小説《カローン、エリス、冥王星 …破壊するもの》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑲ ブログ版
カローン、エリス、冥王星
…破壊するもの
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅳ
Χάρων
ザグレウス
以降、一部暴力的な描写が含まれています。
ご了承の上、お読み進め下さい。
「…進行次第だよ。」
…あいつらの。
「軍隊の、…」さ。
…ね?「わかる?…」微笑み。
ハオがうすく口元に、そして眼差しに浮かべていた微笑をは、私は見もしなかった。名も知らない樹木の下をくぐり、犬がその気もなく、惰性で一度だけ吠えた。私たちに向って、月はもう浮んでいる。空の、低くは無いところに。
雲がその周囲に流れていて、何層もの上空の雲が、それぞれの速度を持って、ながれ、かたちを崩し、拡がり、霧散する。金網の張り巡らされた仕切りをくぐり、外に出て、温度は触れている。亜熱帯の温度。
夜の、日照の不在に明らかにその温度を低下させながら、それなりに自分が熱帯近くの大気に違いないことを誇示して見せようとする。「美しいよね。」
路地を抜けながら、不意にハオは言った。…嫌いじゃないんだよ。
「…この感じ。うける。」
町の風景。…なに?
「廃墟みたいじゃない?なんか、」
生活の感じ?…なんか、
「こんなところ、…なにこれ?」
きったないんだよね。細部が。
「よく住んでるよな。…普通に」
人間ってさ、てか、
「住んでんだろ?こんな」
…猫でも、なんでも、結局
「なに?…ふきっさらしの」
なんか、
「コンクリートの廃屋的な?」
穢くなるよね。…生活してると
「…鼠いそう。てか」
微妙に。
「いるだろ。普通に」
はっきりと。
「そこらじゅうに。」
あざやかに。
「違う?」
「家猫がよく咥えてるよ。」言って、私が笑うとハオはただ、やさしい眼差しをくれる。「家畜だよな。」言った。ハオは、「なに?先進国?…そういう、」私を見向きもせずに、「所詮家畜だよ。俺たちも。彼らも、…この、廃屋みたいな建物が普通の建物だって想って生きてる現地人どもも、さ。結局は飼い馴らされた家畜だよ。…知ってる?」
なに?
「ジウって。お母さん殺しちゃったらしいよ。」
なにそれ。
「妹さんだっけ…おねぇさんか。…強姦された。あいつらも、全部。うける。なに?屠殺した、みたいな?」
笑えねぇな。
「笑うよ。…せっかく生き残ったのに。韓国で。…日本に逃げてくる前。」
なんで?
「気に喰わなかったんじゃない?…生き残ってるのが。生き恥曝して、的な。」
どうして?
「犠牲者だね。全部。どいつもこいつも。…結局、生き延びるために国家なんて作って群れるんだろ?でもさ、国家ってのは支配システムじゃん。だから結局国家の犠牲になるのな。多かれ少なかれ。組織のね。笑っちゃうよね。だったら、なんで、そんなもんあるの?それなしじゃもはや生きていけないんだけどね。家畜だから。鳥に譬えるとさ、生きるために羽なんかあるんだけど、羽根があるから堕ちるしかない、みたいなね。…なんかうける。独裁者だって独裁するために自分を犠牲にしなきゃいけない。いろいろとさ。」
「おまえがもう、全部ぶっ壊したじゃん。」
「壊れないよ。…たぶんね。」
「なにが。」
「国家なんて見かけのものにすぎない。…生命体って、何のかんの言ってものすごいシビアな組織を形成してる。凄まじく繊細で、細かく、ぐちゃぐちゃの。」…滅びないよ。
ハオは言った。不意に、私の腰を抱いて、私を掻きいだきながら、…見てろよ。
「滅びないから。…なにも」…大量に死んでも。
屠殺されても、…「さ。」…ね。
「滅びはしない。」…知ってる?
「地面の十数キロ下にも、生命体っているんだってね。…生き生きとさ。バクテリアの群れが。」
「知ったことじゃない。」言った私に、ハオは声を立てて笑って、「…そう。」
つぶやく。「おれもそう。」…ね。
「知ったことじゃないよ。」…疲れたの?と、言った私に、ハオは少しだけ驚いた顔をした。…なんで?
