小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑳ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
以降、一部暴力的な描写が含まれています。
ご了承の上、お読み進め下さい。
《盗賊たち》…懐かしくさえ感じた。怒号と歓声。クイの家でも、あの、ミーのときも。知っていた。フエの身に、いま、なにが起っているのかくらいは。
ハオは何も言わない。裏庭から廻ったフエの家屋、その、開け放たれたシャッターの向こうで、《盗賊たち》は罵りあうような声を立てながら戯れていた。すでに正気のないフエはただ、腫れ上がった顔面を黒ずんで曝し、閉ざされた眼差しはそれでも何かを見い出しているには違いなかった。アンの体を《盗賊たち》の集団が、慰み者にする。殴り、蹴り、投げ飛ばし、そしてその肉体は地面に倒れこんで土に塗れた。ブーゲンビリアの樹木の前に、私は立ち止まり、その樹木、あの女はもたれかかって不意に、顔を上げた。
私を見つめたその眼差しに、鮮明な歎きをだけ、彼女は曝す。…ねぇ。
なぜ?
と。
こんなことをするの?
潤んだ
あなたは
その眼差しは
なぜ?
涙さえ浮かべないままに、泣いているかのような錯覚を私に与えた。女は、確かに美しい。
この世界のすべてが、わたしに発情している。そして、と。
その容赦もない事実がわたしのナイーブな心を傷付けて仕舞うの。
…わかる?…と、その眼差し。
好き放題に色づいた、淫売じみたその、豊満すぎる女がいま、彼女の眼差しに深く歎くのはまさに彼女が見い出している眼の前のそれらに対してだったに違いない。
三十人近い男たちが、息を乱しながらそれぞれに自分の固有の暴力にむせ返る。眼差しには明らかな興奮があって、それらはあくまでも自分勝手に、誰の共感をも誘わず、さらには、そんなものなど求められてもいない。息遣う。地面に顔をたたきつけられたアンが自分の鼻血に塗れた顔を上げたときに、周囲に群がった《盗賊たち》の何人かは声を立てて笑った。**されつづけるフエはもはや、身体に間歇的な痙攣をしか曝さない。…ここにもいるよ。
ハオは耳打ちした。
私に。
傍らの、ブーゲンビリアに身を縋らせた女の顎を、指先でかるく愛撫してやりながら、「…犠牲者。」
だろ?…と、そのハオの声は、「こいつらも、」かならずしも「そうなんだろ。見ろよ、」私に届いていたわけではない。「犠牲になった家畜ども。こいつら、」想い出す。
「どこの誰の腹なの?」
その苦痛。
「国家の外れで」
フエの、それ。頭の中が
「所詮は国家に寄生して、」
燃え上る。
「国家の外で、」
耳の間じかに、神経が
「食い散らす。」
燃え上って焼きつく、その、
「…見ろよ。」
木魂した音響を
「あいつ。」
為すすべもなく聴く。「…笑ってるぜ。」と、そのシャッターに身をもたれて、気付いた私たちに流し眼をくれた、片目が義眼の男をハオは見つめた。
容赦のない憎悪を浮かべたその眼差しを、「…糞だな。」ハオは発砲した。
瞬間、義眼の男の首がシャッターにたたきつけられ、あわてて男の両手が首を掻く。後れて、私たちは銃声が鳴り響いていたことを想い出した。意識するわけでもなく、そして、義眼の男。一瞬、斜眼のように見えたその男の、左眼のほうが見えている目であることに、私は気付いた。ただ、そっちの目だけが、発砲したハオを見つめていたから。…誰だよ。
と。
お前
そんな気配を
だれだよ
眼差しに曝して
何したの?
男は未だに
お前
気付かない。自分が射殺されたことに。男の首から、血がほとばしり出たのを、私たちの眼差しは確認した。沈黙が次第に広がっていくのを、私たちの眼差しはお互いに確認しあう。アンはまだ死んではいない。傷めつけられて、死にかけの身体を、同じように、沈黙に染めるしか出来ない。銃口を傍らの女のこめかみに突きつけたハオは、女に目線すら与えない。
女は、ただ、私に歎きの眼差しだけをくれていた。…どうして?
わたし、あんたなんかが、好きなんだろ?
ハオは、ただ《盗賊たち》を見回した。…なんなの?
