《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】③大日本は神国也(国名釈義・上)





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









神皇正統記巻一



これより読みます神皇正統記は、全体が六巻に分れて居りまして、其の第一巻が神代のこと、第二巻以後が謂はゆる人皇の代に入つて居るのであります。此の第一巻の神代のことは、大体に於て古事記、日本書紀等に基いて書かれて居るやうでありますが、此の中に印度の昔の伝説と支那の昔の伝説とが挙げてあります

【印度及び支那との比較】

のが、他の日本の歴史とは全く異ふ所であります。此の印度や支那の伝説を何故挙げたかといふことを考へて見ますと、決して著者の親房が自分の博識を示すといふやうなつもりではないので、世界にさまざまな国はあるけれども、日本のみが謂はゆる神国であつて、世界に類の無い国であるといふことを明かにする為めに、他の国の伝説を併せて挙げたものと思われるのであります。

凡そ物事は比べて見て始めて本当に解るのでありまして、たゞ一つの国のことだけを知つて居たのでは、其の国の特色といふものの解る訳はなにのであります。日本に生れた者は言ふまでもなく皇室の御恩の尊いことなどは自ら解つて居るのでありますが、併し他の国は全く国体が異ふのでありまして、国王と雖もさう永く血統が続くといふことはないし、また何処の国でも外国の侵略を受けたことがりますから、其の国民の中にもさまざまな人種が入り混つて居るのであります。それ等の国と比べて見て、始めて日本の本当に尊いことが解るのでありまして、さういふ点から出来るだけ支那や印度や其の他の国々の歴史とも比べ合せるといふことが最も必要なのであります。若し自分の国が洵に価値の無い国でありましたならば、他の国と比べることに依つて自分の国の詰らない国であるといふことが明かになり、隋つて国民としての自重心も無くなる訳でありますけれども、日本のやうな国に生れた者は、他の国と比べることに依つて一層自分の国の尊さが解り、また此の国の民として生れた有難さも解る訳であります。斯ういふ意味から考へますと、此の神皇正統記の初めに於て印度や支那の伝説が挙げられて居るといふことは、真に意義の深いことと申さなければならぬのであります。

また我が国に於ては昔から支那及び印度等からさまざまなものを学んで居りますが、外国から者を学ぶことが多いと、動もすると其の国を崇拝するといふ気風に傾き易いものであります。現に徳川時代の儒者の中には、自ら称して東夷と言つた者さへあるのであります。然るに親房が此の支那や印度のことに就いての研究を充分に積んで居りながら、決して外国を崇拝するといふやうな風に傾かないで、飽くまでも日本の国の尊厳であることを信じて居つたのは、実に貴いことであります。これを以て見ましても、其の人物が非常に勝れて居つたといふことが察せられるのであります。

先づ大体斯ういふやうな訳でありますから、印度の伝説などは煩はしきに過ぎるやうにも見えますけれども、一応これを読みまして、これに就いての簡単なる解釈をも加えて行くといふやうに致さうと思ひます。


注記:以下振リ仮名ハ総テ底本ニ殉ズ

大日本[だいにつぽん]は神国[しんこく]なり。天祖[てんそ]はじめて基[もとゐ]をひらき、日神[ひのかみ]ながく統[とう]を傳へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝[いてう]には其たぐひなし。此故に神国と云なり。神代[かみよ]には豊葦原千五百秋瑞穂国[とよあしはらのちいほのあきのみづほのくに]と云。天地開闢の初より此名あり。天祖国常立尊[てんそくにとこたちのみこと]陽神[をがみ]陰神[めがみ]にさづけ給し勅[みことのり]にきこえたり。天照太神天孫[てんそん]の尊に譲ましまししにも此名あれば、根本の号ななりとはしりぬべし。

