小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑤ ブログ版





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上、お読み進め下さい。





早口に、むしろ部屋の中を見回して、「…恨みかわれてたとか、ない?」そう言った。…そうですね。ハオはじっと、何を想うでもなくその…彼は馬鹿で下等人種たるアジア人の見本に他ならない中国人ですからね。警官の横顔を見つめていたが、…いたるところに敵はいたんじゃないですか?ハオはやがて眼を伏せた。むしろ…実際、彼、戦争のとき、何したわかります?身の回りのすべてが、自分を声を上げて、…同じ中国人、馬鹿な恥知らずの軍服着た日本人に売りさばいて廻ってたんですよ。在りもし無い密告でっち上げてね。非難しているような気がした。お前は、…むしろ死んだほうがよかったんじゃないですか?辱知らずな死にぞこないだ、と、この世に、…奴こそ正に戦犯ですよ。生きている価値さえもない、と、すべてが。

沈黙したままの、ハオは、やがて検視を済ませた慰霊室で、その死体と対面したときに、微笑んだ。

なにも、うかべるべき表情がないとき、人は、だれでも微笑んで遣るしかない。…と、確かに。

そう、確かに俺はその時にはすでに気付いていた、と。ハオは、13歳のタオが、眼の前で、媚びるような眼差しを浮かべるわけでさえもなく、濡れたままの体を曝しているを見ながら、想った。

シャワーを浴びた後、髪をふきながら濡れた体から好き放題水滴を撒き散らして、ふたつめの居間にまで出てきて、それからようやく体を拭き始める、そんな毎日の入浴の儀式を繰り返し始めたのタオを、ハオはかすかにその意味を探りとろうとした。あるいは、それは誘惑だったのかも知れないし、単に、もはや自分の素肌を隠すべき必然性をハオの眼差しには感じなくなっていたのかもしれなかった。ハオは、振り向きたタオの、何気のない眼差しに微笑んでやった。あのとき、…無数の、それら、あの時と同じように、と、同時に再現された複数の記憶に、そしてハオは微笑のうちに、タオを見ていた。

想った。あんなにも、と。自分に指一本ふれさせはしないと、ハオと同居するようになった直後からの一年間、あれほどに自分の体中に甲羅を張り巡らしていたというのに。

シャワーを浴びるのさえ、ハオがいないときか、ハオが寝た後。たぶん。ハオは一度たりともタオがシャワールームに入って行ったのを見た事はなかった。常に保たれる、一定以上の身体的距離。盗み見られる、ハオの挙動。一番離れた部屋に、タオの似よって確保されたタオの寝室。…わかる?

わたし、貞淑な女なんです。

すでに無効だった。そんな振る舞いなど。もはや、滅びるしかないのだから。だから、と。

あなたに見せてあげるの。そんな、意図されない認識が、ソファに寝そべったハオに肌を見せ付けるタオにはあったような気がした。滅びの日々。

その始まりの日に、明け方、物音に眼を醒ましたハオが、寝室から出てくると、野晒しだった筈の遺体は処理され終わっていた。口も眼も一瞬、泣き叫んだかその瞬間を凝固させたかのようにかたまらせていたフエの死体も。その夫の死体も。頭を割られて、血まみれのまま庭の排水溝にぶち込まれていた、尻だけ突き出したアンの死体も。そして彼ら、ハオ自身が乱射して*殺していった《盗賊たち》の死体も。

いまだに飛び散った血潮の汚れだけは放置されたままの、その開け放たれたシャッターの脇に立ったタオは、けなげに三人の警官に受け答えしていた。嘘を言ったのか、つじつまを合わせたのか。警官は寝室から出て来たハオに軽く微笑んで会釈し、そして、手を握手に差し出した。

ハオに無視された手のひらが、斜めにさした日差しに半分だけ光った。「どうしたの?」ベトナム語で話しかける警官の言葉のすべてを無視して、言ったハオにタオは答えた。

「わたし、ぜんぶ、説明したの。」

ずんぶいまった

伏目で、傍らの男、その、あまりにも美しく、誘惑的なハオには決して眼などふれさせてはならないのだと、あるいはそんな風に身を固めて、「後始末、ぜんぶ、この人たちがしてくれた…」

かたっうけまった

…そう。と。

そう言った自分の、あまりにも日本語として見事な日本語の発音に、あらためてハオはすこしだけ驚いた。耳にふれる警官の異国語と、それは、まったくふれ合うところを持たなかった。ただの異種だった。たとえば、と。ハオは想った。こうもりが違うチャンネルの周波数で電波を飛ばしているこうもりに出逢ったとしたら、それは完全な異種としてお互いに交錯しあうに違いないのだから、眼の前のこの男と自分とは、明らかに種族の違う生命体であるに違いない。だったら、その両方にまたがったタオはキメラ種であるに違いない。

