《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑤我が国天祖より継体不違(万世一系論)
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
震旦は殊に書契[しよけい]をことゝする国なれども、世界建立を云へる事たしかならず。儒書には伏義[ふくき]氏と云ふ王よりあなたを云はず。但[ただし]、異書の説に混沌未分[こんとんみぶん]の形、天地人[てん、ち、じん]の初[はじめ]を云へるは、神代[かみよ]の起りに相似たり。或は又盤古[ばんこ]と云ふ王あり。目は日月[じつげつ]と成り、毛髪は草木[さうもく]となると云へる事もあり。それよりしもつかた天皇[てんくわう]、地皇[ちくわう]、人皇[じんくわう]、五龍[ごりよう]等の諸氏[しよし]うちつゞきて多くの王あり。其間[そのかん]数萬歳[すうまんざい]をへたりと云ふ。
【支那の太古】
支那のこちは其の起りが余り詳しくは伝はつて居ないのであります。一体支那といふ国は『書契を事とする』即ち記録を後世に遺すといふことに於て非常に長じて居る国でありまして、日本などでも支那の文字を伝へてから、いろいろなことが後に書き遺されたやうな訳でありますから、さだめし支那では昔のことも詳しく書き遺してあるかと思ふと案外さうではなくて、世界の出来初めといふことに就いては何も確かに伝はつて居ない。それで儒教の方では伏義氏といふ王より以前にいろいろな王があつたといふやうなことを何も書いて居ないのであります。これは一体孔子の趣意として、毎日の人間生活に役に立たぬことは深く穿鑿をするに及ばぬといふ主義でありましたから、それで昔のことが彼此れと伝はつて居つても、之を後に書き遺さなかつたものと思はれるのであります。たゞ此の儒教以外に、他の方の学者などの伝へたものの中に、『渾沌未分』即ち天地がまだハツキリ分れない時代のことなどが書いてあつて、さうして天と地とが分れて其の間に人間が生じて、之を『天地人の三才と謂ふ』といふやうなことがあるのでありまして、これは日本の神代の起りと余ほど似た言ひ伝へであります。
或はまた昔盤古といふ王があつて、其の人の目は日月となり、其の人の身の毛が草木となつたといふやうなこともあつて、これは日本でいっろいろな神様が国をお生みになつたといふ言ひ伝へと些か似た所があるやうであります。それより後に至つて天皇氏、地皇氏、人皇氏といふやうな者もあり、或は五龍といふやうな君主も出て、人民の上に立つて国を治めたといふやうなことも伝へてあつて、其の間は数万年を経たと言つてあるけれども、これは無論確かなことでもなし、また支那でが大体儒教を以て国の教へとするので、其の儒教の方では遠い昔を穿鑿しないといふことになつて居るものでありますから、印度などに比べると、昔の事実に就いての言ひ伝へは甚だ乏しいといふ状態になつて居るのであります。
我朝[わがてう]の初は天神[あまつかみ]の種[しゆ]をうけて、世界を建立するすがたは天竺の説に似たる方[かた]もあるにや。されどこれは天祖[てんそ]より以来[このかた]継体[けいたい]不違[たがはず]して、たゞ一種ましますこと、天竺にも其類なし。彼国[かのくに]の初の民主王も衆の為に選びたてられしより相続せり。又世降[くだ]りては、その種姓[しゆしやう]も多くほろぼされて、勢力[せいりき]あれば下劣[げれつ]の種も国主となり、あまつさへ五天竺を統領するやからも有りき。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道たゞしかりし時も賢を選びて授くる跡ありしにより、一種を定むる事なし。乱世になるまゝに、力を以て国を争ふ。かゝれば民間より出て位に居たるもあり。戎狄[じゆうてき]より興[おこり]て国を奪へるもあり。或は累世[るゐせい]の臣[しん]として其君をしのぎ、終に譲[ゆづり]を得たるもあり。伏氏の後天子の氏姓[ししやう]をかへたる事、既に三十六。乱[らん]の甚しさ云ふにたらざる者をや。
