小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説24 断章③ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進めください。
断章 2
ハオは、血まみれのタオを懐かしく見い出した。ジャンシター=悠美もそんな眼差しを浮かべた。
その一瞬、教室の中、授業中に不意に立ちあがった十四歳のジャンシタ=悠美が机を叩いた。それが、余りにも暴力的な意志を持った仕草だったので、数学の教師は黒板の前に立ちつくすしかなかった。
一瞬我を忘れて、その我を忘れた時間を凍りつかせた彼は犠牲者だった。たまに、ひさしぶりに中学に姿を顕せば、気の狂ったその少女は気が狂ったままに、気違い沙汰を彼女固有の論理に従ってその周囲に実現して仕舞うしかない。教師のおののいた眼差しが、一瞬だけハオの眼にふれた。
彼は確認した。まだ、自分は狂っていなかった。狂っているとは、すくなくとも100%の精度では言いきれなかった。
ジャンシタ=悠美の…あ、のかたちにみずからこじ開けられていた大口がいきなり閉じられると、堅く閉ざされた頬の皮膚の向うに顎が不穏な動きをした。多かれ少なかれ、誰も彼もが彼女がいま、なにをして仕舞ったのかは、気付いていた。
彼女は血を吐いた。不意に…あ、のかたちに大きく開いた口から血を吐き棄てて、そして血は止まらない。咬み千切りきる事までは出来なかった舌が、未練たらしげに引き裂かれた表皮からおびただしい血を流し出す。水道の蛇口を想いきりひねったようだと想う。
ハオは。彼はそう想った。そして、耳が聴いていたことに気付いた。自分の口がわめき散らしているのを。
あくまでも、人間の言葉を。
教室の中は騒然としていた。…馬鹿?
ハオは想っていた。慌てふためいて、大声を立てて罵りあげる声。
自分たちの声。探せば、その声の群れ…叫喚?
音響。あるいは怒号じみた人声のわななく爆発音。それらの群れの中に、…馬鹿だろ?
お前ら、みんな。
在るに違いない。自分がわめき散らしている声。…悲鳴?それも。想う。お前等、なに、騒いでんの?
馬鹿?
ハオは見ていた。自分を見含めただれもが、自分の血に塗れたジャンシタ=悠美の周囲に、自分たちがそれぞれに容認するそれぞれの安全圏を確保して彼女を取り巻いたのを、…なんだよ。
ただの***が舌、咬み切ろうとしただけじゃん。
恐怖と言う感情の意味を、ハオはようやくにして知った気がした。眼の前の、…なんでもねぇじゃん。
ただの、…それ。
眼の前に息付いているあまりにも異質な、断りもなくどこか違う世界をこじ開けて仕舞った異形の存在は、ただ、…気違いだろ?
無害な、ただの***じゃん。
怖かった。あまりにも鮮烈に、…シカトしちゃえよ。こんな馬鹿。ほうっときゃ、…と。
ハオの頭の中で彼自身がささやいている。
自分で勝手に死んでくよ。…こんな、…
鳥肌立つ。
壊れた**、…肌が、赤裸々な恐怖に。ハオは、自分の鳥肌に塗れた冷たい皮膚が、好き放題におののいているのを実感していた。失心していた。
ジャンシタ=悠美は。
すでに。
不意に、ある、奇妙な白濁した、色彩のない一瞬があったのだった。そんな一瞬が、瞬く間もない刹那に、あきらかに明滅した、その事実を後れて知覚しようとした瞬間には、ジャンシタ=悠美はその場に仰向けに倒れ臥していた。
彼等の耳はみんな、背中を反り返らせた一瞬に、ひっくり返るジャンシタ=悠美が机の端に後頭部を強打した騒音を、すでに聴き取っていたはずだった。…穢れなさいって。
ジャンシタ=悠美は救急車に連れて行かれた。…体中。
ね。…穢れなさいって。
担任の教師が付き添った。それは、彼が臨む望まないにかかわらず、彼の単なる職務だった。ハオは、…魂の底まで、もう…。
んー…
完全に、…ね?
