小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説24 断章④ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的ま描写があります。
御了承の上お読み進め下さい。
唇をジャンシタ=悠美の耳元から遠ざけて、屈めた上半身を伸ばした瞬間に、眼差しにふれるのは窓越しの光。
正午。昼休みの教室。
同級生の話し声が散乱する。そのうちの半分は、ハオたちの計画を知ってる。ハオは知っている。いくつもの、それぞれの眼差しのなかで、いくつもの、それぞれに固有な時間が流れて、同じハオとジャンシタ=悠美の姿を構築している。
複数の彼と彼女は、もはや無際限なまでにそれぞれに固有のときの中で、明らかに存在し、そして、ほんの数時間後には、教室のクラスメートの殆どすべてが、彼等の計画を知ることになるに違いない。恵美子が言いふらすに決まっているから。そして、さまざまなそれぞれの口がさまざまなそれぞれの耳に、耳打ちするにきまっているから、そして、光。
窓越しの陽光が眼差しに触れた。…ん。
と。
不意に、ジャンシタ=悠美の鼻が、そんな音を立てた。
あるいは、彼女は自分の鼻が立てた音を恥じらいさえして、血。
流れる。
そこに。
自分の眼差しの反対側の向うに、しずかに血が流れていることは見出せていた。
ハオにも。
色彩のない彼が、自分自身だと言うことには気付いている。彼は血を流す。あまりにもそのでたらめな形態。
見たこともない、形態という概念自体が破綻した惨状。…ほら。
流れる。
音もなく。
…なにが?
なにが、流れるの、…と。
何が?
あるいは、私の涙が、と。
私は、11歳のタオの涙を拭う。
指先で。
暴力。
気が付けば、私はタオを殴っていた。
ふたつめの居間の真ん中に、大股を広げて倒れ臥した、仰向けのタオを見詰めた。
殴ったのは、確かに私だった。
私にふれようとした。
タオは。その瞬間に、私の頭の中が白熱した。
彼女を殺す気はなかった。
彼女の顔は、もはや原型をとどめなかった。
すべてが、無様だった。
女は。
ミーの女。
彼女の死体が、居間の壁際に、転がっていた。
殺した。
私が。
仕方がなかった。
すでにもう、殺して仕舞ったから。
仕方がなかった。私は微笑んでやる以外には。ジャンシタ=悠美の、ハオを見詰める眼差しが、余りに純粋だったから。
ハオは、ただ、彼女に優しく微笑みかけて、「話し、…あるの。」
つぶやく。
ハオの声の、その音色に耳が蹂躙されるままに、ジャンシタ=は悠美はまかせた。
…なに?
「お前に、…」
…ん。
「…話。」
…ん、
「…ね?」
…ん。
「…いい?」
…ん。ジャンシタ=悠美の眼差しは何が起ろうとしていたのか、理解できていなかった。
ジャンシタ=悠美だって、と。
何が起るのかすでにわかっていたはずだった。茂史たちにされたと同じ事が、ふたたび、同じように起きようとしていることなど。いわば《クラス・カースト》を異にするハオが、彼女にやさしくささやきかけた事など、あの一度しかなかったのだから。
授業が終った放課後に、席を立とうとはしないハオを、見返しもしないままに確認して、そして、彼に付き合って自分も席に着いたまま用もなく時間を潰しながら、ジャンシタ=悠美は、そして同級生たちはまばらに帰っていく。彼女は待っていた。何が起るかわからないままに、起るべくして起るに違いない事件の始まりを、逃げ出すことも考えることなく、かならずしも受け入れてすでに容認していたわけでもなく。それでも、ハオと、彼を取り巻いてその席の周囲に群がった6人の少年たちは帰ろうとはしない。それは、ジャンシタ=悠美には不穏で、理解不能な振る舞いに想えた。
ハオがむしろ、彼等を帰えそうとはしない。ジャンシタ=悠美は、ハオを疑っていたわけではなかった。むしろ、ハオの言葉を耳にした自分自身にわずかな懐疑を感じていた。
貴之と、と庄司弘と、そして恵美子と原田郁美子。彼等と彼女たちの集団が自分の眼差しから、群がられたハオを覆い隠していた。
ジャンシタ=悠美はハオを見ようとしていたわけではなかった。時間を潰すためだけに、彼女はノートの最後のページにとりあえずは図形を書いた。
単に、暇つぶしに彼女が書く図形、ペンローズ図形、カニッツァの三角形を無数に並べた図形、ミュンスターバーグ図形、その他、知っている限りの図形の群れ。あるいは、それらの複用。
弘が、彼等とジャンシタ=悠美以外にだれもいなくなった教室の中で、不意に、声を立てて笑った。
黒板の横の時計は、4時半を過ぎていた。
郁美のなんにでも無造作に同意するような声は、いつ聴いても耳に心地よい。
部活動の声が、窓ガラスの外に聴こえた。吹奏楽部、あるいは、合唱部の音と、声。
遠くに、こもって聴こえたそれら。…ね。
と、「なんで、頭、おかしくなっちゃったの?」
不意に、振り向き様の貴之がそう言ったとき、恵美子は終に噴き出して笑って仕舞った。…なんで?
