小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説④ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上、お読み進め下さい
「皆殺しにしますから。」そう言った、ハオの声を、少女が聴いているのかどうか、ハオには自信がなかった。いずれにしても、ハオはそのまばたきもしない恍惚とした眼差しの許に、スマートホンでメッセージを送った。
All you need is love
…やれ。と。
時は来た。遣って仕舞え、と、その合い言葉をLine上でいま、確認した各部隊の指導者たちは、彼らに命じたに違いない。核弾頭の発射を。既読数が無様なほどに一気にカウントされて行って、そしてハオはスマートホンを壁に投げつけた。その空気を罅割れさせた音響が、静かな室内に響いた。その一瞬の短く硬い騒音が、怒号飛び交う現場の喧騒を聴いていた気がしていたハオの妄想をたんなる妄想として嘲笑った。
しずかだった。
眼の前の少女は傷付いているに違いなかった。だから、ひとりの男としてそのいたいけない少女を、慰めてやらなければならないはずだった。二日後、不意にブーゲンビリアの樹木の下で振り返ったタオの眼差し。
どうして、私はメッセージを送ったのか、それが疑問だった。ハオが耳打ちしていた、破滅のキーワード。愛こそはすべて、と、結局は、私はハオを殺し、わざわざ彼の代わりにこの人類種の生態系を滅ぼしてやったに他ならなかった。事実、私には人類など滅びて仕舞っているとしか想えていなかった。幾つもの人間が未来に再生の兆しをどこかで、それそれぞれの眼差しの中で見い出しているに違いないことには薄々気付いていたとしても。ささやかな充足に満たされているさまざまな眼差しが世界中のいたるところに散乱していることになど薄々気付いていたにしても。私の眼差しが私の眼差しの捉えたに過ぎないものだったに他ならないことくらい、薄々気付いてはいたにしても。あくまでも自分勝手な無理心中に過ぎない、唾棄すべき感傷の如きものに、自分自身が淫しているに過ぎないことに、すでに気付いていることなどあきらかだったにしても。タオが、私を見つめていた。その眼差しはやさしい。彼女のそれは、ひたすら。
それが、ハオの眼差しの中に、あざやかに浮んでいた。逃げようもなく、その、いまだに美しいとは言いきれない単に子どもじみた眼差し。とてもひとりで生きていけるとは想えず、そして、彼女自身それを知って素直に曝すことに躊躇はない。たとえ、実際には彼女にたくましい貪欲さが見苦しいほどに胎内に張って充ちているには違いなくとも。
そして、頬と口元にかすかに浮かべられた微笑み。黒眼は、一切の表情など曝さずに、無機的に表情を兆して明示する。…どうすればいいの?
タオはブーゲンビリアの樹木上を指差した。「どうすればいいんですか?」
どぉすぃまっか
そこに、発見した何かを仏間の、開け放たれた木戸に凭れたハオに指さしたのだが、その「あなたは、わたしに…」微笑を見つめるばかりのハオは、指先の先に何があるのかなど「何をして欲しいの?…いま、」見い出し獲はしない。そこにあるもの。あるいは、その「何を、…」形態を崩壊させたある少年のでたらめな形象。色彩を「何をして欲しい?」なくした翳り、その。
「欲しいんでしょ。」
…それ。ハオ。…俺だね。
「何かを、…」
と。「求めているんでしょう?」ハオはつぶやきそうになった。ここにいますよ。
あなたは、…と、「…違うの?」それを教えてやろうとしたに違いない、少女の「むしろ、…」幼い親切さ。…そう。
「悲しいだけ?」
と。俺は、「…まさか。」そこにいるの?
「…ねぇ。」
血を流しながら?
