《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑪地神第三代、天津彦々火瓊々杵尊(天孫降臨・上)
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
第三代、天津彦々火瓊々杵尊[あまつひこひこほににぎのみこと]。天孫[あめみま]とも皇孫[すめみま]とも申す。皇祖[くわうそ]天照太神、高皇産霊尊いつきめぐみましましきて、葦原の中州の主としてあまくだし給はむとす。茲にその国の邪神[じやじん]あれて、たやすく下り給ふ事かたかりければ、天稚彦[あめわかひこ]と云ふ神を下して見せしめ給ひしに、大汝[おほなむち]の神の女[むすめ]下照姫[したてるひめ]にとつぎて返りごと申さず、みとせになりぬ。依りて名なし雉[きじ]を遣[つかは]してみせられしを、天稚彦射殺しつ。其の矢天上に昇りて、太神[おほみかみ]の御前にあり。血にぬれたりければ、あやしみ給ひて、なげくだされしに、天稚彦新嘗[にひなめ]してふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故なり。更に又下さるべき神をえらばれし時、経津主[ふつぬし]の命(檝取[かとり]の神にます)、武甕槌神[たけみかづちのかみ](鹿嶋[かしま]の神にます)、勅を承けて下りましけり。出雲国にいたり、はかせる剣をぬきて地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の勅を告げ知らしむ。その子都波八重事代主[つみはやへことしろぬし]の神(今葛木[かづらき]の鴨[かも]にます)相ともにしたがい申す。又次の子健御名方刀美[たけみなかたとみ]の神(今陬方[すは]の神にます)したがはずして、にげ給ひしを、すはの湖[うみ]までおひて攻められしかば又したがひぬ。かくて諸[もろもろ]の悪神[あしきかみ]をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて返りごと申給ふ。大物主神[おほものぬしのかみ](大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給ふと見ゆ。この大物主はさきに云ふ所の三輪の神にますなるべし)、事代主神[ことしろぬしのかみ]相共に八十萬[やそよろづ]の神をひきゐて天あめにまうづ。太神ことにほめひ給き。宜しく八十萬の神を領して皇孫をまぼりまつれとて先づ返しくだし給ひけり。
【天孫瓊々杵尊】
次に第三代の神は即ち瓊々杵尊でありまして、此の瓊々杵尊が日本の国土にお降りになつたので、これを天孫とも皇孫とも申すのであります。此の尊は天照大神も、また高皇産霊尊も共に『いつきめぐみ』といふのは非常に御寵愛になつて、これは殊に勝れた方でありましたから、此の方の将来に非常な望みを嘱されて、これを葦原の中洲、即ち日本の国土の君主としてお降しになつたのであります。
それで天孫がお降りになる以上は、此の国を安らかにお治めになるといふことでなければならぬのでありますかが、此の国には多くの邪まな神があつて、なかなか勢力を持つて居るから、其の勢力のある者を一通り平げた後でなければ、天孫をお降しになるといふ運びにも行かぬ訳であります。それ故に先づ天稚彦といふ者を此の国にお降しになつて様子を見せられたのでありましたが、此の天稚彦は此の日本の国土に以前から居られる大汝神の女と結婚して、此の土地に懐いてしまつたものでありますから、其の使命を全うしなかつたのであります。それから続いて名なし雉といふものを遣はされたのを此の天稚彦が射殺して、其の矢が天上に昇つて天照大神の御前に現はれましたので、これは不埒な者であるといふお考へで、其の矢をまた天上から投げ下された所が、其の矢が天稚彦の身に当つたと申すのであります。『新嘗して』といふのは、新しく獲れた物を食べて、よい心持で寝て居た所に矢が落ちて、其の胸に当つたので、天稚彦は死んだのであります。後世に至つて返し矢といふことを忌む習はしが出来ましたのは、これが本だと伝へられて居ります。
