小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑨ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上、お読み進め下さい。
死んでいく…と。
「死ね。…カス」
そんなこと言われなくても、…と。
俺はこうやって死んでいくよ、そう何度もつぶやいていた気がしたジウの尻を蹴り上げて、ハオは声を立てて笑った。開け放たれたままのドアを閉めようと、後ろを向いた瞬間に、とおりかかった現地の女ふたりが一瞬、ハオに恥らった眼差しを向けた。
そらした。
痛めつけられた若い男を床に倒れさせた、美しいいかにも異国の男に、彼女たちは何を認識したのか。その眼差しの中で、男は同国人だったのか、異国人だったのか。いずれにしても、ハオの眼差しにはふたりの少女じみた、不意に初めて恋を知ったような眼差しだけが一瞬の不可解な残像を残した。眼を開いた。
ジウは、眼をそっと開いて、そしていま、自分がどこいるのか確認しようとしてたことを察知した。
彼の眼差しはただ、白い天井を見ていた。照明器具は、味も素っ気もなく、なにもかにもさじを投げたような、つれない気配をだけ曝した。それは、見知らない風景だった。はじめて見るに違いない風景に、ジウは不意に自分が失心から醒めたことに気付いた。
なら、…と。
ジウは想った。自分はいままで失心していたことになる、と、そう想ったジウは、改めて身の危険を意識したものの、そんな意識が彼の心をざわめかせようとする頃には彼は、言葉もなくそんな危機などどこにももはや存在しないことをすでに認識し果てていた。
危機が存在するのなら、自分はとっくに壊されていなければおかしかった。あるいは、もう壊されているのかも知れなかった。いまだに、留保無い破壊が認識にふれてはいないだけで。自分の身体を確認する意図があったわけでもなく、ようやくジウは身を起こして、彼はすでに知っていた。自分の傍らに横たわり、着の身着のまま、そのままの格好でうたた寝しているのはさっきの、あの、見ず知らずの外国人に違いなかった。
あお向けた、その男の寝息は耳に、聴こえないままに感じ取られて、振り向いたそこには夕暮れかかった日差しを、横殴りに受けた男の、左腕にまぶたを隠した男の寝姿だった。
自分を殴打した男。いきなり折檻し、暴行し、そして、体中の表皮と内側にまでも傷付いた痛みの痕跡を撒き散らして、いまだに自分の神経を発熱させたままでいる男、と、ジウは両手で二の腕をつかみ、感じられていた痛みに耐えた。
それは、まさに彼自身だった。身じろぎするたびに、新しい痛みの感覚が息吹いた。
目醒めていく。
体を動かせば、痛みは瑞々しく新しい覚醒を曝していくので、このまま、…と。
このまま体を好き放題に動かしさえすれば、発生して止まない苦痛はいつか、自分の体中を残る隙もなく埋め尽くして仕舞うのだろうか?男は美しい。
若くはないその男は、その代わりに妙な、支配者然としたたたずまいを見るものに与えた。…従うしかないんだよ、と。
俺に見惚れてるんだろう?…だったら素直に俺の奴隷にでもなればいい、と、その捨て鉢な助言に、彼は、誰をも従わざるを獲ない気持ちにさせる、と。
そうに違いない。
ジウはそう想った。男の体つきに、かすかでかたちを為さない、そのくせ鮮明な違和感があった。息をひそめた。ふたたび彼を目醒めさせて仕舞えば、彼はこんどこそ自分を殺して仕舞うかもしれなかった。だから、ジウはなんども彼が本当に眠っていることを、その眼差しに確認しようとした。
事実、確認した。だれもが、と。
逃げればいいと言うに違いない。事実、その通りだった。しかし、と、ジウは想う。彼等は知らないのだ。俺が決して、ここからいま、逃げられはしないことの容赦ない、無意味な必然を、と、彼は指先を伸ばす。
伸ばされた指先が、男の身体にふれたとき、男を目醒めさせて仕舞う危険がある事にはすでに、ジウは気付いている。
訴える。意識が。なんども、繰り返されるその認識を。ひそめた無数の声で訴える。ただ、あぶない、と。
逃げろ。…近づくな。
あぶないよ、…そっと、…そっとしておけ。それらの声。耳には聴き取られない声のさまざまな散乱が、ジウの頭の中に直接、かさなってやまない。胸。
