《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑫地神第三代、天津彦々火瓊々杵尊(天孫降臨・中 神器講釈)





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









[そもそも]彼の宝鏡はさきにしるし侍る石凝姥命の作り給へりし八咫[やた]の御鏡[みかゞみ](八咫に口伝あり)(裏書に云ふ。咫説文云ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。但し、今の八咫の鏡の事は別に口伝あり。)、玉は八坂瓊の曲玉、玉屋命(天明[あめのあかる]玉とも云ふ)作り給へるなり(八坂にも口伝あり)。剣は素戔嗚尊のえ給ひて、太神にたてまつられし叢雲の剣なり。此三種につきたる神勅は正[まさ]しく国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物[いちもつ]をたくはへず、私の心なくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがひて感應[かんおう]するを徳とす。これ正直[しやうぢき]の本源なり。玉は柔和善順[にうわぜんじゆん]を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源なり。此三徳を翕受[あはせう]けずしては、天下のをさまらんことまことにかたかるべし。神勅あきらかにして詞つゞまやかに、むねひろし。あまつさへ神器にあらはし給へり。いとかたじけなき事にや。中にも鏡を本[もと]とし、宗廟[そうべう]の正体とあふがれ給ふ。鏡は明[めい]をかたちとせり。心性[しんしやう]あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正しく御影[みかげ]をうつし給ひしかば、ふかき御心をとゞめ給ひけむぞかし。天にある物日月よりあきらかなるはなし。仍[よ]りて文字[もんじ]を制するにも日月[じつげつ]を明とすと云へり。我神大日[だいにち]の霊[みたま]にましませば、明徳をもて照臨し給ふこと陰陽におきてはかりがたし。冥顕[みやうけん]につきてたのみあり。君も臣も神明の光胤[くわういん]をうけ、或はまさしく勅をうけし神達の苗裔[べうえい]なり。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理[ことわり]をさとり、其道にたがはずば、内外典の学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云ひつべし。魚をうることは網の一目[いちもく]によるなれど、衆目の力なければ、是をうることかたきが如し。應神[おうじん]天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より釈教[しやくけう]をさかりにし給ひし、是皆権化の神聖[しんせい]にましませば、天照太神の御心をうけて、我国の道をひろめ、ふかくし給ふなるべし。


【三種の神器の徳】

尚ほ三種の神器に就いて説明をして申しますには、此の三種の神器の中の鏡は、前に申した通り石凝姥命のお作りになつた八咫の鏡であり、それから玉は八坂瓊の曲玉と申すので、これは前にありましたやうに玉屋命がお作りになつたものであり、それから剣は素戔嗚尊が出雲で大蛇を退治して獲られて、これを天照大神に差上げられたものであります。其の時に大蛇の居つた上に雲が棚引いて居つたといふ所から、叢雲の剣といふ名が附いて居る訳であります。此の三種の神器の寶を天孫瓊瓊杵尊にお授けになるに就いて、天照大神の仰せられたお言葉は、即ち国を保つべき者の根本の道をお示しになつたものと考へられるのであります。

先づ第一に鏡といふものは、何も内に蓄へるものが無くして、私の心無く、凡ての物を照らすのであります。それであるから善い悪いの相[すがた]も、真つ直ぐであるか斜めであるかといふことも、鏡の上には有りのまゝに現はれるので、少しも漏れることなし、また実際のまゝ少しでも変るといふことはないのであります。即ち其の物の相に応じて、有りのまゝを映すといふのが鏡の徳であります。正直といふことは是れなのであります。一国の上に立つ方は先づ何よりも正直でなければならぬ。即ち下に居る人間を有る通りに見分けられて、善い者はこれを奨勤して、悪い者はこれを戒めて改めさせ、其の力に応じ、其の才能に応じて、それぞれ適当な職を与へられるので、チヨウド鏡が一切の物の相を有りのまゝに映すと同じことであります。

それから玉といふものは如何にも穏かなもので、自ら潤ひを含んだ光りを持つて居るのでありますから、これは人間の心の慈悲といふ徳を表はすものと考へられるのであります。慈悲深い人が一切のものを包容して、凡ての人間の幸福になるやうにと心を尽すといふことが、チヤウド此の玉といふものに依つて表はされて居る訳であります。また剣といふものは非常に鋭いもので、凡ての物を切り分ける働きを持つて居りますから、即ち人間が明かな知恵を具へて居て、善い悪いの判断を誤らずにするといふことが、よく此の剣の働きに依つて表はされて居るのであります。

それですから国民の上に立つ方は、此の三つの徳を具へなければ、天下を治めるといふことは難かしいのであります。それで天照大神が此の三種の寶を瓊瓊杵尊にお授けになつて、此の通りの心持を以て国を治めるやうにといふことを仰せられたのでありまして、洵に短いお言葉でありますけれども、其の中に含まれて居ります所の御趣意は非常に広大なものであると考へられるのであります。而もそれをお言葉で仰せられるばかりでなく、神器といふ此の形のある物をお与へになつたのでありますから、此の三種の神器を眼の前に御覧になる所の御歴代の天皇は、正しく此等の御徳をお具へにならなければ萬民の上に立つことは出来ないといふことをお考へになつて、常に其の徳をお養ひになるに相違ない。これに依つて国はよく治まりまして、萬民が皆其の福[さいはひ]を受けるのでありますから、これは洵に何よりも有難いことと申さなければならぬのであります。

