小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑧ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上、お読み進め下さい。
ジャンシタ=悠美を、誘惑する気はなかった。そもそも、彼女を部屋に連れ込もうという気さえ、そもそもなかったのだから。
学校から帰ろうとして、学校の門を通り抜けたそのときに、振り向いたそこにジャンシタ=悠美がいた。考えてみれば、いつものことだった。彼女は、学校の近くに住んでいて、そして、クラスも同じで、ハオの家の数十メートル先の真新しい家屋に住んでいて、引っ越してきたばかりで、そして、結局は近所の知り合いだったのだから。
周囲に同級生たちのざわめきがあった。かならずしも、それはハオには無関係だった。少女たちの歓声が、ときにハオを意識して、彼に媚をうっていたにしても。たとえ、その唇がささやく話題がどこかの教師のあたりさわりのない悪口にすぎなかったとしても。
ハオの眼差しの先に、母親の影響らしいクリスチャンの、ジャンシタ=悠美の眼差しが素直な戸惑いを曝していた。…あなたは、と。
わたしを目線を合わせるような階層じゃないでしょう?
ジャンシタ=悠美が、とりあえずはその顔立ちを理由にしていじめられていたことは知っている。あるいは、その肌の褐色を。ふたつものの乖離、乃至、ハーフの癖に日本人そのものでしかない不当な顔そのものを。あるいは、身のこなし、言葉遣い、おとなしい家畜じみた雰囲気、気配、若干のくせのある気がしないでもない体臭、いずれにしても、眼に付くもののすべての悉くのすべて。それらのせいで。…違います。
あなたは、いま、わたしを見ていませんね?…と、その、あまりにも家畜じみた眼差しが、ハオを刺激した。自虐?
嗜虐?
あるいは、もっと深刻な破壊欲。ハオは、ただそのれら、余りにも鮮明な、容赦のない破壊への吐き気をさえ伴った衝動のためにだけ、ジャンシタ=悠美に微笑んだ。
…来いよ。
これ以上はなく、ただ
…家、来いよ。
ひたすらにやさしく、思わし気で、そして
…暇だろ?
悩ましく、切なく、
…来な。
容赦もなく哀れみを曝して。
…友達、いないじゃん。
ハオに何か言われる事は、ジャンシタ=悠美には留保なくそれに従うことをだけ意味した。
おびえているのは知っていた。虐めと差別を理由に転校した学校に新しく入ってから数ヶ月、友達らしい友達もいなかったジャンシタ=悠美にとって、男友達の家に入っていくなど、生れて初めての体験だったかもしれなかった。ハオの母親が入院していたことも、父親が日中、家には決して寄り付かないこともジャンシタ=悠美は知らなかった。古い、中古で買ったままの、木材の匂いを干からびさせたその家屋の中の、余りの人気のなさに彼女は、身の危険を察知する以前の、違和感におびえた。まるで、…と。
その、あまりにも生活臭を赤裸々にばら撒いて沈黙する家屋の気配に、これは単なる廃墟に過ぎないと、感じて仕舞った自分の妄想にジャンシタ=悠美は戸惑った。
不意に想いついて、自分の部屋で上半身を曝したハオの、そのゆたかな乳房にジャンシタ=悠美は、一度だけまばたき、見る。
彼女は、その指先。伸ばされた、自分の指先がそれにふれようとして、そして、窓越しの、夕方にいたる寸前の力のない日差しはただあたたかく、指先はその温度を感じるしかなかった。
これ見よがしに肌を曝して、13歳のハオは、眼の前の、何かのせいで自分より一切だけ年上のくせに同じクラスに配置された彼女の、戸惑いながら伸ばされる指先にかすかに鼻の先にだけ笑って、漏らされた吐息が音を立てる。なぜか、耳の至近に。「…痛いの?」
言った、ハオの声をジウは耳元に聴いていた。
そのとき、ハオが、手にテーブルごと突き刺したナイフをつかんだままに、自分に寄り添うように至近距離に接近していたのに気付いた。…痛い?
「痛いです。」
いちあぃぜっ
「痛くないから。」ハオが笑っていた。表情を、微笑んだままなにも変えずに、笑い声さえ立てないハオは、そして、…痛くないでしょ?
