《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑥天の瓊矛(神代、創世談釈義及び論考)





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









[それ]天地[てんち][いまだ]分れざりし時混沌としてまろかれること鷄子[とりのこ]の如し。くゞもりて牙[きざし]をふくめりき。これ陰陽の元初[げんしよ]未分の一気[いちき]なり。其気始て分れて清くあきらかなるはたなびきて天[てん]となり、重く濁れるはつゞきて地[ち]となる。其中より一物[いちもつ]出でたり。かたち葦牙[あしかび]の如し。即化[け]して神となりぬ。国常立尊[くにのとよたちのみこと]と申[まを]す。又は天御中主[あめのみなかぬし]の神とも号し奉つる。此神に木[もく][くわ][ど][ごん][すゐ]の五行の徳まします。先[まづ]水徳の神にあらはれ給ふを国狭槌尊[くにのさつちのみこと]と云ふ。次に火徳の神を豊斟渟尊[とよくむぬのみこと]と云ふ。天の道独[ひとり]なす。ゆゑに純男[じゆんなん]にてます(純男といへどもその相ありともさだめがたし)。次に木徳の神を泥土(蒲鑒反)瓊尊[うひじにのみこと]、沙土瓊尊[すひぢにのみこと]と云ふ。次に金徳の神を大戸之道尊[おほとのぢのみこと]、大苫辺尊[おほとまべのみこと]と云ふ。次に土徳の神を面足尊[おもたるのみこと]、惶根尊[かしこねのみこと]と云ふ。天地の道相交りて、各[おのおの]陰陽の形あり。しかれど其のふるまひなしと云へり。此諸[もろ]神實[まこと]には国常立[くにとこたち]の一神[ひとはしら]にましますなるべし。五行の徳おのおの神とあらはれ給ふ。是を六代ともかぞふるなり。二世三世の次第を立つべきにあらざるにや。次に化生[けしやう]し給へる神を伊弉諾尊[いざなぎのみこと]、伊弉冊尊[いざなみのみこと]と申す。是は正[まさ]しく陰陽の二[ふたつ]にわかれて造化[ざうくわ]の元[はじめ]となり給ふ。上[かみ]の五行はひとつづゝの徳なり。此五徳を合せて萬物を生ずる始[はじめ]とす。


【神代の初】

先づ此の日本の国の初めに就いての言ひ伝へに依ると、天地の未だ分れなかつた時に於ては、渾沌としてたゞ丸く固まつて居つたので、チヤウド鶏の卵のやうであつたと言つてあるのであります。さうしてそれが『くゞもり』といふのはさまざまなものを含んで居つて、其の中に『牙をふくめり』といふのは、さまざまなものを生み出す所の、此の本となるものが包容されて居つたといふのであります。即ち陰陽の働きのまだ分れない所の、根本の状態であつた訳であります。それから此の卵のやうなものが分れて、さうして清く明かなものはたなびいて天となり、重く濁つて居るものは下に沈んで地となつて、即ち天地といふものがこゝに分れたのであります。此の天地の中から出たのは葦の芽のやうな形のものであつたが、此れが変つて神となつたのであつて、此の一番初めの神を国常立尊と申すのでありますが、またこれは天御中主神とも申してあります[注釈:謂ル伊勢神道ガ神道五部書参照]。

此の国常立尊に木火土金水の五つの徳が具はつていらしつたものであるから、此の国常立尊の御身が分れて五種の神となつて、其の水の徳が神と現がれたのを国狭槌尊といひ、それから火の徳が神となつて現はれたのを豊斟渟尊といふのであります。此等の神々は天の道が自然に現はれた神であるから、男女といふ区別は無いのであるが、先づ男の神と考へて宜しい訳であります。それから次に木の徳の現はれた神はお二人あつて泥土瓊尊、沙土瓊尊といふのであります。それから金の徳の現はれた神もお二人あつて大戸之道尊、大苫辺尊といふのであります。次に土の徳の現はれた神もお二人あつて、面足尊、惶根尊といふのであります。これ等は何れも天地を代表する神々で、即ち陰陽の作用の分れたものであると考へられるのであります。併しながらお二人づゝの神々が出られたけれども、これが男であるか女であるか、謂はゆる夫婦のやうな生活をなさつたといふことは何も伝はつて居ないのであります。要するにいろいろな神が出られたけれども、これは国常立尊といふ神様のお分れになつた神々であつて、もとは一つであると考へて宜しいのであります。即ち国常立尊に具はつた五行の徳がおのおのの神となつて現はれたものと解釈すべきであります。それでありますから、此の木火土金水の五つの徳を表はされた神様を国常立の神様と合せて、六代と申して居るのであります。勿論此等の神様の間にお子様が生れたといふやうなこともないのであるから、二代三代といふやうに次第を立てるにも及ばない訳であります。