唯我国のみ天地[てんち]開けし初より今の世の今日に至るまで、日嗣[ひつぎ]をうけ給ふ事よこしまならず、一種姓[いちしゆしやう]の中におきても自[おのづか]ら傍より傳給ひしすら猶[なほ]正[せい]にかへる道ありてぞたもちましましける。是しかしながら神明の御誓あらたにして、余国に異なるべきいはれなり。抑[そもそも]、神道[しんたう]のことはたやすく顕さずと云ふことあれど、根元をしらざれば猥[みだり]がはしき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんために聊[いさゝ]か勒[しゐ]し侍り。神代より正理[しやうり]にてうけ傳へる謂れを述べむことを志して、常に聞ゆる事をばのせず。しかれば神皇[じんわう]の正統記[しやうとうき]とや名づけ侍るべき。
【一系の皇統】
翻つて我が日本の初めのことを伝へた所を見ると、神々の御血統がだんだん後まで伝はつて、さうして此の国といふものが始まり、また其の昔の神々が国をお生みになつたといふこともあるので、其の点は天竺の伝説に些か似た所もあるやうに見えるのであります。併しながら天竺では王となつた者が昔から同じ血統を以て続いたといふやうなことは無いので、徳のある者が王となり、其の徳が衰へればまた他の者がこれに代るといふことになつて居るのであります。支那も無論さうであります。日本では一番初めの神々からだんだんに其の御血統がお続きになつて、天照大神の皇孫が此の国にお降りになつて以来、其の御子孫が天皇として末の末までも此の国をお治めになるので、即ち其の御血統といふものは少しも変らないで、たゞ一種であります。斯ういふことは天竺などには全く類が無いのであります。
天竺などでは初めに立つたのは民主王で、即ち人民が立てた所の王でありまして、其の人の徳が勝れて居り、或は力が秀でゝ居たから、皆がこれを選んで立てたので、もともと民間から興つて王となつたものであります。さうして其の子がまた親と同じやうに徳もあり力もあれば、其の後を相続して行かれるのであるけれども、其の子孫に至つて、徳も足らず力も足らない者が出れば、もともと人民が立てたものであるから、また人民が集まつて其の王を廃めて、さうして他の徳のある者を立てるといふことになつて居るのであります。それであるからだんだん世が降つて来ると、王様の血統といふものがいろいろに変るので、以前に王であつた者の子孫が滅ぼされてしまつて、さうして勢力さへあれば、以前には一般人民と一緒に住んで居つた者が王となるといふやうなことも少なくない。斯ういふやうな訳であつて、中には『五天竺』即ち天竺全体を支配するといふやうな者もあつた訳であります。支那もまか此の通りであつて、洵に国王の血統といふものには一致した所が全く無いのであります。
支那では世の中が正しくて道を守つて居つた昔でも、王様の血統といふものは決して続きはしないので、例へば堯[注釈:ぎやう。『史記』ニ在ル顓頊(ぜんぎよく)ガ王也]が其の臣下の中の舜といふ最も勝れた人ヲ選んで自分の後を譲つたとか、舜がまた其の臣下の中の最も勝れた孫といふ人を選んで其の位を譲つたとかいふやうな訳で、賢者を選んで王の位を授けるといふことであるから、王様の血統といふものが続くといふことは無いのであります。或は夏の時代とか周の時代などになつては、王の血統が可なり長く続いたけれども、それも何百年も続く訳でもないので、やはり其の王の徳が衰へれば、以前に民間に在つた者が代つて王となるといふ点に於ては、彼の堯舜の時代と少しも異る所は無いのであります。殊に周の末頃から乱世になると、力を以て国を争ふといふ状態になつて、民間から出て王の位に就いた者も沢山あつたのであります。
