《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】④大日本は神国也(国名釈義・下)





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









此事、我国の古記にはたしかならず。推古[すゐこ]天皇の御時、もろこしの隋朝[ずゐてう]より使ありて書をおくれりしに、倭皇[わくわう]とかく。聖徳太子みづから筆ふでを取とりて返牒[へんてふ]を書給しには「東天皇敬白西皇帝[ひがしのてんわうつゝんてにしのくわうていにまをす]」とありき。かの国よりは倭と書たれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是より上代[じやうだい]には牒ありともみえざる也。唐の咸亨の比[ころ]は天智[てんぢ]の御代にあたりたれば、実[じつ]には件[くだん]の比より日本と書て送られけるにや。

又此国をば秋津州[あきつしま]といふ。神武天皇、国のかたちをめぐらしのぞみ給て、蜻蛉[あきづ]の臀舐[となめ]の如くあるかなとの給しより此名ありきとぞ。しかれど、神代に豊秋津根[とよあきつね]と云名あれば、神武にはじめざるにや。此外[このほか]もあまた名あり。細戈[くはしほこ]の千足国[ちたるのくに]とも、磯輪上[しわかみ]の秀真[ほつま]の国とも、玉垣[たまかき]の内国[うちつくに]ともいへり。又扶桑[ふさう][こく]と云名もあるか。東海の中に扶桑の木あり。日の出所ところなりとみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国に彼木[かのき]ありと云事きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。


嘗て支那から我が国の日本といふ名を承認して来たといふことは、我が国の古い記録には確かには書いてなにのでありまして、我が国が外国に、即ち支那に国書を贈つたのは、推古天皇の御時に始まるのでありますが、此の推古天皇の御時に支那は隋でありまして、此の隋から使が来て、其の使の持つて参つた国書には『倭皇[わくわう]』と書いてありました。即ち『皇帝倭皇に問ふ』とあります。そこで此の使いに答ふる為めに、我が国から小野妹子を使として隋に送つたのでありますが、此の小野妹子を隋にやります時に、時の摂政であらせられた聖徳太子が御自分で筆を取つて其の返事をお書きになりました。其の返事にお遣はしになつた国書の中には『東の天皇敬[つゝし]みて西の皇帝に白[まか]す』とあります。これは日本書紀などにも明かに伝はつて居るのでありまして、向うからは『倭』といふ字を書いてあるけれども、こちらから返事をお遣はしになる時には『日本』とも『倭』ともお書きにならないで、『東の天皇』とお書きになつてあるのであります。これより以前に我が国から支那に対して国書を贈つたといふことはないのでありますから、これが初めと見なければならぬのであります。此の初めの国書には『東の天皇』とあるので、これは特に注意すべきであります。東といひ西といひ、其の国に優劣はないやうに見えますけれども、日は東より出て西を照らすのでありますから、『東の天皇』と聖徳太子がお書きになつたのは、確かに我が国の勝れた地位にあることをお表はしになつたので、支那が此の国書を受取つて格別異議をも申して来なかつたといふことは、当時の日本の盛んな有様を彼も認めて居つたといふことの証拠になる訳であります。

ところが前に申した唐の高宋の咸亨年中に我が国から行つた使が『日本』と言つたといふ記事が見えて居るのでありますから、これは聖徳太子よりも少しく後のことであつて、即ち聖徳太子の御時より後になつて我が国からお遣はしになつた国書の中に『日本』と書いて贈られたので、向うでも『日本』といふ名を承認したといふやうに解釈される訳であります。

【秋津州の名】

また此の国を秋津州といふのは、神武天皇が此の国の様子を山の上から見渡して御覧になつた時に『蜻蛉の臀舐の如く』――蜻蛉が身をかゞめて居る姿と似て居ると仰せられたといふ所から、秋津州といふ名が出て居るといふ言ひ伝へがあるのでありますが、併し此の言ひ伝へは必ずしも信ずることは出来ないのであつて、神代に於て既に『豊秋津根』といふことがある以上は、神武天皇以前から『秋津』といふ名は既に定まつて居たものと見て宜しい訳であります。

尚ほ此の他にも我が国の名が幾つもありまして、例へば細戈千足国といふ名もあります。『細戈』といふのは、戈が非常に勝れて居つて、而も其の鋭い戈が沢山あるといふことであります。戈といふのは詰り武器を代表するもので、我が国は武勇の国であつて、人間が勝れて居るのみならず、武器に於ても非常に勝れて居るといふ所から、斯ういふ名が附いて居るものと思はれるのであります。それからまた磯輪上秀真国といふ名もあります。『磯輪上秀真』といふのは、国の中央より始めて海岸に至るまで、即ち国中が悉く勝れて居つて、物もよく出来る、また人間も勝れた人が多く住んで居るといふ意味と考へられるのであります。それから玉垣内国といふ名もあります。『玉垣内』といふのは、四方に垣を巡らして居れば無暗に人が入らないのでありますから、此の国は勝れた国で、外国から侵略も受けず、また外国から何の辱しめをも受けないといふやうな意味で、此の名が附いて居るものと思はれるのであります。それからまた扶桑国といふ名もあるのでありますが、此の『扶桑』といふことに就いては、支那の南史といふものの中に、東海の中に扶桑といふ木があつて、其の木の茂つて居る所は日の出づる所に近いと見えて居ります。それで日本は東にあるから、此の南史の中にある扶桑といふ伝説によそへて、此の国を扶桑国といつたのであらうと思はれるのであります。併し日本の国に扶桑などといふ木があるといふことは判らない。[注釈:『梁書』ニ謂、《其南有侏儒國人長三四尺又南黑齒國 裸國去倭四千餘里船行可一年至》其の南に侏儒の國あり身長三、四尺。又其の南に黒歯国があり倭から四千余里。船で行くのに一年トアル]また其の扶桑といふ木がどういふ木であるかも判らないのでありますから、これは支那とだんだん交通するやうになり、支那の書物なども沢山入るやうになつて、何人かが言ひ出したことで、決してこれは確かな名とは言へない。日本人として扶桑国などといふことを公けに名乗るには及ばないのであります。

