穂積八束『国民教育愛国心』東京有斐閣書房版 復刻及註釈 序説①
…或は亡き、『大日本帝国』の為のパヴァーヌ
穂積八束
『国民教育愛国心』
穂積八束『国民教育愛国心』東京有斐閣書房版ヲ以下ニ復刻ス。
奥附以下ノ如シ。
発行所 有斐閣本店
発売所 有斐閣書房
明治三十年六月四日初版印刷、明治三十年六月七日初版発行
明治四十三年十二月六日三版印刷、明治四十三年十二月十日三版発行
正價金四拾錢ト在リ。明治元年9月8日(1868年10月23日)行政官布告。
復刻凡例。
[註]及ビ[語註]ハ注記也。
[]内平仮名ハ原文儘ルビ也。
[※]ハ追加シテ訓ジ又語意ヲ附ス。
底本ハ国会図書館デジタル版也。
序説附ス。穗積八束即チほづみやつかハ生年1860年(安政7年)2月28日是旧暦(3月20日)、1912年(明治45年/大正元年)10月5日没。
東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。
略歴以下ノ如シ。
1860年(安政7年)伊予国宇和島即チ愛媛県宇和島市ニ生。鈴木(維新後穂積ニ復姓ス)重樹。此人宇和島藩士也。
穂積氏ノ一統ノ始マリハ穂積真津自リト傳ハル。
鈴木改姓ノ初メハ865年(貞観7年)生、926年(延長4年)5月21日是旧暦(7月3日)没ノ鈴木基行即チすずきもとゆきニ始マル。是ノ統ヲ藤白鈴木氏ト謂フ。
1883年(明治16年)東京大学文学部政治学科卒業。東京大学文学部政治学研究生。
1884年(明治17年)ドイツ(ハイデルベルク大学、ベルリン大学、シュトラスブルク大学)留学。
1889年(明治22年) 帰国後帝国大学法科大学教授就任。担当ハ憲法。法制局参事官。
1891年(明治24年) 兼任枢密院書記官。法学博士。
民法典論争ニ『民法出デテ忠孝亡ブ』(『法学新報』第五号)発表。
1897年(明治30年) 東京帝国大学法科大学長就任。
1899年(明治32年) 貴族院議員。
1906年(明治39年) 帝国学士院会員。
1908年(明治41年) 兼宮中顧問官。
1909年(明治44年) 法科大学長を免ず。
1912年(大正元年)8月体調捗々シカラズ依願免本官。9月13日明治天皇大喪ノ礼参列時ノ風邪罹患ニ高熱発症。10月5日逝去。心臓麻痺ニ因ル。東京帝国大学名誉教授。勲一等瑞宝章賜授。
位階
1891年(明治24年)12月21日正七位
1894年(明治27年)2月28日従六位
1896年(明治29年)3月31日 - 正六位
1898年(明治31年)4月30日従五位、12月10日正五位
1904年(明治37年)2月10日従四位
1909年(明治42年)2月20日正四位
1912年(大正元年)10月5日従三位
勲章等
1899年(明治32年)
12月27日勲四等旭日小綬章、12月28日金盃一組
1903年(明治36年)9月18日金杯一個、12月26日勲三等瑞宝章
1907年(明治40年)2月11日勲二等瑞宝章
1912年(大正元年)10月5日勲一等瑞宝章
外国勲章佩用允許
1907年(明治40年)2月9日二等第二双竜宝星(清国)是詳細未詳。
1884年(明治17年)7月7日制定ノ爵位制ニ因リ穂積ハ男爵。爵位一覧ハ以下ノ如シ。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵以上。
近代正確ニハ所謂大日本帝国ノ華族制度ハ1869年(明治2年)6月17日是旧暦(7月25日)版籍奉還同日ノ行政官布達『(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム』ニ始マレリ。
1878年(明治11年)九月『華族類別譜』刊行。是ニ拠リ華族一覧叶ウ。
穂積氏即チ穂積臣乃至穂積朝臣一統ハ所謂邇藝速日命(乃至饒速日命即チ『古事記』ニ邇藝速日命『日本書紀』ニ饒速日命『先代旧事本紀』ニ饒速日命即ちチにぎはやひのみこと別称ニ櫛甕玉命即チくしみかたまのみこと乃至天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命即チあまてるくにてるひこほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと即チ或ハ天照國照彦天火明尊乃至天照国照彦火明尊乃至天火明命乃至彦火明命櫛甕玉命即チひこほあかりのみことくしみかたまのみこと及ビ天照御魂神即チあまてるみたまのかみ更ニ櫛玉神饒速日命即チくしたまのかみにぎはやひのみこと等在ラセラレル)、即チ天照太神ニ三種ノ神器ヲ賜レタ天孫降臨ノ所謂瓊瓊杵尊(即チ『古事記』ニ天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命即チあめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと乃至天津日高日子番能邇邇芸命即チあまつひこひこほのににぎのみこと乃至天津日子番能邇邇芸命即チあまつひこほのににぎのみこと及ビ日子番能邇邇芸命即チひこほのににぎのみこと『日本書紀』ニ天津彦彦火瓊瓊杵尊即チあまつひこひこほのににぎのみこと乃至天津彦国光彦火瓊瓊杵尊即チあまつひこくにてるひこほのににぎのみこと及ビ天津彦根火瓊瓊杵尊即チあまつひこねひこほのににぎのみこと更ニ火瓊瓊杵尊即チほのににぎのみこと又天之杵火火置瀨尊即チあめのぎほほぎせのみこと及ビ天杵瀨命即チあめのきせのみこと或ハ天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊即チあめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)ニ先行シテ十種ノ神器ヲ賜ッテ天降ラレ賜ウタノ後裔大水口宿禰即チおおみなくちのすくね乃至おおみくちのすくねトサレル。
北畠親房『神皇正統記』ニ以下ノ段在リ。