【男女の神】

 それから其の次に自然に現はれていらしつた神様が伊弉諾尊、伊弉冊尊と申すのでありまして、これは正しく陰陽の二つの分れ、即ち男女の性質を具へていらしつたから、夫婦の御生活をなさつて、いろいろな神をお生みになつたといふことであります。前に申した五行の神といふものは各御一人の神でありますが、此の伊弉諾尊、伊弉冊尊は此の五つの徳を合せて御一身に具へられて、さうして夫婦となつて萬物を生み出されたと申すのでありまして、これから日本の国の皇室の御血統といふものがズツト後までも続いて居る訳であります。


こゝに天祖[てんそ]国常立尊、伊弉諾伊弉冊の二神[にじん]に勅[みことのり]しての給はく、豊葦原の千五百秋の瑞穂の地[くに]あり。汝[いまし]往ゆきてしらすべしとて、即ち天瓊矛[あまのぬぼこ]を授け給ふ(此矛又は天の逆戈[さかほこ]とも、天魔返[あまのさかほこ]とも云へり)。二神此矛をさづかりて天[あま]の浮橋[うきはし]の上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給ひしかば、滄海[あをうなばら]のみ有りき。其矛のさきよりしたゝり落つる潮[しほ]こりて一[ひとつ]の嶋となる。是を磤馭盧嶋[おのころじま]と云ふ。此名に付て秘説あり。神代梵語に通[かよ]へるか。其所もあきらかに知る人なし。大日本[おほやまと]の国霊山[りやうぜん]なりと云ふ(口伝あり)。二神此嶋に降居[くだりゐ]て即ち国の中の柱[みはしら]をたて八尋[やひろ]の殿[との]を化作[けさく]して共に住給ふ。さて陰陽[いんやう]和合[わがふ]して夫婦の道あり。此矛は傳へて天孫したがへてあまくだり給へりとも云ふ。又垂仁[すゐにん]天皇の御宇[ぎよう]に大和姫の皇女[くわうぢよ]、天照太神の御教[おんをしへ]のまゝに国々を廻り、伊勢国[いせのくに]に宮所[みやどころ]を求め給し時、大田[おほた]の命と云ふ神参りあひて五十鈴[いすず]の河上に寶物[はうもつ]を護りおける所をしめし申ししに、彼[かの]天逆矛[あめのさかほこ]、五十鈴、天宮[あめのみや]の図形[づぎやう]ありき。大和姫命よろこびて、其所を定めて神宮を立ててらる。寶物は五十鈴の宮の酒殿[さかどの]にをさめられきとも云ふ。又瀧祭[たきまつり]の神と申すは龍神[りうじん]なり、其神あづかりて地中にをさめたりとも云ふ。一には大和の龍田神[たつたのかみ]はこの瀧祭と同体にます。此神のあづかり給へるなり、よりて天柱国柱[あめのみはしらくにのみはしら]と云ふ御名ありとも云ふ。昔磤馭盧嶋に持ちくだり給ひしことは明かなり。世に傳ふと云ふ事おぼつかなし。天孫のしたがへ給ふならば神代より三種の神器の如く傳へ給ふべし。さしはなれて五十鈴の河上に有けんもおぼつかなし。但し天孫も玉と矛とはみづからしたがへ給ふと云ふこと見えたり(古語拾遺[こごしふゐ]の説なり)。然れども矛も大汝[おほなむち]の神のたてまつらるゝ国を平げし矛もあれば、いづれと云ふ事をしりがたし。霊山に留りて不動のしるしとなりけん事や正説[しやうせつ]なるべからん。龍田も霊山近き所なれば、龍神を天柱国柱といへるも、深秘[しんぴ]の心あるべきにや。凡[およ]そ神書[しんしよ]にさまざまの異説あり。日本紀[にほんぎ]、旧事本紀[くじほんぎ]、古語拾遺等にのせざらん事は末学[まつがく]の輩[ともがら]ひとへに信用しがたかるべし。彼書の中[うち]猶一決せざること多し。況んや異書におきては正[せい]とすべからざるをや。