その男の胸。そこには明らかにそうあってはならない気配がある。気配どころか、淡い紫色のワイ・シャツの布地越しに明示された形態そのものであったにもかかわらず、それはジウの眼差しに気配をのみほのめかす。指先は、やがてその、隠しようもない女性の胸のふくらみのすれすれの上空をあえて迂回し、一瞬の戸惑いを連鎖させつづけ、そして、戸惑いをあくまでも自分にだけは隠し通そうとしたかのように、そのまま自然を装って、ハオの首にふれた。
指先がふれた瞬間に、ジウの背骨にいままさに、自分が不用意にもっとも危険な、灼熱する部分を無造作にふれて仕舞っていたことを認識した。
ハオは眠ったままだった。
ジウは、その体に馬乗りになって、…たしかに、と。
想っていた。彼は、最初から自分はまさに、こうするために失心から目醒め、いま、ここにこうしているのだと。そうでなければならず、むしろ伸ばされた指先が伸ばされた目的のそもそもは、それ以外にはなかった。た易く想われた。深い眠りに沈んでいるうちに、彼を絞殺して仕舞えばいい。そうすれば、と。
俺は…と、ジウは、自由になる。…と。
想う。俺は自由になって仕舞う。…このまま、と、その首を締め上げさえしたならば、
曝せ
俺は自由に、そして
穢らしいお前の
ついに解放されて、と、
穢らしい死に様を。永遠に
想う。ジウは。抗うように、
穢れ薄汚れた呪われものの最期の
ジウのまぶたは二、三度かすかにだけ
眼差し。恐怖に両眼をひん剥いて、その男は
痙攣したが、不意に
叫ぶ。声にはならない。ただの音響。締め付けられた
察知した。ジウは、
首はすでに喉に発声の自由など与えてはいない。引き攣る
この男を殺して仕舞った自分は、確実に
その四肢がわななく。好き放題に、体の下で
自首するだろう。犠牲者の癖に
自由を失ったままに、そして彼は
自分で自分を責めさいなみながら
死んでいく。いま
泣き喚きながら?
ようやく、長い間のもがき苦しむ
自分を彼等にくれてやるに違いない。彼等、
窒息の苦悶から解き放たれて、あふれ出た
あまりにも無能な警官どもに。司法に。俺は、
自分の体液に塗れて。その
間違いなく…
紅潮した体中の皮膚の赤らんだ
…と。
色彩を引かせることさえ出ずに彼は
自首するに違いない。自分の罪を喚き散らし、処罰を懇願しながら
死んだ
そう想った。ハオが眼を開けていたことには気付いていた。ハオの眼差しが、ただやさしいくジウを見つめていた。赦しも与えなければ、処罰を与えさえもせずに。俺は自分に対して怒り狂っているに違いない。…と。
おさまりようもない、悔恨をすでに孕んでいたジウの逡巡の声の群れが、…自首するその時に、と。木魂する。俺は、彼を殺して仕舞ったあとで。
左手がついに、ハオの首にふれたとき、ジウは自分の指先がその、なめらかな肌を絞め始めたのを実感した。…ねぇ。
ハオがつぶやき、彼は見ていた。自分の首を絞め始める、追い詰めらた眼差しで必死に彼自身を守ろうとしている青年の、血走った眼差しを。もはや、なにもかも白濁していた。
頭の中のなにもかもが、あるいはやけつくような苛烈な思考の呵責に、ついに発熱を曝して、温度のない発光を、ジウ。
ジウは必死に、その発光に飲み込まれないように抗いながら息遣い、首を絞められている男の手のひらが、自分の頬にいちどだけ、戯れるように平手打ちをくれたのに気付いていた。
彼の仕草は、冗談にしか見えなかった。
男の唇が異国語で何か言った。短く、わずかな音節。…ほんの、6つばかりの、あてどもなく湾曲するふしを持った音節の群れ。
もういちど、その気もない平手うちがジウの反対のほほをなぜた。
ジウは生まれてきたそのものを後悔していた。
ふたたび、右の頬を、男の手のひらはひっぱたく、素振りのうちに、あるいは、なぜた。…失敗だ、と。
ジウは改めて認識してた。彼のすべては失敗だった。人々から賞賛された、彼のスピーチの能力も、明晰な頭脳も、身体の瀟洒な身のこなし、身体能力、あるいは、女たちを煽情する容姿も。ことごとく、何もかもが辱でこそあって、恥辱にのみ塗れながら彼自身はすでに滅びていた。為すすべもなかったなかった。身も蓋もなく、自分が失敗作であり、その失敗に容赦などないことを、ジウはなんども認めるしかなった。
男が異国語を叫んだ。
もういちど、男の手のひらがジウの頬を、もてあそぶようにひっぱたいて見せて、笑っているの?