返し矢といふのは戦争の時に敵から来た矢をまた用ひて、敵の方に射返すのであります。これはズツト後の源平時代に於ても忌む事になつて居ました。まア矢の乏しい時などには、敵の方から来た矢を其のまゝ使へば、大変に都合が好いのでありますけれども、さういふことはどうも正しくない。武器といふものは其の武器を用ひる人の魂が籠つて居るのであるから、たとひ矢の乏しい時でも、敵から来た矢を再び利用するといふことは決してしてはならぬといふので、此の返し矢といふことは決して実行しないことになつて居たのであります。此の返し矢を忌むといふ習はしは、此の神代の事に基くのであるといふやうに言はれて居るのであります。
時に此の天稚彦が折角の使命を果さなかつたものでありますから、それで更めて経津主命と武甕槌神の御二人を此の国にお降しになつたのでありますが、此の経津主の命といふのは檝取の神として祀られて居り、また武甕槌神といふのは鹿嶋の神として祀られて居る訳であります。此の経津主命と武甕槌神の二人が出雲に来られて、以前から伊豆に居つた大汝神に対して天照大神の仰せを告げられたのであります。その時に大汝神は其の子であるところの都波八重事代主神といふ方と御相談になつて、今回は天孫がお降りになるのであ
【出雲地方の平定】
る。即ち天照大神の御血統を受けられた方が此の地へお降りになるのであるから、自分達は此の方に土地をお譲り申すのが当然であるといふことに決定致しまして、さうして共に此の天孫をお迎へ申すといふことに御返事をいたしたのであります。即ち前に申したやうに、大義名分といふものは既に神代から定まつて居つたといふことは、此の事に依つても明かに解る訳であります。
ところが此の大汝神の御子にモウ一人健御名方刀美神といふ方があつて、此の方は父の仰せに従はないで、新しく他から降つて来る者の下に属することは望ましくないといふやうな考へから、此処を立去られたのであります。これを経津主命等にお附き申した者が追うて行きまして、到頭諏訪の湖水の傍まで追ひ詰めたので、此の健御名方刀美神といふ方も大いに反省して、これは自分が悪かつた、天孫に反抗するといふやうなことは間違つて居つたといふことに気が附きまして、諏訪のほとりまで来て天孫に服従するといふことをお誓ひ申したのであります。今日でも信州の諏訪の湖水の傍には此の神が居られて、諏訪の社といふものが建つて居るのであります。
一度天孫に反抗した方を今でも神として祀つて居るといふのは不思議なことのやうに思はれますけれども、そこが日本の国の習はしの尊い所なのでありまして、たとひ一時は間違つた考へを持つて居た者でも、其の心持を糾して正しい道に帰すれば、其の前の過ちは許して問はないで、其の心持の新しくなつたことを
【寛容の度量】
尊重して、これを信任されるのであります。これは神武天皇以後に於ても、さまざまな事実の上に現はれて居るのでありまして、将来に於ても日本の国民としては此の根本の精神を尊重しなければならぬことと思ふのであります。此の世の中は随分複雑であちますから、いろいろな誤解が起るといふことは巳むを得ないのでありますが、併しながらたとひどういふ誤解であつても、其の間違いを自覚して正しい道に従へば、以前のことを咎める必要は何もないのであつて、其の正しい心持を尊重して充分の働きをさせるやうに、これに奨勤を与へたならば、必ず大きな役に立つのであります。将来に於て日本の勢力が他の国までも伸びて行く場合に於て、此の根本の精神を尊重するといふことは、国家発展の上に於て殊に大切なことと申さなければならぬのであります。
そして此に至つてはモウ出雲の国の殆ど全体が皇孫をお迎へするといふことに一致いたしましたから、此の大勢に反抗して居る所の悪しき神があつても、さういふ者は到底其の反抗する力を続けることは出来ないのであります。それでこれ等の者を然るべく処分をして、それから帰順した者にはこれに奨勤を与へて、此の経津主命と武甕槌神とが天上に復命を致しまして、それから謂はゆる天孫降臨といふことになつたのであります。
此の時に大物主神と事代主神といふ此の二人の方が、以前からして出雲地方を治めて居られたのでありますが、此の経津主命、武甕槌神と相共に多勢の人を率ゐて天上に参り、さうして更めて天孫のお降りになるのをお迎へ申すといふことを申し上げたので、天照大神も非常にこれをお喜びになつて、お前達は再び出雲に帰つて多勢の者をよく治めて、相共に心を一にして天孫にお事へ申すやうにといふことを仰せ下されたと申すのであります。