【天の瓊矛】

やがて此の伊弉諾・伊弉冊尊の御二方の神がいよいよ夫婦の道を開かれ、子孫が永く続くといふことになつたものでありますから、そこで国常立尊が此の伊弉諾・伊弉冊の神々に仰せられるには、豊葦原の千五百秋の瑞穂国といふ所がある。此処は地味が非常によくて、凡ての草木も青々として茂つて居り、また此処に穀物を植ゑれば非常によく出来て、毎年豊年であるから、それで斯ういふ名が附いて居るのであつて、人間の住む所として最も適当な所であるから、お前達は其処へ行つて其処をよく治めて、其の土地に住んで居る者が皆平和に毎日を送るやうに導いてやるべきである。斯ういふことを仰せられて、そこで天の瓊矛といふ矛を賜うたといふのであります。瓊矛といふのは玉を以て飾つた矛といふやうにも見えますけれども、必ずしも玉を飾りとしたといふ訳でもなく、其の勝れたものであるといふことを、瓊といふ言葉で形容してあるものと見て宜しい訳でありませう。

そこで伊弉諾・伊弉冊尊が此の矛を国常立尊から授かつて、さうして天の浮橋の上に佇んで其の矛を降ろして、海の中うぃさぐられた所が、何も島のやうなものは無くて、たゞ海ばかりであつた。併しながら其の海を探られた矛を引上げられて、其の矛の先から滴つた所の水が自然に島の形を成した。これが磤馭盧嶋といふのであります。此の磤馭盧嶋といふ名に就いては昔から神秘な伝説があつて、これは印度の言葉に似通つた名であるといふけれども、これに就いて詳しいことは何も伝はらず、また此の磤馭盧嶋といふのが何処に当るのか、其の詳しいことを知る者は無いのであります。兎にも角にも此の日本の国の初めが磤馭盧嶋であつて、此の磤馭盧嶋といふのは『霊山』で、神秘的な不思議な山であつたといふことが伝へられて居る訳であります。

そこで此の伊弉諾・伊弉冊尊の御二方が此の島にお降りになつて、さうして国の真ん中に柱を建て、八尋といふやうな広い御殿をお建てになつて、此処に夫婦としてお住みになつたのであります。此の時より以後は陰陽和合して夫婦の道といふものが行はれ、隋つて此の夫婦の仲に御子が幾人もお生まれになつたのであります。それから国常立尊よりして伝へられた矛といふものは、これより後までもズツト伝はつて居て、天照大神の仰せを受けて天祖瓊瓊杵尊が此の国にお降りになる時に、やはり之を天照大神からお譲りになつて、之を持つてお降りになつたといふことが伝へられて居るのであります。それより後に至つて垂仁天皇の御時に、皇女の大和姫命といふ方が天照大神のお社を建てらるべき土地を定める為めに諸国をお廻りになつた。これは天照大神の御教へに従つて神宮を建てるべき所をお求めになつたのであるといふことですが、

【伊勢の大廟】

大和姫命は非常な苦労をなさつて、方々の国々を廻って歩かれた末に、伊勢の国が最も天照大神の御心に適つて居るといふことを知つて此処に神宮をお建てになりました。これが今日までも伝はつて居ります所の伊勢の大廟であります。此の伊勢の大廟をお建てになります時に、大田命といふ神が、其の場所に参られて、さうして五十鈴の川の川上に此の寶物を祀つて置くが宜しからうといふことを申されたといふのであります。其の時に天逆矛以外に五十鈴といふ、即ち沢山の鈴の集まつたものと、それから天上に於て神のお住みになつた御殿の形を描き表はしたものとがあつて、之を大田命が大和姫にお授けになつたといふことであります。そこで大和姫は大変に喜ばれて、其の場所を神宮を建つべき地とお定めになり、垂仁天皇のお許しを得て此処にお宮をお建てになつたのであります。それからまた其の時の寶物は皆五十鈴の宮の酒殿に収められたと申すのでありますが、これはたゞ言ひ伝へでありまして、今日までさういふ寶物が伝はつて居るか居ないかといふことは、一向に判らないのであります。