先づ大体斯ういふ訳で我が国の名はいろいろありますけれども、要するに『やまと』といふのが根本の名であり、其の他は此の国の秀でゝ居る所を形容して、やまざまな名が出来たものといふ風に解釈して宜しい訳であります。


[およそ]、内典[ないてん]の説に須彌[しゆみ]と云山あり。此山をめぐりて七の金山[きんざん]あり。其中間は皆香水海[かうすゐかい]なり。金山の外に四大海[しだいかい]あり。此海中に四大州あり。州ごとに又二の中州[ちゆうしう]あり。南州をば贍部[せんぶ]と云(又閻浮提[えんぶだい]と云。同じことばの転[てん]也)。是は樹[き]の名なり。南州の中心に阿耨達[あのくたつ]と云山あり。山頂[やまのいたゞき]に池あり(阿耨達こゝには無熱[ぶねつ]と云。外書[げしよ]に崑崘[こんろん]といへるは即この山なり)。池の傍に此樹あり。迊[めぐり]七由旬[ゆじゆん][たか]百由旬なり(一由旬とは四十里也。六尺を一歩[いちぶ]とす。三百六十歩を一里とす。この里をもちて由旬をはかるべし)。此樹州の中心にありて最も高し、よりて州の名とす。阿耨達山[せん]の南は大雪山[だいせつせん]、北は葱嶺[そうれい]なり。葱嶺の北は胡国[ここく]、雪山の南は五天竺、東北によりては震旦国[いんたんこく]、西北にあたりては波斯国[はしこく]なり。此贍部州は縱横[じうわう]七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里、南海より北海にいたるまで又九万里、天竺は正中[せいちう]によれり。よりて贍部の中国[ちうごく]とす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天にならぶれば一辺[いちへん]の小国[せうこく]なり。

日本は彼土をはなれて海中にあり。南都[なんと]の護命僧正[ごみやうそうじやう]、北嶺[ほくれい]の傳教大師[でんげうたいし]は中州也としるされたり。しからば南州と東州との中[なか]なる遮摩羅[しやもら]と云州なるべきにや。華厳経[けごんきやう]に、東北の海中に山あり。金剛山[こんがうせん]と云いふとあるは、今の大倭[やまと]の金剛山の事なりとぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして神明[しんめい]の皇統[くわうとう]を傳給へる国なり。


【印度伝説の四大州】

先づ世界の全体の地勢に就いて、印度若しくは支那に於て伝えて居る所を挙げて、我が国と比べなければならぬのでありますが、先づ印度の伝説といふものは、仏教の経典の中に伝はつて居るのであります。『内典』といふのは仏教の経典などを指すのであります。仏教の方では仏教を『内』といひ、其の他の教へを『外』といひまして、仏教以外のものを悉く『外道』といふ名を以て呼んで居るのであります。今日では『外道』と言ふと、何か正しくない教へのやうに解せられるのでありますが、元来は仏教以外といふ意味でありますから、必ずしもこれを排斥するといふことにはならないのであります。

それは兎に角として、『内典』と申せば仏教の経典を謂ふので、其の経典に就いて見ると、須彌山といふ山が此の世界の中心に在るといふのであります。此の須彌山の周囲に七つの山が在つて、此の山は何れも其の形が勝れて居り、又草木なども美しく茂つて居るので、之を『金山』と呼んで居るのであります。それは必ずしも金が多く出るといふ意味ではなく、非常に美しい山といふ意味であります。それから此等の山の周囲は皆『香水海』即ち海ではあるけれども、其の海水には良い香があつて、非常に美しいといふのであります。

それから此の金山の外に大海が四つあつて、此の大海の中に四つの大きな大陸がある。また此等の大陸に伴うて各々二つづゝの小さい陸があるのであります。それで此の四つの大陸の中の南の方にあるものが贍部と名づけられるので、之を南贍部州といひ、また南贍部堤とも名づけてあります。此の贍部といふのは樹の名であつて、即ち須彌山の南方に在る大陸のチヨウド中央の所に阿耨達といふ山があつて、此の山の上に池があり、此の池の傍に贍部といふ樹があるのでありますが、此の樹は非常に大きな樹であつて、木のめぐりが七由旬もあり、高さが百由旬もあると伝へられて居るのであります。此の『由旬』といふことには種々の解釈がありまして、ハツキリ判らないのでありますが、兎に角非常な長い距離を謂ふのでありますから、詰り殆ど類の無いやうな大きな樹であるといふやうに解釈すれば宜しい訳であります。此の樹が今申す南の方の大陸のチヤウド中心にあつて、凡ての樹の中で一番高い木である。それで此の樹の名を取つて此の大陸の名

【吾等の住する南贍部州】

として、これを贍部と呼ぶ訳であります。吾々は皆此の南贍部州に住する者なのであります。

そこで此の阿耨達山の南の方は大雪山、即ちヒマラヤ山であり、北の方に当つては葱嶺といふ峰が続いて居て、此の葱嶺の北の方は胡国、即ち今日申す西蔵[ちべつと]などの国々であります。それから此の雪山の南の方は五天竺、即ち印度であつて、東北に当つては震旦国、即ち支那があり、西北に当つては波斯国がある。即ちイラン地方で、これが先づ大体此の南贍部州全体の形態であります。此の中で印度は全体が五つに分れて居るから五天竺といふのでありまして、仏教は詰り此処から出た訳であります。

