焼き盡くされた跡形もない涙を流す/神皇正統記異本。散文。及び立原道造の詩の引用 5
——地上で
初めて愛を
無言のうちに見い出したある獣が永遠に、焼き盡くされた
跡形もない涙を
流す
神皇正統記異本…散文。及び立原道造の詩の引用
天稚彦
…或いは亡き、大日本帝國の為のパヴァーヌ
天稚彦は、眼の前に流されたその腐乱して垂れ下がった眼球が静かに流した涙の雫の冴えた透明をもはや、なにを想うことも出来ずに見詰めるしかなく、樹木の陰に身を隠して憧れた、その魂をだけ天稚彦の傍らに添わせていた御娘は自分が父にすでに赦されていたことに気づいた。腐乱の神は脳裏に想い出された、やがて来る、没落の日輪の閃光を想った。天孫は天伝う天を堕ち天を降り地にふれる。腐肉は既に燃え上がって居た。みづからの肉のすべてを焼き尽くしながら、みづから燃え上がった炎焔の陽炎は揺らぐ。その滅びの日に、茜差す輝きの総てにもはや放擲し放ち、血統の総ての絶叫が耳を聾すのを、血速振るかの眼差しはその、――と。なんと余りにもあざらかなる日没の色彩。
腐肉の御神はむしろ、その匂い立つ香気におののくしかなかった。文字通り紅蓮に染まった空の色彩に彼は、初めて此の世に色彩のあった事実を想い出していた。ふれた。
…聴きなさい
音もなく。
花の
ふれる。
花弁の
気配さえもなく。
堕ちる
花々の翳りの下に、
その音を
花美しの花々はさまざまな木漏れ日を散らした。
好き放題に、猥らにしてふしだらまでに、見苦しくも穢らしいがまでに、あまりにもあざやかに儚く。その、傍らに添う若草の女の肌の上にも。
枕附く日差しの下の空間の拡がりに、花々は
たるんだ唄のうたひやまない
私は堕ちようとする
匂って春に、息遣う
雨の晝に
何処までも深く
素肌の紅を兆しだけした純白の色彩は、
おぼえてゐた
中天の果ての
それら光の、乃至
おののきも
その先にまで
翳りのあわい
顫へも
駆け上がりながら
色彩と形態の戯れを、それみづからが息遣うたびに意図もなくふるわせて、邪気も無く
矛盾する運動の生んだ、単なる停滞に過ぎないのか?
ただ野放図に、天稚彦は
私たちが咬む
終には
此の時間は
指先をふれた。その、やわらかな、狭丹頬ふ花の花弁を想わせた質感に。指先の肌にじかに触れる、潤った香気。ふれた瞬間に、それが指先にそれそのものの温度を目覚めさせた。
下照姫は目を閉じて、眠った振りをしたままに、その曝された肌の息吹きは一切の眠りをも知らずに、天稚彦の眼差しの中には目醒め続けていたのだった。
音響が耳の中に在った。それら、ざわめく
たるんだ唄のうたひやまない
青葉のわななく、かすかな
雨の晝に
ふれあいの音響。
おぼえてゐた
匂い立つ花々の
おののきも
臭気の充満に、天稚彦の唇がみずからの肌に触れたのを
顫へも
女は赦した。
腐乱の血速振る王の、繁栄する中州は繁栄に充ち満ちてただ繁栄し、豊饒なる中洲は豊饒に充ち満ちてただ豊饒で在る他無く、空間は遠くに人々の声を騒がせて拡がった。それら、わななく声の魂極る音の夥しい群れに、天稚彦の耳は敢えてかかわろうとはしなかった。彼はただ、耳元に鳴ってる気がした、女の息遣うささやかな音にだけ耳を澄ませようとし、羽音が聴こえていた。
眼を見開きもしないが儘に、天稚彦はその羽撃きの音響を聴いていた。
頭上、わななく青葉の上の繁りに翳る空間の上を、いつか雉の群れの密集した羽ばたきが満たし、それらはもはや狂喜した怒号のように(―—狂気した?)鳴り響いた(いずれにせよ)と(…怒号。)想った時に、…何故ニ。