此の大物主神といふのと大汝神といふのは同じ方であるか別の方であるかといふことに就いて説が二つあるので、一方に於ては大汝神が即ち大物主神であり、此の大汝神が天孫に帰服するといふ決心をしたから、それで此の事を天上に参つて申上げたのだと、斯ういふ風に解釈するのであります。然るにまた別の説に依れば、さうではないといふことであります。大汝神は既に此処を立ち去られて隠遁せられたのであるから、天上に参つてさういふ約束を申す筈がない。大物主神といふのは別の方であらうといふやうに解釈して居るのであります。此の二説の何れに従ふべきかといふことは、どうも明かには定められないのでありますが、兎にも角にも此の出雲の地方がスツカリ平いで、さうして天孫降臨に障りのないやうになつたといふ事だけは確かでありますから、此の事を認めれば宜しい訳でありませう。
其後、天照太神、高皇産霊尊相計らひて皇孫を下し給ふ。八百萬の神、勅を承りて御供に仕うまつる。諸神[しよじん]の上首[じやうしゆ]三十二神あり。其中なかに五部[いつとも]の神と云ふは、天児屋命[あめのこやねのみこと](中臣の祖[おや])、天太玉命[あめのふとたまのみこと](忌部の祖)、天鈿女命[あめのうづめのみこと](猨女[さるめ]の祖)、石凝姥命[いしこりどめのみこと](鏡作[かゞみつくり]の祖)、玉屋命[たまのやのみこと](玉作[たまつくり]の祖)なり。此中にも中臣忌部の二神はむねと神勅をうけて、皇孫をたすけまぼり給ふ。
又三種の神寶[じんぽう]を授けまします。先づ予[あらかじ]め、皇孫に勅して曰く、葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫[わがうみのこの]可主之地也[きみたるべきところなり]。宜[よろしく]爾皇孫就而治焉[いましすめみまついてしらすべし]。行矣[さきくませ]。寶祚之隆[あまつひつぎのさかえまさむこと]、当与天壌無窮者矣[まさにあめつちときはまりなかるべし]。又太神御手に寶鏡をもち給ひ、皇孫にさづけ祝[ほ]ぎて、吾児[わがこ]視此寶鏡[このたからのかゞみをみること]当猶視吾[まさになをしわれをみるがごとくすべし]。可与同床共殿以為斎鏡[ともにゆかをおなじくしみあらかをひとつにしていはひのかがみとすべし]。との給ふ。八坂瓊の曲玉、天の叢雲の剣を加へて三種とす。又此鏡の如くに分明[ふんみやう]なるをもちて天下に照臨[せうりん]し給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙[たくみなるわざ]をもちて天下をしろしめせ。神剣を堤[ひつさ]げて不順[まつろはざるもの]を平げ給へと勅ましましけるとぞ。
此国の神霊[しんれい]として、皇統一種たゞしくましますこと、誠に是等の勅に見えたり。三種の神器世に傳ふること日月星[ひつきほし]の天[あめ]に在るに同じ。鏡は日の体[たい]なり。玉は月の精[せい]なり。剣は星の気[き]也。深き習ひ有るべきにや。
斯様にして天孫のお降りになる所の大体の計画といふものが既に立つたものでありますから、そこで天照
【天孫補佐の諸神】
大神と高皇産霊尊が御相談になつて、いよいよ皇孫瓊々杵尊をお降しになるといふことになりました。就いては八百萬の神、即ち沢山の神が天照大神の仰せを受けましてお供に参りました。其のお供の中で殊に重立つた者が三十二の神であつて、此の三十二の神の中で又特に上に立つて居られたのが『五部の神』といふのであります。此の五部の神の中の天児屋命といふのが中臣氏の祖先、天太玉命といふのが忌部氏の先祖でありまして、共に祭りを掌ることを主として居つたのであります。前にも別の場合に申したやうに、我が国では神を祭る心を以て政治を行ふので、政治のことを『まつりごと』と申すのであります。それで此の祭りを掌る家の者は事に重んぜられて、其の子孫に至つて例へば中臣氏からは鎌足のやうな非常に勝れた人も出た訳であります。それから此の御二方の外に天鈿女命、石凝姥命、玉屋命といふのを加へて五部の神と申し、これが天孫のお供を致した者の中の重立つた方々であつた訳であります。
【天祖の神勅】
