小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑦ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進め下さい
「…馬鹿でしょ?」
ハオは言った。慶介は、しずかな、不可解な恥辱に塗れていた。「…痛くない。」と、そう言ったのはハオだった。ジウは知っている。
差し出した手のひらに突き刺されたナイフの柄が空中で窓越しの逆光の中に翳るのを、そして、かつて、…痛くない。ソウルの、ハオの居城だった狭いホテルの一室の中で、あるいは触感。
そのとき、右手の手首をつかみ、押さえていたハオの、やわらかな、誰一人として人など殴ったことがないかのような手のひらの触感。まるで女のそれのような、そのくせ骨ばった。確かに、発砲して射殺してさえいれば、かならずしも拳は空手の武闘家のようにささくれだっていなければならない必然性など何もない。その当然は、ジウにいまさらながらあざやかに、目舞いをさえ伴って追認されながらも、やさしさ。
ふれあった皮膚と皮膚のやわらかな触感が曝す、赤裸々なやさしさ。悲鳴を上げて仕舞うそうだった。…苦痛に?
痛みに?
鮮明すぎる痛み。あるいはドラマの中の、脅迫された女の子のように。わかりやすい悪役にわかりやすく襲われた韓国人女優の投げやりな演技の中のそれのように。あのときも手のひらにナイフが突き刺さっていた。それは、テーブルごと突き刺していて、「…痛くない。」ふたたび、そう耳元にささやきかけたときのハオは、明らかに笑っていた。
ハオを見つめる勇気は彼にはなかった。…大丈夫だから。
「痛くないだろ。」
ハオに逢って一年経っていた。ハオはジウを日本へ連れて行き、そして、ジウは強制的に日本語を覚え始めるしかなく、あるいは、ハオが韓国に渡るたびに、ジウは彼の通訳をしなければならなかった。明らかになまりのある韓国語。乃至、正確には北朝鮮語。その日、なにがハオの逆鱗にふれたのかはわからなかった。乃至は、逆鱗にふれる事件など何も起っていなかったのかもしれなかった。とはいえ眼の前には、いきなり振り向き様のハオに突き立てられたナイフがあって、突き刺された手の甲にはあざやかな痛みだけが、あるいは痛みの感覚などはすでに完全に麻痺して仕舞っていて、部厚くて、単に巨大な発熱だけを筋肉は、骨は、好き放題に曝し、あくまでも悲鳴をあげる前の寸前のままの停滞のうちに、ジウの喉に流れる時間はふるえわなないていた。…痛くない。
「気持ちいいだろ?」
…大丈夫?
「気持ちいい?」
…痛くない。
「感じても」
…いいよ。そう言った瞬間に、「感じちゃう?」声を立てて笑ったハオの、ナイフの柄をつかんだままの右手が大きく揺さぶられて、えぐられた手の甲の骨と肉が、ついにはジウに悲鳴を与えた。
ジウは悲鳴を上げていた。鋭い、女の子のようなそれでは在り獲なかった。穢い、…と。
ジウは、自分の喉が立てたその野太い獣じみた轟音を呪い、軽蔑し、同時にすでに恥じていた瞬間に、ハオの拳はジウの鼻を殴打していた。「…だまれ。」
…カス。
そうつぶやいた、ジウの唇を慶介は見つめた。ジウは、意図的に、派手に笑い転げるハオを見つめた。その傍らに、老いさらばえた元美青年が、いかにも律儀に更け込んだ顔をにやつかせていた。…なに?
慶介は言った。「なにこれ。…お前、」
これなに?