タオは、つじつまをうまく合わせたに違いない。警官の微笑みに、ハオを疑う気配さえない。あるいは、もはや、そんな瑣末な大量殺戮などどうでもいいのかもしれない。まだ、そのとき、だれもそうは呼んではいなかったものの、《破滅の日》以降、だれが死のうがもはや他人には知ったことではないのだった。もっと、あざやかに世界は混乱に陥るものだと想っていた。粛々とした、当たり障りのない日常が、とりあえずは進行していた。未来などなにも見い出されてはいない中に、政府は、あるいは自治体はいまだに水道に水を供給し、大規模な停電を連発させながら、電気が止まる事はなかった。違うのは、もはや、ここには未来がなくそして、いかなる罪さえもがないということだ、と、ハオはそう想った。不意に、タオがハオを振り向き見た。

…ねぇ。

その眼差しが、意を決したように微笑んだので、

わたし、笑ってるよ。

ハオはむしろ戸惑うしかなく、…蝶の羽撃き。

と。

それをハオは知っていた。タオの頭の上、髪の毛の至近距離に白い、蛾のような黒い斑点を曝した蝶がひらめいたときに、その気配。…!と、声にならない気配をタオは一瞬、その鼻先に兆して、ハオは見た。彼女が見ているはずのそこ、ハン川の川沿いの街路樹のそこに、歩いていた女がひとり、ハオを見つめたまま血を垂れ流した。13歳のタオを連れて、ハン川沿いを歩いていた。何をするというでもない。時間は、いかなるかたちであっても、なんとか時間そのものを消費されなければならない。少し先を、こっちに歩いてきていたその、両眼をなぜか充血させて、涙を一杯にためた女が、突然立ち止まると、口を開いた。その瞬間には、血の塊が垂れ堕ちて女の下半身をすでに好き放題に穢して仕舞っていた。撒き散らされた赤い飛沫。

匂った。それは、くさりかけたような異臭を孕んだ、血の匂いだった。行こう。

ハオは言った。タオは従わなかった。意志もなく、つまりは、従えなかったのだった。腕を引くハオに、タオは抗った。

タオは女を見つめていた。18歳くらい、たぶん、20歳には満たないその、髪の長い長身の女。女は倒れない。未だに。その眼差しは、自分の身にいま、何が起っているのか理解してはいない。何の認識もないままに、女の眼差しは鮮明な歎きを曝し、訴える。

なぜなの?

それ。眼差しのあざやかすぎる至近距離の色彩。なかば殴り倒すかのようにタオの体を羽交い絞めにして、ハオはブーゲンビリの庭の中に、駆け込んで来たのだった。息は荒れていた。かならずしも放射能の影響とは想えない。あるいは、そうなのかもしれない。心的外傷のせいかも知れず、何か他なる疾患のせいかもしれない。そんなことはどうでもいい。女の眼差しは発狂を刻んでいた。隠しようもなく。なにがどうというわけではなく、女の、内部という言葉などでは追いつかない皮膚の下のすべてが身もふたもなくけばけばしいほどの絢爛さで破綻していた。隠しようがなかった。それだけが事実だった。

腕に抱いていたタオが、身を震わせながら泣いているのに、ハオは気付いた。仏間の前の段差に腰掛けて、ハオはタオを抱きかかえると、…怖かったの?

こわいでぅか

タオは、かすかに汗ばんだハオのまぶたを、まるでとめどなく流される涙を悲しんだかのように指先に拭いながら、「…ねぇ」

怖かったの?

こわいでぅか

なんどもささやいた。ハオは、耳元の至近距離になった気がしたその音声を聴き取り、ダナンの空港に降り立ったとき、ハオは傍らのジウをつついた。…中国人。

言った。

「…ね?」

あいつら、…と、十メートルほど先の、大柄のいかにも富裕層じみた中国人の、5、6人の家族旅行客を、見留めてほくそ笑んでいるハオを、ジウは、違和感とともに見返すしかなかった。

…なに?

その、問い返す言葉さえ口にしないで、いまにも声を立てて笑い出して仕舞いそうなハオは、まるで宗主国の王様のような立ち居振る舞い。…と。

ハオはそう想っていた。眼の前に、周囲に孤立して自分たちが自分たちである事を、誇示することもなく曝している、ある意味鮮烈なまでに彼等の孤立を曝した彼ら。いずれにしても、彼らは余りにも、周囲に点在する無数の、現地のベトナム人たちを見下していた。彼らの眼差しには、ベトナム人たちは、哀れむべき熱帯の下等民族に過ぎなかったに違いない。あのいつのまにか上品に、上質な知性の気配さえ匂わせ始めた、日本での彼らとは明らかに違うその差異を、ハオは笑った。

中華人民共和国という、その国家が経済的な繁栄を極めれば極めるほどに、ハオの知っていた中国人たちは根絶やしにされていった。日本人などよりはるかに英語に長けているのだから、はるかに上質な人間たちを、その国は量産し始めて、90年年代に日本に帰化していた日本国籍の中華人たちを戸惑わせた。間違いなく、新しいエレガントでお金持ちの中国人たちは、カリフォルニアで見たなら、並んだ日本人など彼らの劣悪なコピーに見えるに違いない。同じような代わり映えもしない人間で、犬を食うか鯨を食うかの差異しかないならば、せめてまだしもまともに英語が話せる人間のほうが、オリジナルであるべきに決まっている。…そう、ね。

と。ハオは想った。不意に手にした世界第二位だの三位だのという金が、日本人に、彼らだけが世界に誇る日本人らしさを与えたに違いない。いまの中国人たちと同じように。哀れな気がした。父親が。あの、絵に描いたような下等な父親。…ぶっ殺してやろうぜ。

ハオはジウにささやいた。「あの、中国人」

…ね?