「まさか…」
あざやかに、向こうの方に、「…違うはず。」水平に、…色彩。
「あなたは、…」
あざやかすぎる血の「きっと、…ね?」色彩。
「何かを求めているの。」
色彩をなくした俺を、「…何を?」…と。
「だって、」
君はそこに見つけたの?「こんなにもなにもかも破壊されて仕舞ったのだから。」
どぉすぃたらいぃでっか
タオは、あきらかにハオに助言を求めていた。ハオに、自分が彼に何をしてあげればいいのか、それだけを聴きたがっていた。用を果して投げ棄てられ、床に転がったスマートホンに、あるいは、正確に言えばLineでつながった向こうの営みにもはや興味はなかった。ふたたびハオはタオを見つめて、微笑んでやった。なにも、浮かべるべき表情が想いつかないとき、結局はやさしい微笑みに堕すしかないことに、ハオはいまさらながらに気付いた。私は、女が私の体の上で息遣うにまかせた。
結局は、ふれて仕舞えば、ふれあった瞬間にはそれは価値など失って仕舞う。手をふれる、乃至肌がふれ合う寸前にあった、扇情的で彼女に固有だった筈の息遣いは、見事なまでに単に代わり映えのし無いいくらでも交換可能なありふれた既視感しか齎さない。女が、いくら女に固有な愛撫の仕方をくれて、女に固有な反応を曝したとしても。そして、それが容赦もなく、いわばはじめてふれ合う時のなかでのはじめての経験だったに他ならない事が、理論上の事実であったとしても、女の肌は所詮は女の肌に過ぎない。人間種の女を抱く。
それに、一切の違いなど在りはし無い。
いつでも、…と。
美紗子。あの母親も、理沙も、葉も、フエも、結局はまったく同じ触感しか残さなかった。無数の、差異がそこに存在して執拗に目醒めていたには違いなくとも。私たちは交尾する。
交配し、愛し合う。
愛し合って、交尾し、尻を振って、振られてそれぞれの仕方で、まったく同じ眼差しを曝す。いま、…と。
あなたは私を抱いています。
知っていますか?…そんな。
女。《盗賊たち》の首領たる、その女が結局は、私を自分のものにするためだけで、すべてを仕組んだにすぎない気がした。むしろ、彼女にとって明かに振って涌いた恩寵のような交配に他ならなかったとしても。
想いも寄らない世界の中で、想いも寄らない結果として今正に、私に抱かれていることこそが、彼女の事実であったにしても。あまりにも残酷な、彼女が望んでいたわけではない世界の中に唐突に投げ込まれて、そして、彼女がずっと望んでいたに違いないものにふれる。
片付けられもし無い《同胞たち》の死骸の群れが、乃至、死にかけのうめき声さえもが耳にふれている中で、荒れ放題のふたつめ居間、自分が命じた姉弟の屠殺の現場で、彼女は彼女が求めていたものにふれる。それは、明かに強姦だったに違いない。
私は振り向き様に、庭で女をひっぱたいた。その、左の頬を。
一瞬、女は自分がなにをされたのかわからない顔をした。自分の頬に何がふれ、いま、なにが体験され、何を為すべきで、何がなされようとしていたのか。
女は、なにも理解できなかった。
私はタオの見ている前で、女の髪を引っつかみ、そして、その衣服を引き裂いてやった。けばけばしい、その体のおうとつに張り付いた下品なあばずれのパーティ・ドレス。
それは、女のエレガンスだったのだろうか?
女は、抗うことさえ出来ずに、おののきの表情をだけ一瞬曝し、彼女がそれを求めていたことは知っている。
私は。
彼女に、その、求めるところのものを与えてやる。…欲しいんだろ?
と。私は単なる奉仕者に過ぎない。穢い穢れ物を扱うように、髪を引っつかんで家屋の中に引きずり込んで、女は悲鳴など上げない。
血が匂う。
男たちの、そして、妻の…フエ。
愛しい、かわいそうなフエ。彼女が留保なく素直に幸せだった時間など、彼女が浪費した短い厖大な時間の中で、一体どれだけあったのだろう?私は女を****、そして女の肌が汗ばんで、香水に交じった部厚い臭気を立てるのを、乃至、芳香?
