小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説22 断章① ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進め下さい。
断章1
想い出す。
15歳のタオは、チャンを水浴びさせてやった日。庭に、相変らずのブーゲンビリアがそのむらさき色に近い紅の花々を咲き乱れさせていた。一瞬、振り向きざまにそれを見出し、眼差しに捉えてしまったハオは、その色彩に、あざやかな傲慢さをさえ感じた。
驕り昂ぶって、好き放題に眼差しを向けるもののすべてをしずかに、言葉もなく罵倒するような。
手のひらは鶏の首をつかんでいた。自らの手でそれを屠殺したばかりの脂ぎった、潤った皮をむき出しにした、その、手の平に重力をそのまましなだれかからせていたそれ。
為すすべもないほどに、その日空は晴れていた。昨日まで空間のすべてを閉ざしていた雪は、溶け始めてもはやその無残な残骸だけを曝した。
タオはチャンの手を引いて、戯れに仏間の正面の木戸の先、庭先の軒影にすわらせたまま、その顔に化粧をして遣っていた。それは、寝室の棚の中に、フエの使っていたものを、探り出したタオの想いつき悪戯だった。
その三人しかいない広い正面の庭に、タオが、必ずしもハオに向けたわけでもない、とはいえ誰にも向けられていないわけでもない嬌声を、自分勝手に立てていた事は知っていた。背後に、その声を聞きながら、ハオは鶏の毛をむしった。ファンデーションをチャンの皮膚に叩こうとしたタオは、不意に、臭い!と、
Thối quá !
言った。ハオは鼻にだけ声を立てて笑った。知っていた。ハオは、タオが、いつまでも自分に手を出そうとはしないハオに、彼を求めているわけでもないままに不満を抱え、じれ始めていることには。その行為など、いまだに知りもしないくせいに。
いちども化粧された経験のないタオの唇が発する声が、あるいはその挙動のひとつひとつが、明確な意図もないにもない、にもかかわらず鮮明に何かを訴え続ける執拗さをさらして、ただ、タオ自身の周囲にだけ舞った。
振り返ったハオは、タオが、首を曲げてハオを見詰めていたのを見出した。タオは、ハオを見詰めていた。ハオが、彼女に笑いかけようとした瞬間に、タオは眼をそらした。庭にも、家屋にも、強い日差しとそれがけた正午の影が、さまざまな翳りを与えていて、それらはむしろ青く感じられた。
チャンの正面に立って、その前に立ちつくしたタオは、チャンを見詰めるしかなかった。…臭い。
Thối quá !
と、もう一度自分のためだけにつぶやいたタオが、先に自分の衣類を脱ぎ棄て、投げ散らしていくのをハオは見ていた。ハオの指先の、なんども砥がれてその原型を失い始めた鉄臭い刃物が、鶏の首に切り込まれた。
あふれ出る血を、ハオは、アルミのバケツに取った。それは、タオがハオに教えた、ここの屠殺の流儀だった。…血がおいしいのよ。
知らない?
ね?…体にもいいし、とてもおいしいのよ。眼差しの先で、素肌を曝したタオの背中は、どこか心細い、華奢すぎて病んだような気配を、与えていた。
白い肌に、淡い陰影の這うのをさえ、直射する日差しは赦さない。タオが、不意に声を立てて笑い、振り向いた。ハオのほうをは見なかった。どこか、ハオの向うに視線を投げ棄てて、そして、
見なさい
タオはすぐさまショートパンツを下着ごと
あなたが見るべきものを
乱暴に投げ棄てると、仏間の床の上の、三毛の猫の近くに落ちたそれは彼女を短く警戒させた。
自分が素肌をハオの眼差しに曝すと、タオは一瞬だけ誰にというわけでもなく躊躇を曝して、そして無理やり立ちあがらせたチャンの衣類を剥ぎ取っていった。鶏の血が撥ねた。上半身を曝したハオの二の腕に、それはちいさなシミを造り、そして、垂れていく新鮮な濃い真紅の線を描く。
舌打したハオの眼差しの先で、無理やり立たされたチャンの、方向感覚を失い、立つ意志さえもない両足がふらつき、彼女の身体はタオにもたれかかるしかない。自分よりも長身で、あるいは豊満なチャンの身体を抱き締めたタオは、鼻にかすかに荒く息づかいながらチャンを裸に剝いて行った。
美しい身体だった。確かに女の肉体というのはそうでならないし、そうでなければならない形態を執拗に、律儀に、大袈裟になぞった。いつのまにか裸に剝かれ、立ち上がる意向のないままそのままに、仏間と庭との段差に座り込もうとしてタオに抗われ、日差しに肌を直射させるチャンの身体は。
その、だれの眼を気にしたわけでもない身体が、赤裸々にただ彼女に固有の裸身をそこに投げ棄てて彼女は生息していた。あれから、何人殺したのだろう?と。
そう、不意に想いついた自分の意識を、ハオは疑った。いずれにしても、彼女たちを食わせるために、あるいは着飾らせるために、その町に生き残っていた何人かの人間たちを屠殺し、強奪を繰り返したことに間違いはない。何人だろう?数えようとしても想い出せない。考えてみれば、よくもまだ、と。想う。彼等は生き残っているものだった。
人類史上乃至地球史上、事実上は絶滅しているはずなのに未だに絶滅さえせずに、と、想うハオの眼差しに、タオがあふれ出された水流が飛沫を投げる。
空中に。ホースの先から撒き散らされた水流が、そのまま床に崩折れるようにして座り込んだチャンの頭から被せられて、そして巻き散る飛沫は、ちいさな虹でも作って仕舞うかもしれないと、ハオにかすかに期待をさせた。
タオが声を立てて笑い、媚びを過剰に撒き散らした眼差しをハオにだけ集めて、そしてタオはハオを見ていた。鶏は未だに息絶えてはいなかった。手のひらが押さえつけた首に、明らかに生存しているものの、萎えてはいても明確な力が存在し、あからさまに息吹いていた。
音声もなく、ましてや言葉もなく、上空を見上げて口を開けたチャンに、タオは声をかけた。何と言ったのかハオには聴き取れなかった。…ね?