又は大八州国[おほやしまのくに]と云。是は陽神陰神、此国を生[うみ]給しが、八つの嶋なりしによりて名けられたり。又は耶麻土[やまと]と云。是は大八州[おほやしま]の中国[なかつくに]の名なり。第八にあたるたび、天御虚空豊秋津根別[あまつみそらとよあきづねわけ]と云神を生給ふ。これを大日本豊秋津州[おほやまととよあきづしま]となづく。今は四十八ケ国にわかてり。中州[なかつくに]たりし上に、神武天皇東征より代々[よゝ]の皇都[くわうと]也。よりて其名をとりて、余[よ]の七州をもすべて耶麻土と云なるべし。唐[もろこし]にも、周の国より出たりしかば天下を周と云、漢の地よりおこりたれば、海内[かいだい]を漢と名づけしが如し。


【大日本は神国】

先づ第一に知らなければならぬのは、我が国が神国であるといふことであります。『神国』とは、神のお開きになつた国であり、また神の御裔[みすゑ]である所の天皇に依つて治められる国といふ意味であります。そこで我が国は天祖たる所の国常立尊が始めて此の国の基をお建てになつて、それから後に『日神』即ち天照大神が非常に御徳の高い方でありましたので、此の時に至りまして御威光がますます盛んになり。此の天照大神のお孫様に当る瓊瓊杵尊が今吾々の住む国土を始めてお治めになつて、御歴代の天皇が皆其の御血統でありますから、天照大神より此の皇統が伝わつたと申す訳であります。

斯ういふやふなことは世界に国は多くあつても、独り我が国にのみあることで、他の国には全く類が無いのであります。他の国にも随分徳の勝れた人が出て居るけれども、其の子孫に至つて徳が衰へれば、忽ちにして人民の帰依を失ひ、天もこれを護らないので、異つた血統の者が立つて王となるといふことがしばしばあり、或はまた王が全く無くなつて、謂はゆる共和政府といふやうなものになつた国も少なくないのであります。日本の如く神の御斎である所の天皇が永く此の国をお治めになるといふことは、全く世界に類の無いことでありますから、国民として先づ第一に此のことを何より有難いことと心得なければならぬのであります。斯ういふ訳であるから日本を神国といふのは、恣まに附けた名ではないので、他と比べて見て神国の神国たる所以を自ら明かに知るべきであります。

【此の国の真名】

また此の国を豊葦原千五百秋瑞穂国といふのであすが、これは神代よりしての名であります。『豊葦原』といふのは此の国の地味が非常によろしいので、凡ての物がよく茂つて居るといふことであります。それから『瑞穂』といふのは米の稔りが非常によいことで、これが一年や二年でなく何時までも続くのでありますから『千五百秋瑞穂』と申すのであります。即ち気候風土等に於ても、此の国は世界に類の無いほどに勝れた国なのであります。此の瑞穂国といふ名は天地開闢の初めから既にあるので、即ち一番初めの神の国常立尊が陰神陽神、即ち伊弉諾・伊弉冉[注記:此等書紀ニ於ケル表記也]尊に此の国をお授けになつたお言葉の中に、既に豊葦原といひ、瑞穂国といふ名があるのでありますから、これは神代からの名であるといふことは明かであります。また天照大神が天孫瓊瓊杵尊を此の国にお降しになつて、お前の子孫は永く此の国を治めて行くであらう、天地と共に窮まり無く栄えて行くであらうといふことを仰せられましたが、此の時にも豊葦原千五百秋瑞穂国といふことを仰せられてあるのであります。これ等の事実に依つて見ると、此の名は我が国の根本からの名であるといふことが明かでありまして、今より後も永く此の名が伝はつて行くことは勿論であります。

それからまた此の国を大八州国[おほやしまぐに]とも申すのでありますが、それは伊弉諾・伊弉冉尊が此の国をお生みになつた時に、全体で八つの島となつたといふので、此の事を本として大八州と申すのであります。国をお生みになるといふことは詰り此の国を経営されるといふこと、此の国を平かに治められるといふことに解釈して宜しいと思ひます。即ち伊弉諾・伊弉冉尊の御徳に依つて、此の国を平かに治められるといふことの端緒が開かれた訳であります。

