小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説23 断章② ブログ版





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上お読み進め下さい。





こないの?

と、その耳元に語りかける気配を、ハオはその伏せた眼差しの中に感じていた。

肌に、日光の温度があって、とっくにハオの皮膚は汗ばんでいた。彼の豊かな胸の膨らみに、隆起と陥没を撫ぜながら淡いかげりはきざまれた。

皮膚はほとんど日に灼けてはいなかった。一週間のほとんどに空は曇り、そして雪を降らしていたのだから。ハオは、歩き出すタオに従って、眼差しは周囲に散乱した雪の、日差しに瓦解した固まった残骸の群れをなぞった。

タオに従って通りに出た。

人翳はなく、その気配もない。通り過ぎるバイクもなく、空は無慈悲なまでに青い。

このまま、人類が消滅して行く事は隠しようもなかった。手入のされない街路樹が無造作にその巨体を剝き出しにして、すでにアスファルトを食い破った植物がしずかにその細く強靭な枝を曝し始めていた。草は繁殖して、むき出された地面のいたるところを埋めた。彼等は、ただひたすらに繁殖し続けていた。

アスファルトを、空を飛んでいるのかもしれない鳥の影が、疾走して行った。羽音は聴こえない。不意に見あげたハオの眼差しの中に、鳥はすでに存在していない。…どこへ?

と。

どこへ行きたいの?…君は。

その、発話されなかった言葉にタオは何の反応の示さずに、とはいえ、喩え口に出してささやかれたとしても、タオが振り向きもしないだろうことは明白だった。ハオはただ、唇を沈黙させていた。

やわらかい風がタオの、腰の近くにまで伸ばされた髪の毛をかすかに揺らめかせて、その髪の毛の揺らぎは、それが肌の感じているに違いないあてどもない触感を、ハオの眼差しに暗示させた。

フエの家はドランゴン・ブリッジのすぐ近くにあった。かつての観光名所だった。終末に人だかりのできる、龍のかたちを鉄骨でなぞったその橋を通り過ぎるバイクなどもはや一台もなかった。かつてここに住んでいた人々を、いつかハオは自分自身が一人ずつ殺していったような、そんな錯覚にとらわれた。タオは素足のままだった。

その足の裏は、所どころにひび割れを生じさせ始めたアスファルトに直射した、日光の温度をいやと言うほど感じているはずだった。

タオの素肌を剥き出しにしたままの身体に、街路樹の木陰がまだらな翳りでつつんだ。静寂と言えばそうに違いない。

静寂といわれるべき空間の中の、さまざまなこまかな物音が、ハオの耳に最弱音でふれて、静寂をだけ描いた。

不意に、ハオは耳を澄ました。

タオは、主幹道路をまっすぐ、斜めにあるいて、もはや直射する日光からの日よけも何もない空間に、いよいよその真っ白い肌は冴えた。だれか、…と。

誰か俺の肌を見たならば、同じように冴えた色彩を、彼は見出すに違いない、と。ハオはそう想った。

何を見ても、そこに在るのはあきらかな崩壊期の風景だった。微生物や、ヴィルスや。いずれにしてもおびただしい数の生命体を無造作に繁殖させているに違いないその風景の中で、ハオの眼差しはいかなる生き物の気配も感じ取りはしなかった。

タオは、ドラゴン・ブリッジの螺旋階段を登った。螺旋に添ってでたらめに作られた複雑な翳をくぐりながら、ハオの眼差しは翳りと直射との無残なまでの交代に、そのつど軽い目舞いさえ感じないではいられなかった。

橋の上、見上げれば鉄骨は隠しようもなくそれの痛みを曝して、見晴るかされる町の風景は、ことごとくがすさんでいた。

凄まじい、生命にあふれた風景。

いまだに倒壊はしないままに、その無人の姿を曝したいくつかの高層ビルと、低層びるが織り成した町の風景は、いまや無人の、誰もいないのだという気配をだけ鮮明に曝しながら、しずかに樹木を繁殖させ始めていた。豊かな自然、…と。

そう呼んでやるほかない緑の風景が、もうすこしで此の町をも飲み込んで仕舞うに違いなかった。確かに、それはあまりにも強靭な命に満ち溢れた世界に他ならなかった。

もはや、植物の繁殖を制限するものなどないもなく、彼等は彼等の倫理と、法則と、必然において、かつて自分たちが追放され囲い込まれていた土地に、好き放題にそれぞれの領域を確保し始めていた。開放、と。