「手伝ってよ。」
てつだてくやさぃ
…ね?
「お願い。…」
おねがいしまっ
タオの唇は、笑い声を間歇的に立てるのをやめない。鶏の首を離すわけにはいかないことくらい、タオだって知っているに違いなかった。吐き棄てられた懇願するような依頼の言葉は、ただ、唇に吐き棄てられた言葉であるに過ぎなかった。ハオは、タオの眉が悲痛にゆがんで、途方に暮れていることを明示しているのを見出し、…お願い。
私を助けてください。明らかに、タオはチャンを折檻していた。水浴びという名目で、隠しようもなく、そこに嗜虐が目醒めていたことにハオは気付いた。
自分の倍以上年上の女だった。体つきが似ていた。あきらかな差異は、あるいは、年齢以上に、子どもを生んだ女と、いまだに生むきっかけさえ与えられてはいない女との生き物の経験の差異なのかも知れなかった。タオの眼差しの先で、鶏をつかんだまま自分に微笑みかけている男の、容赦のない誘惑的な眼差しの鮮明さに、タオは倦んだ。
飛沫は、タオの素肌をも濡らして、その気もなく頭から水をかぶったタオは、皮膚を一気になぶる水温のあざやかな冷たさに息遣う。
ハオの手のひらの中で、死にかけの鶏の生き生きとした血の匂いが匂った。殴りつけるように、チャンに水流をぶちまけるタオは、飛び散る飛沫を避けて笑い、声を立て、なんどかハオを振り向き見、両眼のない顔をチャンは顎を立てて上方にむけるが、その眼窩は降り注いでいる光の色彩をさえ、もちろん捉えはしない。…疲れた。
ねぇ。
疲れちゃった。
そう言ったタオが、いきなりハオを振り向き見ると、タオはそこに立ちつくしたままに、眼差しにあざやかな歎きをだけさらして、そして、胸元に上向けられたホースが噴き出す水流にその肌を、濡れさせるに任せた。身もふたもなく、何の意志もない水の群れが溢れ出すままに、そして重力に引き摺られた流れをタオの素肌に描いて、タオは自分の背後に猫が長くいちどだけ鳴いたのを聴いた。
庭のどこかを、鼠が走った。
タオは、自分がハオを見詰めていることを今更に、鮮明に意識した。眼差しの中で、不意に首から手を放した男の、その手のひらの拘束を終に遁れた、半分以上の血液と、羽毛のすべてを裸の鳥が、地面にくちばしをぶつけて首をひん曲げた後に、声もなく、そして立ち上がった鶏はふらつく。
見開かれた眼差しが、その360度の視野を再び確認した。鶏がいきなり、庭を失踪したのはハオが、タオに、…風邪、ひくぜ。
そう言おうとした直後だった。
鶏は喉をわななかせ、裸の翼をばたつかせながら前のめりに地を走り、血はその周辺にだけちいさく撒き散らされているに違いない。発熱しているに筈だ、と、ハオは想った。
その、鶏。もうすぐに死んで仕舞うに違いない鳥は、体の内部のすべて、細胞のひとつひとつをまで隈なく、あるいは、…風邪、ひくぜ。
と。好き放題に、むしろ茫然としてハオをだけ見詰めて、胸に抱かれたホースに水流を撒き散らされたままのタオに、頭の中だけでつぶやいたハオは、いつのまにかその言葉を、彼女の耳元にささやいて遣ったように錯覚していた。ハオは、自分が微笑みかけていることには気付いていた。微笑まれた眼差しの先で、不意にタオはその、ホースの先に唇を近付けると、あふれ出すふしだらな水流をそのまま、口に含んだ。
やめとけよ。
言おうとして、口を開きかけたハオの、そのかすかな唇の動きは、タオには気付かれなかった。タオが、自分を見つめる男の眼差しをだけ見詰めていたから。タオは、水を飲んだ。
鉄臭い臭気が感じられた。…死んじゃうよ。
と、ハオはタオに微笑みのうちに、喉の奥にだけ言って、発されなかった言葉は、とは言え、タオは彼が何を言いのかくらいは知っていた。いいわけがなかった。この期に及んで、生水をそのまま飲み込んで仕舞うことなど。
彼女の喉に渇きはなかった。唇にふれた水に、命じられるがままにいま、自分は水を飲んでいるのだという錯覚がむしろ芽生えて、そして、それが余りに鮮明な認識だったにしても、タオは、それが、単なる錯覚に過ぎないことの自覚から解き放たれることが出来なかった。
手のひらは失心したようにその握ったホースを放した。…君は、と。ハオは想う。君はいまだに、俺を愛してなどいない。声を耐えて笑いながら、その事実がハオを見詰めた。正気づいたのかも知れなかった。チャンが、いきなり獣じみた、割れた、太い、男声の叫び声を上げた。
