《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑩八岐の大蛇及び地神第二代、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
かくてつみを素戔烏尊によせて[注記:底本ニ以下ノ部分欠《おほするに千座[ちくら]の置戸[をきど]をもて首[かうべ]のかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、》思ウニ神統ニ下サレシ制裁ノ描写ナルガ故カ]、其罪をはらひて神[かむ]やらひにやらはれき。かの尊天よりくだりて、出雲の簸[ひ]の川上と云ふ所にいたり給ふ。其所[そのところ]に一[ひとり]のおきなとうばとあり。一のをとめをすゑて、かきなでつゝなきけり。素戔烏尊たそと問ひ給ふ。われはこれ国神[くにつかみ]なり。脚摩乳[あしなづち]、手摩乳[たなづち]と云ふ。このをとめはわが子なり。奇稲田姫[くしいなだひめ]と云ふ。さきに八[やたり]の少女[をとめ]あり。としごとに八岐の大蛇[をろち]のためにのまれき。今此[この]をとめ又のまれなんとすと申しければ、尊我にくれんやとの給ふ。勅のまゝにたてまつると申しければ、此をとめを湯津[ゆつ]のつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒を八[やつ]の槽[ふね]にもりて待給ふに、はたしてかの大蛇きたれり。頭かしらおのおの一[ひとつ]の槽に入れてのみゑひてねぶりけるを、尊はかせる十握[とつか]の剣[つるぎ]をぬきてずたずたにきりつ。尾にいたりて剣の刃[は]すこしかけぬ。さきてみ給へば一の剣あり。その上につねに雲気[うんき]ありければ、天の叢雲[むらくも]の剣と名[なづ]く(日本武尊にいたりてあらためて草なぎの剣と云ふ。それより熱田社[あつたのやしろ]にます)。これあやしき剣つるぎなり。われなぞ、あへて私[わたくし]におけらんやとの給ひて、天照太神にたてまつり上られにけり。其のち出雲の清[すが]の地にいたり、宮をたてゝ稲田姫とすみ給ふ。大己貴[あなむち]の神を(大汝[おほなむち]とも云)うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神此国にとゞまりて(今の出雲の大神にます)天下[あめのした]を経営[けいえい]し、葦原の地を領し給けり。よりてこれを大国主の神とも大物主[おほものぬし]とも申す。その幸魂[さきたま]奇魂[くしたま]は大和の三輪[みわ]の神にます。
【八岐の大蛇】
其の次に挙げられて居りますのは、素戔烏尊が八岐の大蛇を退治せられたといふ事でありまして、これも本文を読めば其の意味はよく解ると思はれますが、此の八岐の大蛇を退治してお救いになつた若い娘の親達を『脚摩乳、手摩乳』といふとあります。これは其の女を失ふことを悲しんで、脚を撫でたり手を撫でたりして別れを惜しんだといふことから、其の両親に斯ういふ名が附いて居るといふのであります。それから、『湯津のつまぐしにとりなし、みづらにさし』といふことがありますが、これは髪に目の多い櫛を差し、それから鬢の毛を捲き上げて結んだのであります。即ち女の身の嗜みでありまして、姿の乱れたさまを見せぬやうに容易をしたといふ訳であります。
それから其の大蛇を退治して其の尾に至つて剣を得られた。これが謂はゆる叢雲の剣といふものでありますが、後に至つて日本武尊が其の剣を以て草を薙ひ払うて難を脱せられたといふことがあつたので、これを草薙剣と名づけられたといふことは誰もよく知る所であります。素戔烏尊は此の剣を得られて、これは不思議な剣である、自分の私に所有すべきものではないといふので、天照大神に差上げられたと申すことであります。これも亦日本の国体を明かにすべき一つの貴い伝説であります。此の素戔烏尊は非常に御心の荒い方であつたと言ひますけれども、決して邪まな心を少しでも持つていらしつた方ではない。それでありますから御両親の仰せのまゝに根の国に赴かれ、また御姉君である所の天照大神を御尊敬になつて、弟としての
【孝悌の道】
態度を少しも失はれることはなかつたのであります。
天照大神は自分の御姉君であるし、殊に御両親の後をお継ぎになつた方でありますから、此の方をどうしても本にしなければならぬといふので、御自分の大蛇を退治して得られた所の尊い剣をわざわざ差上げられたといふのであります。即ち如何なる場合にも其の本を忘れないといふのが、日本の国の定まつた所の思想でありまして、此の思想は後に至つても現れて居るのであります。