と。
かの懐かしき茜差す御声を
貴様ハ、何故ニ
聴いた。
天伝い、高光るその温度の愛おしさを。
私ヲ裏切ルノカ。
天稚彦の唇が、ふれた繊細さに気遣いながら女の腹部を下がった。
何故ニ。
と。
私ヲ見棄てるのか。
彼の唇が、好き放題に這うが儘に、女はただ赦した。
貴方ヲ、…と。
滅ボサンガ為ニ、そう敢えて口にした天稚彦の肌は、ふれたものの香気に歓喜さえして、潤いのうちにしずかに声もなく埋没する。
冷静に、ただ冴えきった儘で。
…何故ニ。
と。
私ヲ滅ボサント欲スルノカ。
わななく。
雉らの羽音の無際限なまでの音響に、…御神。御大御神。茜差す御大御神ニシテ陰ニシテ陽ニシテ中天ニ光リ光ルガ故ニ暗闇ト翳リ其ノ物デサエ在ラセラレル御方ヨ。
言霊の牙の痛みは
貴方ガ
感じられる前には既に腐り落ちている。
私ヲ既ニ裏切ラレオ見棄テ為サレテ在ラセラレタガ故ニ。
と。
天稚彦の、咽喉の奥にだけちいさく囁いた声など最早、わななき立つ羽音に消されて、天稚彦みづからの耳にさえ聴こえはしない。
…何故ニ。
と。
ミヅカラ滅ビヲ求メルノカ。
その声に、天稚彦は抗いようも無く、
哀れにして
ただ、…哀レナ、と。
哀れなる魂極る哀れな哀れさの儚さの明晰さの哀れよ
ただ
それがいま、私を
つぶやくしかない。いまや、
破壊する
眼に映り肌が感じるもの総てを哀れみ、悲しんだ。その、茜差す中天の御嫡子たる御方の声を聴く、彼みづからをも含めて。…滅ビタイ訳デハ御座イマセヌ。
喰らわれる。
滅ビルシカ無イノデ御座イマス、と。
口にしなかった言葉をさえ、無際限なる言霊の群れは容赦もなく彼の胎内にうごめいて、彼の肉を喰らって行った。
佐怒都鳥[さのつどり]、今ヤ雉等ノ羽音ノ中ニ滅ビニノミ焦ガレテ居リマスル、と。
ささやかれた天稚彦の声を、眠った振りをした儘の女の耳は、頑なに聴こえなかった振りをした。…美しい、と。
其の時、天から堕ちた獣の異形が眼にふれた瞬間に、とは云え下照姫は刹那のうちに茫然とした自分の心のその空蝉の魂極る肉を切る切実さの必然など判らない。惨めな迄に身を震わせて、四肢のこまかな痙攣に素直に彼だけの、感じ続ける痛みの固有を曝す眼の前の獣を、下照姫はむしろ赤裸々に愛した。自分の、彼を見つめる眼差しに、あからさまな媚びと誘惑が顕かに曝されて居たのを、下照姫はその男のためにむしろ羞恥した。…滅ボシ為サイ。
その
下照姫は
眼差しが
彼を赦し、そして、
ふれる統べてのものの統べてを
振り向き様に天に矢を放った天稚彦は、みづからの矢の先端が一羽の雉の心臓を射抜くのを見た。
雉らのすべては失墜し、周囲に墜落の騒音を立てた短い瞬間の後に、…佐怒都鳥。それら地を埋めくした鳥らの死穢の群れを…今ヤ。見詰めた。
私ハ滅ビタ。
指先は女の首筋を上ってなまめく触感に酔い、そして、
春の梓弓は既に
不埒なほどに
放たれた
色めいた顎の曲線に這った。
終に、その躑躅[つつじ]の花の唇にふれようとした時に、…アレヲ。
と。
今更のように眼を、僅かにだけ開いた女の、
御空ガ今、燃エ上ガリマス。
囁いたその声を耳にして、その匂う花のくれないの唇の他の言葉を漏らさないうちに天稚彦は、それをすぐさま塞いだが、彼は知っている。その背後を埋め尽した空の悉くが日没のあざやかな破滅の色彩に燃え上がって、そこに、あからさまな憎悪と憤怒が晒されて居るのを。
もはや言葉も気配さえもなく、茜差す日の光にしてまばゆい逆光の、色あざやかな中天に在るただ一点の目眩ましの黒点、陰にして陽なり陽にして陰なる御方の逆鱗に触れた、永遠に穢れた獣としてのみみづからを天稚彦は見い出して、確カニ、…と。
