《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】②序説(下)





神皇正統記

原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義



以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)

是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。









此の法華経の第五の巻には有名な勧持品が含まれて居るのでありまして、此の勧持品といふものは、仏の正しい教へを世に弘める者には様々な迫害があるけれども、其の迫害に屈せずして努力をすれば、後に至つては必ず其の目的を達して、仏法が普く世の中に流布する時が来るといふことを説いて、此の教へを弘める者の努力を勧めたものであります。後醍醐天皇は前々から仏教をお信じになつていらしつたものでありますから、其の崩御の際に特に法華経の第五の巻をお持ちになつて崩御になつたといふことは、如何なる困難を冒しても、努力すれば必ず正しい事は成就するといふ御確信を持つていらしつたといふことの証拠として見るべきものであります。

それでモウ楠木、新田等の忠臣もだんだん亡くなりますし、其の上に後醍醐天皇も崩御になつたものでありますから、天下の形勢はますます非になつて参つたのでありますけれども、其の後をお継ぎになりました後村上天皇も、やはり後醍醐天皇に劣らぬ栄達な天子でいらしつたのでありますから、親房は何処までも昔の天皇御親政の時代を実現しやうといふ望みを棄てませぬで、肝胆を砕いて様々な計画を立てたのであります。それで天皇に於かせられても親房が長い間国家の為めに努力して居る其の忠誠を深く嘉せられて、非常にこれを御優待になりまして、三宮に准ずるといふ特別の御待遇をお与えになつたのであります。即ち臣下の身でありながら皇族に准ぜられるといふのでありますから、洵に此の上もない名誉であります。斯ういふ例は今まで藤原一門の中で、其の女が御所に上つて居る者に対しては、折々与へられたる御待遇でありますから、決して此の時に始まつた訳ではありませぬけれども、斯ういふ国家危急の際に於て何処までも其の志を改めなかつた親房の忠誠が天皇によくお解りになつたので、此の際に於て特に此のお手厚い御待遇を賜うたものと考へられるのであります。

其の後正平七年に至つて後村上天皇が男山に行幸になり、また足利氏の長子義詮の軍を打破るといふやうなこともありまして、一時は再び京都にお還りになるやうな機運も開けるかのやうに見えましたが、何分にも足利氏といふものの根拠がシツカリして居たので、これを打払つて京都を回復するといふことも出来なくなりまして、親房も様々な苦心をしたやうでありますが、其の苦心も効を奏しませぬので、正平九年の四月に至つて賀名生[かなふ]といふ所で六十三歳を以て薨じたのであります。此の親房の一生は実に誠忠といふことを以て貫いて居るのでありまして、殊に子を喪つた後にも少しも元気を失わないで何処までも国家の為めに力を尽したといふことは、洵に忠臣の鑑とも申すべきものであります。

此の親房は斯様に国家の為めに力を尽すと共に、また非常に有益な著述をして居ります。これから読まう

【神皇正統記著作の地】

と思ひます神皇正統記は関の城中に於て書いたものであります。何分にも戦争の最中でありますから、別に参考すべき書物なども無かつたらうと思はれますが、斯ういふやうな立派な著述を成就したのを見ますと、其の平生の薀蓄の如何に深かつたかといふことも察せられるのであります。尚ほ此の神皇正統記よりも以前の著述に『職原抄』といふのがあります。これは朝廷の百官の官職に就いて考証したものでありますが、併し単なる学問上の考証ではなく、天下が安らかに治まつたといふことを明かにして、多勢の人の奮発を促すといふことが主になつて居るのであります。国家多事の際に於て少しの暇もなく活動をしながら、其の忙しい中に於て暇を作つて斯様な著述をしたといふことは、実に感ずべきことと申さなければならぬのであります。

ところで此の神皇正統記といふものは、前にも申上げたやうに歴史上の事実を詳しく伝えるといふことが主ではなくして、日本の国体の尊いことを顕すといふことが主でありますが、殊に此の時代に於ては足利の方の勢力が強かったものでありますから、世の中の全体を通じて殆ど大義名分の何物であるかを忘れてしまつて、たゞ勢ひの強い方に荷担するといふやうな傾向が非常に強かつたので、此等の者の惑ひを解くといふことが最も肝要でありました。また一方から申せば、天皇が其の御自身のお継ぎになりました御位の極めて尊いものであるといふことの御自覚をシツカリと持っていらつしやることが、何よりも肝要なことと感じられたのであります、天皇の御位は天孫瓊瓊杵尊[にゝのみこと]以来ズツト続いて居るもので、国の状態がどう変ろうとも、決して天皇の御位に少しの動揺もあらう筈はない。即ち大義名分の在る所は千萬世に互つて変更のあらう訳はないのであります。此の事を天皇自身がシツカリと御確信になつて、有らゆる艱難をお凌ぎになるといふことが最も肝要なことであります。それで親房の神皇正統記は天皇の御参考として、天皇といふ御地位は非常に重大なものであるといふことのお考へを願ふといふことも亦、此の著述の一つの大きな目的であつたといふとを認めなければならぬのであります。