「痛いです。」
見詰める。
表情もなく、
いちあぃぜっ
「…嘘。」…それ、
と。
「嘘だから。それ、」苦痛が、「嘘だから。」燃え上がっている。
音もなく。自分の息が、そして筋肉のすべてが緊張して、こわばり、わななき始めるその寸前に停滞してたことには気付いていた。ただ、手に鮮明な、焼け付くような発熱が、むしろそれらの爆発を拒否していた。もう、と。
これ以上痛みなど感じたくないんです。その、つぶやきの無数の、おびただしい群れの無数が身体の至るところに散乱し、密集し、ジウから一切の自由を奪った。奴隷、と。俺は、いま、苦痛の奴隷に過ぎない、と、不意にもたらされた認識がなんども想起されては忘れ去られ、ジウは自分の感じている苦痛にだけ染まっていた。…言って。
「…ね?」
言って、…と、そのささやき声は、間違いなくハオが寄り添った耳元で立てた音声以外のなにものでもない。「痛くないって、」
…言えよ。カス。
なぜか、ジウにはハオへの容赦もない感謝の気持ちだけが鮮明に溢れかえって、そのままただ、彼はハオにひざまづいて仕舞いたかった。…あまりにも特異なハオ。美しく、まともな男性でさえないハオ。知っていた。
ジウには記憶があった。ハオは喫茶店で、ジウを容赦なく殴ったあとで、声を立てて笑った。「…赦してやるよ。」
カス。…
「嬉しいだろ?…赦してやるよ。」…愛してるぜ、と、そうこの眼の前の暴力的な男は意味のわからない異国語で言ったに違いないと、ジウは確信して、わずかに身をくねらせた姿勢のままにハオを見あげた。
音響。話し声。
生まれ故郷のそれとは、若干の発音上の、あるいは言い回しの差異がある、とはいえあくまでも同じ言語。そしてなにも一致し無い異国語。それらは、おそらく存在している時空間が違うのだ。たぶん。かさなり合いながら。
交じり合わなく、かさなり合って、それらが鳴った空間にそれぞれに音響は差異をあきらかに曝し、隠そうともしないままに、そしてそれらはひとつの塊りに過ぎない。音響。
響きの塊り。消え去っていくそれらの一つ一つの音声は、途切れることなく固まり続けて、自分のために発話されたわけでもないそれらは決して、いささかの記憶さえ残すこともなくジウにそのまま忘却されてもはや、二度と再生されはしない。
英語さえ話さずに、韓国だというのにかたくなに聴いたこともない、おそらくは彼自身の自国語たる異国語をささやき続ける異国の男が、眼の前でジウに話しかけていた。意味不明な自国語が世界言語たとでも想っているのだろうか。教え諭されようとでもしているかのように、丸いテーブルの、男の正面に座らされたジウは、爪先でだけ高い椅子の下の床に足をふれ、座らされた尻にはアルミの硬い触感がある。
来いよ、と、ややあって、そう言ったに違いない男の声のままに、ジウは従うしかなく、ジウはすでに予定されていたアルバイトの面談の予定など忘れさって仕舞っていた。自分でも不思議だった。ジウは、どうして自分が逃げ出そうとしないのか。ハオは自分を先導し、そのくせ振り向きもしないので、結局は、逃げ出すことなど容易だった。そして、それは不可能だった。
逃げ出しても、何の処罰が加わるわけでもないことなど知っている。自分に背中を向けているのは外国人に過ぎない。ジウにとって、そこは祖国とは言獲ない。とはいえ、住んでいれば自分の国だとも言いもしないままに、そこは自国であるに他ならない。優位なのは、むしろ自分だった。
ジウのフェイスブックには、いくつかの外国人記者の友達申請がある。彼の出自を知っている記者たちから。何の媒体に拠点を置く記者なのかは知らない。先進国である事を十分に意識した先進的な外国人たちはだれもが、彼の口から北朝鮮の現状への非難をのみ、求めていた。
彼は、ときに問われるままに、祖国を不当に制圧した政府、その、祖国独立をもたらした政府を批判した。口汚く、罵り、…もっと?
と。…もっと聴きたい?
言ってやるよ、と、その、妙に醒めた感情を伴わない落とし穴の真空と、饒舌な、苦痛に満ちた鮮やか過ぎる記憶の想起が渦を為して、そして、それらはお互いに干渉しあうことさえ無い。
かならずしも演技だったわけでもなく、自分に理由を終に明かさないままに涙ぐんだジウの、脱北にいたる告白を記者たちは詳細に渡って取材した。なにも生きる手助けをしてくれるわけでもなく。だれか他人の一時の興味を呼ぶに過ぎない言葉の群れを、獲得するためだけに。彼らの眼差しは、あまりにも素直に、いまジウの言葉を聴いている自分が正しい人間である事を隠そうともしなかった。
ハオがホテルの部屋のドアをくぐった瞬間に、ジウはハオの姿を見失った。あわてて同じようにドアをくぐったジウの即頭部を、ドア影からハオは殴打した。
拳に容赦はなかった。むしろあまりにもあざやかな拳の痛みに、自分のこぶしこそが傷んで仕舞ったかもしれない予感に、ハオは声を立てて笑っていた。
笑う、その男のわなないた息遣いが耳にふれる。
ジウは戸惑いさえしない。首をへし折るように縮めて、いまだ開け放たれていたドアの向こうを、どこからか来たアジア人種の家族が子どもをふたり連れて通り過ぎて言った。
だれにも、ジウの存在には気付かなかった。
後頭部を、ハオの肘が打ちのめしたとき、ややあってジウは頭の中出だけ悲鳴を上げていた。…雪。
と。ジウを好き放題に折檻してやりながら、ハオはひとり、自分勝手に拡がったその風景を見い出す。
覚えていた。やだて、そのときに、バイクを通り抜ければ、開けっ放しの青いシャッターの向こうに、若い女がひとりで立っていた。
二十歳前後の、幼さを残した女。女は、ひっつめた髪の毛の後れ毛を、肩越しに数十本だけひらめかせながら、…あれ?