此の時に素戔烏尊がお生みになつたのが大国主命でありまして、此の大国主命は出雲の国を経営していらしつたのでありますけれども、天照大神の皇孫である所の瓊瓊杵尊が此の地方においでになつた場合に於ては、直ちに出雲国をお譲りになつていらつしやるのであります。其の家の本を継いだ方と、それから分れて出た方とでは、本と末との区別があるのであるから、其の本の世嗣ぎの方には一切をお譲り申さなければならぬといふ考へがこゝに現はれて居るのでありまして、素戔烏尊が得られた剣を天照大神に差上げられたのも、また大国主命が出雲の土地を皇孫にお譲りになつたのも、全く同じ精神から出たものであります。ズツト後に至つて神武天皇が大和に御入りになつた時に、やはり其の地方を前からお治めになつていらしつた所の饒速日命の御一族が、其の大和地方を神武天皇に差上げられたといふのも、やはり是れと全く同じ思想であります。即ち如何なる場合に於ても、大義名分といふものを本にして萬事を計られるのが、此の国の定まつた習はしであるといふことは、此等の事実に依つてまことに明かに示されて居るのでありまして、此の点を特に注意すべきであります。
第二代、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊[まさやあかつかつのはやひあまのをしほみゝのみこと]。高皇産霊の尊の女[むすめ]栲幡千々姫命[たくはたちゞひめのみこと]にあひて饒速日尊、瓊々杵尊をうましめ給ふ。吾勝尊葦原の中州にくだりますべかりしを、御子うまれ給ひしかば、彼をくだすべしと申し給ひて、天上に留まります。先づ饒速日尊をくだし給ひし時、外祖[ぐわいそ]高皇産霊尊十種[とくさ]の瑞宝[みづたから]を授け給。瀛都鏡[をきつのかゞみ]一[ひとつ]、辺津鏡[へつかゞみ]一、八握剣[やつかのつるぎ]一、生玉[いくたま]一、死反玉[しにかへりのたま]一、足玉[たるたま]一、道反玉[みちがへしのたま]一、蛇比禮[へみのひれ]一、蜂比禮[はちのひれ]一、品物[くさぐさのもの]の比禮一、是なり。此[この]尊早く神さり給ひにけり。凡そ国の主とては下し給はざりしにや。吾勝尊[あかつのみこと]下り給ふべかりし時、天照太神三種の神器を傳給。のちに又瓊々杵尊にも授けましまししに、饒速日尊は是をえ給はず。然れば日嗣[ひつぎ]の神にはましまさぬなるべし(此事旧事本紀の説なり。日本紀にはみえず)。天照太神吾勝尊は天上に止留まり給へど、地神の第一、二にかぞへたてまつる。其始[はじめ]天下[あめのした]の主[あるじ]たるべしとてうまれ給ひし故にや。
第二代即ち天照大神の後をお継ぎになつたのが正哉吾勝勝速日尊といふ方でありますが、此の御方が高皇
【吾勝尊と其の御子】
産霊神の女[むすめ]の当られる栲幡千々姫命といふ方をお娶られて、お二人の間にお生れになつたのが饒速日尊と瓊々杵尊であります。それで順を言へば饒速日尊の方が上で、瓊々杵尊は其の次にお生れになつたのでありますが、此のお二人を『葦原の中州』即ち日本の国土にお降ろしになる際に、上の方の饒速日尊には格別に寶をお譲りになるといふこともなかつたけれども、お二人目の御子の瓊々杵尊には謂はゆる三種の神器をお供へになつて居るのであります。
此の事は特に注意すべき事でありまして、後に至つては我が国も支那の習はしに基いて、長子が父の後を継ぐといふことに定まりましたけれども、昔は決してさういふことではないので、父の考へに依つて世継ぎを定めるといふことでありました。これは皇室に於かせられても民間に於ても同様でありまして、即ち父が此の子であれば確かに自分の後を継ぐだけの働きが出来ると見定めたものを世継ぎにするのであります。それでありましから時に依ると兄として弟の下に附くといふことにもなつた訳であります。現に神武天皇の如きも御長男ではなくして、御兄様に五瀬命[注記:書記ニ彦五瀬命、古事記ニ五瀬命。]といふ方があつたのでありますが、神武天皇が御父君の仰せに従つて御位をお継ぎになつたので、五瀬命は神武天皇をお輔け申すといふことに力をお尽しになつたのであります。斯ういふ例は日本の歴史の上に古代に於ては幾度もありますので、特に注意すべきであります。