そこで此の南贍部州は縦横七千由旬、これを里数に直して見れば二十八萬里であつて、東の海から西の方の海までの距離は九萬里、南より北に至るまでの距離もまた九萬里で、天竺はチヤウド其の中央に当つて居る。それであるから天竺は贍部州の中国と見られて居る訳であります。此の天竺の国は周囲が九萬里もあつて、南贍部州の中の最も大きな国である。震旦即ち支那も随分広いけれども、此の五天竺に比べれば先づ小さい国と謂つても宜しいのであります。

これ等が相続いて此の大陸に在る国でありますが、日本だけはこれ等の国とは離れて海の中に在つて、これは一種特別なる所の性質を備へた国と申すべきであります。此の日本が他の国に比べて遥かに勝れた国であるといふことは、後に至つて尚ほ詳しく説かれて居るのでありますが、兎に角これは小さい国であるけれども、其の国本来の性質に於て一切の国よりも遥かに勝れて居るといふことが信じられて居るので、奈良に居た護命僧正といふ人も、北嶺即ち比叡山を開いた傳教大師も、此の日本のことを『中州』と申して居るのであります。『中州』といふのは此の国の位置が世界の中心に当るといふだけではなく、此の国が中心となつて普[あまね]く世界の国々を導いて、世界の国々に皆正しい教へを弘めるといふことが考へられて、それで中州といふ名が附けられて居る訳であります。

それであるから日本の事を他の国の書物などには余り書かれて居ないけれども、印度の伝説に依ると、今の南の方の州と東の方の州との中央に当つて遮摩羅といふ島があるといふことが申してあるので、此の印度の伝説に謂ふ遮摩羅といふのが先づ日本に当るものと解釈して宜しいと思はれる。それからまた華厳経の中には、東北の海中に山がつて、此の山が金剛山といふのであると申してあるが、これが日本の大和の金剛山に当るのだといふことは、仏教の学者などが彼此れ論証して之を信じて居る訳であります。先づ此の日本の国は天竺よりも支那よりも全く懸け離れて、東北の大海の中に在る特殊の国であると考へられるので、此の国には神々の御血統が伝はつて、さうして天皇として萬民の上に立つて、永く此の国をお治めになつていらつしやるのであります。それであるから方々の国と比べて見て、始めて日本が最も勝れた国であるといふことも明かになり、又此の国の国民として生れた自分達の光栄をも深く感じなければならぬことに相成る訳であります。


[おなじ]世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説各[おのおの]ことなり。天竺の説には世の始りを劫初[こふしよ]と云ふ(劫[こう]に成[じやう]、住[ぢゆう]、壊[え]、空[くう]の四あり。各二十の増減あり。一増一減を一小劫と云。二十の増減を一中劫と云。四十劫を合あはせて一大劫と云)。光帝[くわうてい]と云天衆[てんじゆ]、空中に金色[こんじき]の雲をおこし、梵天[ぼんてん]に偏布[へんぷ]す。即大雨[たいう]をふらす。風輪[ふうりん]の上につもりて水輪[すゐりん]となる。増長して天上にいたれり。又大風[たいふう]ありて沫[あわ]を吹立て空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第に退下[たいげ]して欲界の諸宮殿乃至須弥山、四大州、鉄囲山[てちゐせん]をなす。かくて萬億の世界同時になる。是を成劫[じやうこふ]と云なり(此萬億の世界を三千大千世界といふなり)。光帝の天衆下生[げしやう]して次第に住す。是を住劫[ぢゆうこふ]と云。此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身光明[くわうみやう]とほく照して飛行自在[ひぎやうじざい]なり。歓喜[くわんぎ]を以て食[じき]とす。男女[なんによ]の相なし。後に地より甘泉[かんせん]涌出[ゆじゆつ]す。味[あじはひ]酥密[そみつ]のごとし(或は地味[ちみ]とも云)。これをなめて味着[みちやく]を生ず。仍[よりて]神通[じんづう]を失ひ、光明もきえて、世間大[おほき]にくらくなる。衆生の報しからしめければ、黒風海を吹ふきて日[にち][ぐわち]二輪を漂出[へうしゆつ]す。須弥の半腹[はんぷく]におきて四天下を照さしむ。是より始て昼夜[ちうや]晦朔[くわいさく]春秋[しゆんじう]あり。地味に耽りしより顔色[がんしよく]もかじけおとろへき。地味又うせて林藤[りんどう]と云物あり(或は地皮とも云)。衆生又食とす。林藤又うせて自然[じねん]の秔稲[かうたう]あり。諸[もろもろ]の美味をそなへたり。朝[あした]にかれば夕[ゆふべ]に熟す。此稲米[たうまい]を食[しよく]せしによりて、身に残穢[ざんゑ]いできぬ。此故に始て二道[にだう]あり。男女の相各別にして、つひに婬欲[いんよく]のわざをなす。夫婦となづけ舎宅を構[かまへ]て共に住き。光帝の諸天後に下生[げしやう]する者女人の胎中にいりて胎生の衆生となる。