と。ジャンシタ=悠美は
「すっごく、俺。」
想った。あなたは、どうして
「聴きたいんだけど、…さ。」
わたしの許可もなく私を見つめるのだろう?いつも
「ね?…お前、」
いまも、ただ、さまざまなそれぞれの
「ちゃんと、俺らの言葉、理解できてるの?」
さまざまな眼差しのうちに、わたしを、…と。
「だってさ、…あたま、おかしいんでしょ?…なんか、いやじゃない?変にさ、勘違いされてたらさ、…やっぱ、それ、犯罪的に嫌だからさ。」言った弘の言葉に貴之が立てた笑い声を、ハオはかならずしも聴いていたわけでもない。…ないない。
ハオはつぶやく。…ないって。
「…ないない。」
「なに?」
「なにも、理解なんかしてないって。」哄笑をだけ、素直に浮かべたハオの眼差しは、ジャンシタ=悠美を見ているわけでもなく、正面の席に背を捩ってハオを見ていた、貴之をだけ、しずかに見遣っていた。「…だって、」
…お前、宇宙人だろ?
その、ハオの言葉は、まるで貴之に対してささやかれた言葉であるかのような、そんな錯覚を恵美子はした。
ジャンシタ=悠美は、図形の上に鉛筆を置いた。
ノートの描いたかすかな傾きに、鉛筆が数回だけ転がった。…わかる?
ハオのその、貴之を見詰めたままのつぶやきを、ジャンシタ=悠美はノートの上に眼差しを落としたままに耳にした。「俺の、ことば、聴こえてる?」
どんな風に聴こえてるの?
…声。
ただ、やさしく、いつくしみ、慮って憚るような、そんな、耳にふれて消えていくだけの声。「お前の、…」
ね。…
「ぐっちゃぐちゃの頭の中だと、…」
さ。
「俺の声って、…」
ほら、…
「ね。どんなふうに聴こえてるの?」
…叫んでる?
やがて
…わめいてる?
ようやくハオの方にその
…爆笑状態とか。
わずかに細められた眼差しを向けた
…罅割れてる?
彼女の
…反響してる?
そこ。その
…ぐっちゃぐちゃ?
視界の中、
…籠ってる?
そこに、彼。
…ざらついてる?
見い出された、数人の少年たちの制服と肉体の向こう、
…金属音、…見たいな?
そこに
…ささやき声とか?
存在していたのは確かに、彼。
…ハウリング起こした感じ?
そこに、あなたは、
…ノイジーなの。
…と。あなたは、いたのね?
…フィードバックノイズ的な。
そこに。…そう想う。彼女は、そこに
…超前衛的な?
ずっと、あなたは
…なんか、複眼的な感覚みたいな?
いたのね、…と、彼。その
…水の中にいる感じ?
眼差しを相変らず彼の正面に身を捩った
…聴き取れてても、なんにもわかんないとか。
痩せて小柄貧相な少年にだけ向けた
…どんどん、意味が分裂していくとかね。
彼。あるいは、その姿は
…それとか、…さ。
ジャンシター=悠美をただ
…言葉が言葉を喰っちゃうとかさ。
安心させた。留保なく、…もう
…むしゃむしゃむしゃむしゃ
大丈夫。なにも
…音響がよじれすぎてまっすぐになっちゃったり
心配なんかない。…と、なぜなら、
…言葉がお互いのしっぽ結んで
あなたが
…ひっくり返ってそりかえってさ
そこに、…彼。あなたが、そこに
…脳みそ流れ出す感じ?
