小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑩ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進めす下さい。
台所スペースは巨大だった。つい数年までは、あるいは、ほんの数ヶ月までは、昔ながらの古びた建物が建っていたのだろう新築の気配の抜けないそこに、建築デザイン本の見本を寄せ集めて作ったような家屋の中のキッチンは、ぶち抜きのワンフロアを丸々占めて無意味に奢ったというほかない広大なスペースを見せていた。それとも、彼等にはたかが料理にこれほどの空間を必要としたのだろうか。
台所のくせにいちいち二階に作られていたので、とにかくフロア一面がほしいというオーダーだったに違いない。それは、射殺された女が出したオーダーだったのだろうか。あるいは、その母親のオーダーだったのか。姉の?妹の?その、真ん中にただっ広いアルミの無機質な作業代をいただいただけのそこの、隅にふたつ並んだ冷凍庫のひとつを開けて、タオはふたたびはしゃいだ声を上げた。
語彙をは結ばないそれは、あきらかにべトナム語のはしゃぎ声だった。…言語。
ハオは想う。なんにでも、人間の音声には言語種上の種籍があるのだ、と。…鶏。
そこには、一目で数羽分のそれである事がわかる、骨ごとたたききられ分断された鶏の切り身が10ピースほどのラップ捲きになって、つめこまれていた。無理やり押し込まれたので、冷凍庫はあけると変な音を立て、そして、ブロック肉の塊は凍り付いて転げ落ちようともしない。
タオは、明らかにその日の収穫に満足していた。
その日の夕方までに、そのまま二階で調理を始めたタオを待ってやるためにハオは、一階のソファに座り込んだまま、帰って来たひとりの老婆とひとりの60代らしい男を射殺した。
老婆は80代に見えた。もっとも、80代を超えて仕舞えば、もはや年齢に差異らしい差異などなくなって仕舞う。すくなくともハオの眼には。だから、ハオはその人も殺せないような、余りも気弱な眼差しを浮かべた老婆に微笑みながら歩み寄って軽く会釈したが、いまだに老婆は自分を迫害するものなのか、救ってくれるものなのか、自分に銃を突きつけて歩み寄るその微笑んだ美しい男にさえ判断がつきかねていたままに、気弱げに、やさしく彼を見つめてそして、ハオが引き金を引いたとき空間に撥ねた老婆の頭部は、そしてその瞬間にどこかで鼠が疾走したのだが、…何歳?と。
倒れこんだ老婆の死体を覗き込んでハオの眼差しはかならずしも興味もないままにその年齢に探りを入れていた。
考えてみれば、あまりにも悲惨な風景だったに違いない。
辛酸を舐めたこともあったに違いない若い頃の、殖民地独立闘争から統一への戦争、それらの銃弾が匂う時期を乗り越えて、そしてさまざまな時代の政治変動に翻弄されて生き延びた挙句に、不意に自分のあずかり知らぬところで終って仕舞っていた人類の繁栄期の、その最期のわずかな時期に棲息していた時間さえも、異国の人間にいきなり説明もなく奪われなければならない。これ以上の悲惨な人生が、…と。
人ひとりの人生がここまで悲惨であっていいのだろうか。ハオは想い、…知ってる?
死んで仕舞う前の日にジャンシタ=悠美はささやきかけた。
その、十八歳の、とっくに自分勝手にいかにも女らしく色づいて、そして決して本人にはそれを良しとされなかったあざやかな肉体を、やつれはてもはや汗もかけないほどに干からびさせて、…駄目です、と。
「そうお願いしたの。」
高熱が、彼女の高揚を曝す眼差しからすでに、恍惚していないときには恍惚としないでいられる自由をさえ、奪っていた。
見舞って、病室に入った瞬間にハオは後悔した。…マリアさまに。
「…知ってる?」
こんなところに、死なない人間は来てはいけない、と、あからさまな闘病の猛威をふるった熱病の見えない脅威が、…信じられないくらいに、…聖母様は…。
ね?…
「お優しいの。」
ここは破壊の巣窟に過ぎないと、それら、あたふたする看護婦たちと、その治療。何本もぶら下げられた、たぶんだれも正確な意味など把握していないに違いない点滴の群れ、ささやき声の、轟音のような連鎖、…お願いしたの。
「わたし、…」
…地獄に、わたしを堕としていただけませんか?