滅ぼしたのではない。俺は解放したのだ、と。ハオは、改めてそう想った。滅ぼしたのは、哺乳類たちのいくつかに過ぎない。ささやかな事象にすぎない。極端に言えば、人類だけなのに違いない。事実、猫も、犬も、牛も、豚も、野生の生き物として崩壊した都市空間の中に彼等の繁殖を極めていた。そして、ハオの眼差しの前に、滅びをさえ感じさせないあまりにも豊かで、色づいた女が、彼を誘惑する意図もなくその後姿に煽情の罠をかけて、あるいは、見事な肢体を曝していた。

女は美しかった。盛りの、というべき容赦もないなまめかしさを、かならずしも彼女が愛しているわけでもないはずの男に向けてだけ、見せ付けていた。タオが立ち止まったとき、それは橋の上に吹いた突風のせいだった。

いきなり吹き荒れた細い突風がタオの髪の毛を舞い上げて、乱し、立ちすくんだタオの両手は彼女自身の顔を覆った。

泣き出したのだ、と、ハオは想った。立ち止まって肩を落とし、背を向けたままにうつむいていた、顔を覆った彼女は、ハオにはそうとしか思えなかった。

たとえそれが錯覚に過ぎなかったにしても。眼に入ったこまかな埃りが一瞬、彼女の視神経に痛みをちいさな痛みを与えていたに過ぎなかったとしても。そして、其れだけが事実だったとしても。タオは泣いていた。眼差しは、彼女のしずかな声もない号泣をハオに訴えた。ハオの眼差しは、その錯覚された号泣を見い出し、見詰めるしかなかった。…美しい女。

生き生きとした、自分の肉体を誇るよりほかない美しい女が、いま、そのあまりにも色づいた肉体を曝して、ハオの眼差しの中で、不意に蹂躙された容赦のない悲しみに押しつぶされていた。悲劇、と。

ハオはそう想った。確かに、それは悲劇そのものだった。

立ち止まった女の後姿に、立ち止まらなかったハオの身体は追いつかざるを獲なかった。至近距離に、そしてやわらかい風に煽られたタオの髪の毛がおびただしく匂って、ハオはそれを嗅いでやった。

あくまでも、いま、自分がその匂いを嗅いでいる事は彼女に内緒にしたままで。

橋のちょうど中央近く、かならずしも近いわけでもない距離を歩いたハオの身体は、もはや完全に汗に濡れていて、光の温度。

妥協のないそれ。

橋の、アスファルトの上にはもはや雪解けの残骸さえもない。溶けきったそれらは熱帯の温度と光の中にわずかな濡れた黒ずみだけをところどころに残し、完全に消滅していたのだった。

自分の胸が、彼女の背中にふれて仕舞いそうになった瞬間に、その接近の気配を察知したかのように、タオは前触れもなく振り向いて、…すき?

言った。

Yêu không ?

…なにが?

と。

問い返すまでもなく、「わたしが、すきですか?」と。

そう言ったに違いない事は、ハオは知っていた。

嘘をつく気にもならず、本当のことを言う気にもならなかった。眼の前にいる女を、愛しているはずもなかった。…お前もだろ?

ハオは頭の中でだけ独り語散ようとし、いずれにして、ハオはなにも答えなかった。

顔を覆ったままのタオは、そのうつむいた顔を上げようともせずに、あまりにも近い至近距離の接近のせいで、ハオは彼女をやさしく抱き締めてやるしかなかった。タオはそれに抗いはせずに、そして、いまさら身を預けもしなかった。タオの身体は、ハオの女性と男性の両方を、その瑞々しいだけの肌に感じ取っているに違いなかった。ふれているのだから、それは彼女に感じ取られずにはいられない。

ハオは、そんな事など知っている。彼女の背中をなぜた。

そのまま手すりに背を凭れて時間を潰し、何の言葉を掛け合うわけでもなく時間は素直に潰されて、うちに帰りついたハオとタオが見い出したのは、顔にTシャツをぐるぐる巻きにされたチャンの、あられもない姿だった。

だれかが、忍び込んだに違いなかった。仰向けに横たわり、行為が終わったままに股を広げて、それは罪の意志だったのだろうか。あるいは、単純に落ち窪んだ眼窩と、表情の一切無い顔がじゃまっだのだろうか?

その、顔に覆われたTシャツの意味は。

何人だったのかもわかりはしない。強姦されたチャンは、あるいは、彼女には意識さえないのだから、それを強姦と呼べるのだろうか?