また支那は日本と異つて、人種がいろいろと入混つて居るので、外国から支那に攻め込んで、さうして武力を以て国を奪つたといふやうな者も随分ある。或は代々臣下であつた者が、勢力を得るに及んでは其の君を凌いで、遂に其の君主から位を譲られたといふ類のこともあるのであります。斯ういふやうな訳であるから儒教の方では伏義氏から後を伝へて居るのでありますが、此の伏義氏の後に至つて天子の血統の変つたのが、既に三十六にもなつたといふ位であつて、実に国の乱れの甚だしき有様は、我が日本などと到底比べられるものではないのであります。
要するに日本以外の国に於ては、一番初めに人民があつて、さうして其の人民が王を選んで立てたのでありますから、そこで其の王の中に人民の人望を失ふ者があれば、其の位を失ふといふことは固より当然のことなのでありまして、これは何処の国でも少しも変ることはないのであります。
然るに独り我が日本だけは天地の開け初めから今日に至るまで、神々の御血統の方が天皇として国をお治
【正統の尊重】
めになつて居るのであつて、此のことは今後も千萬世に互つて変るらない訳であります。即ち天皇の御血統はズツト前から一貫していらつしやるのであります。また時に依ると同じ血統の中でも、寧ろ其の分れた方の方が一時国を治められたといふこともある。例へば出雲の地方を大国主命が一時治めて居られたとか、或は大和地方を饒速日命が治めて居られたとかいふやうなこともあるのであります。此等の方々でも遠い昔の神々と全く関係が無いといふ訳ではないので、たゞ其の分系に過ぎないのであるから、さういふ方々が国をお治めになつて居つても、別に差支ないやうなものであるけれども、其の正しい系統の方がいらつしやると其の方に国をお譲り申して、大国主命であつても、或は饒速日命であつても、その御子孫は皆臣下としてこれに事へられたのであります。即ち何れも正しい系統に帰るといふことになつて居る。斯ういふやうな、謂はゆる大義名分の最も正しい国といふのは、世界に国が幾らあつても日本以外には断じてないのでありまして、これはまことに神々が此の国を安らかに治めようといふことをお誓ひになりました、其のお誓ひが後までも伝はつて居る為めなので、他の国に於ては到底学ぶことの出来ない所であります。
但し此の神代のことは詳しくは伝はつて居ないのであつて、これは其の本が遠いものであるから、果してどういふ状態であつたか、後世に至つてこれを詳しく調べるといふこと出来ない。其の詳しく調べることの出来ないものを、後世の者の憶測を以て濫りに伝へるといふことは、謂はゆる大義名分を謗るといふことにもなつて、人民の思想を教へ導く上に於て妨げとなることである。それ故に昔のことは其の大体だけを伝へまして、其の詳しいことは何も伝へないっで済ますべきものであります。
ところが後になつていろいろ想像を逞しうして、事実あつたかどうか判らぬやうな事も言ひ伝へる者なども出て来ました。これでは将来が甚だ案じられるから、其の弊を救ふ為めに、自分が今回聊か正しい記録のみを後へ遺さうと思つて、斯ういふ書物を書いた訳である。詰り神代から正しい系統を以て此の国をお伝へになつた、其の根本の御精神の在る所を世の中に明かにしようといふのが此の書物を作つた志であつて、ただの歴史とは其の編纂の精神が異ふのであります。それであるから普通世の中に伝はつた事でも、大義名分を明かにするといふ上に余り役に立たないことは書き載せないのである。それであるから詰りこれは神代よりして天皇の御血統の今日に及んだ、其の正しい道を書き記したものであつて、これを『神皇正統記』と名づけるのは斯ういふ理由である。此の書を読む上に於ては、一々細かいことを穿鑿しないで、一体日本の国はどういふ国であるか、天皇の御位といふものは如何なるものであるかといふ、此の大切な点に深く心を打込んで読まれなければならぬと申すのであります。
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