また一説に依ると瀧祭神と申す龍神が此の時現はれ、此の龍神が天逆矛其の他の寶物を預かつて、さうして之を地の中に収めてしまつたから、後に傳はえあないのであるといふやうにも申し伝へて居るのであります。また一説には、大和の龍田の神といふのが此の瀧祭の神と同じ神でつて、此の神がお預かりになつたから天柱とか国柱とかいふ名が伝はつて居るのであるといふことであります。併し斯ういふやうなことは何れもたゞ言ひ伝へでありまして、其の詳しいことは何も判らないのであります。

たゞ其の初めに伊弉諾・伊弉冊尊が磤馭盧嶋に矛を持つてお降りになつたといふことだけは、確かな言ひ伝へと申して宜しいのでありますが、其の矛が天祖瓊瓊杵尊の御時まで果して伝はつたかどうかといふことは、甚だ覚束ないことであつて、之を信ずべきものと断定する訳には行かぬのであります。また考へて見ると、若し天祖瓊瓊杵尊が天照大神の仰せに依つて此の矛を持つて降りられたのであれば、謂はゆる三種の神器と同じやうに代々の天皇にもお伝へになるべき筈だと思はれるのであつて、此の矛などを三種の神器と別にして、五十鈴の川上に収められたといふやうなことは甚だ覚束ない次第であつて、これはたゞ一種の言ひ伝へとして考へるより外はなからうと思はれるのであります。

たゞ天祖瓊瓊杵尊が矛と玉とを持つて此の国にお降りになつたといふことは、古語拾遺などといふやうな古い本に見えて居るから、前に申した伝説も全く基く所がないといふ訳ではないのであります。併し矛といふことに就いては他の伝説もあつて、天孫が出雲の国にいらつした時に、以前から此の出雲の国に居られた大国主命が、此の国を天孫にお譲りになるに当つて、自分が長い間此の出雲の国を治める際に敵対する者を平げる為めに持つて居つた所の矛があつて、此の矛を持つて向ふ者には何人も之に敵することは出来ない。此の矛をお譲り申さうと申し上げて、之を天孫にお譲り申したといふことがある。此の大国主命の譲られた矛といふものと、それから天孫が持つてお降りになつた矛といふものは全く別なものであらうと思ふけれども、それ等の関係に就いては何も詳しいことは判らないのであります。

先づ大体のところを考へて見ると、此の伊弉諾・伊弉冊尊がお持ちになつた矛といふのは、その場所は明かに判らないけれども、霊山ともいふべき所の、謂はゆる磤馭盧嶋に後までも留まつて居つて、後世の人の目には見えないのであるといふやうに解釈するのが先づ正しい考へ方と申して宜しいでありませう。また龍田といふのも霊山に近い所であるから、龍神を天柱、国柱と名づけたといふのであるが、これにも何か非常に神秘的な考へが含まれて居るやうであつて、如何様にこれを解釈して宜しいか、其の明かなことは無論判らないのであります。

一体神代のことに就いてはいろいろな異説がありますが、其の記録されたものの中でも日本紀とか、旧事本紀とか、古語拾遺とかいふやうなものは先づ正確な歴史であるから、此等のものに無いことは信じて宜しいか、或は信じてならぬか、これを決定することは出来ないので、後の世に至つて歴史を学ぶ者がどれを取つて、どれを捨てるかといふやうなことを、勝手に決定するには及ばない。先づ疑はしいことは疑はしいまゝにして置くといふより外はないのであります。

また今挙げた日本紀とか、旧事本紀とかいふやうなものの中にも、いろいろな伝説が挙げられて居て、どれが正しいかといふことは一定しない所が多いのであります。況してやさういふ正しい歴史でないものは、どれが本当の言ひ伝へであるか、或は誤りであるか、之を定むべき所の標準は何も無いのであるから、斯様なことは唯だ言ひ伝へとして遺して置くだけで宜しいので、深く穿鑿するには及ばないのであります。

【伝説の概要】

 斯く親房が神代のことを深く穿鑿しない方が宜しいと申したのは洵によい考へであります。凡て旧い言ひ伝へといふものには、其の昔を尋ねれば何かの根拠はあるのでありませうけれども、時代が遠くなると其の言ひ伝への中にもいろいろ誤りを生ずることもあるし、或はさまざまな異つた伝説が混じて、一つになつたといふやうなものもあるのでありますから、これに就いて徒らに穿鑿をして見ても、其の正しいことが本当に解る訳はないのであります。何にしても遠い昔のことであるから、これを単なる伝説と見て、余り詳しく穿鑿しないで置くといふことが、最も健全な考へ方と申すべきでありませう。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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