それを強姦と、人間の言葉で表現すること自体に、チャン自身への冒涜がありはしないか。

いずれにしても、そこに、繁殖しようとした生き物の行為の、その意図されるされざるに関わらない意志の産物が、実を結んだかどうかもわからないままいずれにしても終わった後の、その風景がただ、拡がっていた。その渦中に在った女には、そんな風景などいちども見出されもしなかったままに。

ハオを先導していたタオは、そっと、疲れたようにハオに身を預けて凭れ、そしてハオはなにも言わなかった。

不意に、タオは鼻にだけちいさく声を立てて笑った。ハオには、確かに、彼女なら今、そうするしかないに違いないと、その振る舞いの鮮明さをだけ了解した。

タオは、音を忍ばせたわけでもなく無造作に近寄って、その足音がハオの耳には聴こえていた。日差しの中で、体のちょうど下半身の半分だけ、直射した日光があまりにも白くきらめかせていた。それは、あるいは美しいというべきなのかもしれないと、ハオには想われた。

座り込むように、拡げられたままの股の間に顔を近付けて、タオはチャンのしずかな寝息を一瞬だけ耳にした。

背中の皮膚に、直射した日差しの温度があった。覗き込んだ眼差しがチャンのそこから垂れ堕ちるものを認めたときに、自分が想わず声を立てて笑いそうになって仕舞ったのをタオは言葉もなく諌めて、そして、伸ばされた彼女の指先がそれにふれた。

指の腹に、なぜられたそれが、かならずしもべたつくわけでもない白いそれの触感を確認した。…穢い。

言った、タオのその鼻にかかった声を聞いて、ハオはただ、微笑んでやった。自分に猫背の背を曝しているタオは、決してハオのその微笑になど気づいてはいないはずだった。あたたかい。

…と、ハオはそう想った。

事実、あたたかかった。正午をわずかに過ぎた日差しはいよいよその温度に鮮明さを加えていたのだから。ハオは、いきなり立ち上がってホースを引っつかみ、水道を全開にしたタオの、踊るような俊敏さを見た。もはや、予告もなくタオは、自分の笑い声を堪えることなど出来なかった。

邪気もなく、いたいけない子どもが戯れて笑い転げるように、そしてタオはチャンのそこにホースを突っ込んで、チャンを洗浄した。チャンは目醒めたに違いなかった。

ふたたび、両腕がいきなり床を這って、そしてのけぞった頭の上をもがいた。その咽喉は如何なる声も立てないままに、ただ、空間に鳴り騒いでいたのは、チャンを洗浄する水流の泥臭い音響と、そして、タオのふるえるような明るい笑い声だけだった。

背筋が、へし折れそうなほどにのけぞって、…へし折れて仕舞え。

ハオは、いつか、自分がそう想っていたことを認識した。飛沫が無造作に飛び散って、タオごとチャンの身体を濡らした。振り返ったタオは媚びるような笑みをハオに曝した。あてどのない戯れは時にチャンの顔面に水流を投げつけ、水浸しに、大口を開いたままのチャンの口は、水を飲み込みもせずに、彼女は息を止めている。

呼吸音はない。なにも。顎が外れて仕舞いそうなほどに、叫ぶような口を開き、のけぞって、そしてそのままチャンの身体は空間に静止する。

チャンから逃げ惑うようにタオはその周囲に色づいた声を立てながら走り回って、その、眼の前の女の肉体に水をぶちまけ続けたのだが。…どう?

楽しい?

あきらかに、タオの眼差しが自分を振り返るたびに浮かべ続けていたその眼差しにハオはむしろ、深い歎きだけを感じた。なにを、どう、どうして歎いてるというわけでもなくて。

突然、タオが振り向き様に自分にホースの先を向けたので、ハオはその水流から遁れるすべを知らなかった。

水流が、ハオの全身を濡らした。ハオは、ただ、無邪気なタオのためだけに、わざと大声を立てて逃げ惑ってやった。ブーゲンビリアの木陰を、あるいはその木漏れ日のあざやかなちいさいきらめきの群れの散乱のしたをくぐり、あるいはココナッツの樹木の周囲を廻った。

空間に、ハオを追う水流の、無造作に飛び散る飛沫が乱れて、散り、なにかにぶつかっては砕ける。

ハオは見る。その眼差しが捉えた、水流の先の素肌を曝した、いまだに幼いままの成熟を媚もなく見せ付けた少女の身体を、…虹。

と。

ハオは、虹はどこかに見えているのだろうか?想う。決して、彼の、息をあららいだ眼差しにはそんなものどこにも捉えられはしないままに、どこかに。

見えるだろうか?