答えないまま、私たちは誰かの家の庭先のブーゲンビリアの樹木の下をくぐる。血に塗れる。
私たちは知っていた。海の向こうで、陸続きのあっちで、今や世界は混乱に塗れている。銃器はすき放題発砲され、都市は占拠される。既存の権力者たちは十羽一からげに射殺されるか、爆破されて仕舞ったか。
WiFiのつながっていないハオのスマートホンは、その現状をは把握しない。あるいは、つながらないかも知れない。なにもかも、言葉はデータ空間の中を乱れ飛んでいるに違いない。人々はいっせいに、なんらかの言葉を発する。あるいは、打ち込む。情報網は白熱し、焼き切れて仕舞う。聴き取られない言葉の群れは、それでも構わずに、発されないままに増殖するのをやめない。
何も聴こえない。
クイの家を離れれば、人翳も殆どない暮れた町が姿を曝しているにすぎない。私たちが射殺した人々は、どこかに避難して仕舞ったのか、家屋の中に未だに閉じこもって仕舞っていたのか、あるいは、みんな、クイの家の前に殺到して仕舞ったのか、いずれにせよ眼差しにはふれない。
だれも。どこかで、テレビの音がする。何かを伝えている。あるいは、どこかの国のドラマか何かでも。私にはその微弱音は、結局は何をも伝えはしない。
すでに街頭はともって、路上に薄いオレンジ色の色彩を与えていた。
背後に、一度吹かされたバイクのエンジンがうなったのには気付いていた。認識するよりも早く、私のすれすれをバイクが横切って、瞬間、匂った。過剰な、体臭にまざった香水を鼻腔は確認し、女。
バイクにまたがったまま、女は私たちの数歩前に回り込んで止まり、ハオは声を立てて笑った。
車道に人通りはなく、そして、街路樹がアスファルトに、夜の暗さをさらに翳らせた影を投げた。自分勝手に、ひとりだけ華麗に、エレガントに、淫売じみて色づいた女は、ヘルメットさえかぶってはいなかった。一瞬の無表情のあと、不意に、女は微笑んだ。…ごめん。
待った?そんな。…もう、と。
ハオは耳打ちした。「始まっちゃってるみたいだね。」
つぶやく。「…やつ等の、パーティ。」私は、「…もう、死んじゃったかな?」なにも答えなかった。私たちは、立ち止まりはしなかった。
ほんのわずかの間に、私たちは女の眼の前に辿り着き、女は私をだけ見ていた。女はいまや、こぼれるように…ごめんね。
待ってたよね。…
わたしのこと、…微笑んでいた。女の名前は、未だに知らなかった。あるいは、忘れて仕舞った。ミーから、その恋人の名前くらい、聴いていたことがあった、そんな記憶が頭の中にどこかに在った。いずれにせよ、想い出せないそれは、覚えていないという事実以外のなにものをも明示しない。
女の微笑みは、明らかに私を誘惑しようとしていた。あるいは、単に、媚びていた。自分が愛している美しい男の眼の前で、すくなくとも、美しくあるべき自分を誇示しようとし、かつ、自分自身存在を恥じらいながら、…媚。
「…付きまとって来るんだよ。」
私は、女を見つめながらハオに言った。「…ずっと。」だから、女は、「飽きもせずに。」彼女が見詰めたいとしい唇が吐き棄てる「…暇なの?」それら言葉が、あるいは「他に、する事ないのかな?」自分にささやかれたような錯覚の中で「正直、執着、うざい。」それを見詰めているに違いなかった。あなたの、…と。
美しい唇が言葉をささやく。
わたしには理解できない異国の言語を。瞬間、私は彼女の顔面を殴った。
女の首が後ろに反り返って、その見開かれた眼差しが捉えたのは上の街頭の逆光だった。ハオは声を立てて笑った。私は、私の左腕が女の髪の毛を引っつかむのを見ていた。女の鼻から、長い息が漏れて、漏れきった瞬間に、そこに、血に染まった鼻水が垂れた。…ひでぇ。
ハオがささやいた。「見てよ。」
水太りした肉の塊だぜ、こいつ。…拳に痛みがある。その「よく、生きてられるね。」女の鼻骨が私の拳に与えた「恥ずかしくないの?」鈍い痛み。女は「むしろ死んだら?」あきらかに加害者だった。
彼女は、私の拳に痛みを与えた事実に対して、処罰され、恥辱に染まって自分がここに存在していること自体を歎き、後悔し、自分の生まれた日を呪わなければならなかった。
女を投げ飛ばそうとした瞬間に、横倒しになったバイクが女の体を奪った。女は路上に、バイクごと倒れ臥して、そして、打ち付けた頭部の目舞いの中に、一瞬だけ綺麗に失心した。
女はすでに眼醒めていた。自分が、ほんの一殺那の失心に、意識を中断していた事実さえ、女には認識されていなかった。女は、いずれにして自分がいま、生きてある事を眼差しのうちに認識していた。女が、私を見ていた。女は私の事などすでに忘れていた。自分がどこにいるのかさえ認識されていないとき、眼差しが映し出したしなやかな形態が、自分が愛している男のそれである事など意識され獲る可能性などありはしなかった。…やっちゃったら?
私は、ハオに言った。
ハオは、私の背後の至近距離に寄り添って、温度。
確かに、私の背中は彼の発散する体温を、感じ取ってはいた。「…は?」
と。
不意に言ったハオに振り向くと、ハオは呆気に取られた顔をして、…なに?
「やっちゃうって、何を?」
ハオは、必死になってただ、…どっち?