誰なの?
と、すくなくとも彼女にとって、ハオが予測も付かない侵入者だったことを素直に曝した。…まさか。
つぶやく。…まさか、そんな。その、言葉のないつぶやきが、女の眼差しを占領してしまう前にはすでに、ハオは彼女の額に銃口を押し付けていた。「…手遅れだよ。」
ささやく声。
「もう、助からない。…ほら、」
その意味など女には分からない。
「俺が、」
瞬き、「…射殺するから。」言い終らないうちに、引き金を引いたハオの背後で、後れて追いついたタオは小さな悲鳴を上げた。自分がいたいけない少女であることを、余すところなく、羞じる余地もなく曝した素直な悲鳴。眼の間に、後頭部を破裂された女の眼差しがあった。
女は、自分が致命的に死んで仕舞ったことにいまだ気付いていなかったのかもしれなかった。そんな気が一瞬だけした。その、認識がハオにふれようとしたときにはすでに、女の身体は関節を萎えさせた足から崩れ落ちて、その血まみれの頭部を更に、床に殴打した。ややあって、ハオの暴力を、諌めるか非難するか、そんな眼差しを浮かべているに違い背後のタオを振り向くと、タオはただ、赦します、と。
あなた、赦すわ。…そんな、あからさまにハオを哀れんだ、赤裸々に大人びた眼差しを浮かべていた。あるいは、と。ハオは想った。この眼の前に微笑んでいる女を、いきなりぶん殴って遣ればよかったのだろうかと、ジウは泣いていた。
想いだす。ジウは、今更のように、銃弾を打ち込まれ、倒れこんだ自分の前にのぞきこんだ無数の顔。
ベトナム人たちに違いない。自分は、ベトナムで銃を乱射したのだから、と、…薄穢い**ども、と、そうつぶやきそうになったジウは、「…死ねよ。」と言ったその声。それはハオ、あの、見ず知らずの異国人だったハオの、そして、眼の前の男は警官に違いない。ふざけた、知性を感じさせない眼差しで、誰がみても助かりなどはしない銃弾だらけのジウの生存を確認しようとするのだが、殴打されて、息を詰める。
ジウは、わけのわからないやさしげな音声の異国語を唇に曝すその男に、そのホテルの部屋で折檻させれるに任せ、…知っていた。と。そう想った。こうされるに違いなかった。ここに来て仕舞えば、と、知っているか?
笑いそうだった。ジウは、見つめる無数のベトナム人たちの眼差しに、お前らがいまさら何をしようが、俺はもう死んでいくしかない。「死ね、カス」と、そう言ったに違いない。
ハオは、ジウを殴り倒し、蹴り上げながら、やさしげな息づかいの許に、そしてジウは身を曲げ、身をのけぞらして、…赦して。
お願い、…と。男たちの温度のない伺う眼差しの向こうに、女の悲鳴が聞こえた気がした。…マイ?想う。赦してください、もう、と、いつか、その言葉の群れがいくつも反響しては、一切の意識を残さない。ジウは不思議だった。ハオに好き放題暴行され、鼻血に塗れた鼻と切れた唇で床を舐めながら、赦してください。その音声。聴きなれない、意味の分からないベトナム語はそう叫んでいたに違いない。…叫び声。「死ねよ。」赦して、…と、その声がなぜ自分ののどからは発されないのだろう。ジウはおののく。自分はこんなにも許しを求めているに、…と。その声。雄たけびのような声。あるいは、屠殺される動物のような、野太い男声のそれ。
罅割れた、地の底で鳴っているべきだったようなそれ。…チャン。
眼のない、あの女、と、想ったジウは、息遣う。あららげて、救いようもなく疲れ果てて、身体を折り曲げて床に唇を押し付け、鼻をひん曲げて、尻だけ突き出して、死んでいく…と。
「死ね。…カス」
そんなこと言われなくても、…と。
俺はこうやって死んでいくよ、そう何度もつぶやいていた気がしたジウの尻を蹴り上げて、ハオは声を立てて笑った。開け放たれたままのドアを閉めようと、後ろを向いた瞬間に、とおりかかった現地の女ふたりが一瞬、ハオに恥らった眼差しを向けた。
そらした。
痛めつけられた若い男を床に倒れさせた、美しいいかにも異国の男に、彼女たちは何を認識したのか。その眼差しの中で、男は同国人だったのか、異国人だったのか。いずれにしても、ハオの眼差しにはふたりの少女じみた、不意に初めて恋を知ったような眼差しだけが一瞬の不可解な残像を残した。
0コメント