それで初めは此の正哉吾勝勝速日尊といふ方が御自分で葦原の中洲、即ち此の日本の国土にお降りになる筈でありましたけれども、御子がお生れになつて、事に其の御子の中でもお二人目の瓊々杵尊といふ方は非常に徳の高い方でありましたから、此の瓊々杵尊を御自分の代りに此の国にお降しになるといふことになりまして、此の事が御実行に相成つた訳であります。それより前に饒速日尊を此の国土にお降しになるといふことをお定めになつたのですが、これには格別の物も下さらなかつた。併しながら『外祖』即ち栲幡千々姫命といふ方の父君に当られる高皇産霊神[注記:古事記ニ高御産巣日神、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神併セテ造化ノ三神ナリ。]から十種の寶をお授けになつたのであります。
【饒速日尊の十種の寶】
其の十種の寶といふのは一々こゝに其の名を挙げてありますが、即ち十種と申しても鏡と剣と玉と、それから比禮との四種であります。此の四種の中に於いてまた細かに分けると、こゝに挙げられたやうに十種になるのであります。其の中の剣とか鏡とか玉とかいふものは、三種の神器にも其の例がありますから、別に説明にも及ばぬのでありますが、比禮といふのはどういふものであつたかといふとことはどうも明かではないのであります。後になりますと着物の上から頸の飾りに下げるものを比禮といふので、人に分れを告げる時に比禮を振つて別れたといふやうなこともありますが、此の比禮といふものと似たものであるかどうか、何も考証すべき所の材料も無いのでありますから、どうも明かには判りませぬ。併しながら此の比禮を振つて禍ひを払うたといふやうな言ひ伝へもいろいろありますから、やはり後世に謂ふ比禮といふやうなものに似た所の視の飾りであらうかと想像されるのであります。もともと三種の神器と申すものも、此の前に申したやうに多勢の者の上にお立ちになる方の身の飾りでありますから、やはり此の比禮といふものも地位の高い方の身の飾りの一種であつたらうと想像されるのでありますが、其の委しい事はよく判りませぬ。兎に角斯ういふ十種の寶といふものが此の饒速日尊に授けられた訳であります。
ところが此の饒速日尊といふ方は早くお亡くなりになつたので、其の御子孫の時に至つて、神武天皇の御東征といふことになつたことは後に尚詳しく記されてある通りであります。さて此の饒速日尊を此の土地へお降しになるのは、国の主としてお降しになつたのではないと見えまして、天照大神から直接に寶をお授けになるといふことはなかつたのであります。
それで此の三種の神器と申すものは、最初吾勝尊が御自身で此の国へお降りになるといふことになつて居
【神器の授受】
た時に、天照大神からお授けになつたのであります。ところが吾勝尊がお降りにならないで其の御子様、即ち天照大神には天孫に当る瓊々杵尊がお降りになるといふことになつたので、更めて此の天孫瓊々杵尊に三種の神器をお授けになつたのであります。一方の饒速日尊には、天照大神から直接に神器をお授けになるといふやうなことはなかつた。それであるから『日嗣の神』即ち皇室の御先祖として此の国をお治めになるといふことの御資格が無かつたものと考へなければならぬのであります。
此の問題は後に至つて大切な事になるのでありまして、即ち此の神皇正統記の書かれた当時に於て、京都には足利尊氏のお立て申した天皇がおありになり、それから吉野には後醍醐天皇、後村上天皇といふ順で御位をお継ぎになつていらしつた。それでどちらが正統の天子であるかといふことは、要するに吉野にいらつしやる天子が三種の神器をお受けになつたといふことに依つて決定されるのであります。此の三種の神器をお授けになるといふことが、即ち天皇の御正統であるといふことの確かな証[しるし]でありますから、其の由来をこゝに書いてあるのでありまして、此の記事は極く簡単ではありますけれども、全体として最も重要なことが挙げてあると申さなければならぬのであります。
嘗て天照大神や吾勝尊は天上にお留まりになつたのに、これを地神の第一代、第二代と伝へて居りますのは何故かと申しますと、詰り地上をお治めになる所の天皇の御血統が此の天照大神から始まつて居るといふ意味で、これを地上の神と申すのであらうと解釈して宜しいのであります。隋つて今日でも伊勢の大廟といふものが即ち宗廟となつて居りまして、皇室の御先祖として代々の天皇が御崇敬になり、また一般国民もこれを大廟として特に大切に考へるといふことになつて居る次第であります。
0コメント