此ノ地ノ魂極ル命ノ芳香ノ総テ、此ノ地ノ射干玉[ぬばたま]ノ死穢ノ腐臭ノ総テ、此ノ空ノ茜差ス光ノ総テ、彼方ノ、海ノ脈打ツ浪ノ鼓動ノ其等ノ総テ迄モガ今、俺ヲ憎シム。
天稚彦は、
夕ぐれごとに
眼差しが捉えた、美しい
あれはもう
花匂う女の潤みのある
心にかゝつてゐる
眼差しに見惚れて、貴方モ御存知デ御座居マシタデハ在リマセヌカ。
夕ぐれが夜に變るたび
かの、
かゞやいた方から吹いて来て
既ニ
見知らないものたちだ…
高天原の光の充ち満ちて溢れ満ちた、その
あれはもう
貴方モ。
見知らないものたちだ…
神々の息吹きの中で、
誰がそれを忘れるのだらう…
茜差す大御神なる御方の微笑まれるその頬のかすかなくぼみでさえも、炎焔を炙る野放図な逆光の中の黒点としてしか垣間見れ獲ぬ、かの御方をひたすらに愛しながらも天稚彦は、それが不可能である事を知っていた。御方の望まれたがままに添うて、そして添う事に心から喜び、言葉もなく歓呼し、ただ総てを恩寵のように眺め、とは云え両性を具有なさられた高光る御方が、終にその愛し賜うものを愛し切り賜獲ることなどできはしない事実をなどは。それは飽くまで戯れに、その装った半身としての男にして男たる男で在らせられたか、女にして女たる女で在らせられたか、そのいずれかの擬態に過ぎぬ、と。譬え如何にその御志しの切に切なる上にも切に勝って切なる切実さが彼の血速振る肉を切り裂こうとも。噴き出した血速振る血をふしだらな迄に撒き散らそうとも。茜差して高光る、光の横溢の魂極る命のうちに、みづからの肌をその指先がなぜられるたびに天稚彦は、容赦もなく気付いていた。無慈悲なまでにひたすらにおやさしく愛を、…と。
彼は、
愛を留保も無く囁かれ賜る正に其の御時にこそ、貴方ハ私其ノ物ヲ裏切リ棄テテ在アラセラレル。
いつでも、陰の陰として賜るときも。陽の陽として賜るときも。陰に淫する陽として賜るときも。陽に淫する陰として賜るときも。その血速振って高光る肌に曝された、窪みの穴の翳りの総ての奥の総てから、乃至その血速振って高光る肌に曝された、表皮の先に突き出した尖りの先の、その先端の窪みの穴の中を迄も、素手にふれ賜い総て知り賜い総て眼差しに愛で賜うた、そのさまざまなときのさまざまな刹那のさまざまに於いてさえ在らせられても。
坐し坐すが故に坐し坐す茜の光の御方のかすかにふるえる温度を持たれた笑い声が、明確にして顕かな媚びを寧ろ自分勝手に兆されて、まざまざと耳にふれて慰めて歓呼させてわななかさせる、いくたびかの刹那の失心のうちにさえ、天稚彦はその身を絶望に染めざるを獲ずに、…何故ニ。
と。
貴方ハ私ノ絶望ノ容赦無キ正当性ニ気付キ給ウテ居乍ラモ、何故ニ私ヲ愛シ賜イ祝福シ賜イ辱メ賜イ破壊シ賜イ続ケラレルノカ。
天稚彦はその匂い立つような、或は総べて悉くの遍く御神々が嫉妬された肉体を、転世の先の転世の行く先の来世の転世の先の総べての魂の総べてを迄も捧げる喜びに存在の総べてを震わせて、無言の愛を囁く脳裏の言葉にさえも神附いた、言霊の蒸れにみづからの肉体を食い散らされるにまかせた。
やがて天の無窮の汀に傾いた月読之尊の御息吹が、花々の陽炎の上に憩う。何故あなたは私を愛したのだろう、と、不意に問いかけたときに声を立てて笑った下照姫のそのやわらかな声には必ずしも媚びなど許より聊かもなくて、ただ、為ラバ、と。
それはただ心地よい。
何故ニ貴方ハ私ヲ愛サシメ賜ウタノカ?