それから此の時に三種の神器をお授けになつたに就いての天照大神の仰せは、日本書紀等にも出て居りまして、誰もよく知つて知ることでありますが、此の仰せの中に、『寶祚[あまつひつぎ]の隆[さか]えまさんこと天壌[あめつち]と与[とも]に窮[きはま]り無かるべし』とあります。これは特に注意しなければならぬことであります。天も地も永く続くものでありますから、皇室が永くお栄えになることを『天壌と与に窮り無かるべし』といふお言葉で表はされたのであるといふのは、誰でも普通に考へ得ることでありますが、更に考へて見ますと、此の天地の働きといふものは何処までも発展をするものであります。年月を経るに従つて、ますます草も栄え木も茂り、其の他の寶もだんだん多く現はれて来るのであつて、天地の存在といふことを、何千年でもたゞ同然だといふやうに考へてはならないので、天地の作用はますます発展するのである、ますます盛んになるのであるといふやうに考ふべきであります。隋つて我が皇室もたゞ数千年、数萬年に互つて永くお続きになるといふだけでなく、此の皇室の御威光がますます盛んになつて、世界の有らゆる国が我が日本を仰ぐやうになるであらうといふ、此の大きな理想を持たなければならぬのでありまして、此の意味が此の『天壌と与に窮り無かるべし』といふお言葉の中に含まれて居るものと解釈して宜しい訳であります。これは決して私共が恣まに解釈するのでなく、後に至つて多くの学者が斯ういふ意見を持つて居りますが、私共も此の意見に従うて、此の『天壌と与に窮り無かるべし』といふお言葉を解釈したいと思ふのであります。
それからまた三種の神器の中で特に天照大神が鏡を重んぜられて、これを視ることを吾が視る如くせよと仰せられ、また此の鏡は始終天皇がお側にお置きになつて、これを斎[いはひ]の鏡となすやうにといふ仰せがあります。『斎の鏡』といふのは此の鏡を浄らかに持つ為めの手本とするといふ意味なのであります。即ち前にも申したやうに、鏡は凡ての物の姿を明かに照らすものでありますから、萬民の上に立つ方も何時でも心を明かにし、また公平無私な心を以て萬民に臨むやうに努めなければならぬといふ意味から、特別に此の鏡を側に置いて、これを朝夕視るやうにといふ仰せがあつたものと解釈されるのであります。
尚ほ此の三種の神器が揃つてあるに就いて其の意味を考へて見ますと、鏡といふものは明かなものであるから、鏡の如く明かなる所の心を持つて天下を照臨するやうにといふことであり、また八坂瓊の玉といふものは丸くて、さうして先が曲がつて居るのであります。それで天下を治めるに就いては、出来るだけ多勢の心を一致せしめることに努めなければならぬのでありますが、多勢の心を一致せしめるのには、上に立つ方がやさしい平和な心を以てこれに臨まなければならぬのであります。さういふ意味から此の八坂瓊の玉といふものが三種の神器の中に加へられてあるのだといふやうに考へられるのであります。それから剣といふものは無論武を表はすものでありますが、道に従はない者は之を平げ、さうして正しい道が永く世の中に行はれるやうに力を用ひなければならぬといふ意味を表はすのであります。
それで此の鏡とか玉とか剣とかいふものをお授けになつたといふことは、詰り此の日本の国を治むべき所の政党の君主であるといふことの証[しるし]なのでありますから、此の神勅に基いて御歴代の天皇は御位をお保ちになる訳であります。
又此の三種の神器といふものは日月星の三つが天に在るのと同じであつて、鏡は明かなること日の如く、玉は潤ひを含んで居ること月の如く、剣はまた其の威光を周囲に及ぼすことは、星の鋭い気が発して周囲を照らすやうなものであると、斯ういふやうな解釈も出来るのであります。何れの解釈に致しても、萬民の上に立つ方は深い仁愛の心持と、それから不正な者があれば直ちにこれを制裁して、正義の行はれる国にするといふ、シツカリした決心と、これを纏めて一身に持つのでなければならぬといふことは疑ひがないのでありまして、御歴代の天皇が何れも斯ういふ御徳をお具へになつていらつしやるから、此の国は永久に栄えて行くのであると解釈すべきでありませう。
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