救急車に担ぎ込まれる担架の上のジャンシター悠美が胸元に両腕を押し付けて、助けて、と。…穢れなさいって。
もう、空のほうなど二度と見上げる資格などないことを、完全に自覚して舞えるほどに。
短い失心から醒めた彼女のおびえる眼差しが、彼女の救済を訴えかけていることを見い出していた。ハオの眼差しは、…穢れてあげなさい。穢れすぎて…って。
…助けて。ジャンシタ=悠美。彼女の眼差しは、明らかに駆け寄り、取り囲み、舌の痛みに言葉さえ発せられない自分に矢継ぎ早に話しかける救急隊からの救助を、その眼にふれるもののすべてに乱雑に、…もう、穢れることさえできはしない人々。
穢れすぎて、それ以上にもう穢れることさえできはしない人々。
そんな無数の人々のために、あなたはこそは。
訴えていた。…助けて。私を。…と。…穢れなさい。
…って。
彼等を救済するために、彼等の代わりにあなた自身が取り返しもつかないほどに、穢れなさい、って、そう…
「おっしゃったの。…」
言った。退院したジャンシタ=悠美を、その前日、放課後の教室の中で、真鍋貴之たちに強姦させたときに。
二人の男たちの事の次第をその体に受け入れた後で、茫然とした眼差しを彼女は曝して、…ね。
「聖母様がね、」
「お前、」
「そう言ったの。」
「頭、狂ったろ?」
ハオは、そっと彼女に耳打ちした。
それは、たんなる冗談だった。…あの子、頭おかしいから、…と。三度目のリスト・カットから退院してきたジャンシタ=悠美が、休憩時間にトイレに立つ後姿に目線を投げながら、下村悠太が言った。「***っても、犯罪じゃないよね。」
…何でだよ。
言って笑った貴之の眼差しには意図的におどけた気配が、けばけばしく生起していた。「だってさ。…」
「犯罪だろ、お前。」…あいつ、もう人間やめちゃったじゃん。
ハオが声を立てて笑ったのを、悠太は耳の至近距離に聞いた。「だって、人間にさ。人間としてやっちゃいけないことやるから犯罪なんじゃん?人間やめたやつになにやっても、人間としてむしろ普通じゃない?」
「お前、…」と。
ハオは耳打ちする。…おれのおっぱいだけじゃ我慢できないの?哄笑。そして、悠太が一瞬、恥辱を感じそうになった瞬間に、吉沢恵美子がささやいた。…いいよ。
「***えば?」
邪気もなく、悠太の傍らに立って、恵美子は笑っていた。…ねぇ。
「ね、ね、ね、」
わたしもみてみたい。…あの子、…「どんな顔して***ちゃうの?」…ね?
「いい?」恵美子の声。…いいかな?
「***って、いいかな。」眼差しが、ハオを見詰めていた。…ね?
「いいんじゃん。…」別に、…「動物屠殺しても、かならずしも犯罪じゃないよね。」ハオは、声を立てて笑った。後悔処刑、と、茂史はそう呼んだ。…ねぇ。
あの。…
ね、…
ん、
…と。
さ。…
んー…
「…と、いうか、…」
ね、…
「あの、…」…さ。
ね?…今日、ちょっといい?