ハオも、タオも、チャンを見なかった。彼女が、背をのけぞらして、骨格が内側からへし折れて仕舞いそうなほどの屈曲をその身体に曝しながら、そして、声。
チャンの声は、叫ぶのをやめない。息をつぎ、そして、肺を一杯に膨らませた空気は、迷うことなく絶叫を再開する。
なんども耳にした。…と。
タオは想った。なんども、なんども。毎日、ちょっとしたささいな機会に。やややかなきっかけで。此の世界が終って仕舞うかのような。世界中の鉄の棒すべて煮えたぎらせて、赤く焼かれたそれを無理やり開かれた口の中から内臓に叩き込まれたような。
そんな絶叫。もはや何をも気にせず、何に対して向けられたわけでもない、あまりにも個人的であまりにも素直なただの絶叫。投げ棄てられたホースが、水を止められないままにタオの足元を水浸しにしていたのをハオは眼差しに確認していた。水道代の徴集に来た女に、ハオは、微笑みかけたことがあった。
タオがシャワーをあびていたときに。タオは16歳になっていた。ベトナム語しか話せない女が、異国語で盛んにせかすのを、ハオは首を振りながら両手を拡げた。
…ないよ。
ハオはこぼれるように微笑み、…なにも、
「金なんかないよ。」
不意に耳にふれたその予想していなかった異国語に、女はいま自分が眼にしているのが異国人に他ならないことを知った。
一瞬、ハオを哀れんだ眼差しに見い出し、ややあって舌打し、一度、女はただ自分の為だけに眼の前の男への激しい罵倒をくれて、そしてハオがこれ見よがしに浮かべた誘惑的な微笑に、羞じて眼をそらした。その時も、おなじように珍しく晴れていた。ただ、空の色彩はいよいよ赤みを、なぜか増して、冴え、ハオの眼差しはかすかな紫色の息吹きを感じずにはいられなかった。タオの、絶望しきった眼差しがハオを見詰めていた。
唇も、首も、胸も、腹部も、吹きかけられた水が色彩もないままにきらめかせて、そして、ハオは瞬く。
立ち上がったハオは、歩み寄った足元にひざまづくように、そしてつかんだホースで、自分の手を洗った。顔を上げて、上目遣いにタオを見あげた瞬間に、タオは走って逃げ出した。
ハオの微笑んだままの眼差しは、いよいよその微笑を濃くし、チャンは叫ぶ。
離れたココナッツの樹木に頭をぶつけた鶏は、ひっくりかえって倒れたままに、誰にも気付かれないような繊細さでゆっくりと羽を動かしながら、そしてそれはやわらかい失神に、ひとりでつつまれ始めていたのかもしれなかった。
タオは、すぐに走るのをやめた。門の前で立ち止まって、…なにしてるの?
来てよ。何気なく、両腕を垂らしきった後ろ姿が、むしろ容赦のない諦めをだけ曝した。いずれにしても、その直射する日差しの中でハオの眼差しはあきらかな女性の身体を見い出して、確かにタオはいつのまにか成熟しかけた肉体を、そこに、獲得していたことを気付かせた。ハオは、なにも感じなかった。眼差しが捉えたそれは、必ずしもハオを煽情することもなくひたすら自分の事実だけを曝し、終にハオは眼を伏せたが、…ねぇ。
こないの?
と、その耳元に語りかける気配を、ハオはその伏せた眼差しの中に感じていた。
肌に、日光の温度があって、とっくにハオの皮膚は汗ばんでいた。彼の豊かな胸の膨らみに、隆起と陥没を撫ぜながら淡いかげりはきざまれた。
皮膚はほとんど日に灼けてはいなかった。一週間のほとんどに空は曇り、そして雪を降らしていたのだから。ハオは、歩き出すタオに従って、眼差しは周囲に散乱した雪の、日差しに瓦解した固まった残骸の群れをなぞった。
タオに従って通りに出た。
人翳はなく、その気配もない。通り過ぎるバイクもなく、空は無慈悲なまでに青い。
このまま、人類が消滅して行く事は隠しようもなかった。手入のされない街路樹が無造作にその巨体を剝き出しにして、すでにアスファルトを食い破った植物がしずかにその細く強靭な枝を曝し始めていた。草は繁殖して、むき出された地面のいたるところを埋めた。彼等は、ただひたすらに繁殖し続けていた。
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