《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】①序説(上)
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
小林一郎講述 皇国精神講座
神皇正統記 上
平凡社
目次
神皇正統記 (上)
序説
神皇正統記の内容―北畠親房の少年時代―後醍醐天皇の知遇―親房顕家父子の努力―吉野の行宮―顕家の戦死―後醍醐天皇の崩御―神皇正統記著作の地―大義名分の無視―南北朝の名
巻一
巻二
巻三
巻四
巻五
神皇正統記
神皇正統記 上
序説
【神皇正統記の内容】
これから『神皇正統記[じんわうしやうとうき]』を読みたいと思ふのでありますが、これは誰もよく知って居りますやうに、北畠親房の書いたものでありまして、後村上天皇の書いたものでありまして、後村上天皇の延元四年に書いて、これを天皇の叡覧に供へたといふことであります。即ち今から六百三十年前に当るのであります。此の中に書かれてある事柄は、我が国の神代より後村上天皇の踐祚[センソ]の式をお挙げになつた際までの事実でありまして、固より歴史上の事柄を一々細かに書いた訳ではなく、其の時代々々の大体の様子を述べて居るのでありまして、歴史上の専門家の名釈を籍りて言へば、謂はゆる文明史といふやうなものに当ると謂つて宜しいのであります。即ち歴史上の専門家の事実を詳しく伝えるのが目的ではなく、歴史上の事実に基いて、日本の国体の萬国に冠絶して居ることを明かにするといふ趣意でありまして、其の意味を以て読みますれば、これは実に有益なる所の著作と申さなければならぬのであえいます。殊にこれが謂はる歴史家の手に成つたものでなく、国家の為めに力を尽した忠臣の手に成つたといふことが、殊に此の書物の価値を昂めて居るやうに感じられるのであります。
此の北畠といふ家は、元来村上天皇の皇子具平[とよひら]親王の後裔でありまして、余程以前から重んぜられて居つた家でありますが、親房は権大納言師重[もろしげ]といふ人の子でありまして、年の若い自分から随分聡明な人として知られて居つたやうであります。生れたのは伏見天皇の正應五年でありまして、即ち鎌倉に於ては北條貞時が執権であつた時であります。
【北畠親房の少年時代】
此の貞時の前の代の執権が時宗で、此の時宗の執権であつた時に蒙古の侵入を防いで芙事に国難を掃ふことの出来たのは、誰も知って居る通りであります。其の蒙古の侵入を撃ち払つたといふことは、実に我が国の歴史上に於いて永く記憶すべき大きな出来事でありまして、執権時宗を初め多勢の人々の功績といふものは実に永久に伝えらるべきものであります。併しながら何分にも此の戦争の影響が非常に大きかつたので、是れよりして鎌倉幕府の地盤はだんだんに動いて来たと考へて宜しいのであります。何しろ此の時は日本全国総動員といふ位な状態で蒙古の軍に当つたのでありますが、此の戦争が我が国の勝利に帰して後、これが為めに努力した人々に対する待遇などは予期の通りに行かなかつたのであります。北條氏は財政上の事に就いては代々随分意を用ひて居つたのでありますから、斯ういふ大きな出来事に遇つても、相当に耐へて行かれる筈ではありますが、何分にも其の影響の及ぶ所が大き過ぎましたので、随分遠くから九州地方まで兵を出した者などの中には、それに相当する所の恩賞が戴けなかつたといふやうなことも少くないのであります。それでありますから国難は美事に掃つたものゝ、其の後全国にはだんだんと不平の声も高くなつて参りました。鎌倉時代に将軍といふのはありましたけれども、其の将軍は名義だけのもので、萬事は執権が計らつて居るといふことは誰も知つて居りますから、其の不平といふものは要するに執権に集中する訳でありまして、是れよりして北條氏の勢力がだんだんに薄らいで参つたといふことは否定が出来ないのであります。