ホースの先の周辺。その上にか。下にか。周囲にか。いずれにしても、空間には、ふたりの人間の笑い声が鳴り響いているはずだった。

咄嗟に、立ち止まったハオはそのまま水流に撃たれるままにまかせ、いたずらじみてタオを睨んだ。ハオが、水浸しのショートパンツを脱ぎ捨てたのを、笑い転げたままのタオの眼差しは確認した。いきなりハオが自分に向けて走ってきたときに、タオはわざと派手な悲鳴を立てながらホースをハオに投げつけようとしたが、タオを迂回したハオはその疾走のままに、仏間を通って、家屋の中に遁れた。

濡れた足の裏を、床の御影石にすくわれそうになりながら、そして、ふたつめの居間の床の上に、見知らない男の死体を見つけたとき、ハオは、想わず、立ち止まった。

水をとめもしないままにホースを投げ棄てて、背後から追いかけたタオの笑い声を、ハオはもはや、かならずしも聞いてはいなかった。

タオは、息を飲んだ。

Xấu !

ひどい、…と。そのつぶやきを一瞬耳の近くに聴き取ったとき、ハオは、自分に背後からしがみついたタオの肌のその触感と温度とが感じられ続けていた事実を知った。

無残な、容赦もなく死んでいる死体だった。一目ですぐにそれが死体であることは確認でき、そして、彼が死んでいないことなど在り獲ない。ただ、その当たり前の事実だを素直に曝した眼の前のものの赤裸々さに、ハオは眼を奪われていたのだった。

ハオと同じ年頃らしい、かならずしも若くはない男だった。想うに、強姦の共犯者に草刈り用の鎌か何かで叩き割られたに違いない頭部が、隠しようもなく赤く染まって床に、その古さを感じさせる血を、だらしなく垂れ流していた。仰向けの男は、まるで行儀よく寝ているかのように素直に四肢をのばして、薄汚れたTシャツにショートパンツだけの粗末な格好の、雪ばかりの日々にさえも肌の色彩を日に焼けさせていた彼は、いまや土の色に近いほどにその肌の色彩を昏ませて、そしてなんども抉られたらしい彼の首は千切れる寸前だった。

腕、胸、膝、肘、それら、身体のあらゆる部位に、かならずしも切れ味が鋭かったわけではないに違い鎌の刃は、それぞれの部位の強度と攻撃の精度とに応じて、それぞれの血まみれの傷痕を残していた。

いずれにしても、男は死んでいた。

眼を、びっくりしたように見開いて、『あ』のかたちの口をさえ閉じる切っ掛けを失ったままに死んで仕舞ったに違いないその男の顔を、ひざまづくようにして覗き込めばハオの、眼差しには無様に老いさらばえた、まぶたの周辺の皺の寄った皮膚の劣化が眼に付く。

仲間割れをしたのだろうか。まさか、チャンを奪い合ったわけではないに違いない。分け合って仕舞えばいいのだから。あるいは、奪い合わなければならない必然が、彼等にあったのだろうか。別の、どうしても殺されなければならない必然を、殺した男の眼差しは此の男に認めたのだろうか?それとも、チャンが殺したのだろうか。

ハオは何の気もなく想いをめぐらして、そして、男の眼を閉じてやろうとした。口を閉じてやる気に離れなかった。なぜかはわからない。ただ、ハオの眼差しには赦しがたい穢らしさを、その、血には塗れていない薄い唇に感じられていた。

頭部、額をまで濡らしきった血は、すでに両のまぶたの窪みに血をためていた。

指先が、男のまぶたにふれようとした瞬間に、ハオは背後の気配にちいさく、おののいた。

ふっと、…ただ、そっと、やさしく肩にだれかの髪の毛の先の一本だけが、流された風に誘われてさわって仕舞ったような、そんなあたりさわりのない、無視して仕舞うより他ない気配だったとは言え、あるいは、振り向いた眼差しの先に、ハオは、壁際の日陰の立ちつくしたタオが、いきなり頬を膨らませたのを見た。

口を閉じたまま、咽るような、そんな気配さえもなかったその唐突さに、ハオが瞬こうとする間もなくタオの、不意に耐えられずに開かれた口が大量の血を垂れ流した。それは、かすかな臭気を放つ。

おびただしい吐血だった。ハオは、タオの眼差しがにも拘らず自分を見つめ続けていることを確認した。

吐き出された血は、彼女の胸から腹を、そして時に伸ばされた足にさえふれながら、好き放題に流れ落ちて無造作に床を穢した。なにもかもが穢されて仕舞った喪失感が、不意にハオの眼差しに目醒めた。

ハオはただ、茫然として、その、自分の血に穢れたタオを見詰めていた。タオの眼差しに表情は無かった。失心した、意識の消滅さえそこに浮んではいなかった。タオは、あきらかに鮮明に、事態のすべてを認識していた。

ハオは、鼻から吐かれるタオの息遣いの音を聞いた。

一瞬の、ほんのわずかな翳りが、タオの眼差しに浮んだのをハオは見逃さなかった。…なにが?

