小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説22 ブログ版





カローン、エリス、冥王星

…破壊するもの



《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel



《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ



Χάρων

ザグレウス





以降、一部暴力的な描写が含まれています。

ご了承の上、お読み進め下さい。





日が沈んで、もはや暗がりの中に、ひとりで取り残された男は明かりさえもつけない。手元に弄っていたのはスマートホンに違いない。その、あまりにも子供じみた、女のような振る舞いにマイが声をたてて笑いそうになったとき、音響が響く。

突入した軍隊が、群れを成して仏間になだれ込んだ。ジウは顔を上げた。

彼らが上がってくる音になど、とっくに気付いていた。シャッターを、斧だかなんだかで粉砕する、派手な音が聴こえ続けていたのだから。

その音が止んで仕舞えば、次にする事など考えるまでもなく明らかだった。チャンが傍らで、足を伸ばして座ったままに息づかっていた。想った。

彼らは知ってるのだろうか、と。もう、何をしても彼らが滅びるしかないことを。いまだに知らないままなのに違いない。

彼らに興味はなかった。彼らは、ジウには聞き取れない言葉を、矢継ぎ早にかけて威嚇した。不可能だよ。

ジウは嘆息する。…何を言ってるかわからない。

声。でたらめな音響と、一切変わりはしない。…知ってた?

不意に、ジウの手のひらがチャンの頭をなぜようとしたときに、彼らの掃射がジウを骨ごと粉砕した。





…破壊するもの



聴き取られるのは音響。

雑然とした、それらの音響が木魂する。好き放題に、四方八方から。

それは、自分がい気遣っている事は知ってる。さまざまな色彩が乱れる。時にはそれに、悲鳴さえ上げさせていることをさえ、それは自分のことのように知ってる。

おびえるそれ。

ののしるそれ。

歯軋りするそれ。

救いようのない現実に、絶望して喚き散らすそれ。それら、それのあくなき眼差しの中の他人の風景に憩う。

音響と色彩が、のた打ち回って止まず、…欲しいんでしょう?

と。

うつろな、疲れ果てた、私を見上げた眼差しを曝すその表情はなにか、まったき犠牲者のように。終った後のまどろみに、床の上にあお向けた Huệ フエの褐色の素肌。

ベトナム、ダナン市、亜熱帯の町。午前であっても、じっとしていても汗ばまずにはいられない。腹部のやわらかな曲線は、部屋に漏れ入る光に差されていた。

汗の粒が白濁してきらめき、ベトナム人たちの廃墟のような家屋。あらゆるものが光を受ける。そのガレージ、…ひたすら広いフエの家の、ふたつめの居間のシャッターの網目を通り抜けた、か細いその光を。

ふれられた光。素肌が、無造作にふれた、その

指先に

ふれた彼女の腹部の汗ばんだ触感と、体温と。…感じましたか?

想う。

あなたは

見つめ、

わたしの

フエを。

あなたも

…ながら

わたしの

フエを見つめながら。

…温度。

私が

体温

想った。

匂い

不意に。

感じましたか?あなたも、私の体温を。

いわば

生き物の生きてあることの留保もなき痕跡の群れ。何度も繰り返し

存在証明

見た気がした。その息づいた皮膚の表情。ゆっくりと上下して、呼吸し、それがまさに生きていることを飽くなく表現して止まないそれら、息遣い。時間の中にただ、生存の証拠は散乱した。

生存。

肉体がかたちづくって、かたちづくられた、…棲息する。

私たちは、住まい、住まわれ、住まわしめて、住まわしめられて、むしろぐじゃぐじゃの。静まり返った生存の痕跡の群れの只中に。

何度も。その光の反射のやわらかささえ。なんども、繰り返し見た気がする。いつだったのだろう?…いつの?と、その。息遣う。彼女。その女が、ベッドの上に身を横たえて、息づく静かな呼吸を私は聞いた。…女。褐色の皮膚。名前、その名前は理沙。

結局は、私は彼女の本名をは知らない。風俗店で働いて、そして、身を持ち崩していくしかなかったその。

女。私との、終ったあとのまどろみの中に、ひとりだけ注射を打って、意味もない嬌声をいちど短く立てて私を振り向き見さえしながら、いたずらな表情を作って、媚びをくれて、そして、理沙は笑った。声を立てて。鼻にこもった声。深く、もっと。