其の以前から朝廷に於かせられては、陪臣たる北條氏が政治をほしいままにして居るといふことに就いては非常に御憤慨になつて、後鳥羽上皇を初め関東の勢力を挫かうといふ御企てはたびたびあつたのでありますけれども、北條氏の勢力が盛んであつた時には、さういふ事もなかなか実現が難しかつたのであります。ところが其の北條氏がだんだん人望を失ひ、勢力が傾いて行くに従つて、天皇御親政といふやうな機運をだんだんと動いて来た訳でありまして、謂はゆる建武の中興といふものは、後醍醐天皇の御英なる所の御天性に依るとは申すものゝ、一方に於てはモウ北條氏の勢力が余ほど傾いて来た時代であつたから、此の大事業も成就されたのであると見るべきであります。此の北條氏の勢力の傾かんとする時に、チヨウド此の北畠親房のやうな人が生れたと申しますことも、また一種の不思議な因縁と申して宜しからうと思ふのであります。
そこで此の親房は前に申すやうに年の若い時から世の中に其の才能を認められて居りましたが、二十七歳
【後醍醐天皇の知遇】
の時に後醍醐天皇が御即位になりました。此の後醍醐天皇は非常に御栄達な方でありましたから、天皇御親政の時代を実現しようといふことを早くから志として居られました。隋つて役に立つ人物を求めていたしつたものでありますから、親房は天皇の御信任を得まして、だんだんと重く用ひられるやうになりました。さうして元亨四年、即ち三十三歳の時からは後醍醐天皇の第二皇子世良親王のお守役となつて、御養育萬端を引受けたのであります。それで親房は天皇の御信任に感激致しまして、其の職務に全力を以て当つたのでありますが、此の皇子は六年の後に薨去になりました。それで親房は非常に落胆そて、最早世の中に望みはないといふやうな考へから、其の職を辞して出家を致しまして、一時は全く世間を離れた生活をして居りました。其の号を宋元[そうげん]と申して居たのであります。其の後、後醍醐天皇が天皇御親政の時代を実現するに就いて御計画のあつた際に於て、親房も御喚問に応じていろいろ画策する所があつたやうに推測されるのでありますが、其の事蹟は明かには伝はつて居りませぬ。
ところが元弘三年に至つて、後醍醐天皇が一時隠岐にお籠りになつて居られましたけれども、間もなく伯耆の船上山までお還りになつて、名和氏一家の努力に依りましてだんだんと忠義の者も集まつて参り、やがて京都に御還幸になり、北條氏一族も尽く滅びて、謂はゆる天皇御親政の時代が実現するといふ、洵に目出たい機運が開けて参りました。即ち建武の中興であります。此の時に、親房は重く用ひられて従一位に叙せられ、大臣に准ずるといふことになりました。固より斯ういふやうに重くお用ひになるといふことの俄に実現する筈はないので、委しい事実は判りませぬけれども、それより以前から、萬事御諮詢に応じて画策する所があつて、其の結果として天皇が長い間のお望みをお達しになつたのであるから、親房に対しても斯の如き御優待を賜うたものといふやうに解釈すべきものであらうと思はれるのであります。
【親房顕家父子の努力】
此の時には親房が斯の如く重く用ひられたのみならず、親房の子顕家といふ者も陸奥守に任ぜられまして、義良[よしなが]親王を奉じて陸奥、出羽全体を治めるといふことになりました。此の顕家といふのは年は若いけれども非常に役に立つ立派な人でありまして、父の親房も大いに頼りにして居つたのでありますから、此の顕家が義良親王を奉じて奥羽を治めたといふことは、萬事此の親房父子協議の上で決定したことと考へられるのであります。何分にも北條氏は源氏の後を承けて久しく鎌倉の執権でありましたので、詰り其の勢力といふものは主として関東に根拠を持つて居つたものであります。それのみならず元来此の東国といふものは天下の形勢を動かすほどの力を持つて居つたのでありまして、東国を治めるといふことは朝廷の御威光を盛んにする上に於て大切な問題でありました。さういふやうな点から親房が子の顕家と協議して、さうしてわざわざ顕家が義良親王を奉じて、奥羽地方を治めるといふことに相成つたのであらうと思はれるのであります。此の一事を以て見ましても、親房其の人がなかなか識見の高い、着眼の非凡な人であつたといふことがよく解るのであります。
斯くて建武の中興の事は成就致しましたけれども、建武二年に至つて足利尊氏が叛いて再び天下が混乱の状態に相成つたので、親房は楠木、新田等の人々と力を協せて天下を平かにする為めに非常に苦心を致しました。其の後、足利尊氏が一時は勢力を失つたこともありましたけれども、遂に勢力を盛り返して参つたものでありますから、天皇も京都に安んじていらつしやることが出来ないやうな場合に立到りまして、延元元年
