源實朝『金槐和歌集』序説及春ノ部①今朝見れば山も霞みてひさかたの
金槐和歌集
源實朝鎌倉右大臣家集所謂『金槐和歌集』復刻ス。底本ハ三種。
〇『校註金槐和歌集』改訂版。是株式會社明治書院刊行。昭和二年一月一日發行。昭和六年五月一日改訂第五版發行。著者佐佐木信綱]
〇『金塊集評釋』厚生閣書店刊行。昭和二年五月二十二日發行。著者小林好日]
〇アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』春陽堂刊行。大正十五年五月一日發行。著者齋藤茂吉著]
各首配列ハ『校註金槐和歌集』改訂版ニ準拠。是諸流儀在リ。夫々ノ注釈乃至解説附ス。以下[※ ]内ハ復刻者私註。是註者ノ意見ヲ述ニ非ズ。総テ何等乎ノ引用ニシテ引用等ハ凡テインターネット情報ニ拠ル。故ニ正当性及ビ明証性一切無シ。是意図的ナ施策也。亦如何ル書物如何ル註釈ニモ時代毎ノ批判無ク仕テ読ムニ耐獲ル程ノ永遠性等在リ獲無事今更云フ迄モ無シ。歌ノ配列ハ上記『校註金槐和歌集』佐佐木信綱版ニ準拠ス。
以下小序説。金槐和歌集乃至金塊集ハ源實朝ノ家集是≪昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって発見された定家所伝本と、貞享4年(1687年)に版行された貞享本の2系統が伝えられている。前者は自撰・他撰(定家による撰)両説あるが未詳。後者も、奥書に「柳営亜槐」による改編とあるが、「柳営亜槐(征夷大将軍と大納言)」が誰であるかは諸説ある。江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来『万葉調』の歌人ということになっている源実朝の家集であるが、実際は万葉調の歌は少ない。所収歌の多くは古今調・新古今調の本歌取りを主としている。≫以上≪フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』≫引用。≪源実朝の家集。《鎌倉右大臣家集》とも。〈金〉は鎌倉の鎌の偏,〈槐〉は大臣の意。諸本があるが,藤原定家の伝える写本によれば,建暦3年(1213年)12月成立,実朝22歳ごろまでの作品集で,歌数は663首。別系統の流布本もある。実朝は和歌を定家に学び,集に含まれる多くの習作的作品には《新古今和歌集》の影響が著しいが,佳作は多く万葉調で,その歌風は当時の新古今調と対照的。≫是≪百科事典マイペディア≫引用。≪源実朝(みなもとのさねとも)の家集。1巻。1213年(建暦3)成立。《鎌倉右大臣家集》ともいい,《金槐》の書名は,〈鎌〉字の偏と大臣の異称槐門とによる。藤原定家の伝える写本のほか流布本に1687年(貞享4)板本・群書類従本の2系統があり歌数約700首。模倣的な習作群のなかにあって,〈萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ〉など清新な感覚・陰翳に富む青年の心の姿を伝える秀歌も多く,賀茂真淵,正岡子規,斎藤茂吉,小林秀雄らに称揚された。≫是≪世界大百科事典第2版≫引用。
正岡子規曰ク≪仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申[※もうさず]候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強[※あなが]ち人丸[※ひとまろ]・赤人の余唾[※よだ]を舐[※ねぶ]るでもなく、固より貫之・定家の糟粕[※そうはく]をしやぶるでもなく[※糟粕ハ酒糟、残滓。糟粕を嘗めるデ独創性特異性欠如ヲ謂フ。]、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之[※これあり]候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤[※あやまり]なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし[※とうかいせし。敢テ其ノ才ヲ隠ス]人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之[※これなく]候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇[※ものずき]連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之[※これあるべく]候。