意味を解さないジウを。ハオは責めるつもりはない。そんなことなど、もとから求めてなどいないから。「血まみれにしてやろうよ。」

…ね?

「なにもかも、…」

ハオが鼻の先に立てた笑った息が、…ふざけすぎてるから。

「ね?」ジウの耳にかかった。自分勝手に、独りだけしずかに高揚したハオの熱気がうざったかった。それはむしろ見苦しく、不愉快で、いたたまれない。ジウは知っていた。ハオの腕の中に、どんな風景が見えるのか。愛国反日サークルを組織していた21歳のジウが、ソウルの喫茶店でその男の肩にぶつかって仕舞ったとき、ジウは自分がその男になぜ不意に惹かれて仕舞ったのか理解できなかった。そんな傾向など自分にはなかった。

やがてその男が自分の眼の前で素肌を曝したときに、自分のその感情が正当化できた気がした。いずれにしても、自分はすでに倒錯していたのも事実だった。トランスジェンダーでもなければ、ゲイでも同性愛者でもない自分が、ハオに抱かれようとする時点で結局は、倒錯しているのだというしかなかった。

その、日本の渋谷の、ハオの住んでいたマンションの窓から明治神宮の緑が見えた。もうひとりの、ハオと同じ年頃の男は、にやつきながらハオの誘惑を鑑賞し、ときに干渉しさえした。…もっと。

と。

「もっとやさしくしてやれよ」…女さえ知らないんだろ?

そのくらいの日本語なら十分わかる。ジウは、慶輔という名の男の、その、あまりにもジウに対する軽蔑を素直に曝しすぎた言葉をむしろ羞じた。「いいんだよ。」

ハオは言った。

「こいつ、**だから。」そして、彼は笑った。…壊れちゃえ。

「強制収容所で****引き抜かれちゃえばよかったのに。」

そう耳元にささやいて、至近距離に接近したハオが、自分の耳元にささやくその声を、ジウはただ、「…どうせ壊れるしかないんだから。」聴いた。…だって、

「お前、糞じゃん。」耳元に鳴り響くハオの笑い声の大音響を、そして、ジウは知っていた。そのときにはすでに。ソウルで肩をぶつけたその男、ハオは、いきなり振り向いて、ジウを怒りに駆られた眼差しに捉え、その眼差しにジウがひるみ、もはやおびえ始めていたのさえ考慮に入れずに、ややあって、いきなり微笑んだ。「来いよ。」…と。

そのとき、彼はそう言ったに違いない。眼の前の微笑みかける女性じみた顔立ちの男の、女性には在り獲ない荒れた美しさをもった薄い唇から、なにかの短いシラブルの音声が発されて、それはたぶん、彼に言われるままに従うことを彼が赦していることを意味していた。戸惑うジウのTシャツの首根っこを引っつかんだ美しい男を、喫茶店の中のだれも引き留めようとはしなかった。あなたは、と。

韓国人ではないからわたしたちはあなたが今この眼の前で惨殺されたとしても、知ったことではないんです。…その、周囲の韓国人(…だったに違いない。それ以外の外国人もいたに違いない。いずれにしても、眼差しの中の彼ら、その、それらの眼差し)たちは、そうはっきりと、ジウに明言していた。かならずしも、脱北者であることなど知りもしないくせに。

ジウは、そう想った。確かに、と。

私はあなた方の同胞では在りません。そもそも、あなたがたの同胞など、あなたがたの瞳の中にしか存在しません。韓民族?単なる雑種の寄せ集めでしょ?私は私なんです。僕だけを見て。…ね?僕を、「お願いです。」僕そのものを見てくれませんか?「本当に、…」

お願いですから、死んでください。

死にかけの、そしてなかなか肺の活動をやめない母親の波打つ胸の上下に、ジウは想った。12歳の彼は、死んでください。

あなたはもう死んでいるんです。あなたの脱北は、…と。

彼は想っていた。すでに失敗して、いまやあなたは死に行こうとしているんです。「見せろよ。」

…ね?

「見せてみろよ。…カス。」

自分にそう命じたのはハオだった。ジウはそれを認識した。ハオに命じられるままに、渋谷のマンションの一室で素肌を曝し、最期の下着を脱ぎ捨てるのに一瞬戸惑った、背中をまげたままのジウに、たんなる嘲笑以外のなにものでもないハオの声は耳にじかにふれる。…こいつ、頭おかしいから。

ジウはその、「何でもするよ。」ハオの声を「***でも喰っちゃうよ。」聴く。「…でも、」やさしく「自殺はしない。」誘惑的に響くそれ。

「生きてないと、痛みを感じられないからね。」





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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