【世界の成立】

そこで此の世界の大体の形勢は今申した通りでありますが、此の世界はどうして出来たかといふことに就いての伝説がある。それは同じ世界のことであるから、何処の国にでも天地の成り始めのことに就いて伝説があるのは当然であるが、其の伝説は『三国』即ち印度と支那と日本とで各異つて居るのであります。先づ天竺の伝説を挙げて見ると、天竺の方に伝わる所に依ると、世の始まりを『劫初』といふのであります。『劫』といふのは非常に長い歳月といふ意味で、『劫初』とは斯く長い歳月の間世界が続いて居る、其の最初といふ意味であります。それで印度の古い伝説に依ると、此の世界は無限に続いて存在するのであるが、其の間に四つの時期があるといふのであります。即ち一番初めは何も無かつた中に此の人間の住む世界がだんだん形を成す時代、これを『成劫』といふのであります。それから形を成した世界が其のまゝで暫く続いて居る時代、これを『住劫』といふのであります。それから此の世界がだんだんに崩れて行つて、やがて何の形も無くなつてしまふ時代、此れを『壊劫』といひ、其の後に於て天地の間に何物も無く、たゞ空ばかりが存在して居る時代、これを『空劫』といふのでありまして、此の四つを併せて『四劫』と名づけるのであります。さうして何も無い闇が暫く続いて居つて、其の後に於て再び天地が形を成してまた成劫が始まるので、此の成劫の次に住劫、壊劫、空劫といふものが続いて、それからまた此の同じ事がいくらでも繰り返され、此の四つの時代といふものが無限に続くといふのが、印度の昔から信じて居た所であります。それで今吾々が斯うやつてお互ひに生活して居るのは、此の四つの劫の中に活きて居るのだといふやうに考へられて居るのであります。

さて此の凡ての物の成り初めに於て、天上界に光帝といふものがあつて、これが空中に於て金色の雲を起し、さうして其の雲が天上界にズツト満ち拡がつたといふのであります。『梵天』とありますが、『梵』といふのは浄らかといふので、即ち一切の欲を離れたものといふ意味から、清浄な生活をして居るといふ名が附けられて居るのであります。此の光帝が大雨を降らして、其の大雨が積つて大きな海のやうな世界が出来たので、これを『水輪』といふのであります。其の初めにはたゞ全体が空中であつて、土も無ければ水も無かつた。此の有様を名づけて『風輪』といふのでありますが、此の風輪の上に水が溜つて大海のやうなものが形を成して、これを『水輪』といふのであります。此の水輪がだんだんと大きくなつて、さうして天上にまで達するやうになつた。そこで又大きな風が起つて其の水の中の沫を吹き立てゝ空にまで達して、其の空に達した所の沫が形を成したものが、即ち『大梵天』といふ天上の絶頂に在る所の宮殿であつて、此の宮殿の中に『梵天王』といふ、天上界を支配する所の王者が住んで居ると考へられるのであります。それから又其の水が一たびは天上にまで達したけれども、再び下つて来て、吾々のやうな者の住む世界の宮殿とか、或は山とか島とかいふものになつたといふのであります。

【三界の生活】

それから吾々の住んで居る此の世界を『欲界』と名づけられてあります。これも印度の古い時代からの伝説でありますが、凡ての生命のあるものの住んで居る世界を三つに大別するので、其の三つとは『欲界』と『色界』と『無色界』とであります。『色[しき]』といふのは物の形のことであります。そこで此の中の『欲界』といふのは、肉体を持つて居り、またいろいろな欲望を持つて居る者の住んで居る世界で、即ち吾々などの住んで居るのは此の欲界の一部分なのであります。それから『色界』といふのは、肉体はあるけれども欲望の一切無い者の住んで居る世界、即ち最も浄らかな世界であります。それから第三の『無色界』といふのは肉体も無くて、たゞ精神的にのみ生きて居る者の世界であります。吾々は今斯ういふ物質的の世界に住んで居りますから、肉体も無い者が住む世界などといふものは到底想像が出来ないのでありますけれども、印度の古い伝説に於ては、さういふ世界が確かに存在するといふことが考へられて居たのであります。

此の『欲界』か即ち肉体もあり欲望もある者の住んで居る世界の中に、前に申した須彌山といふ山もあれば、其の四方に四つの大陸もあつて、さうして此の全体を囲んで他の山が連なつて居る。之を鉄囲山といふのであります。斯様にして萬億の世界が同時に出来上つて、さうして山もあり川もあり、人間を始め凡ての生き物が生活するといふことになつたので、此の斯ういふ物の形を成す間を名づけて『成劫』といふのであります。

それで先づ初めに在つたのが光帝といふ天上界のものですが、此の光帝に属する天上界の者が皆此の地上に下つて、さうして次第に此の地上に住居し、様々な国を成すので、此の多くの生命のある者の此処に生活を続けて居る間を名づけて『住劫』といふのであります。そこで此の住劫に住む者の寿命[いのち]は、最初は非常に長かつたのであるが、だんだんと短くなつて、それから其の寿命が非常に短くなると、又だんだんに長くなる。其の寿命が長くなり短くなる変化が二十回も続くのであつて、これを『二十増減』と申しております。其の一番初めには人間の寿命が長く、また人間の身から光が出て四方を照らして、『飛行自在』――地の上を歩くばかりでなく、空中を自在に飛び廻ることも出来たのであります。また食物を摂らないでも生命を続けることが出来て、たゞ自分の活動の自由自在なことを喜びとして居つたので、即ち喜びを以て食物として生命を養つて居たといふやうに伝へられて居ります。此の時代に於ては男女の区別も無く、また隋つて夫婦の関係といふやうなものもまだ生じなかつた訳であります。然るに其の後に至つて此の地の底から非常に味ひの良い所の泉が湧き出して、其の味ひは今日謂ふ酥密といふものと同じであつたと伝へられて居ります。『酥密』といふのは印度で牛乳を煮て濃くして、其の中に蜜を加へて作つたもので、昔の印度に於てはこれほど味ひの良い物は無いと言はれて居たのであります。それで世界の成り始めに於て此の地の底から湧き出した泉は酥密のやうな味ひであつたといふので、即ち非常に味ひの良い水が湧き出したのであります。