もっと、深いまどろみの中に入り込んでみる。その褐色の肌の鮮やかな色彩に。あお向けられた身体が曝した、その。皮膚。…色彩。褐色の。

色づく。

彼女の腹部をやわらかく波打たせつづけた、そのの静かな呼吸を見た。たしか、十九歳だった私は。聴いた。

耳を澄ます必要さえもなく、その、彼女の立てる呼吸の音。理沙の、二十一歳くらいの?…その、最期の年の。

その時。たしか、理沙が注射を打った後で、まどろんで、その時に、時々。

ほんの時々だけ瞬きをするまぶたに、私は口付けてやるのだった。もはや、理沙は死んでいるようにさえ見えた。理沙の、うつろな表情は。

窓越しの陽光が差した。斜めに。午後。

いつかの午後。まだ。彼女がそこから、いまだ飛び降りはしないその前の、その、何ヶ月か前に。彼女が生きていることは明らかに、うぶ毛の一本にすらその身体のすべてに刻印されて、なんの明確なそれ以外の主張もないままにただ、自分がそこに息づいていることをだけ明示させた。理沙のまぶた。私のふれた唇に、彼女の体温と、うすく眠そうな涙をにじませたまぶたの、ぬれた触感があった。

髪の毛をなでてやっても何の反応も示そうとはしない理沙は、瑞々しく、生き生きとしていて、そして、もう死んで仕舞ったに違いない。どうしても、そう想って仕舞う私は私を疑った。

私は知っていた。

理沙が何も知覚さえしていないのではなくて、むしろその感性のすべては、感じていたた。私の、この私、彼女が愛しているには違いなく、それにもはや疑いようもなかった私の息吹を。ひたすら。その全身に。

そして、気配。

息遣い。ふたりの息遣う、その気配。

私たちの。

ふいに漏らされた声、…に、なる、その前の、ある生き物の音声。

例えば。…ん、とか。

んー、とか。

そんな。

それら。

ふとした挙動の一つ一つ、その群れをさえ完全に感じ取って、鮮明に、なにかを理解した気にさえなって、もてあそぶように理沙の内側に享受されて、私は知っている。

私は、反応など示さない彼女がすべて、なにもかも感じ取っていることをは。

ただ、言葉もないままに。

あえて、何の反応も示そうとはせずに。

理沙がよく聞いていたイ短調のプレリュード、その、モーリス・ラヴェルのそれをかけてやれば、窓の向こうに見えた陽光、その不意の逆光に、私のまぶたは瞬く。

あさい春先の大気、その、桜さえ沖縄で咲き始めたばかりに過ぎない季節の渋谷の高層階の部屋の中は、私の皮膚に無数のこまかな鳥肌を立てさせた。理沙の褐色のそれとは似ても似つかない、真っ白い私の皮膚に。

近くの、松涛のちっぽけな公園に桜を見に行ったことがあった。去年の春に。「好き?」

散る

言った理沙に、私は

咲いたから散った

微笑をくれて、

…のではなくて

…お前は?

咲きながら

理沙は一瞬、顔をしかめるよりむしろ、

散っていく花々、その

声を立てて笑いさえして、嫌い、と。「…嫌い」…なんか、

色彩

ね。「なんか、…やっぱ、嫌い」

息吹く

なんで?…と。その、言葉には出さなかった、単なる私の気配にだけ、「…てか、ね?」

つぶやく。

「みんな、好きだからじゃん?」…飽きも、せずに。「…ね?」

笑う。大袈裟な声を立てて。

抱きしめて遣ればよかったのだろうか?暴力的なまでに。性急に。

唐突に。

飢えて、奪い去るように。

焦がれて、もはや蹂躙して仕舞うことだけを望んだかのように。

後ろから、そっと。ふれることさえ恐れたかのように。その言葉がつぶやかれたときに。

いまだに肌寒かった、その空気は比較的薄着で出てきて仕舞った彼女の皮膚を、その衣類の下でかさつかせ、鳥肌立てて仕舞っていたのだろうか?