《第二代、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊[※まさやあかつかつのはやひあまのをしほみみのみこと]。高皇産霊の尊の女栲幡千々姫の命[※たくはたちぢひめのみこと]にあひて、饒速日尊、瓊々杵尊[ににぎのみこと]をうましめ給て、吾勝尊[※即チ速日天忍穂耳尊]葦原中州くだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、外祖高皇産霊尊、十種[※とくさ]の瑞寶[※みづたから]を授さづけ給。瀛都[をきつ]の鏡一つ、辺津[※へつ]鏡一つ、八握[※やつかの]剣一つ、生玉[※いくたま]一つ、死反[※しにかへり]の玉一つ、足玉[※たるたま]一つ、道反[※みちがへし]の玉一つ、蛇比礼[※へみのひれ]一つ、蜂比礼[※はちのひれ]一、品の物の比礼[※くさぐさのもののひれ]一つ、これなり。此みことはやく神さり給にけり。凡そ国の主とてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだり給ふべかりし時、天照太神三種の神器を伝へ給ふ。のちに又瓊々杵尊にも授けましまししに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし(原註。此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず)。天照太神、吾勝尊は天上に止り給へど、地神の第一、二にかぞへたてまつる。其始め天の下の主たるべしとてうまれ給しゆゑにや。
第三代、天津彦々火瓊々杵の尊[※あまつひこひこほににぎのみこと]。天孫[※あめみま]とも皇孫[※すめみま]とも申。皇祖[※すめみおや]天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみましましき。葦原の中州の主として天降し給はんとす。こゝに其国邪神あれてたやすく下り給ことかたかりければ、天稚彦[※あめわかひこ]と云ふ神をくだしてみせしめ給しに、大汝の神[※おほなむちのかみ]の女、下照姫[※したてるひめ]にとつぎて、返りこと申さず。みとせになりぬ。よりて名なし雉[※きぎし]をつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦新嘗してふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主の命[※ふつぬしのみこと](原註。檝取[※かとり]の神にます)武甕槌の神[たけみかづちのかみ](原註。鹿嶋かしまの神にます)みことのりをうけてくだりましけり。出雲の国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の勅りをつげしらしむ。その子都波八重事代主の神[※つみはやへことしろぬしのかみ](原註。今葛木[※かづらき]の鴨にます)あひともに従したがい申す。又次の子健御名方刀美の神[たけみなかたとみのかみ(原註。今陬方[※すは]の神にます)したがはずして遁げ給しを、すはの湖みづうみまでおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろもろの悪しき神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて返りこと申し給ふ。大物主の神(原註。大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給ふと見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし)、事代主の神、相共に八十萬神[※やそよろづのかみ]をひきゐて、天にまうづ。太神ことにほめ給き。「宜よろしく八十萬の神を領りやうじて皇孫をまぼりまつれ。」とて、先づかへしくだし給ひけり。其後、天照太神、高皇産霊尊相計らひて皇孫をくだし給ふ。八百萬神[※やほよろづのかみ]、勅りを承けたまはりて御供につかうまつる。諸神の上首[※じやうしゆ]三十二神あり。其中に五部神[いつとものをのかみ]と云ふは、天児屋の命[※あまのこやねのみこと](原註。中臣の祖[※おや])、天太玉の命[※ふとたまのみこと](原註。忌部の祖)、天鈿女の命[※あまのうづめのみこと](猨女[※さるめ]の祖)、石凝姥の命[※いしこりどめのみこと](原註。鏡作[※つくり]の祖)、玉屋の命[※たまのやのみこと](原註。玉作[※たまつくり]の祖)也。此中にも中臣・忌部の二はしらの神はむねと神勅をうけて皇孫をたすけまぼり給ふ。又三種[※みくさ]の神寶[※かむたから]をさづけまします。先づあらかじめ、皇孫に勅りして曰く、「葦原千五百秋之瑞穂国[※あしはらのちいほあきのみづほのくに]は是吾子孫[※わがうみのこ]の可主之[※きみたるべき]地也。宜爾皇孫就而治[※いましすめみまついてしらすべし]焉。行給矣[※さきくゆきたまへ]。宝祚之隆[※あまつひつぎのさかえ]まさむこと当与天壌無窮者矣[※まさにあめつちときはまりなかるべし]。」又太神御手に宝鏡をもち給たまひ、皇孫にさづけ祝きて、「吾児視此宝鏡[※わがここのたからのかがみをみること]当猶視吾[※まさになをしわれをみるがごとくすべし]。可与同床共殿以為斎鏡ともにゆかをおなじくしみあらかをひとつにしていはひのかがみとすべし」。」との給ふ。八坂瓊の曲玉、天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡の如くに分明なるをもて、天の下に照臨[※せうりん]し給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙[※たくみなるわざ]をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順[※まつろはざる]ものをたひらげ給たまへ。」と勅りましけるとぞ。