肉体に酔いどれ文字通り淫して淫する堕淫に(――同じように。)溺れ込み乍ら、肉体に(全く、)溺れるわけではない。むしろ、(高光る御方の賜れた、その)醒めた儘で(魂極る魂のふるえに)為すすべもなく(全く、違いなどなくて)お互いの肌を(全く同じように。)貪るものの、貪るほどにふれ合った肌の質感に倦んではむしろ、それらにあざやかな軽蔑をさえ感じるのを、(――乃至、自分自身を)女が、(女をも含めて)みずからを(軽蔑し、みづからへの侮辱を)含めて(容赦なく感じ、)哀れんでさえいたことには彼はすでに(もはや恥辱と悔恨の念は盡きようとしない。)気付いていた。精神なくして肌はふれ合うはずも無く、ふれ合うときに精神に精神はふれ獲るわけではないものの、精神にふれようとするならば肌をふれ合わさせるしかない。仮りに魂極る肉体から空蝉の肉に発したにせよ、ひたすらに切に研ぎ澄まされた切実な想いの切なさは常に精神に至らざるを獲ない。眼の前の、美しい異形の花打美しき美しさを見詰めた。凜と張り詰めたかと想えばふしだらに媚び果て、媚びのうちに冷えて醒めた冷酷な美の息吹きの繋がり垂れた勾玉の珠乃至謂わばひさかたの月の光にたゞゝゞ冴えた鏡面の無機的な気配を投げつける。その女、流れる眉の儚さに、白い肌の不意の堕ち窪みがやがて眼差しに至る。繁茂したまつげの、まばたくたびの、かすかな一瞬に曝すおののきに似た、感情もない冴えたばかりの気配がむしろ、天稚彦に不安と、喜びと、微細な恍惚のさまざまな群がりを与えて、肝向う心はみづからの心に咬み附く。その、異形の女に見惚れるならば、その女はただ、美しいといわれざるを獲ない。美と言うものが、あまりにも熾烈な暴力のように荒振って、総てをなぎ倒して仕舞うにもかかわらず、それのあざやかな実体などどこにも何も色も匂いも気配さえもあり獲はしない、と、光。おぼろげな月の光に天稚彦は、血速振って千速振る御神々さえもが嫉妬した肢体をただ、為すすべも無くそこに曝して女にゆだねた。空が明けを知って行く、夜の滅して朝の生ずる生滅のその曖昧な時間のうちに、朝焼けのむごたらしくも荘厳なる色彩の空の惨状を曝す光に、高照らす御大御神と射干玉の大神かの双神のあられもない交配を見る。其処に、夜の気配の崩壊を紅蓮に曝した朝焼けは、茜差す御方の光の息吹きを赤裸々に見せ付けて、今、と。
朝ノ光ガ造化サレル。
天稚彦を矢は貫いた。
覚醒し、終に降り注いだ日輪の閃光が、自分の総ての悉くの総べてを滅ぼすのをただ、天稚彦は在り獲ない不意の恩寵としてのみ見い出していたが、
…私ハ、
赦す
…私ハ
天稚彦は
赦ス。
…私は
赦ス
独り語散る。その頭の中でだけ。見あげ直視した暁の日輪の無慈悲なまでの燃焼の冷酷にして無盡蔵にして無際限なる焔の荒振る息吹きに向って、貴方ヲ。
と。
…赦ス。
喩エ、貴方ガ永劫ノ尽きた永劫のその先の永劫の燃え盡きた果ての永劫の果て迄も、決して私を赦しはしなかったとしても。
…私ハ、赦ス。
燃え上がった双眸に溢れ出る滂沱の涙を、じかにふれて生じる刹那の隙さえもなく悉く殲滅する日輪の灼熱は音もなく、もはや苦痛以外のなにものが存在する暇さえも一切與え無いままに、彼の魂極る命の残余の総てを破壊し盡し後には何も残しもしない。
2019.04.04.-06.
Seno-Lê Ma
0コメント