それからまた此の国を『やまと』といふのでありますが、此の『やまと』といふのは、最初は此の大八州の中央に当る所の名でありましたが、此の中央に当たる所が此の国の都になりましたから、国の都である所の地名が即ち此の国全体の名となつた訳であります。最初に此の伊弉諾・伊弉冉尊が国をお生みになるといふことが前後八回ありまして、此の第八回目に天御虚空豊秋津根別といふ神がお生まれになつたといふのでありますが、此の神が中央に当る土地でありまして、大日本豊秋津州[おほやまととよあきつしま]とも名づけられるのであります。それでありますから元来此の『やまと』といふのは中央の土地だけの名でありますが、後になつて此の国全体を『やまと』といつて、此の『やまと』の中に四十八の国が分れて居るのであります。それで此の『やまと』は、中洲[なかつくに]、即ち国の中央の地であつて、殊に神武天皇が日向を発して東に向はせられ、七年の御苦心をお積みになつて此の『やまと』を平げられて、さうして橿原宮に於て御即位になつて以来、代々此の『やまと』といふ地に国の都が置かれて居つたのであります。それであるから此の都の在る所の土地の名を取つて、此の国全体の名として、残らず『やまと』といふことになつたのであります。

【支那の国名の例】

これは決して日本だけのことではないので、支那でも周の時代といふものが八百年も続いたのでありますが、初めは支那全体を周といつた訳ではない。周といふのは西の方に偏つた一地方の名であつたのですが、此の周から興つた所の文王といふ人が非常に徳が勝れて居つたので、支那全体の三分の二以上が其の領土となり、それから文王の子の武王に至つて謂はゆる革命の軍を起して天下を一統したのであります。それで以前の周といふ名を即ち支那全体の名として、天下を周といつたのであります。また漢も其の通りで、此の漢の最初の天子たる高祖は沛[はい]といふ所から興つて、それから漢といふ土地に領土を得て漢王といつたのであります。此の漢王が項羽と戦つて、終に項羽を打破つて天下を一統致しましたから、そこで以前に自分の領土であつた土地の漢といふのを支那全体の名と致して、此の漢の天下といふものが四百年以上も続いた訳であります。

斯ういふやうな例が幾らもあるので、或る地方の名が即ち其の国全体の名となつた訳であります。我が国でも『やまと』といふのは一地方の名に過ぎなかつたけれども、此の『やまと』を中心として此の国全体が天皇のお治めになる所となりましたから、そこで此の国と『やまと』といふ訳であります。

更に此の『やまと』といふ名の意味に就いては、これより後に其の説明が加へられてあります。


耶麻土[やまと]と云へることは山迹[やまあと]と云なり。昔天地わかれて泥のうるほひいまだかわかず、山をのみ往来として其跡おほかりければ山迹と云。或は古語に居住を止[と]と云いふ。山に居住せしによりて山止[やまと]なりとも云へり。

大日本[だいにつぽん]とも大倭[だいわ]とも書かくことは此国に漢字傳りて後、国の名をかくに、字をば大日本と定て、しかも耶麻土とよませたるなり。大日孁[おほひるめ]のしろしめす国なれば其義をもとれるか。はた日の出る所にちかければ、しかいへるか。義はかゝれども、字のまゝに日のもとゝはよまず、耶麻土と訓ぜり。我国の漢字を訓ずること多く此[かく]の如し。おのづから日の本などいへるは文字[もんじ]によれるなり。国の名とせるにあらず。