…と。
泣き叫ぶような、その男の異国語が、何かを命じていた。
ジウは、その男が笑っているに違いないことを確信した。限界を越えて固められた筋肉が、発火点を超えて込められたジウの力のうちに、わななかせられるしかなった。
不快な汗がジウの皮膚を濡らし、そして、はっきりとジウは自分の身体の匂いを嗅いだ。眼を開ければ、と。
ジウは想った。そこに、男の凄惨な死体が転がっているに違いないと、そして、もういちど頬をひっぱたちてやったとき、ハオは声を立てて笑っていた。
自分勝手に自分の筋肉をだけ緊張させ、すこしも彼の喉を絞めようとはしないその男を、ハオは見つめた。
もう一度、ハオはひっぱたく。やさしく、乃至、猫がくれるあまりにも無意味な殴打のように。ただただうざったらしいだけで、痛みさえ残さない猫の、そして青年は自分勝手に見開いた、追い詰められて行き場のない眼差しでハオを見つめていた。ハオは「…死ねよ。」
ささやきかけて、そしてふたたび
「死んじゃえ。」
ひっぱたく。やさしく、むしろいたわるように、その
「…資格なんてないから」
眼の前の男はただ、
「お前、」
ハオを見つめたままにもはやその
「生きてる資格さえなんにもないから。もう」
視線をそらそうともしない。やがて
「…死んじゃえよ。」飽きたハオはジウの髪の毛を引っつかむと、引き摺り倒す。
なぎ倒してベッドにひっくり返した瞬間に、つかんだ髪の毛の数本をハオの指は引き抜いていた。…生きてる?
「お前まだ死んでないの?」ささやきかけるハオの言葉の意味など、ジウには理解できない。ひたすら音声を耳に響かせながら。ジウは、泣いてもいないのに、未だに失心したままの涙腺から大量の涙を溢れさせていて、振り上げた拳はジウの口を殴打した。
ジウは眼を剝いた。唇のうらの粘膜は、ぼろぼろに痛んで仕舞ったに違いなかった。悲鳴もなけば叫び声も、泣き声もなかった。抗おうとしたわけでもなく、引き付けを起こして自分の胸元に小さくたたみ込まれた腕の、その指の先がハオの胸にふれた。…確かに、と。
シャワーを浴びて出てきてから、それを押し隠すいかなる手段も、ハオは身に纏ってはいないままだった。
自分の失態を、ハオは一瞬声を立てて笑いそうになって、そしてジウは想いついたままに、覆い被さった男のワイシャツのボタンを外していった。男の気配を窺いながら、男には気付かれないように、その眼の前で。やがて曝された、ゆたかな乳房はジウの、小刻みにふるえ続けるしかない恐れおののいた眼差しには捉えられなかった。乳首をその唇押し当てて、ハオは無理やりくわえさせた。吸い付きもして来ない無能な唇を、ハオは笑った。
そのまま、ジウのズボンを途中まで引き摺り下ろすと、ハオはその指の数本を、ジウの肛門に無理やり差し込んだ。愛撫ではなく、単にその直腸を破壊して遣るためだけにハオは指をかき混ぜて、ジウは身をのけぞらせながらあくまでも、ハオの乳首を傷付けたりなどしないように、繊細な注意を持って当てられた血だらけの歯で、ハオのそれのやわらかさを確認していた。…たくさん。
とタオは振り向き様に
…やくざん
言った。奥から走ってきたタオが、声を立てて笑いながらそう言ったので、ハオは彼女に微笑みを返して歩み寄ろうとしたときに、足元の女の吹き飛ばされた頭部に躓いた。
それが、タオをおかしがらせたに違いなかった。タオは、ただ邪気もなく笑い、たしかにいまや、彼女を抑圧するものは何もなかった。
家族はかならずしも一族皆殺しになったわけではなかった。遠い親族ならまだ生きていたはずだし、同じ家に住んでいた人間のうち、4人くらいは生き残っていたはずだった。タオは彼らの許には帰らなかったし、だれも探し回りさえしなかった。数日で、その家は空き家になっていた。
壁の向こうに姿を消したタオを追いかけるその前に、振り返って、入り口に転がったあられもない女の惨殺体を見た。あられもなく大股を拡げて、間違いなく、…と。
彼女が何をしても、何をされても、もはや彼女を辱め獲るものなどいない。ハオは認識する。俺は与えた。…と。
留保もない絶対的な平安を、彼女に。彼女の、なにものをも奪わず、なにものをも破壊しはしなかった。
俺はむしろ、有り余るほどの広大な可能性の無際限な群れを与えてやったに違いない。
台所スペースは巨大だった。つい数年までは、あるいは、ほんの数ヶ月までは、昔ながらの古びた建物が建っていたのだろう新築の気配の抜けないそこに、建築デザイン本の見本を寄せ集めて作ったような家屋の中のキッチンは、ぶち抜きのワンフロアを丸々占めて無意味に奢ったというほかない広大なスペースを見せていた。それとも、彼等にはたかが料理にこれほどの空間を必要としたのだろうか。
台所のくせにいちいち二階に作られていたので、とにかくフロア一面がほしいというオーダーだったに違いない。それは、射殺された女が出したオーダーだったのだろうか。あるいは、その母親のオーダーだったのか。姉の?妹の?その、真ん中にただっ広いアルミの無機質な作業代をいただいただけのそこの、隅にふたつ並んだ冷凍庫のひとつを開けて、タオはふたたびはしゃいだ声を上げた。
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