そこで人間が何も食べないで生きて居た間は別に欲も無かつたけれども、此の酥密のやうな水を嘗めて非常に旨かつたものであるから、其の味ひに執着が起つて、何でも多く其の味ひの良い物を飲みたいといふ心持になつた。斯うなつてみるとお互ひに其の水を争ふといふことになつて、今までは中睦じくして争いなどは少しも知らなかつた人間に、争ふといふ心持が起つて来たのであります。そこで其の争ひといふものが繁くなつて来ると人間の心が非常に焦らだつて来て、互ひに敵とし合ふといふことになつたものでありますから、これに依つて神通力を失ひ、また身から光が出るといふことも無くなつてしまつて、世間が大いに暗くなつたのであります。これは多勢の者が欲望を起して互ひに争ひ合つた報いであるから、詰り自ら招いた所と言ふより外はないのであります。斯様にして人々は昔と異つて非常に不愉快な生活を送るやうになり、また世界も真つ暗になつてしまつたのでありますが、やがて黒風が海を吹いて、さうして海の中から日と月との二つが湧き出し、其の湧き出した日月の二つが須彌山といふ山の半腹に在つて、さうして須彌山の四方の国々を照らすやうになり、こゝに至つて再び明るい世の中が実現した訳であります。

それで此の日は須彌山の中腹に懸かつて居つたけれども、やがてこれが方々を運つて照らすやうになつたものであるから、夜と昼との区別も立ち、また一箇月の間についたちとか晦日とかいふやうな区別も出来、春と秋の気候の変化といふものも出来たので、即ち今日吾々の知つて居るやうな此の一年中の変化といふものは、是れより後に至つて生じたものであるといふのであります。斯くして人間が物の味ひを貪るやうになつて欲望が起つたものであるから、其の欲望の為めに心が焦らだつて来て、以前のやうに長閑な気分で毎日を送るといふことが出来なくなつた。其の心持が自然に姿に現はれて顔色も衰へ、また相当に年を取ると髪の毛も色が変り、皺も出来るといふやうな状態になつたのであります。即ち人間に若い時と年取つた時との差があるといふことは、此の欲望が生じてから後のことと考へられるのであります。

また地の底から湧き出た所の甘い林藤といふのはチヨウド後に謂ふ穀物のやうなもので、これを多勢の者は食物として居つたのでありますが、暫く経つと此の林藤といふものも無くなつて、それから之に代つて生じたのが今日吾々の知つて居る稲といふものだといふのであります。此の稲はいろいろの他の物よりも遥かに味ひが優れて居つたので、此の稲から取れた所の米を食べれば人間は皆満足するといふやうになつた。また今日では稲の収穫といふものは一年に一度であるけれども、其の初めに於ては朝これを植ゑれば、夕方にはモウ熟して食用に充てることが出来たから、稲を作るといふことにも大して骨が折れなかつた。併し此の稲といふものが食物になつてから人間の心の中にもだんだん穢れた心持が出来て来て、たゞ食用を貪るといふだけで

【男女の生活】

なく、謂はゆる情欲といふものが発達して、そこで始めて男と女とが分れて来たから、『淫欲のわざをなす』即ち夫婦の生活をして、其の夫婦の中に子供が生れ、また其の生れた子供の中に男女の別があつて、これがまた夫婦の生活をするといふやうになつて来て、夫婦父子兄弟といふやうな区別が立つた訳であります。さうして既に夫婦となつた以上は始終一緒に住まなければならぬから、家といふものを造つて、其の一つの家の中に夫婦共に住むといふことになつて来たのであります。

斯ういふ風になつて後には彼の光帝に属する所の天上界の者がだんだん地上に生れ変つて、さうして女の胎の中に宿つて、そこから生れた者がだんだん多くなつて『衆生となる』即ち世界の凡ての人間といふものがだんだん繁殖して来たと、斯ういふのが大体の順序であります。此の多勢の者が皆欲望を持つて相争ふ所から、其の争ひといふものが限りなく続いて、世間の生活がますます困難になつたので、此の世間の困難なる生活を救ふ為めに仏が出て教へを説くといふことになる訳であります。


其後秔稲生ぜず。衆生うれへなげきて、各[おのおの][さかひ]をわかち、田種[でんしゆ]を施しうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者出来て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆共にはからひて一人の平等王[びやうどうわう]を立たて、名[なづけ]て刹帝利[せつていり]と云(田主でんしゆと云心なり)。其始の王を民主王と号しき。十善の正法[しやうぼふ]をおこなひて国ををさめしかば、人民[じんみん]是を敬愛[きやうあい]す。閻浮提[えんぶだい]の天下豊楽安穏[ぶらくあんをん]にして病患[びやうげん]及び大寒熱あることなし。寿命も極て久く无量歳[むりやうざい]なりき。民主王の子孫相続して久く君たりしが、漸く正法も衰へしより寿命も減じて八萬四千歳にいたる。身のたけ八丈[はちぢやう]なり。其間に王ありて転輪[てんりん]の果報[くわはう]を具足せり。先づ天より金輪宝[こんりんほう]飛降[とびくだり]て王の前に現在す。王出[いで]給たまふことあれば、此輪転行[てんぎやう]してもろもろの小王[せうわう]みなむかへて拝す、あへて違[たがふ]者なし。即四大州に主たり。又象馬[ざうめ]、珠玉[しゆぎよく]、女[によ]、居士[こじ]、主兵[しゆひやう]等の寶あり。此七寶成就するを金輪王となづく。次々に銀[ごん][どう][てち]の転輪王あり。福力の不同によりて果報も次第に劣れるなり。寿量[じゆりやう]も百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺を減げんじてけり。百二十歳にあたれりし時、釈迦仏[しやかぶつ]出給たまふ(或は百才の時とも云。是よりさきに三仏出給ひき)。