「お前、調教したの?」13歳のタオが、ふしだらなまでにその、いまだに幼いままの、子どもの気配が抜けない身体をあえて誇示して見せて、洗った髪の毛をだけ先に拭き取る。濡れた体に、周囲に水滴の、その飛沫を投げとばすのを何の制限もなく赦して。
乱れ散る水滴はハオをは濡らさない。
晴れていた。
晴れてさえいれば、かすかに、むらさき色をおびて感じられるくらいに濃い空の色彩は、目舞うほどに鮮明にその明るさを力ませて、そして、容赦のない熱帯の、限度を超えた温度が地上に降り注ぐ。気温は、もはや体温をなど超えていたに違いない。一週間に、二、三日の晴れ上がった日に、降り積もった極寒の積雪は身もふたもなく崩壊し、いたるところで雪解けを起こす。手入などされない路面は洪水の日のように、水を溜め込んで仕舞うしかない。経済など、とっくに破綻しきっているに違いない。その詳細は、ハオにはわからない。
《崩壊の日》の、わずかな一ヵ月後には、そんな《崩壊の日》以降の馴れようのない気候の当然が人々の肉体を破綻させて行った。ときに、ハオは町で見かけた。日陰に、赤いプラスティックの椅子を出して座っていた老人が、その姿勢のまま眼をさえとじないままに死んでいたのを。あの、極端な寒気と極端な熱波が晴れと雪の後退のたびに繰り返されるようになってから数週間たったあとで、そこ、結局は、恢復されないままに、焼け出され放置された町の、《盗賊たち》の放火の痕跡を曝すブロックの裏の路地で、川を見渡せる更地に向った樹木の下、通りがかりに見かけたその老人には、一目のうちにすでに違和感があった。
近寄ると、彼は死んでいた。そんなことなど、近づく前からすでに感づいていた。生きている肉体にはない、なにか時間を凝固させた、もはやこの世に生きては無いことをひそかに言葉もなく明かしたたたずまいを、意図したわけでもなく赤裸々に曝して、そしていずれにせよその老人は死んでいた。
振り向くとタオがいた。ハオを見つめて。タオは11歳だった。彼女はハオはよりも敏感に、すでにその異変を感づいていたのだった。タオの、ハオをだけかたくなに見つめる眼差しに、哀れみなど一切存在しなかった。そこにある異形のものに対する、容赦もない忌避だけがその眼差しを、かすかにわななかせていた。まるで、そこになにかの穢れもの、病原菌のかたまりでも存在しているかのように。…だめ。
それに、ふれてはいけない。
…と、その眼差しが、短く鮮明に
近寄ってもいけない。
そうつぶやき続けるのをハオは、
それは
聴く。
それは、穢いから。
見ていた。沈黙した眼差しの中に、それら、そんな、タオのおののいた心の動揺を。見下ろした老人の、死んで数時間はたっているのかもしれない死体を、とはいえ、必ずしもハオに何かの感情が湧くわけでもない。
その一帯はほとんど無人化していた。どうしてそうなったのかはわからない。たぶん、ここを離れた人々の、それぞれの理由でその一帯は放棄されたに違いない。いずれにしても、放棄したそれぞれの人々のそれぞれの理由で、そこは最後の日々にはふさわしかるべき場所だったという、その事実だけをはかろうじて意味されていた。
角を曲がってブーゲンビリアの樹木の翳をくぐった。正午。どこにも人翳はない。気配さえも。それでも人の気配を探した。誰かに逢いたいわけではない。狭い路地に、コンクリート造の粗末なちいさい掘っ立て小屋を並べたその界隈に、ハオは、止められたバイクを見つけた。
極端に高騰したガソリン代に関わらず、その人間はいまだにバイクの利用をやめられないのか。あるいは、ガソリンが尽きたまま、そこに放置されているだけなのか。
いずれにしても、人の気配には違いなかった。不意に立ち止まった。
ハオは見あげた。
そこには空。
気付いていた。ハオは。背後に、おそるおそる付いて来るタオを、突然の自分の停滞はかすかにでも驚かせて仕舞ったに違いないだろうことを。赤い。
そう想った。
空は青かった。色彩の表現としては、それは明らかに青い、と、そういわれるしかないのだが、にもかかわらず明らかに、それは白みを一切排除して、むしろ黄色がかった下地のうえに青を鮮明に拡げて、いよいよ濃く研ぎ澄まされた奇妙なまでにグラデーションを欠く青一色の色彩が曝され、その濃化の果てに赤みを兆し、あるいはむらさき色の、と、そう、見えてもいない色彩の名前を一想いに口走って仕舞いたくさえなる、…滅びの色彩?
想う。
かならずしもそうではない。ハオは想った。このあと、いずれにしても新しい生態系が目醒め、繁殖して仕舞うのだから。二酸化炭素を喰う生き物が繁殖したのだった。放射能を喰う生命体がかたちづくる生態系も不可能とは言えない筈だ。いずれにしてもある一時期のある地球上のある一季節の記憶。…好き?