と。なにが起きたの?ハオがそう想いかけた瞬間には、終に失心したタオは床に崩折れていた。床に頭をぶつけて、そして音を立てて、足元からすべての骨格を失って仕舞ったかのように。

腕に抱いたタオを抱いたまま、何をするでもなく抱き続け、やがてハオは仏間の日陰に連れて行って、そして彼女を抱いたままそこに座り込んで仕舞ったのは、すでに、吐血から十分以上経ったあとだった。

ずっと、失神したタオを、ハオは息をひそめて見詰めていたのだった。彼女が、すぐさま血をもう一度吹き散らしながら目覚めて仕舞う気がしていた。

ハオは、その瞬間を恐れていた。彼は息をひそめていた。

タオを抱いた腕は、完全に脱力して仕舞った彼女の四肢に、隠しようもない彼女の失心を自覚させられていた。

タオは、失心していた。

仏間に、日差しは相変らず濃い翳りを這わせて、そして、チャンは背をのけぞらせたままそこに停滞していた。筋肉がそのかたちに緊張したまま、それ以上の展開を放棄して仕舞っている気がした。ハオは、タオの頭をなぜてやった。

汗ばんだ身体は、彼女の肉体の露骨な発熱を無造作に曝していた。放射能の影響かどうかはわからない。

いずれにしても、地球上を高濃度の放射能は舞い飛んで包み隠して仕舞っているはずだし、何等かの影響が現れないわけもなく、いずれにしても、もはや《破滅の日》以降に、精神的なストレスによるものを迄含めて、肉体が普通でいられるわけもなかった。肉体は、それでも、あざやかに色づいた、幼い成熟を見事に曝して、そして、眼の前には崩壊寸前の、死に堕ち始めた色づく肉体が目醒めていた。

唇が血に濡れ、その赤い色彩は生々しいままにその膨らんだ胸と落ち窪んだ腹部の曲線を飾り立てて、日差しはその色彩の一部を白くきらめかせていた。

タオは死んではいなかった。ハオは、それを確認し続けていた。止まない、呼吸の音がハオの耳にふれ、半開きの唇が何の動きも見せないままに生気を曝し、胸と、腹部はただ、眼にしみこむようなやさしさで、息遣いをゆっくりときざんでいた。

ハオは、タオの唇に口付けた。

他人の血の味がした。自分の血の味を、ハオは想った。なんどか、あるいはなんども、自分の血の味くらい舐めたことがあるに違いなかった。

その味の記憶など、思い出そうとしてなにもなかった。

唇を、やがて彼女が目覚めないような慎重さでそっと放したハオは、タオの唇に、そして顎に付着しいているままの息づいたままの血痕を一瞬だけ見詰め、そして、彼女の顎を舐めた。

血と皮膚にじかにふれた舌が、その、血と、汗と、皮膚の味覚をあざやかに彼に認識させた。

ハオは、唇で彼女の血痕を拭った。

唇が、或いは舌が、彼女の胸を舐めて、そして腹部にさしかかったときに、その時にはすでにタオが気付いていたことを、ハオはようやく気付いた。

タオは抗いもしないままに、無反応な身体を脱力のままに曝して、ハオは、彼女の血と皮膚を舐めた。

仰向けに寝かされたタオの背中は、そこに床の触感と温度を感じていた。ためらいを隠そうとしない、覆い被さったハオの舌が、自分の腹部に逡巡を曝し続けるのを、タオは黙って感じていた。まるで、下手糞な愛撫をされているようだった。

あるいは、治療としても、洗浄として、ほとんど何の意味もないのならば、それは本当に愛撫以外のなにものでも在り獲なかったのかもしれなかった。

タオは声を立てて笑いそうだった。タオは、自分がいまだ見たこともなかった風景を見ていることを自覚した。自分はこうやっていつか死んで仕舞うに違いなかった。私は、自分の血を吐きながら死滅する、と、とはいえ、驚くには値しなかった。生き延びれるわけもないのだから、いずれにしても、死ぬしかなかった。いまさら、死に対する恐怖もないに等しかった。

ただ、それは、いま、彼女が初めて見る風景に他ならなかった。

見馴れたすべて、ことごとくのありふれた風景の中で、自分はあきらかにたどり着いたことのなかった世界の中に叩き落され、失心から目覚めた直後、眼差しが映像を捉えた瞬間から、彼女は新しい世界の中に生きていた。(以下中断)





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000