いてくれているのだから。「…あー…」
ジャンシタ=悠美の目と鼻の先に顔を接近させた弘が、彼女の眼の前に言った。あー…と。
その音。それを、彼らは聞いていて、そしてそれぞれの口からそれぞれの笑い声を立てるが、…だめだよ。
「やっぱ。こいつ、完全に**てるもん。」故意に絶望的な声を立てて戯れたのは弘だった。
あー…と、そして。
あるいは、「いー…」聴く。
彼女は眼の前に付きつけられた横に広げられた唇のふるわせる空気の音響を、そして、眼差し。
ジャンシタ=悠美は、その音響に桃色の色彩を感じた。
後ろから、貴之がジャンシタ=悠美の即頭部を殴ったとき、恵美子がわざとではない悲鳴を上げた。
ジャンシタ=悠美の耳に、濁音のんの音響が、自分の頭の中でだけ一瞬、短くなっていた事が気付かれたときには、彼女の体はすでに隣の机と椅子をなぎ倒して床の上にあお向けていた。郁美は息を飲んで、いま、眼の前に起っていることの意味を探っていた。不意に、弘は、自分が加害者になって仕舞った事実を認識していた。あるいは、自分が加害者として選ばれたとしか想えなかった。後頭部に痛みがあった。
ジャンシタ=悠美の後頭部にだけ。
音響はすでに空間には存在しなかった。あれら、机と机が、椅子と椅子が、あるいはそれらをなぎ倒した有機体が無様に立てた騒音の、一瞬だけの群れの束なりは、…なんて、と。
ジャンシタ=悠美は想った。…はかないんだろう?
やれ、…と、ハオは決して口にしなかった。ただ、いたずらじみた眼差しを正面の貴之の背中に投げていただけだった。かならずしも、ハオが自分を見つめているわけではないことには、すでに気付いていた彼は、振り返り見た一瞬に、戸惑うでもなく、羞じるでもなくただ、女の体付きをした眼の前の美しい夢のような男の眼差しが、自分をだけ見つめるのを一つの特権として赦した。…いいよ。
見て。
つぶやく。恵美子は、
なにも、見てはいないままに。
不意に、…や。
…ね。…や。
「なんか、…や。」
…なに、やなの?と、その、傍らの貴之の声に、…てか。
「や。」
貴之が、いきなりジャンシター悠美の後頭部を
「なに?」
リフティングの要領で蹴り上げたので、その
「なんか、や。」
悪戯じみた彼の眼差しを恵美子は
「なにが?」
声を立てて笑ってやった。…いいよ。
「こいつら。…」
あんた、なんか、いいね。
「…や」あるいは、恵美子の眼差しの中で、髪の毛を引っつかまれたジャンシタ=悠美の上半身は、むしろ覆い被さった弘に体を押し付けようとしたかのようにのけぞって、なぜか自分の眼だけを、押さえつけた両手のひらの下に守っていた。…見えるの。
…なにが、…と。ジャンシタ=悠美はつぶやいていた。
ただ、頭の中でだけ、…なにが?
と。…見えるの?
「あまりにも悲しすぎるすでに絶滅した生きたままの徒刑囚の群れの流されることさえもない本来流されるべきだった滂沱の涙が。」
その、ジャンシタ=悠美の頭の中につぶやかれた自分の声を、彼女は喉の奥にだけ声を立てて笑った。…茶番だぜ。
ハオが不意に言うのを、貴之は聴いた。彼の、「…こういうの、茶番っていうんじゃない?」貴之を見詰めたままに、さっきから自分をは見ようとしない「…くそだね。…もう、なにも。」ハオの「…だれも、」眼差しに、とはいえ「さ、…」彼がそれらの言葉を「本気じゃない。ただの茶番。」ハオが「ただの、…」明らかに自分に耳打ちしているのだと錯覚していたのは事実だった。(以下中断)
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