【根本の明徳】

殊に三種の神器の中でも、鏡は最も大切なものと考へられ、また伊勢の大廟の御神体としても此の鏡をお祀り申してある訳であります。此の鏡といふものは明かなものであつて、一切の物の相を其のまゝに表はすものであります。人間も心が明かでなければ、慈悲を行はうと思つても真の慈悲は行へないし、また善い悪いの区別を立てようと思つても、其の区別もハツキリ立たぬのでありますから、詰り心が明かであるといふことが根本なのであります。況して萬民の上に立つ方は尚更のことで、謂はゆる公平無私な心を持つて上に立つてこそ、大慈悲の働きも出来ますし、また国の中の一切を正しく決断になつて、各々其の道を得るやうに導かれるのでありまして、チヤウド鏡に姿を映して見ると同じことであります。それであるから此の鏡を始終お側にお置きになつて朝夕これを視るやうにといふ、天照大神のお言葉があつた訳でありまして、此の事は特に意義の深いことと考へなければならぬのであります。

一体此の世の中に在る物の中で、日月ほど明かなものはありませぬ。それで支那の文字でも日と月と二つ合せて『明』といふ字になつて居るのであります。我が国でも天照大神といふ方は此の日と同じやうな、勝れた徳を具へていらつしやるので、‎大日孁貴[おひるめのむち]とも申上げるのであります。其の御子孫たる方々も皆明かな徳を以て天下萬民の上にお立ちになり、其の明かなる所の御心を以て凡てをお照らしになつて、是れよりして陰陽の働きが起つて来て、春夏秋冬の気候の変化といふものもあり、また太陽が見えるか見えないかに依て夜と昼との区別も附く訳であります。上に立つ方が勝れた御徳をお具へになるので、国中の一切の事が各々其の道に応じて行はれるといふのが、チヤウドこれに当る訳であります。

また臣下たる者は上にお立ちになります天皇の御心持に従うて国の政治を執り、また人民を指導して行くのでありますから、此の上の方の御心持が臣下を通じて一般の人民の間にも伝はつて参る訳であります。そ

【悉く神の後裔】

れから又其の臣下といふのも、やはり昔天照大神の下に事へていらしつた神々の子孫でありますから、詰り昔からの君臣であつて、他の国のやうに民間の者が立つて君主となつたといふ訳でなく、一番初めから君臣の分が定まつて居る訳でありますから、此の点を特に日本人としては仰ぎ尊んで、何時までも祖先と同じ心を以て皇室に事へ申すといふ覚悟でなければならぬのであります。此の根本を明かにしてこそ、学問をしても役に立つので、若し此の根本が解らないで、自分の本分といふものを明かに知ることが出来なければ、『内外典の学問』即ち儒教を学んでも仏教を学んでも、どれほど沢山の書物を読み、どれほど多勢の人の説を学んだ所が、それは本当の役には立たないのであります。

併しながら日本に固有する所の道が世の中に弘まつて行くに就いては、此の道に就いて詳しく説明して、人々が成るほど尤もだと思うてこれを実行するやうにすることが肝要なのでありますから、其の道を説き諭

【儒教仏教の力】

すといふ為めには儒教も、また仏教も大きなる力となつて居るのであります。即ち道の弘まるに就いては内外典共に世の中に役立つて居るのであります。何も儒教や仏教に依つて新しく凡てを学んだ訳ではないけれども、日本に本来在る所の貴い性質を弁へるといふ上に於て、またこれを詳しく説明して人々に伝へるといふ上に於て、儒教も仏教も大きなる力となつて居るといふことは、決して否定することが出来ないのであります。譬へば網を水中に投げ入れて魚を獲る時に、其の一尾の魚は網の一つの目にかゝるのではあるけれども、併し其の一つの目だけでは網といふものは形を成さぬ。沢山目のある中の一つの目にかゝるので、網の役が完全に果されるのであります。それと同じことで、本来日本に貴い性質があるのだけれども、此の貴い性質を世の中の人々に知らせる為めに力となるものが仏教であり儒教であるのでありますから、此の儒教や仏教の力を認めないといふ訳には行かないのであります。

それで應神天皇の御時から儒教が弘められて、皇子でありました所の菟道稚郎子[うぢのわかいらつこ][注記:古事記ニ宇遅能和紀郎子]といふ方が先づ儒教をお学びになり、また御自分でお学びになつただけではなく、此の儒教の世の中に弘まることに大いに力をお尽しになりました。また仏教の方は昔からあつたけれども、聖徳太子が特に御自分で仏教を深く御研究になり、さうして御身を以て多勢の者のお手本をお示しになつて、仏教の世の中に盛んになるやうに全力をお注ぎにになつたのであります。斯ういふやうな方々は何れも或は神、或は仏が仮りに姿を人間の中に現はして、人間をお救ひになる方であると考へても宜しいのであります。遠く申せば天照大神の御心持をこれ等の勝れた方々がお承けになつて、さうして我が国の道を弘め、また一層深いものとして多勢をお教へになつたものと、斯う考へて宜しい訳であります。

それでありますから日本の国に生まれた者は、勿論日本の国の最も貴いことを知らなければなりませぬが、又それと同時に此の日本の国の貴いことを国民全体に深く意識させる為めに役に立つた所の儒教なり仏教なりの力といふものも、極めて広大であるといふことを認めなければならぬ訳であります。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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