女はただ、押しつぶされたような息遣いしか曝さなかった。
体の上で、私の上に覆いかぶさって腰を使う女の垂れ下がって首筋をくすぐる髪の毛の戯れに倦んで、のけぞった頸が頭の先、庭先の死体と、死にかけたのうめき声の群れの中に、うつむきがちに私を見遣りながら立ちずさんでいるのは、少女。
傷付いた少女、タオ。確かに、彼女は傷付いて居たに違いない。彼女が見い出し、経験したさまざまな風景の、さまざまなさまざまに。私はタオを見つめて、微笑んでやった。なにも、浮かべるべき表情が想いつかないとき、結局はやさしい微笑みに堕すしかないことに、ハオはいまさらながらに気付いた。
18歳のとき、父親が自殺した時にも、そんなことには気付いていたはずだった。彼の自殺の理由はわからなかった。軽蔑すべき父親だった。知性のかけらもなくいかにも劣等な且つ下等な中国人のカリカチュアじみた、乃至、単なる作法知らずの田舎者にして馬鹿の中の最も見事な馬鹿として世界中から罵倒されるというところの、その中国人のカリカチュアのあまりにも上質すぎる見本じみた中国人の父親。中国語でしたためられたその遺書の文字を、ハオは半分程度しか理解できなかった。この程度の理解なら、と。知っている漢字を頼りに日本人でも出来るに違いない。ハオはそう想って、自分で、笑いそうになった。一瞬、そんな異国語にさえ成り切ってくれない漢字に、所詮はアジア外れの自国資源に貧困なる島国の借り物文化と、留保無い軽蔑を感じた。彼の死は、自分のせいに違いなかった。
なぜなら、息子は何も悪くない。…と。悪辣な日本人たちが私たちを追い詰めたのだと、遺書にそう書いてあったから。帳簿をつけていた大学ノートのどこかのページを引き裂いた、いかにも品のない、貧乏臭い遺書だった。確かに、差別の問題以前に、借金問題でハオ以外の《日本人たち》にも容赦なく追い詰められていたから、日本でもはや父親に生き残る余地などなかった。ハオはまだ父に末期がんの通知をしてはいなかったが、自分で自分の死臭に気付きはするものなのだろうか?眼に見える肉体の眼に見える異変などあきらかすぎて既に隠しようがないのに?いまだ服を着た傍目には、若干の老いを感じさせるだけで、かならずしも死への接近など一切感じさせないままに。母親は交通事故で死んでいた。それは、どこかの日本人が殺したのだった。ハオはすでにその名前など忘れていた。飲酒の果てのひき逃げ。即死だった、と担当の警官は言った。やがて自分で、ひどい事故だった、と。死に切れなかったお母さんはそれでも1メートルくらい自分で這って行かれたようで、と、その現場の血痕から割り出されたらしい事故のあらましを、ふいに口をすべらせて、「即死なのに?…ですか?」
言った、16歳のハオの、警官は言った。…ええ。
「即死。…即死でした。」いずれにしても父親は逮捕された二十歳の男を罵り、日本人に殺されたと喚き、すべての悉くの悉くのすべてを、どこかの日本人のせいにしてやらなければ気がすまなかった。あくまで、彼の眼差しだけが捉えた謂わば抽象的な日本人のせいに。彼の周囲を支配し、彼を抑圧し迫害してさえ居るその圧倒的にリアルなどこかの島国猿に。その声の中国風の甲高さをハオは嫌悪した。馬鹿な中国人の父親に、死ぬべき理由など大量にあり、そして、彼の直接の原因は自分の素行以外にはなかった。息子はなにも悪くないのだから。彼は、遺書の中で唐突にいきなりそうはっきりと明言しているのだから。なにより、彼を殺したのは自分なのだ。毎晩のように繰り返された父親への折檻を、ハオはただ、自虐的な快感の中に愉しんだ。父親を罵ることは自分を裏側から罵倒しているような気がした。自分のあまりにも脆弱な、暴力におびえ、痛めつけられる肉体と、魂と、その存在そのものを嫌悪し、より深刻な折檻を加え、いたぶり、愉楽。