〔裏書に云。日のもとゝよめる哥、万葉に云。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん

又古[いにしへ]より大日本とも若[もしく]は大の字をくはへず、日本ともかけり。州[しま]の名を大日本豊秋津[おほやまととよあきつ]といふ。懿徳[いとく]孝霊[かうれい]孝元[かうげん]等の御謚[おみおくりな]みな大日本の字あり。垂仁[すゐにん]天皇[てんわう]の御女[おんむすめ]大日本姫[やまとひめ]と云。これみな大の字あり。天神[てんじん]饒速日[にぎのはやひ]の尊天[あめ]の磐船にのり大虚[おほぞら]をかけりて「虚空見日本[そらみつやまと]の国」との給。神武の御名神日本磐余彦[かむやまといはれひこ]と号したてまつる。孝安[かうあん]を日本足[やまとたらし]、開化[かいくわ]を稚日本[わかやまと]とも号し、景行天皇の御子小碓[をうす]の皇子を日本武[やまとたける]の尊となづけ奉る。是は大を加ざるなり。彼此同おなじくやまとゝよませたれど、大日孁の義をとらば、おほやまとゝ読よみてもかなふべきか。

其後漢土[かんど]より国書[こくしよ]を傳へける時、倭と書て此国の名に用たるを即[すなはり]領納[りやうなふ]して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても、又のぞきても同[おなじ]訓に通用しけり。


【やまと】の語源

元来此の『やまと』いふ言葉は山の迹といふ意味であつて、昔天地が分れて泥の潤ひが乾かなかつた時には、低い所を歩くことが出来ないので、山の上ばかりを往つたり来たりしたので、山の上には人の足跡が多かつたから、そこで山迹といふ名が附いたといふことであります。或はまた昔の言葉に人の住むことを『止』といふので、それで昔は人が山に住んだから『やまと』といふ名が起つたとも伝へられて居ります。

此の伝説のいづれにに従ふべきか、学者に依つて説も異ひますけれども、先づ吾々が考へて見れば、後の方の『人の止まつて居る所』といふ意味に解釈するのが正しいやうであります。ズツト後のことではありますが、今日の東京は江戸といふ名で称ばれて居りました。此の江戸といふのは、詣り川の傍に人が住んで居る所といふ意味で、其の川といふのは隅田川でありますが、隅田川の傍に人が集まつて村を造つたから、そこで川の傍に住んで居る場所といふ意味で江戸といふ名が附いたのであります。斯ういふ例はいろいろあります。それで先づ『やまと』といふのは山に人が住んで居た所といふ意味に解釈するのが妥当であらうかと思はれる訳であります。

【大日本と大倭】

それからまた此の国を『大日本』とも『大倭』とも書いて居るが、これは支那から漢字が伝はつて後に、其の漢字を用ひて斯ういふ風に書くのであつて、字に書く時には大日本と書くけれども、併し音に出して読む時には『やまと』と読ませて来て居るのであります。また此の『日の本』といふ文字を書くのは、大日孁神[おほひるめのかみ]、即ち天照大神の御子孫が天皇としてお治めになる国であるから、それで日の本といふ名となつたのだとも考へられるのであります。天照大神は太陽の世界を照らすと同じやうな、勝れた徳をお具へになつて居たといふことが伝はつて居るので、即ち天照大神を日に譬へますと、其の日の如き御徳が此の国の栄える根本となつて居るので、それで『日の本』といふ字を用ひたのであるといふやうにも考へられるのであります。或はまた日の出る所に近いから日の本といふのだとも考へられる。其の意味にはいろいろな解釈が附くけれども、兎に角字の通りに日の本とは読まないで、音に出して読む時には『やまと』と読むのが昔からの習はしになつて居るのであります。凡て我が国に於て漢字に其の訓読を加へる場合には、斯ういふ風に字は漢字で書いても、其の訓読は我が国本来の言葉に従つて居るのであります。尤も後になると日の本といふ言ひ方もあるけれども、それは学者などが字に依つて言ふので、国の公けの名としては日の本と定まつたことはない。即ち公けの名としては『やまと』といふことに一定して居る訳であります。