そう言った。
ハオは想い出し、その少年。
自分の身体的な異常を、あるいは異端性を、あるいは特異性、個性、いずれにしても両性具有とは決して言えない、自分の身体の女性化を、教えたときにジャンシタ=悠美という名のフィリピン系混血児の彼女はつぶやいた。
十三歳のハオ。教師も含めて、学校のだれもがハオを恐れていた。文句しか言わない被害妄想に取り付かれた馬鹿な父親をもひっくるめて。ハオは微笑を浮かべたままに、怒りの表明もなく不意に友人に制裁を加える。想いついたその瞬間には、彼は眼に付いた少年を殴り、蹴飛ばして、かならずしも、彼が結果としてその喧嘩に勝とうが負けようが、ときとしてその想い付きが自分への、乃至他人への集団リンチをもたらそうが、その彼自身にとってはそれは問題ではない。どうしても結果に納得できずに、癪に障れば、もう一度制裁を加えてやればいいだけなのだった。だれも、彼に媚びる眼差しは浮かべても、決して彼の家にまで遊びに来たりはしなかった。それは危険だったから。だれか第三者の眼の届かないところで彼に接近して仕舞えば、結果として何を彼にされるかわかったものではない。生き物として、危険は懸命且つ賢明に回避されなければならない。
ジャンシタ=悠美は、ハオが彼女の眼の前で、ハオが自分のTシャツを剥ぎ取った瞬間に、自分を防御とした。…やめてください。
けなげなわたしを穢さないでください。
そんな気は無い。かならずしも、褐色の肌を曝した、その、ハーーフのくせにありふれた日本人じみた顔を曝して、日本人の貧弱な女よりも華奢で、去勢されたかのように性的な魅力の一切を欠くジャンシタ=悠美に、性的な興味を駆られる人間などいない。
女だったら、と。ハオは、嘲笑うような微笑を、自分の眼差しの、その視線の気配にだけほのめかして、想う。…ほかにいるよ。
大量に。
お前*****なんかよりもっとマシな。
事実として、多くの少女たち。自分に、あやうい想いを必死にひそめた、無数のあやうい少女たちの、軽蔑はされても報われはしないあやうく確信に満ちた眼差しの散乱。…愛してください。
こわさないで
けど、ふれないでください。
こわれないくらい
あなたは危険で、ふれられると、
こわして
壊されてしまうから。
むちゃくちゃにして
汚されてしまうから。
それしか、あなたには
台無しにされてしまうから。
できないから
愛してください。…と、それら、不可能な要求を、ハオに、自分ではその不可能性に気付きもしないままに、暗く内捲きに破綻した感情をあくまでも自分勝手に咬む。
そんな少女たち。…大丈夫。
僕は、きみを傷付けない
怖がらないで
君が自分で自分を傷付けない限りは
と、その眼差しに兆された、ささやく唇に先行した言葉にジャンシタ=悠美がふれよりも前に、彼女は眼にふれたものに眼を奪われていた。その、貧弱な自分の胸には、いまだに目醒めてはいないもの。もはや、あざやかでさえあるそれ。あなたは、と。
あなたは哺乳類ですよ。
…知ってた?
そんな、つぶやきを漏らす、その
「…ねぇ」
ゆたかな胸の、あまりにも女性的な豊饒さ。「知ってた?」言った、その、耳に聴こえていたハオの言葉を想起し、不意にジャンシタ=悠美は耳の中に反芻した。
知っています
見ていた。ジャンシタ=悠美は、その
多くの奇跡を
緑色がかった瞳の色彩。なぜ、
知っています
そんな色彩が与えられたのか、それは
多くの悲惨を
ジャンシタ=悠美自身さえ知らない。フィリピン人の
今日、多くの
母親は
悲しみにまみれた、自分が
その瞳は綺麗なブラウンだった。そして
おろかであることをさえ知らない人々が
日本人の父親はありふれた
自分自身の、固有の
個性のない瞳を無様に曝しているだけだった。なのに
みずからの救われようもない罪のなかで
…なぜ?…と。時には自分のその出生を訝りながらも、
滅んでいくのです。いまや
ジャンシタ=悠美は、見ていた。それ。…ハオの
自分勝手に
豊かに息づいた胸の美しさ。母親の、あのルシアの
好き放題に、…わたしには
その胸の美しさは知っている。それと
人々はもはや自分の滅びを単なる
同じような、あるいは、だれにも穢されてはいない
無知なる自虐そのものとして、…愉楽
瑞々しさのせいで、はるかに彼女のそれより
愉しんでいるように想えて仕舞うのです。むしろ
美しく、幼い
泣いてください
それ。…そうなの?
彼らはなにも知らないのです。なにも
…と。
自分の右手が自分の首を絞めて殺して仕舞ったことも。なにも
そうなんだ。…あなたは
自分の左手が両眼を抉り出して、もはや盲目と、そして
…ね?
狂気の中にみずからその身を貶めて仕舞った事実をすらも
そうなの、…
…哀れんでください。ただ、彼らを
…ね?…と、
見棄てないでいる猶予を継続させるためだけに。たとえ
不意に自分に予告もなく
それが彼らの悲しみと悲惨を延長して仕舞う以上の
同意をだけ求め始めたジャンシタ=悠美のその
意味をなど一切持ち獲ないとしても。罰してください。最も
縋るような、切実な
凄惨な処罰を私にください。あなたに
眼差しをハオは見出して、見てる?
懇願したわたしのあまりの
想う。彼は
救いようのない傲慢さを、彼等の代わりに一切の猶予もなく
ちゃんと、見てる?…知ってた?
容赦もなく
俺の秘密。…
悲惨を、ただ、わたしにだけください。あなたに
綺麗だろ?
懇願するわたしの穢れた欲望のうめきの故に。ただ
見惚れちゃう?…たぶん
速やかにわたしに、地獄の永劫の
お前のなんかより、はるかに
責め苦をいただければわたしはむしろ讃えるでしょう。あなたを
綺麗じゃない?…ねぇ
心から、永遠に
「見て、…」
ホサナ、と
そうつぶやいた、ハオの言葉にジャンシタ=悠美は眼差しの表情をさえ変えなかった。自分がささやいた言葉など、だれにも聴き取られなかったに違いなかった。彼はそんな気がした。彼女はハオを見つめていた。
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