「殺しちゃうの?」言葉の真意を「…はい?」
えっち、するの?…探す。
にやついた私の眼差しが、自分自身を見つめている眼の前の事実に、かすかに、あざやかに戸惑いながら。
ハオに、容赦はなかった。茫然としたままの女をバイクの下から引きずり出すと、つかんだ後頭部を背中ごとのけぞらせて、そしてアスファルトにたたきつけられる顔面がへし折れた歯を吐き出す。
でたらめに切れた唇からにじんだ血は、街頭のオレンジ色の照明の下では、単に黒ずんだ汚濁にすぎない。三度目にハオがアスファルトに顔面をたたきつけたとき、うつぶせて這った女の尻が跳ね上がった。*************。…いいよ。
私の唇がささやく。「もう、」
いいよ。…と。
そうつぶやいて仕舞ったわたしの声を耳に聴いたとき、私は自分が完全に、この世の中に存在するあらゆる暴力のすべてを憎み、歎き、ただ、悲しんでいる事実に気付いた。…赦して。
「もう、…」…と。
赦してあげて。…私は言った。なかば
すべてのものを
涙声にさえなって、そして
愛はそれでも赦し続ける。永遠に
女の後頭部を押さえつけたまま
裏切られながらも
背中を向けているハオの、地にひざまづいた上半身の美しい、女性的な曲線を眺めた。
寄り添うように私は傍らに膝をついて、そして、その背中に身を預けた。彼の身体は、甘えるように覆い被さった私の体の重みと温度を、感じているに違いなかった。
アスファルトに押し付けられた顔面の中で、女は必死に砂利塗れの呼吸を繰り返した。女の背中が、さまざま引き攣けをそのさまざまな筋に無数に発生させながら、あまりにも無様に、力強く、息遣っていた。彼女は生きていた。
向うからバイクが一台、近づいてきたときに、ハオは鼻にだけ短い笑い声を立てて、…ね?
「ね。…」
つぶやく。身をひるがえしたハオのせいで、アスファルトに尻もちを付いた私は、あるいは見上げる。立ち上がったハオはすれ違いざまのバイクに抱きかかえた女を投げつけた。
車体に殴打された女の肉体は弾き飛ばされて、左足だけが空中に蹴りあがった。倒れたバイクがハオの傍らをあやうくすれ違い、投げ出された男は路上に必死に受身を取る。
音響。
タイヤと、あるいは車体がアスファルトをこすり付けていくその、または声。ハオの立てた笑い声。
ハオの?および、私が立てた瞬間的な笑い声をも含めて。ハオは、明らかに、彼等を嘲笑していた。のけぞった後頭部から路上に頭をぶつけて仕舞った惨めな女の肉体の、開かれきった指先の極度の痙攣と、何が起きたのか理解できないままに路上に寝転がるしかない惨めな男。彼らは嘲笑われてしかるべき、下等な生き物に過ぎなかった。
その、三十代半ばの男が、ようやく身を起こそうとしたときに、唇。
男の唇が、何かを罵ろうとした。その事を、眼差しが知覚しようとしたときにはすでに、ハオは男を射殺していた。たまたま、綺麗に頭部を撃ちぬくことに成功した奇跡の銃弾は、狙ってもいなかった男の即死を、ハオに実現にしていた。
振り返り見た私に、ハオは言う。…すげっ。
「見た?…いまの。」…笑顔。
女は笑っていた。
仰向けで、大股を開いて、股関節に異常が発生したに違いない。明らかに通常ではない方向に曲がった開脚。大口をなぜか開けて、背中をひん曲げてのけぞる。のけぞったまま、女は上半身全体で呼吸をする。大きく。
深く。
そのくせ、肺に少しも空気は送り込まれずに、女の体内は窒息しかけていた。痙攣以外のすべてにおいて脱力され、路上に投げ出された女の豊満すぎる肉体の無防備は、Tシャツを膨張させて、そして横に広がって無様な贅肉の戯れをだけ曝け出す。ハオが女の前髪をつかみかかるのを、私は留めようとはしなかった。
女の眼差しに明らかに刻印された笑い顔に、何の変化も見られなかった。…ぶさくだね。
「ちょっとは、可愛くしてあげる。」
顎に銃口を押し当てたハオは、引き金を引いた。
フエの家の先の、誰かの家屋の庭に生えたブーゲンビリアの樹木の下をくぐったときには、その音響は聴こえていた。しずけさを好き放題に乱して、そして顧みることもないそれら、怒号と歓声。不意に、どこかで見たことがあるという、執拗な既視感におそわれる。…知ってる。
《盗賊たち》…懐かしくさえ感じた。怒号と歓声。クイの家でも、あの、ミーのときも。知っていた。フエの身に、いま、なにが起っているのかくらいは。
ハオは何も言わない。裏庭から廻ったフエの家屋、その、開け放たれたシャッターの向こうで、《盗賊たち》は罵りあうような声を立てながら戯れていた。すでに正気のないフエはただ、腫れ上がった顔面を黒ずんで曝し、閉ざされた眼差しはそれでも何かを見い出しているには違いなかった。アンの体を《盗賊たち》の集団が、慰み者にする。殴り、蹴り、投げ飛ばし、そしてその肉体は地面に倒れこんで土に塗れた。ブーゲンビリアの樹木の前に、私は立ち止まり、その樹木、あの女はもたれかかって不意に、顔を上げた。
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