また昔から『大日本』とも、或は大の字を加へないで『日本』とだけ書いてある例は沢山あります。さうして此の国全体は非常に気候風土がよくて、秋になると穀物が非常に豊かに饒るので、大日本豊秋津[おほやまととよあきつ]といふ名が附いて居るのであります。また天皇の御謚の中に於ても懿徳天皇、孝霊天皇、孝元天皇等には、皆此の大日本といふ名が附けられてあるのでありますが[注釈:懿徳天皇ガ御謚古事記ニ大倭日子鉏友命おおやまとひこすきとものみことトアリ、書紀ニ大日本彦耜友天皇おおやまとひこすきとものすめらみことトアル。孝霊天皇、大倭根子日子賦斗邇命おおやまとねこひこふとにのみことトアリ亦、大日本根子彦太瓊天皇おおやまとねこひこふとにのすめらみことトアル。孝元天皇、大倭根子日子国玖琉命おおやまとねこひこくにくるのみことトアリ亦、大日本根子彦国牽天皇おおやまとねこひこくにくるのすめらみことトアル]、これは非常に勝れた御徳を以て此の国をお治めに

【日に因む尊称】

なつたといふことを、永く後世に伝へる為めと思はれるのであります。また垂仁天皇の皇女に大日本姫[おほやまとひめ]といふ方があつて、此の方が伊勢に皇大神宮のお宮をお建てになることを御決定になつたのであります。即ち父君の垂仁天皇の仰せを受けて、此の皇大神宮をお祀り申すに適当な所を捜す為めに非常な御苦心をお積みになり、その結果として伊勢の国が最も適当であるといふことを見定められ、これに依つて只今の皇大神宮が建てられたのでありますが、此の皇女の御名を大日本姫と申すので、此の大日本姫と申すのには『大』の字が加へられてあるのであります。

それからまた神武天皇が大和に御入りになる以前に、大和の地方を治めて居られたのは饒速日尊でありまして、この饒速日尊は最初に天磐船に乗つて、空を翔けりながら、空の大和の地方の最も良い土地であるといふことを見定められて、此処に降つて此の地方を治められたといふのであります。其の時に空から見て非常に良い所であるといふことを見定められたといふので、虚空見日本国[そらみつやまとのくに]と言はれたといふことが伝はつて居るのであります。今でも『虚空見[そらみつ]』といふ言葉は『やまと』といふ言葉の枕詞として歌などには一般に用ひられて居るのであります。また神武天皇の御名を神日本磐余彦[かむやまといはれひこ]と申すのでありますが、『神日本』といふのは神のお開きになつた日本の国といふ意味。それから『磐余』といふのは、岩を余[われ]するといふことであります。『余』といふことは御自分の御身といふことであつて、岩を御身となさるといふことは、岩の動かぬ如くに、何処までも動かない所のシツカリしたお力を以て此の国をお治めになるといふ意味でありませう。

これ等の御名にも皆此の『日本』といふ言葉が用ひられて居るのでありますが、其の他孝安天皇は日本足といふ御名であり、開化天皇は稚日本といふ御名であります。また景行天皇の御子の小碓尊[をうすのみこと]ろいふ方は非常に武勇に勝れた方であつて、殆ど日本全国に互つて皇室の御威光に服従しない者を征服する為めに力を尽され、非常な功績をお立てになつたのでありますが、此の方を日本武尊と申すのであります。凡て此等の方々の御名には皆『大』の字を加へないで、たゞ『日本』とのみ申してあるのであります。

先づ『日本』と書いても、或は『大日本』と書いても、日本の昔からの発音に依る時には『やまと』と読んで居るのでありますけれども、併し大日孁尊の御子孫のお治めになる国だといふ意味から言へば『おほやまと』と読ませるのが当然かと思はれる訳であります。

また支那との交通が開けて後に、支那から公式の国書を伝へる時に『倭』といふ字を書いて、此の国の名に用ひてあつたのでありますが、此の『倭』といふ字を我が国でも其のまゝにこれを用ひて、さうして文字は『倭』といふ文字であるけれど、これをやはり『やまと』と読ませることにしました。それから又『日本』の上に大の字を加へると同じやうに、大の字を加へて『大倭』としてこれを『やまと』と読ませた場合もありますが、何れにしても此の『倭』という字は『やまと』といふ発音で一般に通ずるやうになつて居る訳であります。