想う。いつから。あるいは、いつまで、私は彼女を愛し続けたのだろう?…愛。

愛、という、ただ、その短い言葉で短く吐き棄てるように表現されて仕舞うしかない、夥しい行為の、時間の、会話の、感覚の、皮膚感覚の、気配の、感情の、あるいは感応の、それらの無際限なまでの拡がりが、とは言え、それらが終って仕舞ったときには、それらはもはや、いかにしてももはや存在しない。名残りさえも残しはせずに。例えば、この、命というもの。

生、それが、自分とはまったき彼岸の差異としてしか死をは認識できないならば、結局は生が死を自らのうちに体験することなど出来なかったのだった。…ならば。

永遠

愛の存在がなくなることが愛の終わりであるなら、生とおなじように愛は、

永遠に

それ自体としては終ることなどできなかったことになる。

いだかれて

その限りにおいて、永遠の。単なるそれ自身の、絶望的な

永遠

限界として永遠であったのでしか在り獲ない、

永遠に

その。

ずっと。

ずっと、ずーっと。

ずっと。…とわ、…に。

とわ

いつ?

とわ

とは、

いつ?

永遠の

いつから、私たちは破綻し始めたのだろう?

永遠なる

ずっと前から、

永遠

出会われる前から進行し続けていた破綻を、

永遠に

生きる。共に。花が舞う。理沙の、嫌いな桜の花が。

野太く、地表から空間を穿って屹立した、はかなさのかけらもないその樹木の前に立って、それみずからの色彩にだけ染まりきった花々の、舞って、散って、堕ちて舞うのを、見るともなく見あげた理沙のかみの毛に付着した桜の花びらの一輪を、私は指先につかんで棄ててやれば、見た。

私は、振り返った理沙が、何も言わずに微笑みをくれるのを。私に。言葉もなく、そして、一分と、三十秒程度しか続かない短すぎるその、ラヴェルの前奏曲が終ったときには、空間はただ静寂を覚醒させた。

部屋の中の、白いクロスのかすかな毛羽立ち。

目醒めさせられていた。静寂、と。そう呼ばれるものが、ここに。音楽が、その残響さえもが滅びて仕舞ったあとに。

ここに、ありますよ。…と。

ここに

つぶやく。

ありますよ

静寂が。むしろ、空間そのものとして。

実際には、さまざまなこまやかな物音、あるいはそれらノイズに低く彩られていたにすぎないにもかかわらず。

首を折り曲げて、理沙の唇に口付けたときに、彼女はかすかにだけ下唇を動かして、そのささやかで、かすかな動きがいつか、いっぱいにたまって、あふれそうになっていた彼女の涙をこぼれさせた。その時に、いずれにしても、何度繰り返すのだろう。

同じようなキス。

キスはキス。

それ以外のなにかでは、終に在り獲なかった、ただの、明晰すぎるがまでにキスはただひたすらに、ただのキス。

本質的に愛、と、仮定的にそう呼ぶしかなかったそれ。本質的に、すべてのものに対して留保なく無効であるに過ぎない、それら。愛し合うふたりにとってさえも、すでに無効な。愛と、ただ失望とともにそう呼ばれるしかなった行為の、感情の、目に映るものすべての、雑多で、雑然とした群れ。

見つめあい、時には罵りあうのだろうか。飽きもせずに、留保もないまったき愛の存在の中で?

抱きしめあって、そして、それら、どうしようもなく破損した、辱められた、唾棄すべき、その、愛、と呼ばれた概念そのものとは明らかな差異を刻むしかない、それらの行為の無際限な群れ。感情の散乱。

散乱する事象のすべて。

私は悲しい。

ただ軽蔑すべき、無能で破綻したにすぎないそれらすべての集積。

不安がらなくていい、と。私はそう想うのだった。

だいじょうぶ

言葉にだしさえもせずに、…だいじょうぶ。理沙に。

もう

繰り返す。

安心して

それだけを。あるいは、

もう

その

だいじょうぶ

ヴァリエーションを。

もう

不安がらなくていい、と、唇に涙をぬぐってやりながら、私などそこに存在してさえおらず、むしろ私という存在などかつて存在しさえしなかったと、その冷たい認識を、拒絶もなにもなないままにただ素直に曝したような、私を見上げたフエの、その表情の、あるいは沈黙。

亜熱帯の光の、温度と息吹の中にフエの、褐色の肌が、息づく。





2018.12.20.-12.31.

Seno-Lê Ma








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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