此国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅りにみえたり。三種の神器世に伝ふること、日月星の天にあるにおなじ。鏡は日の体也。玉は月の精也。剣は星の気也。ふかき習あるべきにや。抑[※そもそも]、彼の宝鏡はさきにしるし侍る石凝姥の命の作り給へりし八咫の御鏡(原註。八咫[※咫ハ長サノ単位ニシテあた乃至さか乃至し。]に口伝あり)、(裏書に云ふ。咫、説文云ふ。中婦人の手長の八寸は謂之咫[※是を咫と謂ふ。]。周尺也。但し、今の八咫の鏡の事は別に口伝あり。)玉は八坂瓊の曲玉、々屋の命(原註。天明あめのあかる玉とも云)作つくり給へるなり(八坂にも口伝あり)。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられし叢雲[※むらくも]の剣也。此三種につきたる神勅は正しく国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはへず。私の心なくして、万象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵ちゑの本源也。此三徳を翕受[※あはせうけ]ずしては、天の下のをさまらんことまことにかたかるべし。神勅あきらかにして、詞[※ことば]つゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。中にも鏡を本もととし、宗廟[※そうべう]の正体とあふがれ給ふ。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正しく御影をうつし給ひしかば、ふかき御心をとゞめ給ひけんかし。天にある物、日月よりあきらかなるはなし。仍[※より]て文字を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日の霊[※みたま]にましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕[※みやうけん]につきてたのみあり。君も臣も神明の光胤をうけ、或はまさしく勅りをうけし神達の苗裔[※べうえい]也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理をさとり、其道にたがはずは、内外典[※ないげてん]の学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云ひつべし。魚をうることは網あみの一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より、釈教をさかりにし給し、是皆権化の神聖[※かみ]にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。かくて此瓊々杵の尊、天降りましゝに猨田彦[※さるだびこ]と云ふ神まゐりあひき(原註。これはちまたの神也)。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神行きあひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「筑紫の日向の高千穂の槵触[※くしふる]の峯にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」と申す。彼神の申しのまゝに、槵触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、事勝[※ことかつ]、国勝[※くにかつ]と云ふ神(原註。これも伊弉諾尊の御子、又は塩土の翁[※しほつちのおきな]と云ふ。まいりて、「わがゐたる吾田の長狭の御崎[※あたのながさのみさき]なんよろしかるべし。」と申しければ、その所にすませ給ひけり。こゝに山の神大山祇[※おほやまつみ]、二りの女あり。姉を磐長姫[※いわながひめ]と云ふ(原註。これ磐石[※ばんじやく]の神なり)、妹を木花開耶姫[※このはなのさくやひめ]と云ふ(これは花木の神なり)。二人をめしみ給ふ。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとを止め給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子は木この花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめゝされて一夜ひとよにはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちて無戸室[※うつむろ]をつくりてこもりゐて、みづから火をはなちしに、三人[※みたり]の御子生給ふ。ほのほのおこりける時、生れますを火闌降の命[※ほのすせりのみこと]と云ふ。火のさかりなりしに生ますを火明の命[ほあかりのみこと]と云ふ。後に生ますを火火出見の尊[※ほほでみのみこと]と申す。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神悦びましましけり。此尊天の下を治め給ふ事三十万八千五百三十三年と云へり。自是[※これより]さき、天上にとゞまります神達の御事は年序はかりがたきにや。天地わかれしより以来[※このかた]のこと、いくとせをへたりと云ふこともみえたる文なし。抑、天竺の説に、人寿[※にんじゆ無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて]百二十歳の時(原註。或百才とも)釈迦仏出で給ふと云へる、此仏出世は鸕鶿草葺不合の尊[※うがやふきあへずのみこと]のすゑざまの事なれば(原註。神武天皇元年辛酉[※かのととり]、仏滅の後二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也)、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊の初めつかたは迦葉仏[※かせふぶつ]の出いで給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出で給ひけりとぞ。》
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