真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔[※など]当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。真淵が万葉にも善き調[※ちょう]あり悪あしき調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈[※きっくつ。堅苦シ]なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。しかしながら世人が佶屈と申す万葉の歌や、真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には、生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに、他の人は言ふまでもなく真淵の歌にも、生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤もこの辺の論は短歌につきての論と御承知可被下[※くださるべく]候)真淵の家集を見て、真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆[※あき]れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦[※かとりなひこ是生年1723年(享保8年第114代中御門天皇、征夷大将軍吉宗第8代)3月2日是旧暦(4月6日是新暦)、没年1782年(天明2年第119代光格天皇、征夷大将軍家治第10代)3月23日是旧暦(5月5日是新暦)。國學者。賀茂眞淵門弟]は万葉を模したる歌を多く詠いでたれど、なほこれと思ふ者は極めて少く候。さほどに古調は擬しがたきにやと疑ひをり候処、近来生らの相知れる人の中に歌よみにはあらでかへつて古調を巧に模する人少からぬことを知り申候。これに由りて観れば昔の歌よみの歌は、今の歌よみならぬ人の歌よりも、遥に劣り候やらんと心細く相成[※あいなり]申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候はんには如何いかが申すべき。
長歌のみはやや短歌と異なり申候。『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからず候へども、箇様[※かよう]な長歌は古今集時代にも後世にも余り流行らざりしこそもつけの幸と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く、従つてかなりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少手際善く出来申候。(御歌会派[おうたかいは]の気まぐれに作る長歌などは端唄[※はうた]にも劣り申候)しかし或人は難じて長歌が万葉の模型を離るる能はざるを笑ひ申候。それも尤もには候へども歌よみにそんなむつかしい事を注文致し候はば、古今以後殆ど新しい歌がないと申さねば相成間敷[※まじく]候。なほいろいろ申し残したる事は後鴻[※こうこう]に譲ゆずり申候。不具。(明治三十一年二月十二日)≫引用以上。
源實朝ハ父ヲ頼朝母ヲ北条政子トシテ生年1192年(建久3年第82代後鳥羽天皇)8月9日是旧暦(9月17日是新暦)
、没年1219年(建保7年第84代順德天皇、4月12日是旧暦(5月27日是新暦) 承久ニ改元)1月27日是旧暦(2月13日是新暦)。鎌倉幕府第3代征夷大将軍。鶴岡八幡宮ニ僧籍公暁くぎょう乃至こうきょうニ暗殺死。漸首。公暁ハ幼名善哉ぜんざい生年1200年(正治2年第83代土御門天皇)、没年月日ハ實朝同日討死。公暁ハ實朝ノ猶子ゆうしニシテ籍上ノ子即チ實朝ハ公暁ノ義父也。
≪それもまた思ひ過しの野暮な言ひ草で、私の親しく拝しました将軍家は、決してそんな深い秘密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同様に、その場の気配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ霊感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本当に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、
平家ハ、アカルイ。
ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑かぶとを取つて逆様に著給へば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆様には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気にいりの御様子で、「新中納言知盛卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑ひになり、
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。≫以上太宰治『右大臣實朝』引用ス。
春
一。
正月一日よめる
今朝見れば山も霞みてひさかたの天の原より春は來にけり
[※是『校註金槐和歌集』改訂版]
今朝みれば山もかすみて久方の天の原より春は來にけり(正月一日よめる)
凍えるやうな寒さのなかで長い間人々は暮らして來た。そして誰も彼もこの冬のさむさはまだまだつゞくものと思ひきめてゐた。しかし春は靑く芽ぐんでゐたのである。
けさ起きて見れば——御らん[※御覧]。あたりがすつかりと霞につゝまれて山までが霞んでゐるではないか。
(うらゝかな空には日輪がかがやいてゐるであらう)