【王者の推戴】

其の後に至つて只今申したやうな一日の間に成長するといふ稲も無くなつて、食物に欠乏をしたものであるから、多勢の者が歎いて、これでは自分達の生活も続かないやうになるでらうといふので、各々手分けをして方々を探して、さうして今吾々の知つて居るやうな稲の苗を見附け出し、また田を耕して其の田に此の稲を植ゑて、これを食物とするといふやふになつたのであります。斯うなつてからは以前と異つて一年に一度しか獲れないといふことになつた訳であります。従つて以前とは異つて稲の数も少ないものであるから、これを収穫するのには非常な骨が折れるのであります。ところが人間は骨折りを好まないものであるから、成るべく少しの骨折りで、成るべく多くの収穫を得たいといふ欲望がますます長じて来た。そこで他人の植ゑたものを養つて盗むものも出来て、互ひに争ひ闘ひ合ふといふやうな結果になつたのであります。

斯うなるとお互ひの間では其の争ひを決することが出来ないから、そこで多勢の者が相談をして一人の王といふものを立てることになつた。其の王といふのは詰り多勢を支配して、多勢の争ひを決する所の職を持つた者で、斯ういふ人は最も知恵の勝れた、また誰にも味方をする考への無い公平無私な者でなければならないから、これを名づけて平等王といふので、此の一人の王を立てたのが即ち刹帝利といふものの初めであります。

『刹帝利』といふのは、印度に四つの階級があつて、此の四つの階級の中の一番上のものでありましたが、後に至つて第二の地位にあつた婆羅門といふものが刹帝利の頼みを受けて国の法律を作ることになつて、其の時に自分の一旦定めた法律は決してこれを変へないといふ約束を致したのであります、其の時に刹帝利は法律を作るといふだけの知識が無かつたものであるから、それで婆羅門に頼んだのでありますから、婆羅門の一旦決めた法律を決して後に変へないといふことを約束致したのも、已むを得ないことでありました。そこで此の婆羅門が法律を作つたのを見ると、以前には刹帝利が一番上の地位であつたが、今度は婆羅門が一番上の地位で、刹帝利は第二といふことになつなのであります。これには刹帝利の方でも不満に感じたことではありませうが、何しろ始めて約束したことでありますからこれを変へる訳にも行かなかつた。また婆羅門といふのは天を祭ることを職として居つたので、自分の作つた法律も、要するに天の意を本として作つたのであるといふことを申したので、若し此の法律を変へれば天の罪が与へられるでらうといふことでありましたから、刹帝利もこれを変へることが出来ないで、是れより以後は婆羅門が一番高い地位を占め、刹帝利は其の下に属するといふことになつて、今日までも印度では此の制度がズツト続いて行はれて居るのであります。併しこれは後のことでありまして、一番初めには此の刹帝利といふ王者が萬民の上に立つといふことでありました。それで此の刹帝利は多勢の者に推されて王となつた人でありますから、正しい法律を定めて国を治めたので、人民も皆これを敬愛して居つた訳であります。『十善の正法』といふのは最も勝れた法といふ意味であります。仏教の方では人間の善い行ひを大別して十種に分けて居りまして、これを『十善』といふのでありますが、今はそれ等の詳しい詮索をする必要もないので、要するに『十善』といふのは最も勝れたものといふ意味に解釈して宜しい訳であります。[注釈:不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚(ふしんに)、不邪見]

斯様にして良い法が行はれ、国が穏かに治まつて居りましたから、世界中の何処の国も安楽であり、生活も裕かであつて、病気に罹る者もなければ、また気候も始終順調であつて、非常な寒さや非常な暑さに依つて人が悩まされるといふこともなく、其の寿命も極めて久しくして、一人の寿命といふものがどれほど続くか、無量と謂つて宜しい位であつたといふのであります。

其の多勢の人間の上に立つ王も一人ではなく、多勢出て来て、其の多くの王の中で殊に勝れた王が出れ

【転輪親王】

ば、其の王の徳を彰はす為めに天上界よりして輪寶といふものを与へられるのであります。『輪寶』といふのは車の輪のやうなものが集まつて出来て居つて、それに手に持つ所の柄が附いて居るのであります。此の輪寶といふものの中には金で出来たものと、銀で出来たものと、銅で出来たものとの四種の区別がありますので、最も徳の勝れた王が出ると、天よりして金で造られた所の輪寶をこれに授けられるのであります。其の授けられる状態などもいろいろ異つて、或は王が朝起きて見ると何時の間にか庭の木の枝に輪寶が懸かつて居たとか、或は地の中から光が出るので、其の光の在る所を掘つて見たら輪寶が現はれたとか、いろいろな伝説がありますが、兎にも角にも此の輪寶といふものは天よりして授けられるものと考へられて居つたのであります。それで此の輪寶といふものが与へられてから、其の王が輪寶を手に持つと其の輪が廻るので、其の廻る方に向つて進んで行けば、其の地方の者は皆此の王に帰服してしまふといふので、此の王のことを転輪王と名づけられて居るのであります。此の王が進んで行けば敢て違ふ者も無く、誰も皆これに帰服してしまふから、前に申した須彌山の四方の国々が悉く此の王に服従するといふことになるのであります。[注釈:転輪王ハサンスクリット原語ニcakravartiraajan चक्रवर्तिराजन्ト云ヘリ]