言った。
「こいつら。…」
声をさえ上げずに笑い、「ケツ振るしか脳がねぇよ」吐き捨てた。かならずしも彼らに捧げられたわけでもない哀れみをさえ匂わせながら。
義眼の男は、その場に片膝をついてひざまづき、不可能になった自分の呼吸にあえぐ。感情もなく、血に塗れた窒息寸前の肺が強制した痙攣と、あららぐ息遣いと、罵るような音声に塗れるしかない。だれも彼を助けようとするものはなかった。彼はもはや、死ぬしかなかった。そんな事は、もはや意識などないその男以外の、すべての私たちが知っていた。
ハオは引き金を引かなかった。ただ、女のこめかみに銃口を優しくあてただけで、あるいは、叫んだ。
不意に、アンの喉が、ながい《だ》行に近い濁音を、自由に、流れるように音階を作ってならし始めて、その傍らに立ちつくした長身の男が、一瞬気を取られた。
ハオは、アンを射殺した。前触れもなく発砲したその瞬間、打ちぬかれたアンの血まみれの胸部が跳ねた。「…もう時間だ。」
ハオは言った。
「もうそろそろ、…」
どうする?
「あいつらから連絡来るよ。…」
こいつら、…
「もう、占拠してるはず。」
みんな、…
「全部。…違うか。」
さ。…ね?どうする?
「どこかの国で、制圧されちゃったかもね。」
どうしたい?
「…どうでもいい。」
殺したい?
「ひとつふたつ。…」
放っとく?
「別に、…」
どうしたいの?
「ね?…」つぶやいたハオは、私を見る。「泣いてるの?」ハオは言った。私は涙など流してはいなかった。感情はただ、澄んでいた。なにもかも、私が失って仕舞ったのは事実だった。そんな事実にはかかわらず、そして、振り向いた眼差しが捉えるハオが、ただ、涙を流していた事は知っていた。
ハオは泣いてはいなかった。かならずしも。とは言え、彼が両眼から薄く涙を流し続けていたのは事実だった。《盗賊たち》の何人かは、容赦もなくアンを射殺して仕舞ったハオを、明らかに人道に基づいた非難の眼差しのうちに見留めていることには気付いていた。ハオは考慮にも入れない。もはや、彼は、彼が見つめている風景をなど、見てはいない事は明らかだった。不意に、ハオは声を立てて笑った。
…なんて、…と。
つぶやく。「なんて格好してんの。」
ハナちゃん、…そういったハオの眼差しは、開け放たれた二つ眼の今の、真ん中のほうをただ見つめて、「無様だぜ…」
…声。
「昏い。…」
その声は、
「もう、なんにも」
ハオ自身にはかならずしも
「色彩さえもないのに」
聴き取られてはいないに違いない。私に
「変なところに」
聴かせようとするでもなく、ただ
「ゆがんだ頭ぶら下げてさ…祈ってんの?」
独り語散ながらハオは、
「何してんの、」
ひたすら
「ハナちゃん、そんな…」
私の
「そんな」
ためだけの
「ところで、」
言葉を、
「…血、」
吐いた。
「流して、…」
その唇に。…花々。
見つめられているそれら、花々を私は見つめていた。
無際限に拡がる、それら、匂いたつ、むらさきに近い紅の花、花々。その色彩。
瞬きさえもせずに、その少年に手を伸ばした。
私は。もはや、自分に手などないことなど知っている。彼、その少年の、美しいはずの頬の色彩を感じようとしていた。
私は、未だに、眼差しのどこにも触れなどはしていないその少年。眼の前に、花々の中に浮かぶその、未生の少年に、私は、ふれる。
指先など、存在しはしないのに。
感じられる息吹き。
少年の。
姿をさえ獲得しない、その少年がその見開かれた眼差しに、見つめ続けていたのは知っていた。
血を流し続ける私を。
色彩をなくして、ただ昏い、穴ぼこにすぎない両眼から、口か、細く血を流し続けている、その、それ。
私を。
まばたく。
私は。そして、ようやく正気づいた気がした。ハオに腰を叩かれたときに。「好きにしなよ。」
家屋の門の壁に一列に、《盗賊たち》は整列させられていた。抵抗するすべはなかった。ハオの銃口に命じられるままに、彼らは壁に手をついて頭を下げ、尻を突き出して耳にする。
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