一体足利尊氏が謀叛をするに就いて、別に天皇を擁立したといふことは、日本の国体の上から言へば固より許すべきことではないのであります。尊氏自身の考へでは、まだ北條氏が執権だつた時に、二つの御血統の方が代わる代わる天皇の位にお即きになるといふことが一時行はれたものでありますから、これに基いて自分も一方に天皇を擁立しても宜いといふことを考へたのでありませうが、これはモウ根本からの間違ひであります、此の鎌倉時代に於ける事柄を詳しく申す必要はありませぬが、其の大体だけを申しますと、後深草天皇が御位をお譲りになつて後に持明院といふ寺にいらつしたので、後深草天皇の御子孫を持明院流と申しました。それから後深草天皇の弟君に当られる亀山天皇は此の後深草天皇の後をお継ぎになつて、それから御位を譲られて後に大覚寺といふ寺にいらつしたものでありますから、亀山天皇の御子孫を大覚寺流と申しまして、持明院流と大覚寺流との方が一代おきにお立ちになるといふことが一時行はれて居たのであります。さうして後醍醐天皇が隠岐にお遷りになつた後で、時の執権であつた北條高時が、この持明院流に属する所の後伏見天皇の皇子をお立て申したのであります。これが光厳院と申す方であります。併しこれは天皇の御血統には相違ないのではありますけれども、日本の天皇は前の代の天皇よりして三種の神器をお受けになつて、始めて正統の天皇とお成りになるのであります。今日では皇室典範というやうなものがありますから、天皇が崩御になれば其の後をお承けになる方はどなたかといふことは明かなのでありますが、昔は皇室典範といふやうなものは無かつたのでありますから、詰まり神器をお受けになつた方が天皇であらせられるので、其の御血統の関係はどうであらうとも、神器をお伝へにならない方は天皇とは看做すべからざる次第であつて、此の光厳院をお立て申したのは北條高時の計らひであつたと断定しなければならぬのであります。

それで此の光厳院は後醍醐天皇が京都にお還りになつて後には光厳院と申上げ、やはり京都にお住ひにはなりましたけれども、無論、天皇とは誰も考へて居りませぬでした。然るに足利尊氏が初め兵を挙げて、戦ひに敗れて九州地方に赴きまして、九州地方で勢力を養うて延元元年に再び京都に攻め上りました時には、此の光厳院の院宣を戴いて、さうして大義名分の上から申しても、自分の方は決して間違つて居るのではないといふことを申し触らして、多勢の将士を駆り集めたのであります。此の関係から後に至つて光厳院の御弟に当る方をお立て申しました。これが光明院であります。それでありますから正当の天子が吉野にいらしつた時に、此の光明院が京都にいらつして、さうして南北対立といふ形になつたのであります。即ち吉野は京都より南に当りますから、後世の歴史家がこれを南朝と申し、京都は北に当るので北朝と申すのでありま

【南北朝の名】

す。併しながら此の南北朝といふ名は久しく伝はつて居る名でありますから、誰もこれを口にして怪しみませぬけれども、本当を言へば我が国に於て南北朝といふ名が用ひらるべき筈はないのであります。即ち天皇が御二方ある訳はないのでありますから、朝といふものが二つあらう筈も固よりないのであります。便宜上南北朝といふ言葉が久しく伝はつて居りましたけれども、厳密に申せば南北といふ名を我が国に於て用ひるのが根本の誤りと謂はなければならぬのであります。

一体南北といふ名は支那の歴史に基いた名でありまして、支那では晋の時代より後に天下が分れて、一時はいくつかの国が対立して居つた時代もありますけれども、結局南北二つに分れまして、さうして南の方の隋といふ国が終に天下を統一し、それから後が唐の時代になつたのであります。固より支那は革命のしばしばある国で、人民の帰服した者が即ち王となるのでありますから、北の方にも大いなる勢力を持つて居る者が立ち、南の方にも大いなる勢力を持つて居る者が立つて相対抗して居る場合を、南北朝と申した所が、少しも不思議ではないのであります。詰り人民の帰服して居るか居ないかといふことが、王者であるかないかを定める標準になつて居るのでありますが、日本は決してさういふ国ではなく、人民が天皇をお立て申したのではない。国の初めから君臣上下の分といふものが定まつて居るのでありますから、たとひ多数の者がお味方をしないでも、天皇の御位にお立ちになるべき方は御一方と定まつて居るので、此の日本に於て南北朝の対立などといふことを言ふのがそもそもの間違ひであります。それでありますから大義名分の上から申せば、南北といふ名を棄てた方が正しいと申さねばならぬのであります。親房は斯ういふ所に着眼致しまして、此の神皇正統記に於ては、日本の天子の正系は何れに在るかといふことを、洵に明瞭に説いて居るのであります。これは前に申したやうに、天下の人々に名分の在る所を示すと共に、天皇御自身にも其の御位の如何に尊くあらせられるかといふことの御自覚を固くお持ちになるやうに、ご参考に供したものといふ風に考へて宜しいのであります。

明治になつて後はモウ此の南北朝の問題も明かに解決されて居りますから、斯ういふ事を今日詳しく申す必要もありませぬけれども、随分昔の書物などを見ますと、此の大義名分の在る所を弁へないで、足利氏などが少しも間違ひのない正当の将軍だといふやうな意見で書かれた書物も多かつたのであります。況して後醍醐天皇以後の天皇が吉野にいらしつた時代に於ては、一般の教育の程度もズツト低かつたし、また武士といふものが勢力を持つて居りましたけれども、其の武士の中にも教育のある者は極めて少ない時代でありましたから、此の時代に於て神皇正統記の如き書物が出たといふことは、極めて意義の深いことと申さなければならぬのであります。

先づ大体の此の書物の性質はこれで解ることと思ひます。これより本文に就いて順を遂うて説明を加へて参ることに致します。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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