それからまた此の転輪王には自然に七つの寶が与へられるといふので、これを名づけて『七寶』と申します。此の七寶といふのは象とか馬とかの殊に良いもの、それから美しい玉とか、其の他非常に美しく、又徳も勝れて居る婦人が此の王の下に属してこれに傳[かしづ]き、それから『居士』といふのは民間に居つて王を補ける所の賢者であります。それからまた軍隊を支配する所の『主兵』即ち将軍といふやうな者にも極めて秀でた者があつて此の王の下に属するのであります。此の外にもありまして、其の寶がすべて七つあるので、之を『七寶』と謂ふのであります[注釈:輪宝、象宝(象)、馬宝(馬)、珠宝(玉、宝石)、女宝(美貌ナル賢妻)、居士宝(賢民)、将軍宝(賢将)云々]。此の七寶が悉く具はつた者が即ち金輪王でありますが、此の金輪王よりもやゝ徳の劣つた者には天よりして銀の輪寶を与へられる。それより更に徳の劣つた者に対しては或は銅、或は鉄を以て造つた輪寶を与へられるといふので、各々これが転輪王と名づけられて居るのであります。詰り其の人の徳に於て大小があるから、其の受ける所の輪寶にも区別があるのであつて、金輪でない方の輪寶を受けた者は、世界中を悉く支配するといふことは出来ず、たゞ其の一部を支配するといふ結果になるのであります。

先づかういふやうになつて後には、人々の間いろいろ其の知恵とか徳とかに於ての区別が出来て来て、人間の寿命といふものも短くなり、百年経つ間に人間の定まつた寿命が一年減るといふやふになつた。また百年経つ間に人間の身の丈も平均して一尺づゝ減るといふやうになつた。さうして人間の定まつた寿命が百二十歳となつた頃にお釈迦様が印度に出られたといふのであります。此のお釈迦様の御出現になつた時には、世の中がますます複雑になり、また人間の心の迷ひも苦しみも非常に多くなつたものでありますから、お釈迦様は人々に正しい教へを与へて其の心の迷ひを除き、また其の苦しみを除く為めに一生涯非常な努力をなさつたと申すのであります。

此の印度の古い伝説に依ると、だんだん世が末になつて来れば人間の寿命も短くなるし、世の中も非常に複雑になり、もとは安楽であつたのが、だんだん苦痛の多い時代になるといふのでありますから、是れだけの伝説に依て考へますと、世の中はますます悪くなるばかりであつて、即ち理想の時代は遠い昔のものといふやうに考へられるのでありますけれども、併しながら仏教の方の経典をよく学んで見ますと、決して人々が悲観する必要はないと教へて居るのであります。即ち物は極端まで行くとまた元に還るものであるから、世がだんだん末になり、お釈迦様がお亡くなりになつて後にはますます複雑な世間となり、ますます人の心の迷ひが長じて行つて、モウ謂はゆる暗黒時代になり切つた時に彌勒菩薩といふ方が、初めはお釈迦様のお弟子あつたのが再び此の世に生まれ変はつて来て、さうして此の世の中がまた明るい世の中になつて、再び一切の人が救はれるといふことが説かれて居るので、これを名づけて『彌勒の世』と申すのであります。

それでありますから此の仏教の根本の精神から言ふと、世の中がどんなに行き詰りになつても、決して人間は失望してはならないのである。其の行き詰りになつた結果としては、本当に安穏な世の中がまた現れるのであるから、さういふ安穏な世の中を一日も早く実現する為めにお互ひが努力しなければならぬ。吾々が此の苦しい世の中で、此の苦しみに耐へて努力して居るのは、其の光に満ちた世の中を少しでも早く実現することに役に立たうと思ふからであると、斯ういふ教へが伝へられて居るのであります。これは此の本文とは関係のないことでありますけれども、一体仏教はたゞ悲観的なものだといふ風な誤解もあるやうでありますから、序でを以て一言して置いた訳であります。


十歳に至らん比[ころ]ほひに小の三災と云ことあるべし。人種ほとほと尽てたゞ一萬人をあます。その人善を行ひて、又寿命も増し、果報もすゝみて二萬歳にいたらん時、鉄輪王出て南[なん]一州を領すべし。四萬歳の時銅輪王出て東南二州を領す。六萬歳の時、銀輪[ごんりん]王出て東西南三州を領し、八萬四千歳の時金輪王出て四天下を統領す。其報上[かみ]に云るが如し。かの時又減[げん]にむかひて彌勒仏出給べし(八萬才の時とも云)。此後十八の減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、色界の初禅[しよぜん]、梵天までやけぬ。三千大千世界同時に滅尽[めつじん]する、これを壊劫[ゑこふ]と云。かくて世界虚空黒雲[せかいこくうこくうん]のごとくなるを空劫と云。かくの如くすること七の火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まで壊[ゑ]す。七々の火災、七々の水災をへて大風災ありて、第三禅まで壊す。是を大の三災と云なり。第四禅已上[いじやう]は内外[ないげ]の過患[くわげん]あることなし。此四禅の中に五天あり。四は凡夫の住所、一は浄居天[じやうごてん]とて証果[しようくわ]の聖者[しやうじや]の住処[ぢゆうしよ]なり。此浄居[じやうご]をすぎて摩醯首羅[まけいしゆら]天王の宮殿あり(大自在天[だいじざいてん]とも)。色界の最頂に居して大千世界を統領す。其天のひろさ、彼[かの]世界にわたれり(下天も広狭に不同あり。初禅の梵天は一四[いちし]天下のひろさなり)。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。此等の天は小大の災にあはずと云ども、業力[ごふりき]に際限ありて報尽[つき]なば、退没[たいもつ]すべしと見えたり。


