小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑥ ブログ版





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上、お読み進め下さい。





ジウはその、「何でもするよ。」ハオの声を「***でも喰っちゃうよ。」聴く。「…でも、」やさしく「自殺はしない。」誘惑的に響くそれ。

「生きてないと、痛みを感じられないからね。」

ジウは、「ドMの変態くんだから。」ハオが命じるままに自分の手のひらに刺身包丁を突き刺したとき、頭の中が炸裂したに似た閃光を感じたのを遠く、知覚していた。ハオはタオをひっぱたいた。

その瞬間、タオの眼差しに光が戻った気がした。

彼女の背後にさえ、自分が射殺した死体が転がっていた。それは、確かに凄惨な現場だった。

一体何人の人間がこの日一日で死んで仕舞ったのだろうと、不意にハオは計算しようとしてやめた。覚えていなかったからだった。正気づいたタオの眼差しが、必死になっていま自分が取るべきもっとも正当な態度を探しあぐねているのが、ハオには気づかれた。さまざまな、言葉以前の情動の気配が、辿り着くはずのない論理的かつ倫理的正当性にふれようとして、そして、それ、たとえば海水が必死に鉄筋コンクリートのビルを擬態しようとしているかのような、理不尽な戦闘を中断させたのは、ハオの不意の口付けだった。やわらかい、子どもの頬への。

それが、その少女にとって、あまりにも誘惑的で、扇情的な、決定的な承認を与えることにはハオは気付いていたが、言葉をまともに共有しない彼女に複雑で繊細な言葉を伝えるためには、そんな、余りにも残酷で暴力的な殴打を加える以外に方法はなかった。…お前は、と。

俺を愛し、従えばいい。なぜなら、それ以外にお前にできることなど何もないのだから。タオは、その発話されなければ、暗示されもしなかった言葉を、そのまま承認したに違いない。「…見せてよ。」

そう言ったハオの言葉に、ジウは嫌悪の表情を浮かべる隙さえもなかった。…やっちゃってよ。

渋谷の、慶輔の部屋は、広大なルーフバルコニーを見せ付けた壁前面の窓から、横殴りの陽光を差し込ませていた。ジウは、自分が縋るような眼差しをハオに投げかけていることには気付いていた。…中国人たちを、と。

ジウは抗う勇気など、自分がすでに

ハオは想った。懲らしめてやりたいと、そう

失うどころか、みずから

想っていたものだった、と、ハオは、その

放棄していたことになど気付いていた。…いいですよ。

例えばベトナムに向う飛行機のチケットを押さえるように

それがあなたの、いまの、

ジウに電話で連絡したその時に、渋谷の

オーダーなんですね?…いいでしょう。あなたに、

道玄坂の映画館の上の喫茶店の中で、路上を徘徊する

見せてあげましょう。見たいんでしょう?…と。ジウは

エレガントな若い中国人たちの4、5人の集団を見たときに

想った。その、思考が彼の頭の中でようやく、はじめて

彼らは処罰されなければならない、と、ハオはそう

かたちを為そうとしたときにはジウの右手は、その

想ったものだったと、彼は

いまだに癒えていない手のひらの裂傷の痛みに

想起する。眼の前の、雪に埋もれ始めた軍人の自殺体に

一瞬顔しかめながら、そして剥ぎ取られた左手を隠す包帯は

眼差しを投げ棄てながら、彼らは

床にたれ落ちて、音さえも立てない。ただ

責任を取らなければならない。…と、ハオは想った。彼ら

日差しの中に、それは

上品に、いかにも富裕な身振りで、かならずしも

きらめいていた気がした。それを確認しはしなかった。もはや

華美すぎないいでたちの彼ら、新しい中国人たち。…なぜ?

ジウは手のひらの傷を見ていたから。慶介、その

ハオは自分を嘲笑う。誰のために。何のために?

ハオの傍らに添うた年甲斐もなく悪趣味で、好き放題に

あの、自殺した、馬鹿な中国人のために?

年齢による劣化を曝した、かつての美青年の

遠巻きに息子の自分への呪詛をほのめかした、あの

成れの果ては、鼻にだけ

古い時代の古い中国人の、もはや自殺した

短く笑って、…なに?

取るに足らない残像の一つのために?…そのために。…と

「なに、しでかすの?」…この、

想う。彼らはその、くだらない残像のたったひとつためだけに

…ね?

何十億人だか知らない中国人どもはみんな

「この馬鹿。」意図的に、過剰に

処罰されなければならない。この

含まされたジウへの軽蔑。感じられた。ジウには。あるいは

あまりにも不当な世界の中で、彼らは、と。あまりにも

いま、もっと、世界中が一斉に、あるいは

不当に処罰され余りにも不当にみずから、みずからの

容赦もなくこの俺を、と。血も涙もなく無造作に

すべてを悔恨しなければ嘘だ。…と

軽蔑してくれたらいいのに、と

彼は

そう想った。

そしてかならずしも父親への愛情などなにもない。

ジウが果物ナイフを突き刺すのを、慶輔は

…確かに

何度かまばたいて、そしてようやく自分が見い出している風景のあらましを確認し、認識し、ハオは子どものように四肢をばたつきながら笑っていた。おかしくてたまらないのだ、と。無様なほどに声を立てて。

眼の前に、あきらかに性的な興奮と恍惚を眼差しに、素直にふしだらに曝したひとりの美しい二十代前半の痩せた外国人が手のひらにナイフを突き刺していた。手のひらに突き刺さって、そのまままるでどこかを指差そうとするその寸前で不意に停滞して仕舞ったような、数本の、しずかに歎いているのかもしれない指先の、かすかに開かれた様態が、それでもかろうじてなにかを兆そうとしていた。

たしかに、それは、鮮明に。

なにを兆していたのかは聴き取れなかった。たぶん、と、それは、その指先の兆した言語を俺がいまだに知らないからに違いないと、言葉にならない認識が鮮明に慶輔を恥じさせた。「…馬鹿でしょ?」

ハオは言った。慶介は、しずかな、不可解な恥辱に塗れていた。「…痛くない。」と、そう言ったのはハオだった。ジウは知っている。

差し出した手のひらに突き刺されたナイフの柄が空中で窓越しの逆光の中に翳るのを、そして、かつて、…痛くない。ソウルの、ハオの居城だった狭いホテルの一室の中で、あるいは触感。

そのとき、右手の手首をつかみ、押さえていたハオの、やわらかな、誰一人として人など殴ったことがないかのような手のひらの触感。まるで女のそれのような、そのくせ骨ばった。確かに、発砲して射殺してさえいれば、かならずしも拳は空手の武闘家のようにささくれだっていなければならない必然性など何もない。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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