自分自身の辱を自分の顔に塗りたくられて、汚物に塗れていく愉楽。…狂ってるよ。
と。ハオは自分で自分にそう言った。…お前は、狂ってるよ。恥辱に塗れる。もっと、狂っちゃいなよ。
どうせ、始末におえないほどに狂っちゃってんなら。父親の、マンションのベランダで首をつった死体を近所の血相を変えた人間から通報された管理人から教えられたとき、その、鍵のかかった寝室に入るのは断念して、一階まで管理人とともに降りたその路上、見上げたマンションの6階の日当たりのいい壁面の、その朝日の中にぶら下がっている父親を、ハオは見た。
60代の管理人が耳元でささやいていた。島国の、いかにも閉鎖的な人種差別主義者である事を上品に隠した、人あたりのいい彼のそれらの言葉は、日本生まれのハオには聴き取り獲ないわけなどなかったが、何一つ理解できないのが事実だった。それは異国語に他ならない。意味など鮮明に理解できながら、意味は終に素通りして自分にはふれない。一切。
滑稽だった。想わず、日本語で話していただけませんか?そう言おうとして、不意に想起された、そう言ったあとの管理人の顔に笑った。ちいさい、一度だけの声を立てて。管理人は、侮辱に耐えかねた怒りの表情を、その眼差しに兆したまま戸惑った顔を曝すに違いなかった。
管理人は、戸惑っていた。父親の無残な死に際して、不意に笑い声を発して仕舞った18歳の少年に。素行が悪いと、父親は愚痴っていたものの、誰に対しても礼儀正しい彼、日本で生まれ育っておかげで、中国人のくせにまるで日本人のような礼儀正しい青年に育ったこの若い彼は、きっと、心を壊れそうなほどに動揺させているに違いないと、自分の股間をいじって位置を直しながら管理人の眼差しは、眼をそらした後に気付いた。
警官が連れてきた合鍵師がようやく開けた寝室に、警官はハオを立ちいれさせようとはしなった。また、…と。
あなたたちは嘘をつくに違いない。ハオはそう、漠然と想っていた。怒りも、非議も、そして感謝もない。…傷付けないために。
俺を、傷付けないために、と、むしろ、あたふたするだけの、妙に場馴れしない、見馴れた、家畜のような日本の警官たちの立ち居振る舞いを哀れんだ。想った。彼らは言うに違いない。
大丈夫?…やさしげに、職業的なそれ以外には、実はいささかの同情さえ感じてはいないくせに、そしてその事をすこしも隠そうともせずに、彼らはつぶやく違いない。「気をしっかり持って。…やすらかなご遺体でしたよ。」
「きみは、関係ないよね?」
眼の前の警官はハオを覗き込みながら言った。「なにも、…してない?」
なにを?と、そういおうとしたときには警官は、無言で自分を見つめていたハオから言葉が返ってくるのを、もはや待ってはいなかった。「…ちょっとおかしいんだよね。…」
早口に、むしろ部屋の中を見回して、「…恨みかわれてたとか、ない?」そう言った。…そうですね。ハオはじっと、何を想うでもなくその…彼は馬鹿で下等人種たるアジア人の見本に他ならない中国人ですからね。警官の横顔を見つめていたが、…いたるところに敵はいたんじゃないですか?ハオはやがて眼を伏せた。むしろ…実際、彼、戦争のとき、何したわかります?身の回りのすべてが、自分を声を上げて、…同じ中国人、馬鹿な恥知らずの軍服着た日本人に売りさばいて廻ってたんですよ。在りもし無い密告でっち上げてね。非難しているような気がした。お前は、…むしろ死んだほうがよかったんじゃないですか?辱知らずな死にぞこないだ、と、この世に、…奴こそ正に戦犯ですよ。生きている価値さえもない、と、すべてが。
沈黙したままの、ハオは、やがて検視を済ませた慰霊室で、その死体と対面したときに、微笑んだ。
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