…と。
そう、ジャンシタ=悠美に耳打ちするのはハオの役目だった。なぜなら、彼女がハオを愛していたことには、だれもが気付いていたから。
眼差し。ときに、彼女がひそかに彼に差し向けた眼差しは、間違いなく、惚れた女の眼だ、と、そう恵美子は言った。…確かに、と、気付く。
ハオは、彼女が自分にそう自虐的な哄笑を眼差しに曝してつぶやいた瞬間に、ジャンシタ=悠美がハオを愛していることを、そして、恵美子がジャンシタ=悠美と同じようにハオに焦がれていることに、ハオは気付かざるを獲ない。汚らしい、…と。
家畜ども。ハオは、眼に映る、自虐的な眼差しのうちに、何とかしてハオに気づかれないままに自分の想いを伝えようと画策した、倒錯的で純情な恵美子の眼差しを軽蔑し、その軽蔑を彼女には決して曝しはしないように繊細な注意を持って、やさしい微笑をくれてやった。
「…え?」
と、自分の耳元に不意にささやかれた、ためらいがちなハオの、ただ、ひたすらやさしく臆病な、ふれれば壊れて仕舞いそうな声に、ジャンシタ=悠美は眼を細めた。
彼女は、眼差しのうちに耳を澄まし、耳の中で凝視する。
彼を。ハオ。…美しい男。
彼が、普通の人間ではないことは知っていた。彼の肉体の異形を、ハオは隠そうともしなかった。奇形…と。
あるいは、異常。
もしくは、出来損ない、とでも。そう言ってしまえば素直に納得できるのかも知れない。恵美子は、ハオの姿が眼差しにふれ、あるいは想いの中に、彼の姿が現れるたびに、そう想った。男のくせに、女の体をも持っている男。なめらかな首筋。美しい鎖骨と、胸の膨らみ、曲線のしなやかさ、そして、荒々しい下半身の筋肉。
身のこなしさえもが、男の筋肉を背景にしなければ不可能な柔軟さを持って、女のように繊細だった。あるいは、現実の女の身のこなしの無様な鈍重さに比べれば、あるいは、あるべき女性らしさを、人間種として出来損ないのハオの肉体は奇跡的に実現し獲ていたのかもしれなかった。焦がれる。ジャンシタ=悠美は、その眼差しのうちに、自分が彼に焦がれていることを否定しきれないままに、…好き?
なの?…と、恵美子はときに自分の気持ちを疑うのだが、倒錯的な感情。
なのだろうか、と、恵美子は自分の、彼に焦がれる自分の気持ちを根拠を、なぜ、…それはジャンシタ=悠美にはわからない。自分が、どうしてハオに焦がれるのか、彼に、愛されたいと、自分が実は、ずっと想っていたことには恵美子は気付いている。…そう。
好きなの。
あなたの事が、…と、不意に眼差しが認めたハオの背中に恵美子は頭の中でだけあまりにも鮮明に独り語散ながら、それは、不可能ではないのか。
ジャンシタ=悠美は、そう想った。
自分のようなものが、ハオを、愛することの権利を持とうとする事は。
ジャンシタ=悠美は彼女の主の御姿を、本当にその眼差しに見た。
ジャンシタ=悠美にとって、彼女の信仰は信仰ではなかった。彼は、神など信じてはいなかった。それが眼の前に存在しているとき、信仰など不可能だった。ただ、知ることしかできはしない。受け入れることしか。
それが存在する事実を、赦すことしか。
八歳のとき、ジャンシタ=悠美はその御姿を見た。
その人は泣いていた。涙など、流してさえいなかった。むしろ、眼差しの中には、なにも存在してはいなかった。ただ、そこに、その方はいた。
そして、ただ、歎かれていた。
すべてのもの。
あらゆるものが、ただ、悲しかった。ジャンシタ=悠美は、叫び声を聞いた。あらゆる物質は、乃至事象のすべては、無際限な叫び声に他ならなかった。それは容赦もない絶望で、そして、あまりにもかけがえもなく、美しかった。彼女は赦した。この世界が、まさにここに存在していることのすべてを。「…いいよ。」
つぶやいたジャンシタ=悠美の眼差しが、ややあって自分を見上げ、そして、かすかに歎きの色彩に染まるのを、ハオは見た。
家畜。
想う。…豚。
俺を愛するしかない、下等な**。
何の価値もない。
何の尊厳もない。
**以下の機械。
ロボット以下の無様な有機物の条件反射の結果的存在。
出来損ないの粗悪品。…好き、と。
言葉もなく、ジャンシタ=悠美の眼差しはあまりにも純粋な、心の研ぎ澄まされた気配を曝して、高貴さ。
彼女は、まさに、気高く至純の存在だった。愛している、と、そんな自己正当化を受け付ける暇さえもなく、…好き。
短いその、無意味な言葉と共に、燃え尽きて仕舞おうとする。…家畜ども、と。
ハオは自虐的な痛ましさと共に、彼女の眼差しを見た。ジャンシタ=悠美のそのあまりにも高貴な眼差しを、俺を愛するしかない下等な細胞の集合体。聴こえた。
唇をジャンシタ=悠美の耳元から遠ざけて、屈めた上半身を伸ばした瞬間に、眼差しにふれるのは窓越しの光。
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