【吉野の行宮】
十二月に至つて吉野に行幸せられて、此処に行宮[あんぐう]をお造りになるといふことになりました。此の際に特に吉野を選ばれたといふことは、無論天皇の叡慮に出でたことでありませうけれども、主として親房の建議に基くものと考へられるのであります。即ち此の吉野を根拠地として、伊勢、紀伊等には勤皇の志を持つて居る者が非常に多かつたのでありますから、此等の者を恃みとして、さうして再び京都を回復しやうといふのが、親房の計画であつたやうであります。殊に伊勢の地は親房に縁故の深い所でありますから、是れより後、親房は主として伊勢の地方の者を味方として、さうして京都を回復することを図つたのであります。併しながら何分にも足利一党の勢力が盛んなものでありましたから、何事も思ふやうには運びませぬでありました。
ところで、一方の北畠顕家は東北地方に在つて、相当に勢力を作つて居つたものでありますから、それで親房は顕家を吉野の方へ呼び寄せて、共に協力して足利に当らうといふ計画を立てまして、顕家を招いたものでありますから、顕家も父の意の在る所をよく察して、延元三年の春に東北を出発して吉野に向つて参つたのであります。併しながら何分にも足利方の勢力が非常に強いものでありましたから、此の年五月に至りま
【顕家の戦死】
して、顕家は足利の下に属する所の高師直[かうのもろなほ]と戦つて遂に泉州石津で討死を致しました。
これは実に惜しむべきことでありまして、年もまふだ二十一歳であつて、前途有望な人を失つたのでありますから、実にこれは大きなる打撃と申さなければならぬのであります。此の時父の親房は四十七歳でありました。父子の情として子の死ぬのを深く歎いたのは勿論でありますが、殊に自分の片腕とも頼みにして居た者を失つたのでありますから、実に非常な打撃を感じたのであります。併しながら元来気象の勝れた人であり、殊に忠義の念の最も篤い人でありましたから、斯ういふことで挫けてはならぬと思うて、ますます力を尽して京都の回復を図つて居りました。
然るに間もなく新田義貞も北陸に於て討死をするといふことになり、ますます形勢が悪くなつて参つたものでありますから、此の上は久しく自分の子の顕家が勢力を養つて居つた所の奥羽地方に赴いて、其処で勤皇の軍を募らうといふことに思ひ定めまして、さうして前から御縁故の深い所の義良親王を奉じて船に乗つて奥羽地方に赴くことを計画したのでありますが、途中に於て暴風に遭つて船が破れまして、義良親王は辛うじて伊勢にお着きになり、親房は常陸に着きました。
ところで此の常陸地方にも勤皇の志を懐いて居る者が少くなかつたものでありますから、親房は此の機会に於て常陸から下野へかけて同志を糾合して、さうして予ての計画を実現しやうといふ考へで、関といふ所の城に暫く留まつて居りました。其の時に此の地方に於て最も勢力のあつたのは結城氏一族でありまして、此の結城氏一族を味方にすることが出来れば、大いに勢力が盛んになる訳でありますから、親房は種々に苦心して、此の結城氏一族を味方に招かうとして様々に交渉を致しました。それで此の結城一族の者も大義名分をマルで弁へなかつた訳でもないので、お味方をしやうとも考へた様子でありましたが、何分にも足利の勢力が強かつたものでありますから、両端を持して何時までも態度を決定致しませぬでした。そこで親房はこれを頼りにして何時まで常陸地方に居つても、思ふ事は成就しないといふ事を見定めまして、興国四年に海を経て吉野の行宮に参りました。
此の時は既に後醍醐天皇の御代ではなくて、後村上天皇の御代であります。即ち後醍醐天皇は延元四年八月に吉野に於て崩御になりまして、さうして義良親王が其の後をお継ぎになりました。これが後村上天皇であります。此の後醍醐天皇の崩御になります時に、御近親の人々に御遺言をなされて、必ず賊を滅ぼして天下を一統する時が来るであらうから、皆の者は決して勇気を失はずして努力するやうにといふことを仰せられまし
【後醍醐天皇の崩御】
て、右の御手には剣をお持ちになり、左の御手には法華経の第五の巻をお持ちになつて、崩御になつたのであります。
0コメント