更に支那から何故に『倭』といふ名で呼んだかといふことに就いては、次に其の説明が加へてあります。


漢土より倭と名けたる事は、昔此国の人はじめて彼土[かのど]にいたれりしに、汝[なんぢ]が国の名をばいかゞ云と問けるを、吾国はと云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書[かんじよ]に、楽浪[らくらう]の(彼土の東北に楽浪郡あり)海中に倭人あり。百余国をわかてりと云。もし前漢の時すでに通じけるか(一書には、秦の代よりすでに通ずともみゆ。下にしるせり)。後漢書に大倭だいわ王は耶麻堆[やまと]に居[きよ]すとみえたり(耶麻堆[注釈:やまたいトモ読メリ]は山となり)。これは若しすでに此国の使人[しじん]本国の例により大倭[だいわ]と称するによりてかくしるせるか(神功皇后の新羅・百済・高麗をしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりと見えたれば、文字も定めてつたはれるか。一説には秦の時より書籍[しよじやく]を伝つたふとも云)。大倭と云ことは異朝にも領納して書傳[しよでん]にのせたれば、此国にのみほめて称するにあらず(異朝に大漢[だいかん]大唐[だいたう]など云はきなりと称するこゝろなり)。唐書に高宗の咸亨[かんかう]年中に倭国の使[つかひ]始てあらためて日本[につぽん]と号す。其国東にあり。日の出所に近[ちかき]と云。と載のせたり。


[倭といふ名の起源]

そこで支那から我が国を倭といふ名で称んだといふ起りに就いては、昔我が国の人が始めて支那へ参つた時に、支那の人がお前の国の名は何といふかと尋ねました所が、『吾国は』の『わ』といふのを聞いて、それが国の名であらうと思つて、向うで倭と名づけたといふことが伝はつて居るのであります。それで漢書の中には、楽浪の海中に倭人といふものが住んで居つて、其の国は百国余りに分れて居るといふことが書いてあるので、即ち楽浪といふのは支那の東北に当る所の郡の名でありますが、此の楽浪より海を隔てた所に倭といふ国があるといふことが書いてあるのであります。これに依つて見ると、支那の前漢の時代には既に我が国との交通が開けて居つたものと推せられる訳であります。それから後漢書の中には、『大倭王は耶馬堆[たまと]に居す』といふことが見えて居ります。それでありますから此の後漢の頃には我が国からも使が行つて、其の使が以前の例に依つて『大倭』ろ申したので、其のまゝ向うでも『大倭王』といふことを書いたものであらうと考へられるのであります。何れにしても此の『大倭』といふやうに大の字を加へて呼ぶといふことは、我が国が自ら誇つて申したのではなく、支那でもこれを承認して、さうして向うの歴史にも明かに『大倭』と書いてあるのでありますから、我が国で大の字を使つて居るからといつて、自ら誇つて言ふのだといふ風に解釈すべきものではないのであります。

【支那の認めたる日本の名】

それからまた支那の歴史に『日本』と書いてあるのも随分古いことで、唐書の中には、高宋といふ天子の咸亨年中に倭国の使が来たといふことがあつて、其の倭国の使は自分の国を日本と申して居るといふ記事がある。それからまた其の日本といふ国は支那よりも東に在つて、日の出る所に近いから、日本といふのであらうといふことも書き載せてあるのであります。

斯ういふやうな訳であつて、日本といふ名は既に唐の頃から支那人も認めて居たといふことは疑ひがないのであります。我が国の留学生などが向うに参つて居つて、向うの学者などと共に詩を作つたりしたことが伝はつて居りますが、さういふ場合に、向うの詩を作つた人が我が国のことを日本と称んだといふ例は幾らもあつて、それ等の詩も今日に遺つて居るのであります。斯ういふやうなことを考へて見ると、我が国を『日本』と称することは、支那に於て既に久しい以前から之を承認して居たものと考へなければならぬ訳であります。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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