まあ、いつの間にか春めいた陽氣になつてゐる。春はあのみ空[※あの御空]をかけておとづれた。人の心には限りない驚異と歡喜とが溢れかへる。そして、ぢつと眼を睜つて[※みはつて。瞠ッテ]空を仰いでゐると、いつか兩の睫毛がしつとりと濡れてくる……。
註。久方のは天の枕詞。
[※是『金塊集評釋』文學士小林好日著]
(一)今朝みれば山も霞みてひさかたの天の原
より春は來にけり
正月一日に詠んだ歌である。四角張った形式的な歌になり易い處を作者の息[いき※是原書ルビ]をふきかけて活かしてゐる。この歌の結句は『來にけり』と斷定して『來ぬらし』とか『來ぬらむ』とか云つてゐない。この場合の『けり』は感嘆の助動詞であるが、感嘆のうちに斷定の意がある。思ひ切つて大きく平氣で云つて居るんがよいのである。そしてゐて『今朝みれば山も霞みて』とちゃんと急所はのがさない。換言すれば實際の感じを重んじて居る。實感に順じてゐる。讀者の側からいへば『天の原より春は來にけり』だけでは一寸[※ちょっと]困るのであるが『今朝見れば』云々といはれると初めて感じに乘つて來る樣に思はれる。
參考として立春の歌を掲げるならば、『久方の天[※あめ是原書ルビ]の香具山[※かぐやま是原書ルビ]このゆふべ霞にたなびく春立つらしも』(萬葉集卷十人麿歌集)は秀歌であつて極めて大きく自然に歌はれてゐる。『久方のあまの原より生[※あ是原書ルビ]みきたる神のみこと……』(萬葉集、大伴坂上郎女長歌)は句法の類似のために書いて置く[※註]。『春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらん』(拾遺集壬生忠岑)や『春霞たてるを見ればあら玉の年は山より越ゆるなりけり』(拾遺集紀文幹)など類想の歌はきはめて多い。
[※是齋藤茂吉著アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』]
[※註。
〇萬葉集柿本人麿短歌ハ卷十卷頭一八一二≪春雜歌/久方之 天芳山 此夕 霞霏 春立下/ひさかたの天の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも/右柿本朝臣人麻呂歌集出≫
〇萬葉集大伴坂上郎女長歌ハ≪三七九 大伴坂上郎女祭神歌一首 并短歌
久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齊戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞
ひさかたの あまのはらより あれきたる かみのみこと おくやまの さかきのえだに しらかつけ ゆふとりつけて いはひへを いはひほりすゑ たかたまを しじにぬきたれ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも
三八〇 大伴坂上郎女祭神歌一首 并短歌 反歌
木綿疊 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨
ゆふたたみ てにとりもちて かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも≫]
〇拾遺集ハ拾遺和歌集しゅういわかしゅう是≪しゅういわかしゅう[シフヰワカシフ][拾遺和歌集]平安中期の勅撰和歌集。八代集の第三。20巻。撰者未詳。寛弘2~4年(1005~07)ごろ[※第66代一條天皇]成立。拾遺抄を増補したものといわれる。万葉集・古今集・後撰集時代のものが大部分で、約1350首を収録。拾遺集。≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。亦≪平安時代中期の第3勅撰和歌集。 20巻。約 1300首。書名は『古今集』や『後撰集』で選び残された歌を拾う集の意。撰者や成立の事情は明確でない。退位後の花山法皇[※第65代]の発意により、藤原公任 (きんとう) の私撰集『拾遺抄』を基にして、側近の歌人とともに増補を重ねて完成したものらしい。成立は寛弘3 (1006) 年前後か。平安時代には『拾遺抄』のほうがむしろ勅撰集として考えられていた形跡がある。伝本は流布本系のほかに複雑な成立事情を反映した異本系統のものがいくつかある。春、夏、秋、冬、賀、別、物名、雑 (上下) 、神楽歌、恋 (一~五) 、雑春、雑秋、雑賀、雑恋、哀傷と類別され、四季、賀、恋の分化など『拾遺抄』の影響が大きい。『古今集』『後撰集』時代の歌人を重視する一方で『万葉集』の歌にも関心を寄せ、紀貫之の歌とともに柿本人麻呂の作と称する歌を数多くとっている点に特色がある。歌風は古今調を完成させた優美で平淡な傾向を示している。≫以上≪ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典≫引用ス。
〇拾遺集壬生忠岑歌ハ卷一第一歌。≪平さたふん[※平貞文]か家歌合によみ侍りける/壬生忠岑/はるたつといふはかりにや三吉野の山もかすみてけさは見ゆらん≫
〇拾遺集紀文幹きのふみもと歌ハ卷一第二歌。≪承平四年中宮の賀し侍りける時の屏風のうた/紀文幹/春霞たてるを見れは荒玉の年は山よりこゆるなりけり≫此ノ歌人詳細未詳。
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