「お願いです。罪に、…」
病名の定かではない熱病に、あるいは、持て余すほどのほどの感染症の併発に、ジャンシタ=悠美の肉体はもは容赦なく…罪に塗れたわたしに一切の哀れみなど不用なのです。ですから
「もっと、…」
彼女の肉体はうかつにふれることさえ危険な、もっとも深刻で、重度な汚染物だったに違いない。医師たちは防御服に近い医療着に身をつつんで、彼女の母…もっと赦されざる罪を犯した、それらの
「哀れな人たち、…彼ら…」
彼女と父親は隔離病室の外で、見舞いに来た私に、呆然とした眼差しをくれた。…ああ、と。日本人に違いない三人目の父親のほうはまだしも正気をなんとか健気に確保して、…彼らのために、彼らの分の、永遠の、
「その百乗の責め苦をわたしに与えて、そして」
ありがとう。…聴いてます。…悠美から。お友達なんでしょう?…知ってる。ぼく、知ってる、と、その頭の禿げ上がった中小工場の経営者。それなりの財を為して、大久保のはずれに自宅を購入した。…地獄の一番奥底に落としていただけませんか?
「…って。」
死んで仕舞え、と。ハオは想った。どうせ、こんなにまで破壊されて、無理やり生存させられているのなら。一切の意思の自由もなく、もはやまともな意識さえもなく、ただ狂って行くしかないのなら、こんなにまでして君は…そうお願いしたわ。しずかに、涙を
「流されたマリアさまはきっと、」
生きてある必然など何もない。だから、と。お願い
…ね?
「願いをかなえてくださるはずなの。」
死んでくれよ、あなた自身のために。
そう、つぶやく隙もなく、数秒だけ赦された面談は引き離された。あまりにも丁寧で、切迫した、看護師の女の叫ぶようなささやき声に。…ごめんなさい。
もういい?
これ以上駄目。複数の形態を持ったヴィルスがそれぞれの特異性をそのまま発現させる熱病に、医学は為すすべもなかった。そんなことなど、医者も、医者に回復の困難さを説明された両親も、十分知っていた。
死んでいくしかないジャンシタ=悠美の死の到来を、彼らは隔離病室の前で待つしかなかった。母親はただ、目に映るものを見ていた。廃人のような、と、そう言って仕舞えばその廃人に対して失礼だったに違いない。彼女は単なる空洞に過ぎない。引き離された集中治療室という名の隔離部屋で、ジャンシタ=悠美の身体は、過剰に汚染された、じかには手もふれられない危険な発熱元そのものと化して、ただ、容赦もなく発狂していた。母親の眼差しは沈黙を守っていた。意識もなにも、彼女の眼差しの向こうにはとっくになにもかもが、あるいは娘の存在さえもがすくなくとも一時消去されている事は明白だった。
病室の外に連れ戻されたハオは、為すすべもなく彼等両親の眼の前に立っているしかなく、彼等にかけるべき言葉も、発されるべきみずからの独白もないままに、背後に行き来する医療関係者たちの気配をだけ感じ取っていたが、ジャンシタ=悠美の自傷。
彼女は、13歳のときに、自分の爪をはがした。はがして、それらを綺麗に大学ノートのうえに並べると、母親に見せた。
血だらけの指先で、そして言った。「悪魔が、…」
…ね?
「わたしにさっき、ふれてったの。」
帰って来たその男は、一瞬、たじろいだ。たしかに
「赦しちゃった。…ごめんね、」
彼の戸惑いには無理もなかった。なぜなら
「赦しちゃったの。ふれて…って。」
歩いて帰って来た60代の彼は、いきなり
「いいよって。いっぱい、わたしを」
彼に気付いて微笑んだ見ず知らずの男の美しい微笑を
「辱めてって。…知ってる?」
見出して、そして
「ささやかれたの。…彼、…」
足元に転がっていたものの存在にはすでに
「天使に。…捧げなさいって。すべての」
彼は気付いていた。もう、
「罪ある人たちのすべてのために」
息などしてはいないその
「あなたの魂も何もかも…」
女の肉体。頭部を吹き飛ばされた、その
「壊しちゃえって。…彼らのために」
それ。…何が?と。
「知らないの。なにも、自分が」
想った。彼は
「何をしているのかさえも。…だから」
何が起ったのか、それを尋ね獲るのは眼の前の男、ただ
「言った。…あなたのもの。」
彼だけだった。男は口を開こうとした。ここで何が、
「…って。好きにして。」
何が起きたんですか、と、それらの言葉、それら
「あなたたちのもの。わたしにだけ」
見知ったはずの母国語を自分の頭の中に
「巣食って、わたしのすべてを」
探した。探し当てないままの唇が一瞬
「壊しちゃいなさい…」
わななこうとしたとき、ハオは
「…って。」
引き金を引いた。後ろ向きに倒れた男の頭部は、吹き飛んで背後の樹木に引っ掛けられていたハンモックに血と脳漿のしぶきを散らした。
指先から腕にかけて、容赦なく付着した硝煙の匂いは、隠しようもなかった。それを、一切気付かない振りをした三階の食卓のタオに、ハオは自分への慈しみとやさしさをだけ感じた。…おいしいですか?