【劫末の三現】

やがて人間の寿命がだんだん短くなつて来て、平均して十年で死ぬといふまでになつた時に、三つの大きな災難が起つて人間がだんだん無くなり、全世界に於いて僅か一萬人しかいないといふ時が来るといふのであります。ところで斯うだんだんと世の中が苦しくなつて来たものであるから、これではならぬといふので、人々がまた努めて善い行ひをするやうになり、其の善い行ひをした結果としてまた寿命が増して、だんだんに定まつた寿命が長くなり、又善いことを行つた結果として人々の生活もだんだんと幸福になり、即ち善い果報を得て、さうして定まつた寿命が二萬年に達した時に、鉄輪王といふ者が出て、即ち鉄で造つた所の輪寶を天上界より与へられた王でありますが、此の王が四つの大陸の中の南の方の大陸だけを治めるやうになる。それから尚ほ歳月が経つて人間の定まつた寿命が四萬年になつた時に、今度は以前の鉄輪王よりモウ一段徳の勝れた所の銅輪王といふ者が出て、これは東の方と南の方の二つの大陸を残らず治めるやうになる。それから尚ほ進んで人間の寿命が六萬年平均といふことになつた時に銀の輪寶を授けられた王が出て、東と西と南との三つの大陸を治め、尚ほそれより歳月を経て人間の寿命がますます長くなつて、定まつた寿命が八萬四千年となつた時に金輪王といふ者が出て、須彌山の四方の四つの大陸を悉く治める。即ち世界が統一的に治められるといふ時代が実現するといふのであります。それは詰り善い行ひを積んだ結果であることは上に申した通りであります。

又この金輪王が出た後に於ては人間の心が再び邪まになつて来るから、其の結果として人間の寿命が短くなり、世の中が混乱を極めた時に彌勒佛といふ仏様が出現されるといふのであります。此の彌勒佛のことは前に申した通りであります。

それより後もまた十八回に互って人間の寿命の増減があつて、其の一番終りに於ては大火災が起つて、『色界』即ち肉体と欲望を有する者の住む世界全体が此の火の為めに焼け失せて、此の地上の物のみならず、梵天といふやうな天上界の浄らかな所までも火の為めに焼けてしまひ、これに依つて『三千大千世界』といふのは世界全体のことでありますが、此の三千大千世界が尽く滅びてしまふのであります。此の時代を『壊劫』と名づけられる。『初禅』とか『二禅』とかあるのは天上界のことで、初禅といふのは天上界の中で一番此の地上の世界に近いところ、二禅といふのは其の上であります。斯様にして世界が悉く空になつてしまつて、黒い雲のやうなものばかりが固まつて居るだけで、生きた物は全く無くなつてしまふ状態が可なり長く続きます。これを『空劫』といふのであります。それから又此の空劫の後に物の形を成す時代が来るといふのは、前に申した通りであります。

斯様にして成住壊空[じやうぢゆうゑくう]の四つの時代が繰返されて、それが七回目に繰返された末に於て大水災があつて、此の水に依て世界中のものは皆滅びてしまふのであります。此の水は欲界だけではなく、天上界の第二禅までも破壊すると考へられるのであります。第二禅まで水の為めに侵されるといふことは、天上界の可なり上の方まで水の為めに破壊されることであります。

それが後に火災が更に七回続き、また水災が更に七回続いて後に大風災があつて、非常な風が起つて凡ての物が皆吹倒されて其の形を失ふ。此の時は第三禅まで、即ち下から数へて三番目までの天上界が皆壊されるといふのであります。以上の火災と水災と風災とを『大三災』といふのでありますが、第四禅より以上には斯ういふやうな災難は無いので、即ち永遠に安らかな生活が続く訳であります。此の『第四禅』即ち下から数へて第四番目の天上界は五つに分れて居て、これを『五天』といふのであります。此の五つに分れた中の一つは凡夫の住む所、即ち吾々人間のやうな、迷ひのまだ無くならない者も其処に住むことが出来る。それから此の五天の中の上の所は『浄居天』といふので、これは『証果』といふのは悟りを開いたといふことでありますが、だんだん修行して悟りを開いて、モウ心の中に一切の迷ひの無くなつた者の住む所と考へられるのであります。此の浄居天といふ所を過ぎてモウ一段上の方に摩醯首羅王といふ王の宮殿があります。これを『大自在天』とおいひます。即ち此の王は一切の働きが自在であつて、始終平和安穏な生活を続ける事が出来るので、これを大自在天と申すのであります。此の自在天の王は色界の一番上に居つて、さうして『大千世界』即ち生命のある物の全体を治めて居るのであります。此の王の住む所は全世界に互つて居る。即ち全世界が皆此の王の勢力範囲であると伝へられて居るのであります。

尚ほ其の上に『無色界』といふやうな、詰り肉体が無くて、精神ばかりで生きて居る世界があつて、此の精神的生活をして居る者も四つに分れて居る。斯ういふ所に住む者は無論肉体が無いのであるから欲望の起る筈もなし、其の生活といふものは全く清浄なものでありますから、大小の災ひに一つも遭はない。併しな

【業力の限界】

がら業力には限りがある。即ち斯ういふ所に生れるのは、肉体を具へた生活の中で善い事をした其の報いである。然るに人間がいくら善い事をしても、其の善い行ひには限りがあるから、隋つてその善い行ひの結果として与へられた報いの方にも限りがあるので、其の業力が尽きてしまつて、即ち与へられたる報いが無くなつてしまえへば、天上界に住むことが出来ないで、再び此の地上に墜ちて地上の苦しい生活を続けなければならぬ。斯ういふことが伝へられて居るのであります。

以上の伝説は仏教の経典の中に見えて居るのでありますけれどもも、仏教より前に印度に行はれたものが謂はゆる婆羅門教でありまして[ヴェーダ(梵: वेद、Veda)ニ基ケル現ヒンドゥー教ガ原型宗教也。]、此の婆羅門教の中に説かれた教へが仏教に応用されて居る結果として、仏教の経典の中にも此等のことが見えて居るのであります。それですから『内典に於ては』とありますけれども、これは主として婆羅門教の方で伝へた伝説を挙げたものと見なければならぬ訳であります。

斯様なのが先づ印度の方に伝はつた大体の世界観でありまして、それから次には支那のことに及び、然る後に日本が此等の国比べて遥かに勝れた国であるといふことの結論になる訳であります。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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