おいすぃでっか
その、タオの唇の先に立った声を聴き、庭。
その家の裏庭は、想いもかけず広かった。外から見た印象を見事に裏切って、内側にはそれなりの庭があって、ココナッツの樹木を一本、真ん中につきたてていた。見あげるその巨大な、てっぺんに放射状に葉を茂らせた樹木の下に、ハオは、三階に上がる前に三つの死体を並べた。鳥たちはついばむだろうか、と、ハオは想い、平屋の向こうの家屋の先に、すがすがしすぎて惨めなほどに晴れた空が見えた。鳥たちの気配はなかった。
いわば鳥葬。
例えば、ゾロアスター教のそれの正確な流儀など知らない。とはいえ、鳥たちがついばむことを期待してこうして廃棄して仕舞えば、それはひとつの明確な鳥葬だったのだろうか?
あるいは、単なる野晒しに過ぎなかったとしても。もしくは、結局はこの、鳥たちのためにはかならずしも広大とは言獲ない空間の中に鳥たちが舞い降りることなど、結果としてなかったとしても。野晒しで腐敗にまかされるしかなかったとしても。自分はいま、彼らを弔い、埋葬したのだろうか?チャンは死体が撤去された、とはい飛び散った血がいまだに洗い流されない中に、ひとりで寝ていた。
《破滅の日》の夜が明けて、タオを連れてクイの家に行ったときに。
警官たちをタオが綺麗にあしらって追い返して仕舞った後に、彼女は、自分のための当座の衣服ぐらいは、クイの家屋から持ってこなければならなかった。フエの衣類なら大量に残っていた。それらで代用することも可能だったが、その拒否は頑なだった。タオは自分だけで行くと言い張り、
わたしんがいくまっ
それに対して、ハオは「…独りで行けるわ。」首を振った。…あぶないよ。
「俺も行く。」
…お前、ひとりで行ったら、
「…ね?」
何されるかわからないじゃん…
「きみを、…」
…違う?
「…ね?」
俺も行ってやる。
「独りにはしないよ」たぶん、と。彼らは俺をも殺して仕舞うだろう、と、そうハオは心のどこか、意識の手前で確信していた。庭先の不意の銃殺事件の勃発に同情の眼差しさえ見せた、愛想のいい警官たちが帰って行った午前の9時の、次第に熱気を増し始めた空に、…確かに、と。
海の向こう、あるいは大陸の離れたどこか、それら、無数の発火点で、無造作なほどに核兵器が爆発されたというのに、いまだに空は晴れている、と、その事実にハオはいまさらに違和感を感じて、…日本の空は違うだろう。
東京と、広島と長崎の上空で炸裂させたに違いない日本の空は、もっと凄惨な姿を曝しているのではないか?
ハオは、タオの腰にふれ、タオは、そのエスコートに大人の女の振りをして一瞬、従った。クイの家にはいまだに警官が頭を並べていた。確かに、フエの家の大量殺戮とは、種類の違う殺戮だったに違いない。フエのほうは、単に誰か他人の射殺の後始末に過ぎず、こっちの方は、実際に自分たちが引き金を引いたのだった。たとえ、それがたった一人の狂った外国人を集団で射殺したにすぎなかったにしても。
近所の人々はもはやそこに寄り付こうとはしなかった。テープで一応は封鎖されたそこには、警官の十人ほどと、生き残った親族の何人かが、いかにも悲痛な顔を曝して、赤いプラスティックの椅子を出して座り、そしてそのサンはタオを見た瞬間に不意に声を立てて笑った。
…生きてたのか!
と、そう言ったに違いないと、ハオは聴きなれないその異国語のみっつくらいの音節を聴き取った。
警官に、タオが物を言う必然はなかった。その、遺族たるサンの振る舞いが、その少女と射殺された家族たちとの関係性を明示していたし、その少女が寄り添っているのだから、彼女を先導していた異国の男は彼女たちの側の人間だったに違いないのだった。だれも、自分の顔を覚えてはいないことに、ハオは、笑いそうになった。
果たして、本当に自分はこの世界を滅ぼして仕舞ったのだろうか?テープをくぐって、家屋のシャッターを開き、中に入るとたしかに、彼が見い出しているべきとおりに、世界は滅んでいた。
死体はすでに取り除かれていた。血痕の始末は手をつけられてさえいなかった。壁に、脳漿かなにか、肉片のようなものを散らして、血が半ば乾いていた。悲惨な風景だ、と、ハオはいまさら想ってタオを振り向くと、タオは盛んに自分にだけ話しかけていたサンに、ただ、うなづきながら沈黙を守っていた。ハオを横目に窺いながら。
凄惨な殺戮現場にハオの精神状態を、あるいは案じているのかもしれなかった。
敬意官たちは複数名、それぞれに仕事らしきものをしてはいた。ときに、煙草に火をつけながら。
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